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第一話 事実と考え(認知行動療法)

産業医ってご存知ですか。

普段、産業医として働いている著者が、実体験をもとに、面談室で起きた出来事を描く連作短編です(フィクション)。

産業医面談の一幕を通して、さまざまな人の、小さな変化を描いていきます。

月曜日の午後、会議室の一角にある小さな面談室の前で、僕は立ち止まっていた。


ドアには「産業保健室」とだけ書かれている。


(なんでこんなことに)


健康診断でもない。具合が悪いわけでもない。

ただ最近、仕事で小さなミスが続いていた。


メールの宛先を間違えたり、数字を一桁打ち間違えたり。

どれも大事には至らなかったけれど、


自分ってダメなのかな。

やっぱりこの仕事に向いてないのかな。


そんな思いがむくむくと湧いてきて、夜眠れない日が続いた。


上司や同僚が呆れている気がする。

遅刻を1回、2回。朝が憂鬱だ。


入社が決まったときは、あんなに嬉しかったのに。

あのときは、自分でもやれる気がしていた。




職場でため息をついていたら、上司に声をかけられた。


「一度、産業医の先生と話してみたらどう?」


そう言われたとき、正直よくわからなかった。


(怒られるわけじゃないだろうけど……産業医面談って何言われるんだろ。大体、産業医に相談することなんてなにもないよ)





8階の廊下の突き当たり。

総務の入り口のドアの右側に、「産業保健室」と書かれた灰色の扉がある。


小さく息をついて、ノックをした。


「どうぞ」


中に入ると、10畳ほどの質素な部屋だった。

窓際に本棚があり、薄い木目調の机の向こうで、パソコンに向かっている人がいる。


白衣ではない。ラフな服装の女性だった。


「こんにちは。産業医面談の方?どうぞ、楽に座ってください」


柔らかい声だった。


(誰だこの人)


「産業医の寺西です」


……産業医だった。





「お名前お聞かせいただけますか?」


「……佐藤拓也です」


「今日はどうされました?」


「いえ別に、何もないんですけど……上司に受けてきたらと言われて」


何も話すことなんて用意してこなかった。

上司から何か伝わっているのか。怒られるのか。

さすがにクビですなんて言われないよね?


