「和の国興亡記」 第10話「武田信玄の威厳」
**時期**:グランベルク暦1247年晩秋
序幕 武田の里への道
グランベルク暦千二百四十七年十一月二十日。晩秋の朝の空気は、刃のように冷たく、鋭かった。桜井義信との邂逅から二日が過ぎ、商人クラウド・マーチャントの姿を借りたクラル王は、武田信玄との公式な面会の約束を取り付け、一路、桜半島北部の峻険な山岳地帯を目指していた。
桜京から、ゴトゴトと揺れる粗末な荷馬車に揺られ、二時間。道中の景色は、首都周辺の、まるで手入れの行き届いた庭園のようであった、たおやかな丘陵地帯とは、全くその趣を異にしていた。優美な桜の木々は、次第にその数を減らし、代わって、厳格で、生命力に満ちた松や杉の常緑樹が、切り立った山肌を覆い尽くしていく。
「……なるほど。武田の里とは、これほどまでに見事な軍事的要衝に、築かれていたのか」
クラル王は、絶え間なく移り変わる周囲の地形を、千年の王としての、そして老練な将軍としての、鋭い眼差しで観察していた。どこまでも続く険しい山道と、深い渓谷。それは、平押しに攻め上がろうとする攻撃側にとっては絶望的なまでの地形的ハンディキャップとなるが、逆に、その頂に拠点を構え、守りに徹する側にとっては、まさに天然の要害となるであろう。五十数年前、彼の父である武田信行が、数ある候補地の中から、あえてこの厳しい環境を選び抜いた、その戦略的な思考の深さに、彼は静かな感嘆を覚えていた。
彼が雇った、日焼けした顔に人の良さそうな笑みを浮かべる地元の農民の御者も、この「武田の里」について、興味深いことを語った。「武田の殿様の里ですか? へえ、あそこは、そりゃあ厳しいところでさあ。わしらみてえな怠け者は、一日だってもちませんだよ。じゃが、そこに住まう人たちは、皆、驚くほど規律正しくて、筋の通った、良い人たちばかりでさあ。……ただ、ただ、一つだけ……近頃は、里の若い衆が、息が詰まるとかなんとか言って、都会の桜京に出て行ってしまうことが、多くなったって、聞きまさあね……」
第一場 要塞のような武田邸
やがて、険しい山道の終着点に、忽然と一つの集落が現れた。武田の里。その中心に、周囲の、自然のままの山々とはあまりにも対照的な、人の意志と計算によって完璧に築き上げられた、一つの巨大な建築物が、圧倒的な威圧感を放って聳え立っていた。それが、武田信玄の居城、「武田邸」であった。
その建築物は、もはや「住居」という、穏やかな言葉で形容することは、到底不可能であった。それは、紛れもなく「要塞」であった。高さ五メートルはあろうかという、見上げるばかりの頑-丈な石垣が、屋敷の全周を鉄壁のごとく囲み、その正面には、重厚で威圧的な櫓門が、侵入者を拒むかのように、どっしりと構えている。その奥には、日本の戦国時代の城郭を模した、三層の天守閣を持つ主屋が鎮座し、その周囲には、武器庫、兵舎、そして広大な稽古場が、極めて機能的に、そして整然と配置されている。さらには、建物の周囲を、深く、そして幅の広い空堀が巡らされており、まさに、いついかなる敵襲があろうとも、即座に籠城戦へと移行できる、完璧な臨戦態勢が整えられていた。
その威圧的な櫓門の前には、全身を赤い甲冑で固めた二名の武士が、まるで仁王像のように、微動だにせず立ち尽くしている。彼らの、常在戦場の緊張感を湛えたその鋭い眼光は、一般的な邸宅の門番とは、全く比較にならないほど、厳しいものであった。
「何用にて、参られたか」
その、腹の底から絞り出すような、低く、そして重い声。その言葉を浴びせかけられただけで、平凡な商人ならば、震え上がって逃げ出していたかもしれない。
