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「和の国興亡記」 第9話「桜井義信との邂逅」

**時期**:グランベルク暦1247年晩秋

序幕 秋雨の桜京


田中源蔵翁との、未来を予感させる会談から三日が過ぎた。桜京の空は、重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、やがて冷たい秋雨が、しとしとと街を濡らし始めた。グランベルク暦千二百四十七年十一月十八日の午後であった。


商人クラウド・マーチャントとしての仮面を被ったクラル王は、その静かな雨の中を、あえて傘も差さずに、桜京の文教地区と呼ばれる一角を散策していた。この地区には、この国の未来を担う子供たちが学ぶ学校や、古今東西の知識が収められた図書館、そして若き芸術家たちが集う工房などが点在し、大和国が誇るべき、文化的、知的な中心地としての役割を果たしていた。


濡れた石畳の道は、まるで黒曜石のようにしっとりとした輝きを放ち、沿道に続く桜並木の、すっかり葉を落とした裸の枝からは、雨粒が無数の銀の涙となって、静かに滴り落ちている。季節は、栄華を極めた秋がその終わりを告げ、全てが静寂と眠りにつく、冬へと向かう晩秋。春の華やかさはないが、そこには、物事の本質が剥き出しになる、厳しい美しさと、心落ち着く風情があった。


やがて、雨脚がにわかに強くなってきた。クラル王は、これ以上の散策は難しいと判断し、近くの茶屋で、しばしこの気まぐれな雨が過ぎ去るのを待つことにした。ふと見上げると、軒先に掲げられた、古びた木の看板に、墨痕鮮やかな「花月庵」という、風雅な屋号が目に留まった。


第一場 茶屋「花月庵」の佇まい


花月庵は、まるで桜並木の森の中に、ひっそりと隠れ棲むかのように、静かに佇んでいた。その建物は、日本の伝統的な数寄屋造りの様式美を、細部に至るまで忠実に再現した、小ぢんまりとしながらも、洗練された意匠の結晶であった。手入れの行き届いた小さな前庭には、苔むした石灯籠と、清らかな水が絶えず注がれる手水鉢が設えられ、雨に濡れた青々とした苔が、周囲の灰色がかった景色の中で、ひときわ鮮やかな生命の緑色を放っていた。


「花月庵」と染め抜かれた藍色の暖簾をくぐると、そこには、外の喧騒とは完全に隔絶された、い草の香りが心地よい、静謐な和の空間が広がっていた。客席は、それぞれが異なる意匠の簾でゆるやかに仕切られた、八つの小上がりに分かれており、客は他人の目を気にすることなく、自分だけの時間を心ゆくまで堪能できるよう、配慮されている。


「おや、いらっしゃいませ。これはまた、ひどい雨になりましたな。雨宿りでございますか?」


彼を迎えたのは、白髪交じりの髪を綺麗に結い上げた、品の良い初老の男性であった。この茶屋の主人、慈円。齢六十五、二世。かつては、この国の高名な寺院で徳を積んだ僧侶であったが、二十年前に還俗し、以来、この茶屋を一人で静かに営んでいるという。その穏やかな物腰と、澄み切った瞳には、俗世を離れていた者だけが持つ、独特の品格が、今なお色濃く残っていた。


「申し訳ございません。急な雨に降られまして、少々困っておりました」

「何の、お気になさいますな。ささ、どうぞこちらへ。熱いお茶でも、お持ちいたしましょう」


慈円の応対は、どこまでも自然で、温かく、そして商売人特有の、押し付けがましさが微塵も感じられなかった。

花月庵の内装は、無駄な装飾を一切排した、簡素で、それでいて極めて洗練された美意識に貫かれていた。壁際の床の間には、一輪の白菊が活けられた古備前の徳利と、禅の真髄を一行で示したかのような、力強い筆致の掛け軸が飾られている。客席の隅に置かれた、年代物の茶道具や、いくつかの古書。そして、店内にかすかに漂う、高貴な沈香の香り。それら全てが、雨音と、軒先で時折ちりんと鳴る風鈴の音と相まって、この空間に、現実世界から切り離されたかのような、深い静寂と安らぎをもたらしていた。ここは、まさしく、この国の知識人や文化人たちが、日々の喧-騒を逃れ、自らの精神と静かに対話するために訪れる、聖域のような場所なのだと、クラルは直感した。


