正しすぎるあなたの愛し方
初めての舞踏会。ロザリー・ハーヴェイは、鏡に映る自分の姿を何度も確認した。
それは淡いライラック色のデビュタントドレスだ。決して流行の最先端を行くデザインではない。ふんだんにレースが使われているわけでも、宝石が散りばめられているわけでもない。子爵家という貴族としては慎ましい家柄、そして三女という立場を考えれば予算は限られていた。けれどロザリーにとっては、この世で一番美しいドレスだった。
「ロザリー、とても似合っているわよ」
母の言葉に、鏡の前に立ったロザリーは、はにかみながら自らの姿を映した。生地の光沢は控えめだが、肌馴染みが良い。何より特筆すべきは刺繍だ。胸元から腰にかけて、そしてスカートの裾へと流れるように施された小花の刺繍は、すべて母の手によるものだった。 夜なべをして一針一針縫い込んでくれた母の愛情が、物理的な重みとなってロザリーを包んでいる。
鏡の中の自分は、確かに少しだけ大人びて見える。これで社交界デビューができる。素敵な紳士との出会いがあるかもしれない。物語のような恋が始まるかもしれない。期待と不安が入り混じって、胸が高鳴った。
王宮の大広間は、想像以上に煌びやかだった。シャンデリアの光が天井から降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床がそれを反射して、まるで星空の上を歩いているような錯覚に陥る。
楽団が奏でるワルツの調べ。色とりどりのドレスを纏った令嬢たち。燕尾服を着こなした紳士たちの談笑。
むせ返るような香水の香りと熱気に、ロザリーは少しだけ足がすくんだ。壁際に身を寄せ、扇で口元を隠しながら会場を見渡す。姉たちはすでに知人と談笑しており、ロザリーは一人だった。
色とりどりのドレスが花のように揺れていた。ロザリーは圧倒されながらも、姉たちから教わった通りに微笑みを浮かべ、背筋を伸ばした。
何人かの青年貴族が、彼女に視線を向ける。ロザリーは緊張で手が震えた。深呼吸をして、落ち着こうとする。大丈夫。きっと、大丈夫。
その時だった。
「そこの君」
低く落ち着いた声が、すぐ隣から聞こえた。
振り向くと、そこには見目麗しい青年が立っていた。黒髪に深い青の瞳。仕立ての良い礼服を完璧に着こなし、背筋は一本の線のように真っ直ぐだ。整った顔立ちは、まるで彫刻のように端正で、ロザリーは思わず息を呑んだ。
もしかして、ダンスに誘ってくれるのだろうか。胸が期待で高鳴る。
だが、青年の次の言葉は、ロザリーの期待を粉々に打ち砕いた。
「君のドレスの裾が解れている。直ちに退室したほうがいい」
周囲の視線が、一斉にロザリーに集まった。
彼女は慌てて裾を確認する。確かに、ほんの少しだけ糸が解れていた。母が夜遅くまで縫ってくれたドレス。あの刺繍のすぐ近く。縫い目が少しだけ甘かったのだ。
「このまま踊れば転倒する危険がある。一度退出するべきだ」
青年は無表情で、まるで業務報告をするように告げた。淡々と、ただ事実を述べているだけだ。それが余計に、ロザリーの胸に突き刺さった。
周囲のひそひそ声が、耳に届く。
「まあ、聞きました?」
「彼女はどこの……ああ。子爵家では、この程度なのかしら」
「可哀想に。でも、身の丈に合わないことはするものではないわ」
顔が熱くなる。視界が滲む。ロザリーは何も言えず、ただ俯いた。喉の奥が詰まって、声が出なかった。
「……っ! 失礼します!」
彼女は逃げるように、広間を後にした。靴音だけが廊下に響く。胸が苦しい。涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
人気のない廊下の片隅で、ロザリーはようやく膝を抱えて座り込んだ。もう堪えきれなかった。涙が頬を伝う。
母が一生懸命作ってくれたドレス。それを、あんな風に――大勢の前で指摘されて。母の愛情まで否定されたような気がして、胸が張り裂けそうだった。
あの青年は誰なのか。名前も知らない。ただ、あの冷たい青の瞳だけが、ロザリーの記憶に焼き付いて離れなかった。
*
それから二週間、ロザリーは部屋に閉じこもりがちになった。
社交界デビューは、散々な結果に終わった。もう二度と、あんな思いはしたくない。ドレスを見るたびに、あの夜のことを思い出してしまう。
「ロザリー、いつまでも塞ぎ込んでいてはダメよ」
姉のセリーナが部屋を訪ねてきた。彼女は既に結婚しており、伯爵夫人として社交界で活躍している。
「気分転換に、私の主催する茶会に来ない? 親しい友人たちだけの、小さな集まりよ」
ロザリーは気が進まなかったが、姉の心配そうな顔を見ていると断れなかった。いつまでも部屋に閉じこもっているわけにもいかない。
「……分かったわ、姉さん」
数日後、ロザリーはセリーナの邸宅を訪れた。庭園に面した応接室には、既に何人かの令嬢たちが集まっていた。皆、穏やかな笑顔でロザリーを迎えてくれる。
茶会は和やかに進んでいた。ロザリーは控えめに会話に参加しながら、紅茶を啜る。少しずつ、緊張が解けていく気がした。
そこへ、執事が新しい客を案内してきた。
「エドウィン・アッシュフォード様がお見えです」
ロザリーの手が止まった。
アッシュフォード。侯爵家の名だ。このとき既に、ロザリーは妙な胸騒ぎを覚えていた。
そして扉が開き、見覚えのある青年が入ってくる。黒髪に青い瞳。あの時の青年だ。
紅茶が、喉に詰まった。ロザリーは激しく咳き込む。隣にいた令嬢が、慌てて背中を叩いてくれた。
「大丈夫? ロザリー」
「え、ええ……」
涙目になりながら、ロザリーは何とか呼吸を整えた。視線を上げると、青年――エドウィンが、こちらに近づいてくるのが見えた。
逃げたい。でも、ここで席を立てば不自然だ。ロザリーは俯いて、必死に平静を装った。
「失礼」
エドウィンは淀みなく挨拶をし、空いていた席に座る。よりによって、ロザリーのすぐ隣だった。
心臓が早鐘を打つ。手の中のティーカップが、わずかに震えた。
「ロザリー、こちらはエドウィン・アッシュフォード様よ。アッシュフォード侯爵のご令息で、外交でも名高い方なの」
セリーナが紹介してくれる。侯爵令息。ロザリーは内心で驚いた。子爵家の娘である自分とは、格が違いすぎる。そして、外交で名高い? あんなに無神経な人が?
