「和の国興亡記」 第8話「商人クラウドの潜入」
**時期**:グランベルク暦1247年晩秋
序幕 桜半島への到着
グランベルク暦千二百四十七年十一月十五日。乾いた秋風が、大陸の東端に広がる平原を吹き抜ける日。二ヶ月という、決して短くはない旅路の果てに、一台の、何の変哲もない幌馬車が、ついに新生国家・大和国の、桜半島国境検問所へと到着した。その御者台に座るのは、クラウド・マーチャントと名乗る、一人の商人であった。
検問所は、現地の木材で組まれた、簡素ながらも堅牢な造りであった。しかし、その素朴な外観とは裏腹に、そこから放たれる警戒の空気は、張り詰めた弦のように鋭かった。大和国の治安維持を担う、侍の騎士団に所属するであろう、二名の若き武士が、入国を希望する者たち一人ひとりの身元を、厳しく、そして丁寧な所作で確認している。
「商人殿、しばしお待ちを。身分を証明するものを、お見せ願いたい」
まだあどけなさの残る、若い方の武士が、礼儀正しく、しかしその双眸には相手の心の奥底までを見透かそうとするかのような、鋭い光を宿して、声をかけてきた。
「はい、承知いたしました。こちらが、私の身分証明書でございます」
クラル王は、「商人クラウド・マーチャント」として、この日のために完璧に準備してきた書類一式を、落ち着き払った態度で提示した。彼がこの二ヶ月間で作り上げた偽りの人格は、もはや第二の皮膚と化していた。
その偽装は、完璧という言葉ですら生温いほど、精緻を極めていた。神王としての特徴である、夜の闇よりも深い黒髪は、より一般的な、艶のある黒へと染め直し、特殊な薬草から作った軟膏で、その肌を、長旅を続けてきた商人らしい、自然な小麦色へと変えている。引き締まった体軀には、腹部に巧妙なクッションを仕込むことで、中年商人特有の、貫禄のある小太り体型を演出。身に纏うのは、上質だが決して華美ではない、実用本位の旅装束。そして、腰に差した革袋や、手にした帳簿といった小道具の一つ一つに至るまで、彼が「グランベル-ク王都出身、四十五歳、独身の香辛料商人」であるという物語を、雄弁に裏付けていた。
彼が提示した、グランベルク商人組合発行の身分証明書は、影山無名の組織ですら見破ることのできぬであろう、完璧な偽造品であった。そして、荷馬車の幌の中には、本物の、そして極めて高価な商品が、びっしりと積載されている。サフラン、シナモン、クローブといった最高級の香辛料。グランベルク王国でしか産出されぬ、光沢も鮮やかな絹織物。そして、名工の手による、見事な陶器や木彫品。さらには、過去三年間にわたる、全ての取引が詳細に記録された商業帳簿(これもまた、完璧な偽造ではあったが)までもが、用意されていた。
若い武士は、その書類と商品を、同僚と共に、極めて入念に、しかし手際よく確認した後、深く頷き、敬礼と共に、入国を許可した。
「ようこそ、大和国へ。商人殿の商いが、実り多きものとなりますよう、心よりお祈り申し上げる」
第一場 桜京の第一印象
国境を越え、緩やかな丘陵地帯を半日ほど進むと、やがて眼下に、壮大にして優美な、一つの都市の全景が広がった。大和国の首都、「桜京」。その、これまで一度も見たことのない、しかしどこか懐かしい、不思議な美しさに、思わず、息を呑んだ。
桜京の最も印象的な特徴。それは、東洋の島国ニッポンの伝統的な木造建築が持つ繊細な美意識と、西洋大陸の石造建築が持つ堅牢で機能的な美学が、まるで最初から一つの生命体であったかのように、奇跡的なまでの調和を保って、そこに存在していることであった。
街のそこかしこに点在する、反り返った屋根が美しい寺院建築は、紛れもなく純粋な日本の様式美を湛えている。しかし、そこに住まう人々が暮らす民家は、日本風の瓦屋根の下に、西洋風の大きなガラス窓が嵌め込まれている。商業地区に立ち並ぶ店舗は、西洋風の重厚な石造りの壁に、日本風の繊細な格子や暖簾が、絶妙なアクセントとして施されている。この街のどの建物も、単なる文化の寄せ集めではない。それらは、二つの異なる美意識が、互いを尊重し、高め合うことによって生まれた、全く新しい、第三の美的調和を、高らかに謳い上げていた。
