冒険者再開します。本業の鍛冶屋放置です。
依頼を受けたクラルは、工房に戻ることなく出発することを決めた。
「無期限長期休暇と伝えているので、従業員を信用して何も伝えずに出発しよう」
彼の判断には合理的な理由があった。まず、工房に戻れば村長たちに遭遇する可能性が高い。次に、従業員たちは既に自立して業務を行っており、彼の不在でも問題なく運営できる。そして何より、詳細な説明をすれば従業員たちが余計な心配をするかもしれない。
「ヴェラさんたちなら大丈夫だ」
クラルは従業員たちの能力を信頼していた。マニュアル化された生産システム、確立された品質管理、安定した顧客基盤。すべてが整っている現在なら、数ヶ月間の不在でも工房は正常に機能するはずだった。
「それに、オーダーメイドは既に停止している」
最も高度な技術を要求されるオーダーメイドは、既に無期限停止の状態だった。通常商品の製造なら、従業員たちだけで十分対応可能だった。
出発当日、クラルが持参したのは金貨の入った革袋だけだった。
「現在はお金以外の持ち合わせはない」
武器、防具、着替え、食料。冒険者としては考えられないほど軽装だった。しかし、これも計算された判断だった。
「道中で必要なものを都度購入することにした」
十分な資金があるクラルにとって、装備を現地調達することは何の問題もなかった。むしろ、身軽な状態で出発することで、村長たちに発見されるリスクを最小限に抑えることができる。
王都の城門に向かう途中、クラルは装備店に立ち寄った。
「旅用の装備一式をお願いします」
「かしこまりました」店主が応対した。「どちらまで?」
「南方への長旅です」
「でしたら、こちらの装備がおすすめです」
店主が提示したのは、実用性を重視した中級装備だった。華美な装飾はないが、耐久性と機能性に優れている。
「これで結構です」
クラルは迷わず購入した。金額は金貨5枚程度だったが、彼にとっては端金だった。
次に武器店を訪れ、新しい獣砕きを購入した。
「珍しい武器ですね」武器商が興味深そうに言った。「最近、風見鶏の獣砕きが評判ですが、これも似たような作りです」
「そうですね」クラルは苦笑いした。自分の作品が市場で評価されているのは嬉しいが、複雑な気分でもあった。
装備を整えたクラルは、ようやく王都の城門に到着した。
「通行証をお見せください」
門番が書類を確認する。冒険者の身分証明書と、ギルド発行の依頼書。すべて正規の手続きだった。
「商隊護衛ですね。ご苦労様です」
「ありがとうございます」
クラルは城門をくぐり、王都の外へと足を向けた。振り返ると、見慣れた城壁と街並みが見える。しばらくはこの景色を見ることもないだろう。
「また戻ってくる日まで...」
彼は心の中で王都に別れを告げた。
王都を出たクラルは、ふと奇妙な感覚に襲われた。
「村を出た時と王都を出る状況が少し被る」
一年半前、彼は故郷の村を誰にも告げずに出発した。そして今、王都を同じように静かに去ろうとしている。
状況は異なるが、構造的には似ている。どちらも、自分を束縛しようとする存在から逃れるための出発だった。
「ほんのり不快感を感じる」
クラルは素直に自分の感情を認めた。確かに合理的な判断だったが、逃げるような形での出発は気分の良いものではない。
村を出る時は、貧しさと将来への不安から逃れるための決断だった。今回は、過去の責任と期待から逃れるための選択だった。
「でも、必要なことだ」
彼は自分に言い聞かせた。今の自分には、まだ故郷の重圧と向き合う準備ができていない。本当の意味で自立し、自分の道を見つけるまでは、時間が必要だった。
王都から南に半日ほど歩いた街道で、クラルは護衛対象の商隊と合流した。
「お疲れ様です。護衛のクラル・ヴァイスです」
商隊長は40代の商人で、長年この仕事をしているベテランだった。
「ああ、お待ちしておりました。私はガルシア、この商隊の責任者です」
ガルシアはクラルの若い外見に少し驚いた様子だったが、ギルドからの紹介なので信頼することにした。
「他にも護衛はいるのですか?」