「これは、ご苦労様です。私は、グランベルク王国より参りました、クラウド・マーチャントと申します。こちらの御屋形、武田信玄様に、お目通りを願いたく、罷り越しました」
クラル王は、あくまでも一介の商人としての、腰の低い、しかし堂々とした態度で、事前に取り付けた面会の約-束について、丁-寧に説明した。
武田邸への入邸を許されるまでの手続きは、クラルの想像を遥かに超えて、厳格を極めていた。まるで、敵国の、最重要軍事拠点へと足を踏み入れるかのようであった。まず、身分証明書の、虫眼鏡を使ったかのような詳細な検査。次に、所持品の一つ一つに至るまで、武器の有無を確認する、徹底的な身体検査。そして、邸内では、専任の案内役の武士が、影のようにつき従い、指定された場所以外への、ほんの僅かな立ち入りさえも、固く禁じられた。この、過剰とも思える手続きの数々からも、この城の主、武田信玄の、病的なまでの警戒心の強さと、全てを軍事的な合理性で判断する、その思考の癖が、手に取るように感じ取れた。
第二場 武田家の家族関係の観察
案内された、飾り気のない、しかし塵一つないほどに清潔な控えの間で、クラル王は、この家の主の登場を待つ間、信玄の二人の息子と、顔を合わせる機会を得た。
長男の名は、武田勝頼。三十五歳。その筋骨隆々たる体-軀は、まさしく父の血を色濃く受け継いでいる。その立ち居振る舞いは、実直で、後継者としての強い責任感が滲み出ていた。しかし、その表情には、常に何か、重いものに押し潰されそうになっているかのような、深い疲労の色が、影のように宿っていた。
次男は、武田信勝。三十二歳。兄とは対照的に、やや細身で、その切れ長の瞳には、冷静な知性の光が宿っている。彼には、前線で猛々しく戦う猛将というよりも、父の傍らで盤面全体を見渡し、的確な助言を行う、軍師としての風格が漂っていた。そしてクラルは、彼の、時折見せる、父に対する敬意と、そしてどこか反発が入り混じったような、複雑な視線を見逃さなかった。
「父は、現在、朝の鍛錬の、最後の追い込みに入っております。今しばらく、お待ちください」
勝頼の言葉は、どこまでも丁-寧であった。だが、彼のその声の奥に、偉大すぎる父を持つ者だけが抱える、言葉にはできぬ、重い、重いプレッシャーを感じ取るのは、クラルにとって、たやすいことであった。短い、当たり障りのない会話の応酬の中、クラルは、この武田家という、特殊な家族の、複雑な力学を、瞬時に読み解いていた。息子たちは、その父を、神の如く、深く尊敬している。だが、同時に、そのあまりの偉大さが、彼らの上に、絶えず重くのしかかっているのだ。
「……父上は、我々息子たちにとって……偉大すぎる、存在なのです」。ぽつりと、信勝が漏らしたその一言に、この家族が抱える、全ての複雑さが、凝縮されていた。「尊敬しているからこそ、その期待に応えられぬ自分に絶望し、そして時として、その存在そのものが、あまりにも重い、荷であるとさえ……感じてしまうのです」
第三場 武田信玄の日課と、その人物像
午前八時。ようやく、この城の主、武田信玄が、稽古場から戻ってきた。六十二歳という年齢など、ただの数字に過ぎぬと嘲笑うかのような、精悍で引き締まった体-軀。全身から湯気を立て、汗で濡れ光るその古風な道着。そして、何よりも、見る者を射竦めるような、鋭く、そして深い、その眼光。彼の姿は、まさしく、古の物語の中から抜け出してきたかのような、「生きた武士」そのものであった。
「……お待たせいたした」
その声は、低く、威厳に満ちていた。しかし、彼は、わざわざ辺境の地まで足を運んだ一介の商人に対する、客人としての礼儀を、完璧なまでにわきまえていた。