クラルは、荷馬車を降り、自らの足で、この不思議な都市の息吹を感じることにした。歩きながら、彼は、この国の民の生活を、その鋭い観察眼で注意深く見つめていた。街全体に、驚くほど規律正しい空気が満ちている。人々は皆、勤勉で、その仕事ぶりに一切の妥協が見られない。ゴミ一つ落ちていない街路は、彼らの高い公衆道徳の現れであろう。だが、その完璧な規律の背後に、彼は、どこか張り詰めたような、微かな緊張感が漂っていることも、感じ取っていた。
道を尋ねると、誰もが驚くほど親切に、そして丁寧に教えてくれる。しかし、その親しげな笑顔の奥、瞳の底には、異邦人に対する、一瞬の、しかし確かな警戒心が宿っているのが見て取れた。「近頃は、何かと物騒でございますからな、旦那様も、どうかお気をつけて」「政治のことになりますと……我々のような者が、軽々しく口にできることではございませんで」……。そうした、何気ない言葉の端々から、この美しく、平和に見える社会の水面下で、何らかの深刻な不安と対立が、渦巻いていることが、ひしひしと伝わってきた。
彼は、一軒の食事処に入り、そこで供される料理と、人々の食生活にも、深い興味を覚えた。朝食は、味噌汁と焼き魚、そして白いご飯という、純然たる日本の食卓。だが、昼食になると、人々は、パンとスープ、そして肉の煮込み料理といった、典型的な西洋の食事を摂っている。そして夕食には、再び米を中心とした、日本の食卓へと戻るのだ。一日の中で、彼らの文化的なアイデン-ティティが、かくも自然に、そして劇的に変化する。それは、彼らが、二つの異なる文化の狭間で、懸命に、そして見事に、自らの生き方を見つけ出してきた証であった。
何よりもクラルを驚嘆させたのは、この国の、信じがたいほど高い技術水準であった。街の至る所に設置された、精密で効率的な水車。市場に並べられた、質の高い鉄製品の数々。そして、郊外に広がる、まるで芸術品のように整備された田園地帯。わずか五十数年という、歴史的に見れば瞬きほどの時間で、これほど高度な文明を、無から築き上げたという事実に、クラルは、畏敬にも似た、深い感銘を覚えずにはいられなかった。
第二場 宿屋「桜屋」での滞在
桜京には、豪奢なものから質素なものまで、数多くの宿屋が存在した。その中で、クラルは、あえて「桜屋」という、中級の商人や職人たちが定宿とする、ごく庶民的な宿を選んだ。なぜなら、国家の真の姿を知るためには、宮殿や高級料亭ではなく、市井の人々の、偽りのない生の声が集まる、こうした場所こそが、最もふさわしいと判断したからである。
「へえ、いらっしゃいませ! こりゃまた、ずいぶんと遠いところから、お越しで」
彼を迎えたのは、この宿の女将、田中ゆきという、五十八歳になる女性であった。年齢を感じさせない、きびきびとした動きと、竹を割ったような快活な性格で、この宿を一人で切り盛りしている。その態度は、誰に対しても温かく、親しみやすいものであったが、同時に、客の本質を一瞬で見抜くかのような、鋭い眼力も備えていた。
何気ない世間話の中で、クラルは、この女将が、ただ者ではないことを知る。「あたしの親父ですか? ええ、田中源蔵っていいましてね。今じゃ、この国で一番の年寄り、長老なんて呼ばれちまってますよ」
なんと、彼女は、あの生ける伝説、田中源蔵翁の、実の娘であったのだ。
「近頃の親父は、どうも元気がなくてねえ……。三つの騎士団の旦那たちが、お互いにいがみ合ってばっかりで、国の将来が心配で、夜も眠れないみたいなんですよ」
その表情に、父を深く案じる、娘としての心配の色が浮かんだ。「……っと、いけねえ。お客さんに、こんな小難しい政治の話をしちまうなんてね。商売人にとっちゃあ、誰が国を動かそうが、平和に商売ができるのが一番ですもんねえ!」
その夜から、クラルは、桜屋の食堂を、自らの情報収集の拠点とした。そこには、この国を構成する、あらゆる階層の常連客たちが、入れ替わり立ち替わり訪れては、酒を酌み交わし、日々の鬱憤や希望を、赤裸々に語り合っていた。
「わしら百姓にとっちゃあ、最近の政治のことは、ちいと難しすぎてよう分からん。じゃが、桜米の値段が、ここんとこずっと安定してるのは、ありがたいこった」「血筋がどうだのこうだのって、偉いさんたちは揉めてるらしいが、わしらにとっちゃあ、誰がやってもいいから、ちゃんと食わせてくれる政治をしてくれりゃあ、それでええんじゃがなあ」と、土の匂いのする、実利的な意見を語る、年配の農夫。