「はい、あと2名います」
紹介されたのは、30代の剣士と20代の弓使いだった。どちらもBランクの冒険者で、商隊護衛の経験も豊富だった。
「よろしくお願いします」
クラルは丁寧に挨拶した。チームワークが重要な任務なので、良好な関係を築いておく必要があった。
「ところで、クラルさんの武器は...」剣士が獣砕きを見て首をかしげた。
「獣砕きという武器です」
「変わった形ですね。剣ではない?」
「鈍器系です」
商隊は総勢20名の大所帯だった。商人5名、荷物運搬係10名、護衛3名、そして隊長のガルシア。扱っている商品は高級織物と貴金属で、相当な価値があった。
「だから護衛が必要なのです」ガルシアが説明した。「盗賊も多いですし、魔獣も出現します」
「どのくらいの頻度で?」
「週に2〜3回は何かしらの事件があります。まあ、大抵は小規模ですが」
クラルは護衛の配置と戦術について確認した。彼の冒険者としての経験と知識が、ここで活かされることになる。
「私は前衛を担当します」
「助かります。実は、重装備の前衛が不足していたんです」
獣砕きを見て重装備と判断されたのは意外だったが、クラルは訂正しなかった。実際の戦闘能力で証明すれば良いことだった。
出発から3日目、最初の戦闘が発生した。
「魔獣です!オーガが3体!」
見張りをしていた弓使いが警告した。確かに、街道の先に大型の魔獣が現れている。
「迎撃します」
クラルは獣砕きを構えて前進した。久しぶりの実戦に、心が躍った。
オーガは体高3メートルの大型魔獣で、怪力と頑丈さが特徴だった。通常なら3体同時の相手は困難だが、クラルには余裕があった。
「久しぶりだな」
彼は一体目のオーガに接近し、獣砕きを振り上げた。長期休暇により身体は鈍っているかもしれないが、技術と経験は健在だった。
獣砕きがオーガの膝を直撃し、魔獣は苦痛の咆哮を上げた。続いて二撃目、三撃目と連続攻撃を加える。
「すごい...」
他の護衛たちは、クラルの戦闘能力に驚愕していた。一人で3体のオーガを相手にして、圧倒的に優勢を保っている。
15分後、すべてのオーガが倒れた。クラルは軽く息を整えながら、獣砕きを腰に戻した。
「お疲れ様でした」ガルシアが感謝の言葉を述べた。「さすがAランクですね」
「運が良かっただけです」
クラルは謙遜したが、内心では手応えを感じていた。休暇中に衰えた部分もあるが、基本的な戦闘能力は維持されている。
最初の戦闘を終えたクラルは、この選択が正しかったことを確信した。
完全な休息から段階的な復帰へ。村長からの逃避と仕事への復帰の両立。すべてが理想的な形で進んでいる。
「4ヶ月の放浪で、本当の意味で復活できるかもしれない」
彼は前方に続く街道を見つめた。王都での匿名生活とは異なる、新しい冒険の始まりだった。
商隊は整然と隊列を組み、南の大都市に向けて歩みを続けている。クラルもその一員として、新たな経験を積んでいくことになる。
村を出た時の不安とは違い、今回は明確な目標と十分な準備がある。そして何より、自分の選択に対する確信があった。
「長い旅になるが、きっと有意義なものになるだろう」
クラルは心の中で呟きながら、隊列の先頭を歩き続けた。
クラルが王都を出発してから一週間が経過していたが、バルドス村長をはじめとする村民たちの捜索は難航していた。
「また見つからなかった」
商業区を担当していた村民の一人が、疲れた表情で報告した。「あの屋台の主人は確かに『フードを被った若い子』を見たと言っていたが、最近は姿を見せないそうだ」
「貴族街の方はどうだった?」バルドスが尋ねた。
「こちらも同じです」別の村民が答えた。「茶房の店員は覚えていましたが、もう数日前から来ていないとのことです」
職人街を担当した村民も同様の報告をした。楽器職人の工房でクラルらしき人物の目撃情報はあったが、それも数日前の話だった。
「まるで蒸発してしまったみたいだ」
バルドスは眉をひそめた。これまでの聞き込み調査で、クラルが確実に王都にいることは分かっていた。しかし、ここ数日は全く手がかりが得られない状況が続いていた。