「そうですか」


それだけ言って、産業医は少しうなずいた。


沈黙。





「最近のお仕事の調子はどうですか?」


そう聞かれて、少し考え込んだ。


仕事内容や最近の忙しさ…そんなに特段忙しいことはない。残業もない時期だ。

それなのにミスが増えていること。

眠れないことや、食事が美味しくないこと。


言葉を探しながら、ぽつぽつと話した。


「最近、少しミスが続いていて」


そう言った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。




「少しミスが続いてるんですね。どんなふうに感じていますか?」


少し考えてから答える。


「自分は、向いてないのかもしれないなって」


言葉にしてみると、思っていたよりもはっきりずっしりしていた。



「“向いてないかもしれない”と思ったとき、どんな気持ちになりますか?」


「……不安です。あと、情けないというか」


「そうですか。その気持ちがあるとき、頭の中ではどんな言葉が浮かびますか?」


少し間があってから、僕はぽつりと言った。


「またミスするんじゃないか、って」


産業医は小さくうなずいた。


「なるほど。“またミスするかもしれない”と思うと、不安が強くなるんですね」


否定も評価もしていない。

ただ、起きていることをそのまま言葉にしているだけのようだった。


産業医は少し間を置いてから、続けた。


「睡眠のほうはいかがですか?」


「……あんまり良くないです」


「どんなふうに?」


「寝ようとしても、仕事のことを考えてしまって。

 気づくと同じことをずっと考えてる感じで……」


「ぐるぐる考えてしまう感じですね」


「はい」


「眠れてからはどうですか?」


「途中で目が覚めることが増えました。仕事の夢を見て、そのまま起きちゃうこともあります」


「朝はどうでしょう。予定より早く目が覚めてしまうことは?」


「それはないです。二度寝してからはアラームが鳴るまでは起きません」


産業医は軽くうなずいて続けた。


「土日はいかがですか?」


「普通に過ごせてます。家事したり、趣味のことしたり……そのときはあんまり考えないです」


「そうなんですね」


それだけ言って、医師は少しペンを持ち直した。





「佐藤さん、入社してどれくらいですか?」


「……3年目です」


「3年目なんですね」


それだけ言って、軽くうなずく。


「それまでの2年間は、どうでしたか?」


「……いや、そんなに気になったことはなかったと思います。別に普通で、普通に仕事して…」


「そうすると、今起きていることって、

 “ずっとそうだった”というよりは、“最近の変化”でしょうか?」


僕は少し黙った。


(あれ、そうかもしれない)


そう思った時、産業医が続けた。


「これまでのミスって、どれくらいの頻度でしたか?」


「ここ1ヶ月で3回です」


「毎日お仕事はありますね」


「はい」


「20日くらい働いて、3回」


少し間が空いた。


「17日は、ミスなく、ちゃんと仕事ができている…」


産業医が、ぽつりといった。


2年間は何もなく仕事ができていた。

ミスは3回。ほとんどの日は、普通に仕事ができている。産業医は、自分が言った情報を繰り返しているだけだ。それだけだけど、不思議と腑に落ちた。


僕は、少しだけ顔を上げた。


(……そうか)


思っていたのと、少し違う。


産業医のほうを見ると、こちらを見て、静かにうなずいていた。


「ミスがあったときは印象に残りやすいですが、何もなかった日はあまり記憶に残らないですね」


「……たしかに」


少しだけ息を吐く。

こんな単純なことに気づかなかったなんて。

17日は、ちゃんと仕事ができていた。3回ミスしたけど、大きな問題にはならなかった。


ほんの少し、肩の力が抜けた気がした。




「もしよければ、少しだけ一緒に整理してみてもいいですか?」


ホワイトボードも、専門用語も出てこない。

ただ紙とペンだけがテーブルの上に置かれた。


出来事、考え、気持ち、と書かれている。



「それぞれに、今回のことを書いていただけますか?」


「出来事……社会人ならしないミスを3回もしてしまった、でしょうか」


産業医が少しだけ口角を上げた。


「いいですね。でも、“社会人ならしないミス”というのは、ご自身の考えや判断が入っていそうですね

出来事は、できるだけ事実だけで書いてみましょう」


「えっと……」


少し考えて、書き直す。



出来事:3回ミスをした

考え:自分は向いていない、社会人失格

気持ち:不安、情けなさ



「こうやって分けてみると、どう感じますか?」


「……考えと事実って、違うんですね」


「そうですね。ときどき、考えが事実みたいに感じられることがあります」


少し間を置いてから、続けた。


「ほかに浮かんでくる考えはありますか?」


「……」


すぐには言葉が出てこなかった。


でも、胸の奥にあるものには気づいていた。


言葉にするのは、少し怖い。


それでも、この人なら聞いてくれそうだと思った。



「……みんな、周りは、自分のことをダメなやつだと思ってるんじゃないかって……」


口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと縮む感じがした。


(ああ、だからこんなに不安だったのか)


「いいですね、なんでも書いてみましょう」



出来事:3回ミスをした

考え:自分は向いていない、社会人失格、みんなが自分をダメだと思っている

気持ち:不安、情けなさ



「では、不安と情けなさに点数をつけてみましょうか」


「点数?」


「100点満点で、どれくらいかというイメージで」



少し考える。


「……不安は95点くらいで、情けなさは……100点です」



出来事:3回ミスをした

考え:自分は向いていない、社会人失格、みんなが自分をダメだと思っている

気持ち:不安(95)、情けなさ(100)



「ありがとうございます」


医師は軽くうなずいた。


「では、ここに別の考えを少しだけ足してみましょう」


「別の考え……?」


「もし、同じ状況の人がいたとして」


「はい」


「佐藤さんの友人が、同じように“3回ミスをしてしまった”と相談してきたら、どんなふうに声をかけますか?」


「え……」


少し考える。


「……たまたま重なっただけかもしれない、とか」


「うん」


「仕事に慣れてきたからこそ、気が緩んだのかもしれない、とか」


「いいですね」


「あと……」


少し迷ってから続けた。


「それだけで向いてないって決めるのは、早いんじゃないかって言うと思います」


言いながら、少し不思議な感じがした。


「今の言葉を、そのままここに書いてみましょうか」




出来事:3回ミスをした

考え:自分は向いていない、社会人失格、みんなが自分をダメだと思っている

気持ち:不安(95)、情けなさ(100)