第二場 桜井義信の登場


クラルが、慈円の淹れた、香り高い緑茶を静かに味わっていると、不意に外で、馬の鋭いいななきと、蹄が石畳を打つ硬質な音が聞こえた。続いて、戸口の暖簾が勢いよく翻り、一人の人影が、急ぎ足で店の中へと駆け込んできた。


「ごめんください! 申し訳ないが、しばし、雨宿りをさせていただいても、よろしいかな」


その、涼やかで、知性を感じさせる声の主は、三十代前半と思しき、品のある佇まいの青年であった。中肉中背で、端正に整った顔立ち。雨に濡れた外套を脱ぎ、それを手際よく畳む、その何気ない立ち居振る舞いの端々から、彼が優れた教育を受けて育った、良家の人間であることが窺えた。


「これは、桜井様。このような雨の中、ようこそお越しくださいました」

主の慈円が、深々と、そして心からの敬意を込めて、その青年を出迎えた。

桜井義信。齢三十二。理想に燃える若者たちを束ねる「桜の騎士団」の団長にして、この新生大-和国の、外交と内-政の全てをその双肩に担う、外政内務大臣。それこそが、クラルがこの三日間、街の人々の口から、賞賛と、そして時に憂慮の声と共に、最も多く耳にしてきた、時代の寵児の名であった。


義信は、濡れた外套を慈円に預けながら、店内をさっと見回した。どうやら彼は、他の客から離れた場所で、雨に濡れてしまった重要な書類を広げ、確認したいようであった。


その仕草に気づいたクラルは、ごく自然に、声をかけた。

「お客様、もしよろしければ、私のこの席の、向かい側をお使いになりませんか。幸い、テーブルも広うございますので」

「……! それは、かたじけない。では、お言葉に甘えさせていただきましょう。お邪魔を、お許しください」


義信は、見知らぬ異邦人からの、思いがけない申し出に、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに柔和な笑みを浮かべ、深く、そして丁寧に礼をして、クラルの向かいの席に腰を下ろした。


「貴殿は、遥か遠方からお越しの、商人様とお見受けいたします。このようなひどい雨では、大切な商談にも、さぞかし差し支えることでございましょう」

義信が発した最初の言葉は、極めて自然で、そして相手を緊張させない、温かな親しみやすさに満ちていた。それは、政治家が有権者に対して見せる、計算された愛想笑いなどではなく、彼が本来の人柄として持っている、天性の気品と優しさから、滲み出るものであろうと、クラルは瞬時に感じ取った。


「はい、お見込みの通り、西の大陸、グランベルク王国より参りました。ですが、ご心配には及びません。幸いにも、これまでの商談は、全て順調に進んでおります」

「それは、何よりでございました。この大和国の商人たちは、皆、朴訥ではございますが、実直で誠実な者ばかり。きっと、貴殿にとっても、良いお取引ができるものと、信じております」

義信の言葉の端々には、自らが治める国と、そこに生きる民への、深く、そして揺るぎない誇りと信頼が、込められていた。


第三場 義信の内面的苦悩の吐露


しばらくの間、二人は、雨音を聴きながら、他愛のない世間話を交わしていた。だが、ふいに、義信が、まるで長年、胸の内に溜め込んでいた重い何かを、吐き出すかのように、核心的な質問を、クラルに投げかけた。


「……率直にお伺いしたい。貴殿のような、異邦の商人様の目から見て、我が国のこの政治は、一体、どのように映っておられますかな」

クラルは、慎重に言葉を選んで答えた。「建国からまだ間もない、若い国家であるということを考えれば、驚くほど、安定しているように見受けられます。しかし……その一方で、民衆の皆さんの間には、何か、言葉にできぬ漠然とした不安が、漂っているようにも、感じますが」