「ごきげんよう」
ロザリーは震える声で挨拶した。エドウィンは軽く頷く。そして、彼女の顔をじっと見た。
「君は……あの時の」
彼は思い出したようだった。ロザリーは思わず、ティーカップを握りしめた。
「あの後、怪我はしなかったか」
「……え?」
「君のドレスの裾だ。転倒しなかったか、と聞いている」
その言い方はあまりにも淡々としていて、まるで物の破損具合を確認するようで、ロザリーの胸には冷たく響いた。
「……怪我はしておりません」
ロザリーは俯いて、短く答えた。
「そうか。それは良かった」
エドウィンは満足そうに頷き、紅茶に口をつけた。まるで用件が済んだとでも言うように。
会話は途切れた。気まずい沈黙が流れる。周囲の令嬢たちは、気を遣って別の話題を始めた。
その時、ロザリーの向かいに座っていた若い令嬢が、嬉しそうに声を上げた。
「そうそう、皆さん聞いて。この前、王都で一番有名な職人が作った髪飾りを購入したの」
彼女は誇らしげに、髪に留めた青い宝石の髪飾りを指さした。確かに美しい細工で、宝石が光を受けてきらきらと輝いている。
「まあ、素敵」
「とてもよくお似合いですわ」
周囲の令嬢たちが、口々に褒め称えた。令嬢は頬を染めて、嬉しそうに微笑む。
エドウィンは、その髪飾りをじっと見た。そして、何の躊躇もなく口を開いた。
「その髪飾りは、君の髪の色に合っていない。君は栗色の髪だから、青い宝石では顔色がくすむ。もっと暖色系の宝石を選ぶべきだ」
場が凍りついた。
令嬢は顔を真っ赤にして俯いた。せっかく購入した宝石を、大勢の前で否定されたのだ。
周囲の令嬢たちも、気まずそうに視線を逸らす。セリーナが慌てて話題を変えようとしたが、気まずい空気は消えなかった。
エドウィンは、自分が何か間違ったことを言ったとは思っていないようだった。彼は平然と紅茶を飲み続ける。
ロザリーは、胸が締め付けられるような思いがした。
この人は、本当に人の気持ちが分からないのだ。悪気がないことは分かる。でも、それが余計に辛かった。
茶会の後、ロザリーはセリーナと二人きりになった時、思い切って尋ねた。
「姉さん、あの方は……いつもあんな感じなの?」
セリーナは困ったように笑った。窓の外を見ながら、小さく溜息をつく。
「ええ。エドウィン様は、社交界でも有名なのよ。悪い人ではないんだけれど……とにかく、率直すぎるの」
「率直、というか……」
「無神経、と言いたいのね」
セリーナは妹の言葉を先回りして、苦笑混じりに頷いた。
「でも、彼に悪気はないの。本当にないのよ。彼なりに、相手のためを思って言っているみたい」
「相手のため……」
ロザリーは、あの夜のことを思い出した。「転倒する危険がある」と言ったエドウィンの表情。確かに、悪意は感じられなかった。
だとしても、彼の言葉に傷ついた人たちの痛みは消えない。
「……本当のことでも、言わない方がいいこともあるわ」
ロザリーは小さく呟いた。
「そうよね」
セリーナは、ただ優しく妹の肩を抱いた。
「もう二度と、あの方とは関わりたくないわ」
ロザリーは静かに言った。
*
それから一ヶ月後、王宮で晩餐会が開かれることになった。
招待状が届いた時、ロザリーは複雑な気持ちだった。王宮での晩餐会は名誉なことだ。断るわけにはいかない。でも、またあの侯爵令息に会うかもしれない。
「大丈夫よ、ロザリー。王宮は広いもの。会わずに済むかもしれないわ」
母は励ましてくれたが、ロザリーの不安は消えなかった。
晩餐会当日。新しく仕立てたドレスに身を包み、ロザリーは王宮へ向かった。今回のドレスは、姉たちが費用を出してくれた。淡い青のドレスは、確かに彼女によく似合っていた。
大広間に入り、席次表を確認した時、ロザリーは絶望した。
エドウィン・アッシュフォード。彼の名前が、自分の隣に書かれていた。
「そんな……」
思わず声が漏れた。席次は通常、家格や関係性を考慮して決められる。なぜ子爵家の娘である自分が、侯爵令息の隣なのか。何かの間違いではないのか。
だが、係の者に確認しても、間違いではないと言われた。ロザリーは諦めて、指定された席へ向かった。足取りが重い。
エドウィンは定刻通りに現れ、ロザリーの隣に座った。相変わらず、背筋が真っ直ぐで、物腰に一切の乱れがない。
「また会ったな」
彼の挨拶は、驚きも喜びも含まない、ただの事実確認のようだった。
「……はい」
ロザリーは最小限の返事をし、視線を皿に落とした。できるだけ会話をしたくない。この人と話すと、また傷つくことを言われる気がした。
だが、エドウィンは構わず話しかけてきた。
「今日の君の髪飾りは、前回より良い選択だ」
ロザリーは思わず顔を上げた。
「……え?」
「前回の茶会では、少し華美すぎた。今日のは控えめで、君の顔立ちを引き立てている。それに、ドレスの色ともよく調和している」
彼は真剣な表情で、まるで美術品を評価するように言った。褒めているのか、けなしているのか、ロザリーには判断がつかなかった。前回の髪飾りを否定されたような気もするし、今日のを褒められたような気もする。
「……ありがとう、ございます」
とりあえず礼を言うと、エドウィンは満足そうに頷いた。彼にとっては、ただの客観的な評価なのだろう。でも、ロザリーには複雑だった。
食事が運ばれてくる。ロザリーは黙々とフォークを動かした。できるだけ会話を避けたい。
だが、隣からエドウィンの声が聞こえてくる。
「このスープは塩分が強すぎる。味付けのバランスが悪い。厨房に改善を求めるべきだ」
ロザリーは思わず、手が止まった。
王宮の料理を、公然と批判している。周囲の貴族たちが、ちらりとエドウィンを見た。だが、誰も何も言わない。皆、彼の性格を知っているのだろう。諦めたような、呆れたような視線だった。
ロザリーは耐えきれず、小声で言った。
「……あの、エドウィン様」
「何だ」
エドウィンは平然と彼女を見た。
「そういうことは……言わない方がいいと思います」