「武田様は、確かに筋が通っておられて、立派な武士様じゃと思う。じゃが、ちいとばかり、厳しすぎるのが玉に瑕だな。それに比べて、桜井様は、優しくて、俺たちみてえな下々の者の話も、ちゃんと聞いてくださる。じゃが、あの優しさで、本当にこの国を守っていけるのか、ちいとばかし、心配んなっちまう。影山様は……あの人は、大したお人だ。商売の才覚は、まさに天下一品。じゃが、何を考えているのか、さっぱり分からねえ。あの人の目は、笑っていても、その奥は、まるで氷のようだ」と、職人らしい、率直な人物評を口にする、屈強な鍛冶職人。
「やはり、何と言っても、血筋は大事だと思うんです。我々は日本人なんだから、日本人らしく、誇り高くあるべきでしょう。……とは言え、商売をする上では、現地の桜族の人たちとも、上手くやっていかなきゃならん。この国の政治と、我々の商売は、別物ですよ。ええ、別物ですとも。ですがね……あまり対立が激しくなって、商売に差し障りが出るようなことだけは、勘弁してもらいたいもんですな」と、二世としてのプライドと、商人としての現実主義の狭間で、複雑な心境を吐露する、中年の呉服商人。
第三場 情報収集と分析
そうした、無数の、生の声を丹念に拾い集めていくうちに、クラルは、民衆が、この国を統治する三人の指導者たちに対し、いかに複雑で、一筋縄ではいかない感情を抱いているかを、痛いほどに理解した。
武田信玄に対しては、その揺るぎない信念と、武士としての高潔さへの深い尊敬の念。だが同時に、そのあまりにも厳格で、時代錯誤とも思える血統主義への、反発と畏怖の念。
桜井義信に対しては、その優しさや、身分分け隔てない親しみやすさへの、圧倒的な親愛の情。だが同時に、その若さ故の、美しいだけでは済まされない現実を、本当に見据えているのかという、一抹の不安と物足りなさ。
そして、影山無名に対しては、その比類なき商才と、現実的な問題解決能力への、絶大なる信頼と期待。だが同時に、その心の奥底を、決して誰にも見せようとしない、底の知れない冷徹さへの、本能的な不信感と恐怖。
そして、それ以上に深刻な問題として、この国を蝕む、世代間の、そして出自の違いによる、深い、深い亀裂の存在があった。親たちの、想像を絶する苦労の物語を聞いて育った二世たちは、「日本の純粋性を、何としても守り抜かね-ばならない」という、強固な使命感に燃えている。しかし、この地で生まれ育った三世たちにとっては、「血の色よりも、個人の能力と、この国を愛する心こそが大切だ」という、新しい価値観が、より大きな共感を呼んでいる。そして、日本人との混血として生まれた人々は、「いつか、この国から排除されてしまうのではないか」という、絶えざる不安に苛まれながらも、桜井が示す、融和への道に、か細い希望の光を見出している。
この国内の対立に加えて、外部からの、目に見える脅威への不安もまた、人々の心に、重くのしかかっていた。好戦的なベルト王国が、国境に大軍を集結させているという、不穏な噂。狡猾なアークス公国が、経済制裁を発動するかもしれないという、恐怖。この若い国家は、その内にも、外にも、多くの爆弾を抱えているのだ。
第四場 田中源蔵翁との遭遇
桜京に滞在して三日目の夕暮れ時。クラルが、いつものように桜屋の食堂で、質素な夕食を摂っていた、まさにその時であった。不意に、食堂の入り口に、凛とした、しかしどこか疲れた様子の、一人の老人が現れた。彼こそが、大和国の生ける伝説、田中源蔵翁、その人であった。
「ゆきや、遠方からのお客様に、ご挨拶をさせていただこう」
翁は、忙しく立ち働く娘に、静かにそう告げると、まっすぐにクラルのテーブルへと近づいてきた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。儂は、この国の長老をさせてもらっております、田中源蔵と申します」
その挨拶の言葉は、どこまでも丁寧であった。だが、彼の、深い皺に縁取られたその双眸は、まるで鷹が獲物を見定めるかのように、鋭く、そして探るように、クラルの心の奥底までを見通そうとしているかのようだった。