「……やはり、貴殿にも、お分かりになりましたか」

義信は、まるで自分の弱さを見透かされたかのように、深いため息をついた。

「……実を申せば、この私自身もまた、今、深い迷いの霧の中で、道を見失いかけているのです」


彼は、雨に煙る窓の外を見つめながら、その苦しい胸の内を、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。

「私が政治の場で目指しているのは、ただ一つ、『和の心』に基づいた、調和に満ちた国家の実現です。しかし、その『真の和の心』とは、一体何なのか……近頃の私は、それが分からなくなってしまった。ただ、無用な対立を避けることだけが、『和』なのでしょうか。それとも、互いに全く異なる意見を、時間をかけて、一つのより高次な結論へと昇華させていくことこそが、真の『和』なのでしょうか。血統の純粋性を守るべきだと主張する方々。いや、それよりも個人の能力を重視すべきだと訴える方々。私は、その両者の間で、まるで板挟みになっている。どちらの言い分にも、それぞれに、揺るがしがたい一理があるからです……」


義信の声には、理想と現実の狭間で、もがき苦しむ、若い指導者の、深い、深い迷いが、滲んでいた。


「私の祖父は、桜井良太という、一介の教育者でした。祖父は、この異郷の地で、かつて失われた、理想の日本を再現することを、生涯の夢としておりました。美しく、争いもなく、調和に満ちた、誰もが、その出自に関わらず、等しく幸せに暮らせる国……。私もまた、その祖父の美しい理想に、強く心を焦がして、この政治の世界へと足を踏み入れたのです。しかし、現実の政治というものは、祖父が語ってくれた理想とは、あまりにも、かけ離れておりました……」

彼は、悔しげに、膝の上の拳を、強く握りしめた。「予算の配分、人事の調整、他国との外交交渉……その全てが、剥き出しの利害と、欲望と、嫉妬の、醜い衝突の連続です。祖父の理想を実現しようとすればするほど、私は、この冷たい現実の壁に、何度も、何度も、打ちのめされる。私は……祖父の、そして、この国を築き上げてきた、全ての先人たちの、尊い期待を、裏切り続けているのではないでしょうか……」


そして、彼は、まるで罪を告白するかのように、その声を潜め、自らの最も深刻で、そして個人的な悩みを、クラルに打ち明けた。

「……実は、クラウド殿。私は、純粋な、日本人の血を、引いておりません。私の母は、この土地の、現地桜族の出身なのです。私の体には、日本人の血は、その半分しか、流れておりません」

その時の、義信の表情に浮かんだ、深い、深い苦悩の色を、クラルは生涯忘れることはないだろう。

「我が国の重鎮、武田信玄殿は、公の場で、こう仰います。『日本の血を引かぬ者に、真の日本の心など、到底分かるはずがない』、と。民衆の多くは、有り難いことに、今のところ、私を支持してくださっております。しかし、それは、ただの、私の境遇に対する、憐れみや同情によるものでは、ないのでしょうか。純粋なる日本人の血を、その身に持たぬ、この私に、本当に、この大和国を、未来へと導いていく、真の資格が、あるのでしょうか……」

その言葉は、もはや単なる悩みなどではない。それは、彼の魂の、最も深い場所からの、悲痛な叫びであった。


第四場 クラル王の深い観察


その、あまりにも純粋で、そしてあまりにも痛々しい、若き指導者の魂の告白を聞きながら、クラルの心は、深い感銘と、そして憐憫の情に、静かに揺さぶられていた。この青年は、確かに、未熟で、青臭い理想主義者かもしれぬ。しかし、彼は、その理想に誠実であろうと、血の滲むような努力を続け、そして、現実から目を背けることなく、その複雑さと醜さを、真正面から受け止めようとしている。


「……義信様。私が思いますに、人の価値を決めるものは、その身を流れる血の色などではございません。その胸に宿る、心の在り方、そのものでございましょう」

クラルは、あくまでも一介の商人を装いながら、しかし、千年の王としての、全ての経験と叡智を込めて、そう答えた。

「あなた様のお話を、こうして伺っておりますと、私のような異邦人にさえ、あなた様が、誰よりも深く、そして真摯に、この国の心、『和の心』というものを、理解しておられることが、痛いほどに、伝わってまいります」