別の考え:

・たまたま重なった可能性もある

・仕事に慣れてきたからこそ

・それだけで向いていないと決めるのは早い




「他には?」


産業医は穏やかに続けた。


「“みんなが自分をダメだと思っている”という考えについて、それを裏付ける出来事って、どんなものがありますか?」


「……」


少し考える。


「上司が、ちょっとため息ついたりとか……」


言いながら、少し自信がなくなる。ため息なんてみんなするじゃないか。部長がため息ついたから、全部自分のせいなのか?


「なるほど」


それでも産業医はうなずいてくれた。


「逆に、“そうとは限らないかもしれない”と思えるような出来事はありますか?」


「え……」


予想していなかった方向だった。


少し考える。


「……普通に話しかけてはくれます」


「うん」


「ミスしたときも、フォローしてくれました」


少し間を置いてから、付け足す。


「……仕事も普通に振られてます」


「そうすると、もしかしたら“みんながダメだと思っている”かもしれないし、そうでないかもしれない?」


「……そうかもしれないです」



出来事:3回ミスをした

考え:自分は向いていない、社会人失格、みんなが自分をダメだと思っている

気持ち:不安(95)、情けなさ(100)

別の考え

・たまたま重なった可能性もある

・それだけで向いていないと決めるのは早い

・慣れてきたからこそ

・周りが必ずしもダメだと思っているとは限らない

・ミスの後も普通に接してくれている



「この状態で、不安と情けなさはどれくらいになりそうですか?」


もう一度、さっきの気持ちを思い出してみる。


「……不安は70くらいで、情けなさは80くらい、ですかね」


「少し変化がありますね」


「はい」


「こういうふうに、ひとつの出来事に対して、いくつかの見方があることがあります

最初に浮かんだ考えが強いと、それが事実のように感じられてしまいますが、少しだけ別の見方を足すと、気持ちも少し動くことがあります」


僕はゆっくりうなずいた。


「こういう考え方のパターンを、“癖”のようなものとして持っていることもあります」


「癖……」


「はい。気づくだけでも、少し扱いやすくなることがあります」


少しだけ間を置いてから、続けた。


「それと、不安や情けなさが出てくるのは、それだけ仕事を大事に思っているから、という面もあります」


「……」


そうだろうか?


「より良くやりたい、ちゃんとやりたい、という気持ちがあるからこそ、そういう感情が出てくることもあります」


産業医の先生は、まっすぐ僕を見てそう言った。僕は少しだけ視線を下げた。

たしかに、自分はちゃんと仕事をして、みんなに信頼されて、認めてもらいたいと思ってる。


「ただ、その気持ちが強くなりすぎると、自分に対して厳しい言葉ばかりになってしまって、疲れてしまうこともあります」


「……はい」


「ときどきは、少し違う見方も一緒に置いておくくらいで、ちょうどいいこともあります」



他にも産業医はぽつりぽつりと体調のこととか仕事のことを確認してきた。

面談が終わるころ、僕の気持ちは大きく変わったわけではなかった。


ミスはまだ怖いし、不安も消えていない。


ただ、ひとつだけ違うことがあった。


(俺って、結構真面目でがんばりやなんだな)


そう思えたことだった。


面談室を出るとき、僕は少しだけ肩の力が抜けていることに気づいた。

家に帰ったら、今日はゆっくりしよう。





作中の出来事、考え、気持ち、別の考え、後の気持ちは『認知行動療法』のコラム法を用いたものです。

認知行動療法の考え方を知ると、世界が変わります。


ご興味のある方は

竹田伸也先生著の『マイナス思考と上手につきあう 認知療法トレーニング・ブック』がお勧めです。

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