「なぜだ? 事実を述べただけだ」
「事実でも、言わない方がいいこともあります」
「理解できない」
エドウィンは眉をひそめた。本気で分からないという顔だ。
「誤りを正すことの何がいけないのか。改善の機会を与えているだけだ」
ロザリーは深呼吸した。この人と話すのは、本当に疲れる。でも、このまま黙っていれば、彼はずっとこうやって人を傷つけ続けるのだろう。
「……エドウィン様は、いつもそうやって人を傷つけるんですか」
言ってから、ロザリーは後悔した。相手は侯爵令息だ。無礼な発言をすれば、家に迷惑がかかる。
だが、エドウィンは怒った様子はなかった。むしろ、困惑したような表情を浮かべた。彼は少しの間、何かを考えるように黙り込んだ。
「……傷つける、とは?」
「エドウィン様の言葉です」
ロザリーは勇気を出して続けた。もう言ってしまったのだ。最後まで言おう。
「エドウィン様は正しいことを仰います。でも、その正しさが、時には人の心を傷つけるんです」
「私は事実を述べているだけだ。なぜそれが人を傷つけるのか、本当に分からない」
彼は、本気で言っているようだった。嘘をついている様子はない。心からそう思っている。
ロザリーは、少しだけ毒気を抜かれた。この人は、悪意で人を傷つけているわけではないのだ。ただ、本当に分からないだけ。
「……事実は、伝え方次第で毒にも薬にもなるんです」
「ふむ」
「それに人には『沈黙』という手段だってあります。言わなくてもいいことは、言わない。それも、優しさの一つなんです」
エドウィンは真剣に聞いていた。彼は少し考え込み、やがて懐から小さな革装の手帳を取り出した。
「……では具体的に、私はどう言えばよかった?」
ロザリーは目を丸くした。
「……今、メモを?」
「ああ。君の言うことは理にかなっているようだ。記録しておきたい」
彼は本気だった。ペンを構えて、真剣な眼差しでロザリーを見ている。その姿があまりにも真摯で、ロザリーは思わず笑ってしまいそうになった。
「……まず、王宮の料理を批判するのは避けるべきです。どんなに事実でも、です」
「ふむ」
エドウィンはペンを走らせる。几帳面な文字が、手帳に並んでいく。
「では、何も言わなければいいのか」
「そうです。もしくは、『美味しいですね』と言うか」
「だが、美味しくない」
ロザリーは額を押さえた。
「……だから、それが社交辞令というものです」
「つまり、嘘をつけと?」
「嘘ではなく……配慮、です」
「配慮と嘘の違いが分からない」
エドウィンは真面目な顔で言った。ロザリーは溜息をついた。この人に教えるのは、想像以上に骨が折れそうだ。
でも、彼の真剣な眼差しを見ていると、断る気にはなれなかった。彼は本当に、学びたいと思っている。それだけは、伝わってきた。
「……分かりました。では、いくつか例を出しますね」
ロザリーは小声で、いくつかのシチュエーションを説明し始めた。
「誰かの新しい服を見た時は、たとえ似合っていなくても『素敵ですね』と言う」
「食事が口に合わなくても、黙って食べるか、『ご馳走様でした』とだけ言う」
「誰かが失敗した話をしても、『それは君のミスだ』とは言わない。特に第三者の前では避ける」
エドウィンは一つ一つ丁寧にメモを取った。時々「それは非効率ではないか」「なぜそこで嘘をつく必要がある」と質問してくるが、ロザリーは根気強く説明した。
晩餐会が終わる頃には、彼の手帳は書き込みでいっぱいになっていた。
「ありがとう、ロザリー」
エドウィンは初めて、わずかに表情を和らげた。その顔は、まるで難解な外交文書を読み解いた時のような、達成感に満ちていた。
「君の教えは、非常に有益だった。これまで誰も、ここまで具体的に教えてくれなかった」
「……どういたしまして」
ロザリーは複雑な気持ちだった。この人は、本当に悪い人ではないのかもしれない。ただ、人の気持ちが分からないだけなのだ。
それを教えることができるなら――。
ロザリーは、自分の考えに驚いた。まさか、また彼と会いたいと思っているのだろうか。いや、そんなはずは。これはただ、困っている人を助けたいという善意だ。そう、善意に違いない。
でも、胸の奥で小さく芽生えた温かい感情を、ロザリーは否定しきれなかった。
*
数日後、ロザリーの元に手紙が届いた。
差出人は、エドウィン・アッシュフォード。封蝋には侯爵家の紋章が押されている。ロザリーは緊張しながら、封を切った。
手紙には、簡潔にこう書かれていた。
『次回の王宮図書室開放日に、君と話がしたい。都合がつけば来てほしい。――エドウィン・アッシュフォード』
ロザリーは手紙を握りしめた。行くべきだろうか。それとも、これ以上関わらない方がいいのだろうか。
だが、問いかける自分の心が既に答えを知っていることに、彼女は気づいていた。あの不器用な侯爵令息が、わざわざ手紙を書いてきた。几帳面な文字で、丁寧に。その真摯さを、無下にはできない。
それに――ロザリーは手紙の文字を指でなぞった――少しだけ、また会いたいと思っている自分がいた。彼の真剣な眼差しを、もう一度見てみたい。彼が何を学ぼうとしているのか、知りたい。
次の開放日、朝の光が図書室の窓から差し込む頃、ロザリーは静かに扉を開けた。
広い図書室には、まだ人影はまばらだった。書架の間を歩いていると、奥の方に見覚えのある黒髪の青年が立っているのが見えた。
エドウィンだ。彼は一冊の本を手に取り、じっと表紙を見つめていた。
「……エドウィン様」
ロザリーが声をかけると、エドウィンは振り向いた。その顔に、わずかな安堵の色が浮かんだ気がした。
「来てくれたのか」
「はい。お手紙を頂きましたので」
エドウィンは頷き、周囲を見回した。そして、人気のない書架の奥を指さす。
「あちらで話そう。静かな方がいい」
二人は、誰も来ない書架の陰に移動した。古い歴史書が並ぶ一角で、ほこりっぽい匂いがする。
エドウィンは手帳を取り出した。