稽古を終え、身支度を整えた信玄は、休む間もなく、政務へと取り掛かった。クラルが垣間見た、その執務の内容は、彼の思考が、その全てにおいて、軍事的、そして戦略的な思考に基づいていることを、如実に示していた。近隣諸国の軍事動向を分析した密偵からの報告書の確認。大和国の国境防衛計画の、ミリ単位での見直し。そして、侍の騎士団に所属する、全ての隊士のための、来月の詳細な訓練プログラムの策定。彼の頭の中にあるのは、常に、国防と、軍事と、そして来るべき戦への備え、ただそれだけであった。
やがて、昼食の膳が運ばれてきた。それは、豪華さとは全く無縁の、質素極まるものであった。だが、玄米、味噌汁、焼き魚、そして野菜の煮物というその献立は、戦う男の肉体を作り、維持するために、栄養学的に、完璧なまでに計算され尽くした、武士の食事、そのものであった。
午後になり、ついに、信玄との正式な面会が始まった。通されたのは、武田邸の最も奥に位置する、奥座敷。その床の間には、信玄自身の筆によるものであろうか、「風林火山」と書かれた、力強い掛け軸が飾られている。
「……遥々、グランベルク王国からお越しの、商人殿と伺っておる」
信玄の第一声は、一切の無駄を削ぎ落とした、簡潔なものであった。
会話が進むうちに、彼の、まるで盤石のごとき、確固たる信念の強さが、明らかになっていった。
「……商人殿は、血筋というものを、どのようにお考えかな」
あまりにも唐突な、しかし、これこそが彼の最大の関心事であることを示す、核心的な質問であった。
クラルは、慎重に、しかし淀みなく答えた。「血筋というものは、確かに、その者の持つ素質を示す上で、重要な指標の一つでありましょう。しかし、それだけでは、決して十分とは言えない、と私は考えます。なぜなら、その天与の素質を、活かすも殺すも、結局は、本人のその後の努力と、そして何よりも、その人間性にかかっているのですから」
彼のその、単純な肯定でも否定でもない答えに、信玄は、深い思索の海へと沈み込んだかのようであった。
だが、クラルは同時に、彼の、新しい考えや、異なる価値観に対する、明確な、そして頑-なまでの拒絶反応もまた、感じ取っていた。「近頃の若い者は、いかん。あまりにも、伝統というものを、軽んじる傾向がある。父祖が、その血と汗で築き上げてこられた、尊き教えを守ることこそが、真の意味での、進歩であるということを、まるで理解しておらん」。この、あまりの頑固さが、あの深刻な世代間対立の、最大の原因となっていることは、火を見るよりも明らかであった。
そして、その頑なさの根底にある、彼の、過剰なまでの責任感。「わしが、このわしが、少しでも気を緩めれば、この国は、たちまち滅びるであろう。父上の、あの最後の遺志を、この信玄の代で継ぐことができねば、地下に眠るご先祖様に、合わせる顔がないわ……」。その、あまりにも重い重圧が、彼をがんじがらめに縛り付け、時代の変化から、目を背けさせているのであろう。
第五場 過去の重荷と、部下たちの本音</h4>
会話が深まるにつれ、信玄の心の奥底に横たわる、父・信行への、複雑で、そして愛憎半ばする想いが、徐々にその輪郭を現してきた。「父上は……あまりにも、立派すぎるお方でございました。このわしなどは、父上の、その足元にも、到底、及びませぬ」。その言葉は、深い尊敬の念であると同時に、決して超えることのできない巨大な壁への、絶望の念をも、含んでいた。
彼は、ぽつりと、自らの過去の、決して消えることのない、深い心の傷について語り始めた。二十歳の時、彼は、現地桜族との外交交渉で、若さ故の血気にはやり、致命的な失態を犯し、結果として、多くの犠牲者を出す、武力衝突を招いてしまったのだという。その責任を、父・信行は、全て自らが被り、たった一人で、敵地へと赴き、その頭を下げた。「……あの時の、父上の、あまりにも小さく見えた、あの背中を見て、わしは、己の未熟さと、愚かさを、骨の髄まで、痛感いたしました。それ以来、二度と、二度と父上に、恥をかかせるようなことだけはすまいと、固く、固く、心に誓ったのでございます」