長期間の滞在により、村民たちの疲労は限界に達していた。
「村長、いつまでここにいるつもりですか?」
中年の男性村民が不安そうに尋ねた。「家の仕事も心配ですし、費用もかさんでいます」
確かに、王都での滞在費は村民たちにとって大きな負担だった。宿代、食費、交通費。日を追うごとに出費が増加している。
「それに、本当にクラルが見つかるのでしょうか?」
若い女性村民も疑問を口にした。「もしかして、もう王都にはいないのかもしれません」
バルドスは答えに窮していた。確かに、最近の目撃情報が途絶えていることを考えると、クラルが王都を離れた可能性も否定できない。
「もう少し探してみよう」
バルドスは村民たちを説得しようとしたが、その声には以前のような確信が感じられなかった。
「そうだ、ギルドに行ってみよう」
行き詰まった状況を打開するため、バルドスは新たなアイデアを思いついた。「もしクラルが冒険者として活動しているなら、ギルドに何らかの記録があるはずだ」
村民たちも、この提案に希望を見出した。これまで街中を探し回っていたが、ギルドという公的機関なら確実な情報を得られるかもしれない。
「それは良い考えですね」
「ギルドなら、冒険者の動向を把握しているでしょう」
一行は揃ってギルドに向かった。冒険者ギルド「五戒の剣」の立派な建物を前に、バルドスは意を決して中に入った。
「すまない、少し聞きたいことがある」
バルドスは受付嬢のマリアに声をかけた。
「はい、何でしょうか?」
マリアは丁寧に応対したが、見慣れない農民風の一行に少し戸惑っていた。
「クラル・ヴァイスという冒険者について教えてもらいたい」
「クラルさんですか」マリアの表情が微妙に変わった。「どのようなご関係でしょうか?」
「私は彼の故郷の村長だ。村の事情で、どうしても会わなければならない」
バルドスは事情を簡潔に説明した。農業指導者としてのクラルの重要性、村の窮状、帰村の必要性。
「そうでしたか...」
マリアは同情的な表情を見せたが、すぐに困った顔になった。
「申し訳ございませんが、冒険者の個人情報をお教えすることはできません」
「しかし、村の存続がかかっているんだ」
「お気持ちは分かりますが、規則ですので...」
交渉は平行線を辿った。バルドスは必死に説得を試みたが、マリアは頑として個人情報の開示を拒んだ。
しかし、バルドスが諦めかけた時、マリアが思わず口を滑らせた。
「それに、クラルさんは現在長期依頼で王都にいらっしゃいませんし...」
「長期依頼?」
バルドスの目が光った。これは重要な情報だった。
「あ...」マリアは自分の失言に気づいたが、既に遅かった。
「どのくらいの期間なんだ?」
「それは...申し上げられません」
「頼む、村の未来がかかっているんだ」
バルドスの切実な訴えに、マリアは心を動かされた。規則違反になることは分かっていたが、村民たちの困窮した様子を見ていると、完全に拒絶することもできなかった。
「...4ヶ月程度の予定です」
「4ヶ月...」
バルドスは愕然とした。4ヶ月といえば、一つの季節が丸ごと過ぎてしまう期間だった。村はまた長い期間農業指導者なしで乗り切らなければならない。
「そんなに長く...」
村民たちも顔を青くしていた。彼らが王都に滞在できる期間と費用を考えると、4ヶ月も待つことは不可能だった。
「村長、どうしましょう」
「4ヶ月も待てません」
「家の仕事もありますし...」
村民たちの不安の声が、バルドスの耳に痛く響いた。
「しかも、4ヶ月後に確実に戻ってくるという保証もない」
これが最も深刻な問題だった。クラルが長期依頼を終えても、再び別の依頼に向かう可能性がある。最悪の場合、永続的に村に戻らないことも考えられた。
ギルドを出たバルドス一行は、宿屋で緊急会議を開いた。
「正直に言おう」バルドスが重い口調で切り出した。「このまま王都に留まっても、クラルを見つけられる可能性は低い」
村民たちは黙って聞いていた。誰もが同じことを考えていたからだ。
「費用も限界に近づいている。これ以上の滞在は、村の財政を圧迫する」