「あの晩餐会の後、君の教えを実践してみた」
「……どうでしたか?」
「難しい」
エドウィンは率直に言った。
「何度も失敗した。言わない方がいいと分かっていても、口が勝手に動いてしまう。そして後から、また失敗したと気づく」
彼の表情は、珍しく困惑していた。ロザリーは少しだけ、彼に親近感を覚えた。完璧に見える侯爵令息が、こうして悩んでいる。
「でも、諦めたくない」
エドウィンはロザリーを真っ直ぐ見た。
「もっと学びたい。君に、もっと教えてほしい」
その眼差しはあまりにも真剣で、ロザリーは思わず頷いていた。
「……分かりました。では、これから定期的に、こうしてお会いしましょうか」
「本当か?」
エドウィンの顔が、わずかに明るくなった。
「ああ、助かる。では、毎週この時間に、ここで会うということでいいか」
「はい」
こうして、ロザリーとエドウィンの奇妙な「授業」が始まった。
*
「では、次の状況です」
ロザリーは手元の紙に目を落とした。王宮の図書室の片隅、誰も来ない書架の陰。二人だけの奇妙な「授業」は、もう三週目に入っていた。
「泣いている令嬢がいます。あなたはどう声をかけますか?」
エドウィンは真剣な表情で考え込む。彼がこうして思案する姿は、外交文書を読む時と何ら変わらない。
「……泣くな、と言うべきか」
「最悪です。〇点です」
即答だった。ロザリーは呆れたように額に手を当てる。
「なぜだ。涙は視界を遮り、思考を鈍らせる。止めるべきだろう」
「そういう問題ではないんです。泣いている人は、泣きたくなる出来事があったから泣いているんです。泣くな、と言われても困るでしょう」
エドウィンは眉をひそめた。「理解できない。なら、どう言えばいい」
ロザリーは少し考えて、口を開いた。
「そうですね……『何かあったのですか』とか『お話を聞きましょうか』とか」
「それだけか」
「それだけです。複雑なことは要りません」
エドウィンはまた黙考する。ロザリーは彼のその真摯な態度が、少しずつ嫌いではなくなっている自分に気づいていた。最初は面倒だと思っていたのに。
「……もっと良い言葉はないのか」
「良い言葉?」
「ああ」エドウィンは珍しく、わずかに言いよどんだ。「その、もっと……効果的な慰めの言葉だ」
ロザリーは首を傾げる。「効果的、とは?」
「泣き止ませる、とか……いや、違うな」彼は自分の言葉を訂正した。「その人を、本当に慰められる言葉だ」
ロザリーは少し驚いた。エドウィンが効率や適切さではなく、本当にと、相手の心情を考えた言ったのは初めてだった。
彼女はふと、自室のクローゼットの奥に隠してある本のことを思い出した。市井の恋愛小説。姉たちには絶対に見せられない、甘く切ない物語の数々。そこに出てくる騎士や王子たちは、いつも完璧な言葉で令嬢を慰める。
「……あの」
ロザリーは頬が熱くなるのを感じながら、小さく言った。
「これは、あくまで……小説で読んだだけの話なんですが」
「構わない。教えてくれ」
彼の真剣な眼差しに、ロザリーは観念した。
「その、泣いている人に、こう言うんです。『涙を見せてくれて、ありがとう』って」
エドウィンは目を見開いた。「……なに?」
「だから、その……」ロザリーは自分の指先をいじりながら続けた。「泣くっていうのは、弱いところを見せることだから。それを自分に見せてくれたことに、感謝する、という意味で……」
「待て」エドウィンは手を上げた。「理解できない。なぜ泣かれて感謝するんだ」
「理屈じゃないんです!」ロザリーは思わず声を上げた。「その言葉を聞いたら、『ああ、この人は私の涙を否定しないんだ。受け止めてくれるんだ』って思えるでしょう? だから……安心できるんです」
エドウィンは長い沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「……なるほど。つまり、泣くことを許可する言葉なのか」
「許可、というか……そうですね、近いかもしれません」
「では、『涙を見せてくれて、ありがとう』と言えば、相手は泣き止むのか?」
「泣き止むかどうかは分かりません。でも、少しは楽になると思います」
エドウィンは腕を組み、また考え込んだ。ロザリーは彼がこの言葉をどう処理するのか、少し興味があった。
「……ロザリー」
「はい?」
「その言葉は」エドウィンは珍しく、わずかに表情を和らげた。「君が考えたのか」
「いえ、だから小説で……」
「そうか」彼は頷いた。「良い小説だな」
ロザリーは思わず笑ってしまった。エドウィンが小説を褒めるなんて、初めてだった。
「ええ、良い小説です」
「いつか、私にも貸してくれないか」
「……本気ですか?」
「ああ。君が良いと思うものなら、読んでみたい」
ロザリーは胸が温かくなるのを感じた。これは一体、何だろう。
「……分かりました。今度お持ちします」
エドウィンは満足そうに頷き、また手元のメモに何かを書き込んだ。きっと「涙を見せてくれてありがとう」という文言を、几帳面な字で記録しているのだろう。
ロザリーはその横顔を見ながら、ふと思った。
もし自分が泣いた時、この人はあの言葉をかけてくれるだろうか。
そして、もしそうなったら――自分はどんな気持ちになるだろう。
考えてはいけない、とロザリーは首を振った。これはただの授業だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「では、次の状況に移りましょう」
彼女は慌てて次の紙をめくった。自分の高鳴る鼓動を、彼に気づかれないように。
*
それからまたひと月ほど。
ロザリーとエドウィンの「授業」は、毎週欠かさず続いていた。王宮図書室の片隅は、二人だけの秘密の教室になっていた。
エドウィンは少しずつ変わっていった。最初は全く理解できなかった社交辞令も、ロザリーの根気強い説明で、ようやく使えるようになってきた。まだ時々、不自然なほど棒読みになることもあったが、それでも以前に比べれば格段の進歩だった。