この、若い頃の痛烈な挫折の体験こそが、彼の、今の頑ななまでの使命感の、源泉となっていたのだ。「父の遺志を、一言一句違えることなく継ぐこと。それこそが、この国を、そして日本人の魂を守ることであると、固く、信じております。わしが、少しでも揺らげば、父上が、その生涯をかけて築き上げてこられた、この全てが、砂の城のように、崩れ去ってしまう……」
その日の夕方、信玄が、しばし席を外した時のことであった。信玄の最も古参の部下であり、彼の傅役でもあった、老将・高坂弾正が、まるで誰にともなく呟くかのように、クラルに、その複雑な本音を漏らした。「……殿の、お気持ちは、この弾正、痛いほどに、分かりまする。じゃが、しかし……時代は、我らが若かりし頃とは、大きく、そして様変わりしてしまいました。今の若い者たちは、我らとは全く異なる、もっと柔軟な、新しい考えを持っております。殿も、もう少しだけ……ほんの、もう少しだけで良いのです。時代のその変化を、受け入れてくださればと……この老臣は、そう願って、止まないのでございますが……」
そして、彼の息子たち、勝頼と信勝の、苦悩は、さらに深いものであった。「父上は……ご自分を、あまりにも犠牲にしすぎておられます」。長男、勝頼が、声を殺して言った。「そのあまりの偉大さが、かえって、我々、残された者たちを、深く、そして静かに、苦しめることも……あるのでございます」
終幕 威厳の裏の孤独
夕暮れ時、濃密で、そして心の疲れる一日であった面会を終え、クラルは、静かに武田邸を後にした。振り返ると、遥か遠く、黄昏の赤い光の中に、たった一人、誰もいない広大な稽古場で、まるで何かに取り憑かれたかのように、黙々と、剣の素振りを繰り返す、武田信玄の、小さな、小さな姿が見えた。その、遠くからでも分かる、孤高の威厳に満ちた姿。だが、同時に、彼のその背中は、この世の全ての重荷を、たった一人で背負い込んでいるかのような、深い、深い孤独の色に、染まっていた。
この一日の、注意深い観察を通じて、クラルは、武田信玄という、複雑で、そして悲しい男の、真の姿を、完全に理解した。彼は、紛れもなく、確固たる信念を持ち、部下を深く愛し、そして誰よりも国を思う、立派な武士である。だが、同時に、彼は、あまりにも重い過去の呪縛と、自らに課した過剰な責任感に、その魂を縛り付けられ、時代の大きな変化の流れから、完全に取り残されようとしている、孤独な男でもあった。
彼の問題は、その人格にあるのではない。彼の魂を、過去に縛り付けている、その「呪縛」にあるのだ。その呪縛さえ、解き放つことができたなら……。
山道を、桜京へと下りながら、クラルは静かに、思索を巡らせていた。桜井義信と、武田信玄。光と影、理想と伝統。この、あまりにも対照的な二人の指導者。そして、明日には、いよいよ、あの、最も謎に包まれた、三人目の男、影山無名との、本格的な対話が、待っている。
夕陽が、ゆっくりと、西の山稜へと沈んでいく。クラルは、この大和国という国家が秘める、計り知れないほどの複雑さと、そして無限の可能性を、改めて、その身に感じていた。
**次回予告**:
大和国の影を支配する男、影山無名。表向きは成功した商人だが、その正体は大陸最大級の諜報組織の頭領だった。商人同士の会談という形で始まった、クラル王と影山無名の知的ゲーム。互いに相手の正体を探り合いながら、次第に相互理解が深まっていく。しかし、そこに重大な事件の影が忍び寄る...