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「和の国興亡記」第6話「忍の騎士団の暗躍」

**時期**:グランベルク暦1247年秋

序幕 影山商会の夜


グランベルク暦千二百四十七年、十月。首都桜京の夜は、秋の深まりと共にその静けさを増していた。商業地区の大通りから一本入った路地に、ひっそりと、しかし確かな存在感を放って建つ「影山商会」の五階建ての建物は、この国の経済を動かす中枢として知られている。その黒漆喰の壁と重厚な瓦屋根は、周囲の商店がとうに店じまいし、深い眠りについている深夜二時を過ぎてもなお、一つの窓にだけ、まるで眠ることのない獣の眼のように、煌々とした明かりを灯していた。


表向き、それは桜半島における最大の貿易商社であり、その代表である影山無名は、一代で財を成した傑出した実業家として、人々の尊敬を集めていた。しかし、その華やかな表の顔の裏に隠された真実の姿は、大陸の影の世界にその名を轟かせる、最大級の諜報組織の総本部。そして、その巨大な蜘蛛の巣のまさに中心に君臨する主こそが、影山無名、その人であった。


商会の最上階、外の喧騒から完全に遮断された、静寂と秩序に支配された執務室。黒檀の重厚な机の前で、一人の男が、まるで獲物を吟味するかのように、分厚い文書の束に鋭い視線を落としていた。中肉中背、どこにでもいそうな平凡な容貌。注意深く手入れはされているものの、どこか疲れた印象を与える、四十代半ばの風貌。これこそが、影山無名が公の場で用いる、「商人」としての仮面であった。


「……また一人、新しいのがお着きか」


無名は、腹心の部下からもたらされた最新の潜入調査報告書を読み進めながら、誰にともなく、低く呟いた。「クラウド・マーチャント」と名乗る、グランベルク王国出身の香辛料商人が、明日にもこの桜京に到着する予定だという。取るに足らない、ありふれた一商人の来訪。だが、無名の心に、微かな、しかし無視できない違和感のさざ波が立った。


「……念には念を、入れておくか」


無名は、音もなく机の隠し引き出しを開け、複雑な文字が羅列された暗号表を取り出した。そして、慣れた手つきで、部下への追加調査を命じる指示を、墨痕鮮やかに、しかし常人には決して解読不可能な暗号で記していく。相手が、ただの気のいい香辛料商人であろうと、あるいは大国の密偵であろうと、彼の対応は変わらない。決して油断せず、決して侮らず、常に最悪の事態を想定して行動する。それこそが、五十と四年もの間、彼がこの裏切りと欺瞞に満ちた影の世界で、生き延びてこられた、唯一無二の流儀であった。


第一場 影山無名の正体と生い立ち


影山無名という男について、大和国の公式な記録にはこう記されている。年齢、四十五歳。桜半島南部の、ごく平凡な商人家庭の生まれ。若い頃から非凡な商才を発揮し、幾多の困難を乗り越え、実力一つで現在の地位を築き上げた、立志伝中の人物である、と。


しかし、その輝かしい経歴は、彼自身の手によって巧妙に作り上げられた、完璧な虚構であった。

真実の彼は、本名を影山正義といい、実年齢は公称よりも九歳上の、五十四歳。そして彼の父は、五十数年前にこの地に漂着した、あの偉大なる開拓者の一人であり、忍者研究家という異色の経歴を持つ、影山正蔵、その人なのである。彼の人生は、生まれた瞬間から、影に生き、影として死ぬ、忍びの道へと運命づけられていたのだ。


無名の人生が、常人のそれと決定的に袂を分かったのは、彼がまだ三歳の、物心つくかつかないかの頃であった。父・正蔵は、かつて日本で趣味として没頭していた忍者研究の膨大な知識を、この過酷な異世界で生き抜くための、究極の実用技術として再構築し、その全てを、唯一の息子である彼に、徹底的に、そして容赦なく叩き込んだ。