ある日の授業で、エドウィンが珍しく自分から話を切り出した。
「ロザリー、一つ聞いてもいいか」
「はい、何でしょう」
「君は、なぜ私に教えてくれるんだ」
ロザリーは手を止めた。彼女自身、その答えをはっきりとは言葉にできていなかった。
「……それは」
「私は君を傷つけた。あの舞踏会で、君のドレスを指摘して」
エドウィンの声は、いつもより低かった。
「なのに、君は私を助けてくれる。理由が分からない」
ロザリーは少し考えて、ゆっくりと口を開いた。
「エドウィン様には、悪意がなかったから」
「悪意がなければ、傷つけてもいいのか」
「いいえ」ロザリーは首を振った。「でも、エドウィン様は学ぼうとしてくださっています。変わろうとしてくださっています。それが、私には嬉しいんです」
エドウィンは黙っていた。やがて、彼は小さく呟いた。
「……言い訳にもならないが」
ロザリーは彼を見た。
「私は幼い頃から、父に厳格に育てられた。常に正しくあれ、誤りを見逃すな、不正や誤謬は即座に正せ、と」
彼の声は、どこか遠くを見ているようだった。
「父は優れた外交官だった。論理と正確さで、多くの難題を解決してきた。私もそうあるべきだと、ずっと教えられてきた」
「……」
「だが、父が教えてくれなかったことがある」
エドウィンはロザリーを見た。
「他者の気持ちを慮ること。父にとって、それは外交に不要なものだったのかもしれない。でも、私は気づいていなかった。それが人として、どれほど大切なことか」
ロザリーは胸が温かくなった。エドウィンが、こんなに自分のことを話してくれるなんて。
「他者を思いやる気持ちが『無い』のではないんです」
ロザリーは優しく言った。
「ただ、『知らない』だけ。でも、エドウィン様はいま、それを学んでいます。素晴らしいことだと私は思います」
「……そうだろうか」
「ええ」
ロザリーは微笑んだ。エドウィンも、わずかに表情を和らげた。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。それは、もう気まずいものではなかった。
数日後、社交界に変化が訪れた。
「最近のエドウィン様、少し変わられたと思わない?」
茶会で、令嬢たちがそんな噂をしているのを、ロザリーは耳にした。
「ええ、先日の晩餐会で、私の新しいドレスを褒めてくださったの。あの方があんなに優しい言葉をかけてくださるなんて」
「私も驚いたわ。以前は、何を言われるか怖くて近づけなかったのに」
ロザリーは、少し誇らしい気持ちになった。エドウィンが努力している成果が、こうして表れているのだ。
だが、それと同時に、ある変化も起きていた。
エドウィンの評判が改善するにつれ、彼への縁談が急増したのだ。侯爵令息で、外交手腕があり、そして最近は物腰も柔らかくなった。これ以上ない良縁として、多くの貴族家が娘を差し出そうとした。
ロザリーは、それを複雑な思いで見ていた。
エドウィンが幸せになるのは、いいことだ。彼にふさわしい、素敵な令嬢と結ばれるべきだ。
でも。
胸の奥に、小さな棘が刺さったような痛みがあった。それが何なのか、ロザリーは認めたくなかった。
*
ある日の授業で、エドウィンが唐突に言った。
「ロザリー、私に相談がある」
「はい、何でしょう」
「縁談が、複数来ている」
ロザリーの手が、わずかに震えた。
「……それは、おめでとうございます」
「だが、困っている」
エドウィンは眉をひそめた。
「どの令嬢も素晴らしい方だ。家柄も申し分ない。だが、私には判断基準が分からない」
「判断基準、ですか」
「ああ。結婚相手を選ぶ際、何を重視すべきなのか。君なら、どう考える?」
ロザリーは、息が詰まりそうだった。
エドウィンは、本気で相談しているだけだ。彼にとって、ロザリーは信頼できる助言者なのだろう。でも、この質問に答えるのは、あまりにも辛かった。
「……それは」
ロザリーは言葉を探した。
「一緒にいて、心が安らぐ方がいいと思います」
「心が安らぐ」
エドウィンは手帳にメモを取った。
「他には?」
「……自分の弱さを見せられる方、でしょうか」
「なるほど」
彼は真剣に書き込んでいる。ロザリーは、胸が苦しくなった。
「エドウィン様は、どなたかお気に入りの方はいらっしゃるんですか」
聞くべきではないと分かっていた。でも、聞かずにはいられなかった。
「いや、誰も」
エドウィンは首を振った。
「正直に言えば、誰と話しても、君と話しているほど楽ではない」
ロザリーの心臓が、大きく跳ねた。
ロザリーは自分に言い聞かせた。私は彼の教師。それ以上でも、それ以下でもない。
ロザリーは精一杯の笑顔を作った。
「きっと、素敵な方が見つかりますよ」
エドウィンは頷いた。そして、また手帳に何かを書き込んだ。
ロザリーは俯いた。胸の痛みが、どんどん大きくなっていく。
これが何なのか、もう分かっていた。
でも、認めるわけにはいかなかった。
*
次の図書室開放日。ロザリーはいつものように書架の奥へ向かった。
エドウィンは既に待っていた。だが、今日の彼は様子がおかしかった。いつもの冷静さはどこへやら、落ち着きなく指を組んだり離したりしている。手帳も開いていない。
「エドウィン様、どうかされましたか?」
ロザリーが声をかけると、エドウィンは弾かれたように顔を上げた。
「ロザリー、来てくれたか」
彼は深く息を吸い、意を決したようにロザリーに向き直った。その瞳には、切迫した色が浮かんでいた。
「君に、伝えなければならないことがある」
「はい……?」
ロザリーの胸が早鐘を打つ。縁談の話だろうか。それとも――。
「先日、結婚相手の判断基準について相談したな。あれから私は、論理的に思考を重ね、あらゆる条件を精査した」
エドウィンは一歩、ロザリーに近づいた。
「家柄、能力、将来性、そして何より、私自身の資質との相性。全ての変数を考慮した結果、一つの答えが導き出された」