「グランベルク王国からの商人様と、伺いました。この国では手に入らぬ、珍しい品々をお持ちだと、もっぱらの噂でございますな」
「はい、お陰様で。香辛料を中心に、いくらか、商わせていただいております」
クラルは、あくまでも「商人クラウド・マーチャント」として、自然に応対した。だが、彼は、この老人が、単なる儀礼的な挨拶のために、わざわざ自分の前に現れたのではないことを、既に見抜いていた。
「……ところで、商人殿。近頃の、グランベルク王国の政治情勢は、いかがなものでございましょうか。先頃、賢明なるクラル王陛下が退位なされ、ご子息のアレクサンダー新王陛下へと、円滑に王位の継承が行われたと、伺っておりますが……」
その、あまりにも的確で、核心を突いた質問。その瞬間、クラルは、この老練な開拓者が、既に自分の正体の、少なくともその一端に、気づいている可能性が極めて高いことを、確信した。
会話が進むにつれて、翁は、まるで堰を切ったかのように、自らの胸の内にある、深い苦悩を、少しずつ、しかし切実に、吐露し始めた。
「……実は、恥ずかしながら、私どものこの国もまた、多くの、深刻な政治的課題を抱えておりましてな。世代間の、埋めがたい価値観の違いが、国を二つに引き裂きかねないほどの、深刻な対立を生み出してしまっておるのですよ」
クラルは、あくまでも一介の商人として、当たり障りのない感想を述べた。「……ただ、その完璧な調和の裏に、どこか、張り詰めたような緊張感が、あるようにも感じましたが」
「……やはり、お気づきになりましたか」。翁は、深いため息をついた。「この国の未来が、この先どうなってしまうのか……それを思うと、この老いぼれは、夜も、安心して眠ることができませぬ」
そして、会話の最後に、翁は、まるで何かの合図を送るかのように、意味深な言葉を、クラルに残した。
「……商人殿。もし、もしもご迷惑でなければ、明日の夜、儂の私的な書斎まで、お越しいただくわけには、参りませんでしょうか。是非とも、貴殿にお聞かせしたい、大切なお話が、ございましてな」
第五場 夜の考察と決意
その夜、宿屋の自室に戻ったクラルは、この三日間で得た、膨大な情報を、その千年を生きた、超人的な頭脳の中で、静かに整理し、分析していた。
この国の強みは、その高い技術力と、民の勤勉さ。そして、異なる文化が融合することによって生まれた、他に類を見ない、独自の美意識。だが、その弱点は、あまりにも明らかであった。世代間の対立による、深刻な社会の分裂。そして、統一された、明確な国家ビジョンの欠如。このまま内部分裂が続けば、外敵からの脅威を待つまでもなく、この国は自壊しかねない。
彼は、自分が、この絶妙で、そして危険な状況において、どのような役割を果たすべきか、深く、そして静かに、思考を巡らせていた。神王として、絶対的な権威をもって介入すれば、この不毛な対立を、一瞬にして終わらせることはできるだろう。だが、それは、彼らが自らの力で困難を乗り越え、真に成熟した国家へと成長する、貴重な機会を、永遠に奪うことにもなりかねない。「田中翁が、儂に何を求めておるのか……。それを、見極めてからでも、遅くはない」
この三日間の、短い、しかし濃密な観察を通じて、クラルは、この大和国という、不思議な国に、深い、そして抗いがたいほどの関心を抱くようになっていた。五十数年前、自らの力不足ゆえに救いきれなかった、あの哀れな人々の子孫が、これほどまでに、見事で、そして美しい国を築き上げていたという事実。
「……しかし、今、彼らは、新たな、そしてより深刻な危機に、直面している。今度こそ、今度こそ私は、彼らの、真の力になりたいのだ」
窓の外では、夜風が、裸になった桜の枝を、寂しく揺らしていた。明日、この国の、そして彼自身の運命をも左右するかもしれない、一つの、重要な会談が、始まろうとしていた。それは、歴史の、大きな転換点となる予感を、確かに、孕んでいた。
**次回予告**:
田中源蔵翁の書斎で、ついに重要な会談が始まる。翁は商人クラウド・マーチャントの正体に気づいているのか?そして、クラル王は自分の正体を明かすのか?三騎士団の父親世代の真実が語られ、大和国の未来を左右する重大な決断が下されようとしている。