クラルの、静かで、しかし確信に満ちたその言葉に、義信の瞳に、一縷の、か細い希望の光が宿った。


だが、クラルは、彼の弱点をも、正確に見抜いていた。その純粋さ故の、自信の無さ。そして、全てを完璧にこなそうとする、若さ故の、完璧主義。それらが、彼の、指導者としての、大胆な決断を、鈍らせているのだ。

「……義信様は、もしかすると、完璧な、たった一つの『正解』を、求めすぎておられるのかもしれません。政治の世界において、全ての人間が、百パーセント満足するような、完璧な解決策など、どこにも存在はしないのです。為政者にとって最も重要なのは、完璧な解を求めて立ち止まることではなく、その時点で、最も多くの人々が、より幸せになれると信じる道を、勇気を持って、選択することではございませんか」


クラルの言葉は、まるで光の矢のように、義信の心の、最も深い迷いの部分を、正確に射抜いた。


この若者には、間違いなく、優れた指導者となるための、全ての素質が、備わっている。必要なのは、自らの弱さと向き合う勇気と、そして、それを乗り越えさせるための、適切な指導者との、出会いであった。クラルは、その指導者の役割を、自分が果たすべきなのではないかと、静かに、そして強く、感じ始めていた。


第五場 相互理解の深まりと決意


いつの間にか、あれほど激しく降り注いでいた雨は、完全に上がっていた。西の空の雲間から、まるで舞台照明のように、一筋の夕陽の光が差し込み、茶屋の窓辺に座る、義信の苦悩に満ちた横顔を、神々しいほどに、美しく照らし出していた。


「……クラウド殿、今日は、本当に、ありがとうございました」

義信は、まるで憑き物が落ちたかのような、晴れやかな表情で立ち上がりながら、言った。

「貴殿と、こうしてお話しさせていただいて、私は、多くのことを、学ばせていただいたように思います。そして何より、一人ではないのだと、そう思える、勇気をいただきました」

彼は、深く、そして心からの感謝を込めて、クラルに頭を下げた。


義信が、希望に満ちた足取りで去った後、主の慈円が、静かにクラルの傍らにやってきて、こう囁いた。「お客様……桜井様が、あのように、晴れやかで、力強い表情をなされるのを、拝見したのは、本当に、久しぶりのことでございます。きっと、あなた様とのお話で、心の重荷が、少し、軽くなったのでございましょうな」


夕暮れ時、クラルは、すっかり雨の上がった花月庵を後にした。桜並木の道を、自らの宿へと歩きながら、彼は、今日の、この偶然の出会いが持つ、大きな意味を、改めて噛みしめていた。桜井義信。あの、純粋で、そして傷つきやすい、若き理想主義者。彼なら、必ず、この国を、より良い方向へと導いていける、立派な指導者になれるだろう。

クラルは、そう確信していた。


明日は、あの、揺るぎない伝統の体現者、武田信玄との面会が、予定されている。そして、その背後では、あの、底の知れない忍びの頭領、影山無名が、静かに、そして鋭く、自分の一挙手一投足を、監視し続けている。

この三者三様の、そしてあまりにも魅力的な指導者たちとの対話を通じて、この大和国という、複雑で、そして美しい国の、真の姿が、やがて明らかになっていくのだろう。


夕陽が、桜京の街並みを、燃えるような茜色に染め上げていく。クラルの心には、この国への、そして、そこで懸命に生きる人々への、深い、そして抗いがたいほどの愛情が、芽生え始めていた。

**次回予告**:

武田信玄の居住する「武田の里」を訪れることになったクラル王。厳格な武士道精神に生きる武田信玄は、商人クラウド・マーチャントをどのように迎えるのか?血統論と伝統主義の背後にある、武田の深い苦悩と父への想いが明らかになる。そして、ついに決定的な出来事が起こる。

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