彼は真っ直ぐにロザリーを見つめた。
「ロザリー。君だ」
時が止まったようだった。ロザリーは目を見開き、息をするのも忘れた。
「え……?」
「君こそが、私が求めていた相手だ」
エドウィンは言葉を継ぐ。焦燥と緊張からか、その口調はいつも以上に早く、そして硬かった。
「ロザリー、私と結婚してほしい」
夢ではないかと思った。あのアッシュフォード侯爵令息から、求婚されている。胸の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
だが、続く彼の言葉が、ロザリーの歓喜を瞬時に追いやった。
「君は、私の欠落を埋めるための最適解だ」
ロザリーの笑顔が凍りついた。
「……さいてき、かい?」
「そうだ」
エドウィンは、ロザリーの表情の変化に気づかず、自らの結論の正しさをやけに早口に熱弁し始めた。
「君がいれば、私は人の感情を理解できないという欠点を補える。君の助言があれば、私は外交の場でも社交の場でも、完璧に振る舞えるようになる。君という存在こそが、私を完全な人間にするために必要な要素なんだ」
彼は、それが最高の口説き文句であるかのように告げた。
「これほど効率的で、合理的な組み合わせは他にない。君が必要なんだ、ロザリー」
ロザリーの全身から、血の気が引いていった。
彼は「君が必要だ」と言った。でも、それはロザリー自身を求めているのではない。ロザリーが持つ機能を求めているだけだ。
彼にとって、自分は便利な道具なのだ。彼の正しさを維持し、彼を完璧に見せるための、付属品。
悲しみが、怒りへと変わっていく。
これまで彼に寄り添い、少しずつ心を通わせてきたと思っていた時間は、すべて勘違いだったのだろうか。
「……エドウィン様」
ロザリーは震える声で言った。
「私は、あなたの矯正器具ではありません」
エドウィンの動きが止まった。彼は理解できないという顔で、ロザリーを見た。
「なに……?」
「欠落を埋める? 完璧に振る舞える? ……結婚相手に求めるのは、そういうことですか」
「ロザリー、私は事実を……」
「事実なら、何を言ってもいいのですか! 私は……私はそんなこと、あなたに伝えていません!」
ロザリーは叫んでいた。図書室の静寂が破られる。
「あなたは結局、何も分かっていません!」
涙が溢れてきた。もう、この場に一秒たりともいたくなかった。
「授業は、もう終わりです。二度と私の前に現れないでください」
「ま、待ってくれ!」
エドウィンが手を伸ばしたが、ロザリーはその手を拒絶した。
彼女は背を向け、走り出した。
背後でエドウィンが呆然と立ち尽くしている気配がしたが、一度も振り返らなかった。
廊下を走りながら、ロザリーは涙を拭った。
期待した自分が馬鹿だった。「心が安らぐ」と言った彼の言葉を、信じたかっただけなのに。
最適解。その冷たい響きだけが、いつまでも耳に残って離れなかった。
*
それから数日、ロザリーは部屋に塞ぎ込んでいた。食事も喉を通らず、ただ窓の外をぼんやりと眺めるだけの日々。
だが、そんな彼女の事情などお構いなしに、王宮からの招待状は届く。
国王陛下主催の舞踏会。貴族の令嬢である以上、欠席は許されない公的な行事だ。
母が心配そうに持ってきた招待状には、きらびやかな金の箔押しがされていた。それを見るだけで、胃のあたりが重くなる。
さらにロザリーを追い詰めたのは、囁かれる噂話だった。
「聞きました? 今度の舞踏会、アッシュフォード侯爵令息にとって特別な夜になるらしいわよ」
「ええもちろん。なんでも、ついに婚約者を発表なさるとか」
「最近の彼は本当に素敵ですものね。きっと、高貴で完璧な方が選ばれるのでしょうね」
姉の友人たちが話していた内容は、ロザリーの心を鋭利な刃物のように抉った。
婚約発表。
ああ、やはりそうだったのだ。
ロザリーは唇を噛み締めた。
先日、彼に拒絶を突きつけたばかりだというのに、もう婚約者が決まったというのか。
けれど、考えてみれば当然だ。彼は言っていたではないか。「最適解」だと。
彼にとって結婚とは、数式を解くようなものなのだ。
ロザリーという計算が成立しなかった。だから、即座に再計算を行い、次の候補を選んだに過ぎない。そこには感情の入る余地などなく、ただ冷徹な論理があるだけ。
「……私が断ったから、すぐに代わりを見つけたのね」
自分は唯一無二の存在などではなく、ただの機能を持った部品の一つだったのだと、まざまざと見せつけられた気分だった。
悔しかった。でも、それ以上に、そんな人に惹かれてしまっていた自分が惨めだった。
(行きたくない……)
けれど、行かなければならない。彼の新しい解を見届けるために。それが、身の程知らずな恋をした自分への、最後の罰なのだから。
ロザリーは涙を拭い、鏡の前に立った。精一杯の強がりを込めて、化粧をするために。
王宮の大広間は、華やかな装飾で彩られていた。
エドウィン・アッシュフォード侯爵令息の婚約発表という慶事に、社交界の有力者たちが集まっていた。ロザリーは目立たぬよう、広間の隅に立っていた。
淡い緑色のドレスは、姉が貸してくれたものだ。「せめて、綺麗な姿で見送りなさい」とセリーナは言った。その優しさが、かえって胸に痛かった。
音楽が流れ、人々が談笑している。ロザリーは一人、グラスを持ったまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
もうすぐ、エドウィンが婚約者と共に現れるのだろう。公爵家の令嬢。きっと美しく、聡明で、彼にふさわしい方なのだろう。
そう思うと、また胸が締め付けられた。
「あら、ロザリー・ハーヴェイ令嬢ではなくて?」
突然、背後から声がかけられた。
振り向くと、そこには見覚えのない三人の令嬢が立っていた。いずれも豪華なドレスを纏い、高位貴族の娘だと一目で分かる。
「……はい」
ロザリーは控えめに会釈した。