「それに、村の方も心配です」
一人の村民が発言した。「我々がいない間、田畑の管理はどうなっているでしょうか」
「確かに、今は大事な時期だ」
春の種まきシーズンが近づいており、農作業の重要な時期だった。指導者であるクラルがいない上に、他の村民まで王都にいては、村の農業が完全に停滞してしまう。
「決断しよう」
バルドスは深いため息をついた。「一旦村に戻る。そして、頃合いを見計らって再び来ることにする」
翌日、村民たちは帰村の準備を始めた。
「本当に諦めるのですか?」
最年少の村民が確認した。
「諦めるわけではない」バルドスが答えた。「戦術的撤退だ。今は時期が悪い」
「いつ頃また来る予定ですか?」
「クラルの長期依頼が終わる頃を見計らって...つまり、4ヶ月後だ」
4ヶ月後なら、クラルが王都に戻っている可能性が高い。その時に再び交渉を試みることにした。
「でも、また長期依頼に出てしまったら?」
「その時はその時だ」
バルドスの答えは投げやりだったが、現実的な選択肢が他になかった。
帰村前に、バルドスは最後に風見鶏を訪れることにした。
「また来てしまいました」
ヴェラが応対に出ると、バルドスは少し恥ずかしそうに挨拶した。
「村長さん、お疲れ様です」
「実は、クラルが長期依頼に出ていることを知りました」
「そうでしたか...」
ヴェラは複雑な表情を見せた。クラルの居場所を知っていれば、もう少し早く村長に伝えることもできたのだが。
「4ヶ月後に、また来させていただきます」
「承知いたしました。その頃には、クラルも戻っているでしょう」
「その時は、よろしくお願いします」
バルドスは深々と頭を下げた。風見鶴の従業員たちも、村長の気持ちを理解しているだけに、何とも言えない気持ちだった。
王都の城門を出る村民たちの表情は、来た時とは大きく異なっていた。
「結局、何も成果がなかった」
「クラルに会うこともできなかった」
「村の問題は何も解決していない」
歩きながら、村民たちは落胆の声を漏らしていた。期待に胸を膨らませて王都にやって来たが、収穫はゼロだった。
「すまない、皆」
バルドスが謝罪した。「私の判断が甘かった」
「いえ、村長のせいではありません」
「でも、やはり無謀だったかもしれませんね」
長い帰路の間、一行はほとんど無言で歩き続けた。
数日後、村に戻った一行は村民集会を開いた。王都での出来事と、今後の方針について話し合うためだった。
「クラルを連れ戻すのは、想像以上に困難だった」
バルドスは正直に報告した。「彼は既に王都で成功しており、村に戻る理由を見つけにくい状況だ」
「それでは、村の農業はどうすれば...」
「当面は、自分たちだけで何とかするしかない」
これが現実的な結論だった。クラルがいない前提で、村の農業を立て直す必要がある。
「4ヶ月後に再び交渉を試みるが、それまでは自立するつもりで頑張ろう」
村民たちは重い気持ちで頷いた。理想的な解決策ではないが、他に選択肢はなかった。
村長たちが諦めて帰村したことで、当面の圧力から解放された。4ヶ月間の猶予を得ることができ、その間に自分の将来について じっくりと考えることができる。
しかし、問題が完全に解決したわけではない。4ヶ月後には再び村長たちがやって来る可能性が高い。その時までに、根本的な解決策を見つける必要があった。
「まずは長期依頼を成功させることだ」
商隊護衛の任務を続けながら、クラルは将来への計画を練り始めていた。村との関係、鍛冶屋としての道、そして自分自身の人生。すべてについて、明確な答えを見つけなければならない。
4ヶ月という時間は長いようで短い。しかし、クラルにとってそれは、人生の重要な決断を下すための貴重な期間となるはずだった。
村長たちが意気消沈して去っていく姿を知ることはなかったが、クラルの心境にも微妙な変化が生まれつつあった。完全に逃げ続けることはできない。いずれは、自分自身の意志で答えを出さなければならない時が来るだろう。
しかし、それは今ではない。今は新たな経験を積み、成長するための時間だった。