「まあ、本当にあなただったのね」
中央の令嬢が、扇で口元を隠しながら言った。その目は、笑っていなかった。
「エドウィン様の婚約発表に、よくいらっしゃれましたわね」
「……と、申しますと?」
「とぼけないで」
別の令嬢が、冷たい声で言った。
「あなた、エドウィン様と頻繁に会っていたそうじゃない。二人きりで」
ロザリーの顔から、血の気が引いた。
見られていたのだ。あの授業を。
「あれは、その……」
「言い訳は結構ですわ。身の程知らずな子爵家の娘が、侯爵令息に取り入ろうとしていたのでしょう?」
「違います」
ロザリーは必死に否定した。
「私はただ、エドウィン様の相談に乗っていただけで……」
「相談?」
三人目の令嬢が、嘲るように笑った。
「ずいぶんと親しげね。まるで、自分が特別だとでも思っていたのかしら」
「そんなことは……」
「でも、結局エドウィン様が選ばれたのは、公爵家の令嬢らしいわよ? あなたのような娘ではなかったわ」
その言葉が、ロザリーの胸に深く突き刺さった。
分かっている。分かっているのだ。自分など、エドウィンの相手にはふさわしくない。それは最初から分かっていた。
でも、こうして面と向かって言われると、あまりにも辛かった。
「さあ、今夜の主役はもうすぐいらっしゃるわ。邪魔にならないよう、隅にいらっしゃい」
令嬢の一人が、わざとロザリーの肩を押した。
バランスを崩したロザリーは、よろめく。その瞬間、別の令嬢が持っていたワイングラスを、うっかりロザリーのドレスにかけた。
「あら、ごめんなさい。まあ、大変」
棒読みの謝罪。周囲の視線が、一斉にロザリーに集まる。
淡い緑色のドレスが、赤いワインで染まっていく。裾の部分が、べったりと濡れた。
あの時と同じだ。
デビュタントの夜、ドレスの裾を指摘されて、恥をかいた時と。
ロザリーは動けなかった。周囲の人々が遠巻きに見ている。誰も助けてくれない。ざわざわとした囁きが、耳に届く。
「可哀想に」
「でも、エドウィン様に近づきすぎたのが悪いのよ」
「身分をわきまえないと、こうなるのね」
ロザリーは俯いた。涙が溢れそうだった。でも、ここで泣くわけにはいかない。これ以上、惨めな姿を晒したくなかった。
その時だった。
「道を開けろ」
低く、しかしよく通る声が響いた。
人垣が割れる。そこから現れたのは、エドウィンだった。
彼は真っ直ぐに、ロザリーの元へ歩いてくる。その表情は、いつもの無表情とは違っていた。怒りとも、悲しみとも取れる、複雑な感情が浮かんでいた。
「エドウィン様……」
ロザリーが呟いた瞬間、エドウィンは彼女の前に膝をついた。
広間がざわめく。侯爵令息が、子爵令嬢の前に跪くなど、前代未聞だった。
エドウィンは無言で、自らの首に巻いていた最高級のクラバットを外した。それは、アッシュフォード家の紋章が刺繍された、由緒あるものだ。
彼は惜しげもなくそれを使い、ロザリーのドレスの汚れを丁寧に拭き始めた。
「エドウィン様、そんな……」
ロザリーは慌てて止めようとした。でも、エドウィンは動じなかった。
彼は丁寧に、一つ一つの染みを拭き取る。その手つきは、まるで何よりも大切なものを扱うようだった。
そして、周囲を見ることなく、俯いたまま、静かに、しかしよく通る声で言った。
「……私は、私の至らなさ、無神経さで、彼女を傷つけた」
広間が静まり返った。
「初めて会った時、彼女のドレスの裾を大勢の前で指摘し、恥をかかせた。その後も、何度も配慮に欠ける言葉で、彼女を苦しめた」
エドウィンの声は、少し震えていた。
「だが、ロザリー・ハーヴェイ令嬢は、そんな私を見捨てなかった」
彼は顔を上げた。その瞳が、真っ直ぐにロザリーを見る。
「彼女は、私が知る中で最も誠実で寛容で、心の美しい人物だ。彼女が私のような無粋な人間に忍耐強く接してくれたことに、私は心から感謝している」
ロザリーの目から、涙が溢れた。
エドウィンは立ち上がり、今度は周囲を睨みつけた。その眼差しは、外交官としての威厳に満ちていた。
「彼女を侮辱することは、この私エドウィン・アッシュフォードへの挑戦と受け取る」
鋭い視線に射抜かれ、三人の令嬢たちは顔を青くした。
もはや言葉もなく、令嬢たちは逃げるようにその場を去っていった。
エドウィンはロザリーの手を取った。
「来てくれ。君をこんな場所に置いておけない」
ロザリーは、手を引かれるままに、広間を出た。
*
廊下に出ると、ようやく二人きりになった。
ロザリーは混乱していた。エドウィンは、婚約発表をするのではなかったのか。なぜ、自分の手を引いて、広間を出てきたのか。
「エドウィン様、婚約発表は……」
「ない」
エドウィンは短く言った。
「私は、誰とも婚約していない」
「え……」
「あれは、誤った噂だ」
エドウィンはロザリーを見た。
「確かに、複数の縁談が来ていた。だが、私は全て断った」
「なぜ……」
「理由が分からなかった」
エドウィンは、珍しく声を荒げた。
「どの令嬢も素晴らしい方だった。家柄も、容姿も、教養も申し分ない。でも、誰と話しても、心が動かなかった」
彼は拳を握りしめた。
「君が去った後、ようやく気づいた。私が求めていたのは、条件の良い結婚相手ではなかった」
「……」
「君だ。君がいない生活など、もう想像できない」
ロザリーの心臓が、激しく打った。
「君に『最適解』などという言葉をぶつけ、傷つけた。君が怒って去ったのは当然だ。私は、もう二度と君に会う資格がないと思った」
エドウィンは俯いた。
「だが、できなかった。君がいない日々は、地獄だった。何を見ても色褪せて見えた。誰と話しても、心が満たされなかった」
「エドウィン様……」
「ロザリー」
彼は真っ直ぐに彼女を見た。
「私は、君を愛している」
ロザリーは、息が止まりそうだった。
「それは……不躾を承知で言います。それは感謝や尊敬であって、愛ではないのでは?」
エドウィンは首を振った。
「違う。ロザリー、私には、まだ君に謝らなければならないことがある」
彼は一歩近づいた。
「最初に君に会った時、君のドレスを指摘したのは――君が誰よりも美しく見えたからだ」
「……え?」
「君が完璧でなければならないと思った。あんなに美しい人が、些細な瑕疵で恥をかくことがあってはならないと。だが、私の言い方は最悪だった。結局、私が君を最も傷つけた」
ロザリーは、信じられないという顔でエドウィンを見た。
「その後も、君と話したくて、理由を探していた。でも適切な言葉が分からず、結局また君を傷つけてしまった」
エドウィンの声は、震えていた。
「茶会で君の隣に座れたのは、私が席次を変更させたからだ。晩餐会も同じだ。君と話したくて、強引に隣の席にしてもらった」
「そんな……」
「私は、君を一目見た時からずっと、君に惹かれていた。でも、どう接すればいいか分からなかった。だから、失敗ばかりした」
エドウィンはロザリーの両手を取った。
「君が教えてくれたことで、私は初めて人の心に触れることができた。そして気づいた。私が学びたかったのは、社交辞令なんかじゃなかった」
「……」
「君の心に、触れたかったんだ。君を理解したかった。君に、理解されたかった」
エドウィンの瞳が、揺れている。
「最適解、効率的、合理的。そんな言葉は、間違っていた。君は、私の欠落を埋める道具なんかじゃない」
彼は、ロザリーの頬に手を添えた。
「君が暗い顔をしていると、私が苦しい。私は……ただ、君に笑っていてほしい」
ロザリーの目から、涙が溢れた。もう止められなかった。
エドウィンは、わずかに目を見開いた。戸惑うように視線を彷徨わせ、それから、ハッとした表情になった。
彼は優しく、ロザリーの涙を親指で拭った。そして、真剣な顔で言った。
「ロザリー……涙を見せてくれて、ありがとう」
その言葉を聞いた瞬間、ロザリーは思わず笑ってしまった。涙が止まらないのに、笑いも止まらなかった。
「……ずるいです」
ロザリーは涙声で言った。
「あの時、教えた言葉を、こんな時に使うなんて」
「君が教えてくれた、最も大切な言葉だ。今こそ使うべきだと思った」
エドウィンも、わずかに笑った。彼が笑うのを見たのは、これが初めてだった。
「私も……私も、エドウィン様を愛しています」
ロザリーは思い切って、彼に抱きついた。エドウィンは一瞬驚いたようだったが、すぐに彼女を強く抱きしめた。
「もう、手放さない」
エドウィンが耳元で囁く。
「二度と、君を泣かせない。いや、違うな」
彼は少し考えて、言い直した。
「君が泣く時は、必ず私がそばにいる。君の涙を受け止める」
ロザリーは、彼の胸の中で静かに泣いた。
もう、怖いものは何もなかった。
それから三ヶ月後、ロザリーとエドウィンの婚約が正式に発表された。
最初は驚きの声もあったが、二人が図書室で「授業」をしていたという微笑ましい噂が広まると、社交界は祝福ムードに包まれた。
「やはり、エドウィン様が最近変わられたのは、ロザリー様のおかげだったのね」
「素敵な恋物語だわ」
ロザリーは、そんな噂を聞くたびに頬を赤くした。
エドウィンは相変わらず不器用で、時々率直すぎることを言いそうになる。だが、そんな時はロザリーが小さく咳払いをする。すると、エドウィンはハッとして、言葉を選び直すのだ。
「……というのは冗談で、とても素敵だ」
明らかにバレバレの嘘だが、二人にとっては愛おしい合図になっていた。
*
婚約式の夜、二人は王宮の庭園を散歩していた。
月明かりの下、エドウィンが唐突に言った。
「……そういえば、私のプロポーズの言葉は何点だっただろうか」
「今さらですか?」
「ああ。気になって仕方ない」
ロザリーは思わず、噴き出しそうになった。婚約してもなお、まだ採点を気にしているなんて。
「それはあの、最適解の……」
「そ、そちらではない! 王宮の夜会でのことであって」
「ふふふ、わかっていますよ」
「……今日の君は少し、意地悪だ」
不貞腐れるように言う彼に、愛おしさが止まらないロザリー。
しかしそんな彼女に気づかず、エドウィンは言葉を続ける。
「あの時は緊張していて、用意した言葉も全て飛んでしまった。手帳も見られなかった」
エドウィンは珍しく、不安そうな顔をしている。
「きっと、不合格だったのだろう。でも、君が受け入れてくれて……」
「エドウィン様」
ロザリーは彼の言葉を遮った。そして、愛おしさを込めて、微笑んだ。
「もちろん、満点です」
エドウィンの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当か?」
「はい。手帳も、用意した言葉もなく、ただあなたの心からの言葉だったから。それが一番、嬉しかったんです」
「……そうか」
エドウィンは安堵したように微笑んだ。そして、ロザリーの手を取った。
「では、もう一度言おう。今度は満点を維持するために」
「もう十分ですよ」
「いや、言わせてくれ」
エドウィンは真剣な顔で、ロザリーを見た。
「ロザリー、私は君を愛している。これからもずっと、君のそばにいたい。君を笑わせたい。君を守りたい」
ロザリーは、また涙が出そうになった。
「そして、時々君を怒らせてしまうだろうが、その時は――」
「咳払いをします」
ロザリーが笑いながら言うと、エドウィンも笑った。
「ああ。その合図で、私は君の元へ戻ってこられる」
二人は抱き合った。
月明かりが、二人を優しく照らしていた。
*
正しすぎる人を愛する方法を、ロザリーは知った。
それは、不器用さを受け入れること。真摯さを信じること。そして、共に学び続けること。
エドウィンもまた、人を愛する方法を学んだ。
それは、相手の心に寄り添うこと。自分の弱さを見せること。そして、完璧でなくてもいいと知ること。
二人の物語は、まだ始まったばかりだった。
でも、どんな困難が待っていても、二人なら乗り越えられる。
そう信じられるだけの、確かな愛があった。
了