彼が五歳の誕生日を迎えた日。父は、遊び道具の代わりに、一本の短い吹き矢を彼に手渡し、こう言った。「良いか、無名よ。これからわしがお前に教えることは、決して、何人たりとも、他人に話してはならぬ。これは、我ら親子だけの、秘密の遊びなのだ」。そして父が最初に教えたのは、技ではなく、「気配を消す術」であった。「呼吸を極限まで細くし、心を空っぽにし、己の存在そのものを、周囲の空気へと溶け込ませるのだ」。幼い彼にとって、それは息を殺して隠れる、スリリングなかくれんぼのようなものであった。しかし、それが、彼のその後の人生の全てを決定づける、恐るべき技術の入り口であったことを、知る由もなかった。


十歳の夏、父は初めて、彼に実戦任務を与えた。「隣村に新しくできた商人の家に赴き、その店の財産状況と、取引相手の素性を、誰にも気づかれずに探ってこい」。大人ならば警戒される状況でも、無邪気な子供の姿は、完璧な隠れ蓑となった。彼は、人懐っこい商人の子供を装い、巧みにターゲットの家に潜り込み、そこで交わされる会話の断片から、見事、重要な商取引の情報を盗み出すことに成功した。


「……よくやった。お前には、天賦の才がある」。任務を終えて帰還した彼を、父は初めて、一人の男として認め、力強く抱きしめた。その時の、全身を駆け巡るような深い満足感と、父に認められたという高揚感を、彼は生涯忘れることがなかった。それが、彼の長く、孤独な諜-報活動人生の、輝かしい第一歩となったのである。


しかし、その幸せな師弟関係は、彼が十五歳になった冬、あまりにも突然に終わりを告げた。父・正蔵が、過労による心臓発作で、急逝したのだ。享年、五十五歳。あまりにも早すぎる死であった。


「無名……わしが、この十三年間で築き上げてきた、この情報網を……お前に、託す。そして、どのような手段を使おうとも……この国を、この同胞たちを……影から、支えよ……」。それが、父の最後の言葉であった。


わずか十五歳の少年が、四十名もの手練れの諜報員を擁する、巨大な地下組織の新たな首領に就任した。それは、常識では考えられない、異例中の異例であった。だが、その時点で、彼の諜報員としての能力と、冷徹なまでの判断力は、既に組織内の誰の追随をも許さない、絶対的な領域に達していたのである。


そして、彼が二十歳になった時、組織の在り方を根底から変える、一つの重大な方針転換を断行する。ただ影に潜み、情報を盗むだけの存在から脱却し、商人として堂々と表舞台に立ち、経済力と政治的影響力を、その手に掌握することを決意したのである。「影に隠れているだけでは、限界がある。我々が真にこの国を動かすためには、表の世界で、誰からも疑われぬ地位と、尽きることのない財力を、築き上げる必要があるのだ」。こうして、「影山商会」は設立された。表向きは、新進気鋭の貿易商社。しかし、その実態は、彼の影の帝国を支える、巨大な資金源であり、そして完璧な隠れ蓑であった。


第二場 七つの顔を持つ男


影山無名の、そして彼が率いる組織の、最大の武器。それは、彼自身が持つ、神の域にまで達した、完璧な変装技術であった。彼は、日常的に七つもの異なる身分を巧みに使い分け、それぞれの立場で、それぞれの階層に深く潜り込み、蜘蛛の巣のように、情報の糸を張り巡らせていた。


その第一の顔は、最も使用頻度の高い、公人としての「商人・影山無名」。温厚で商才に長けた、誰もが好感を持つ中年実業家。

第二の顔は、大学で古代史を教える「学者・田所博文」。知識欲旺盛で少し偏屈なこの老教授の姿で、彼は国の政策情報や、知識人たちの動向を正確に把握していた。

第三の顔は、「農民・山田太郎」。日に焼けた素朴で人懐っこいこの男として、彼は農村地帯に深く入り込み、民衆の真の不満や、地方の不穏な動きを、いち早く察知する。

第四の顔は、「職人・鈴木鉄造」。頑固で無口なこの鍛冶職人の姿で、彼は最新の技術情報や、職人組合の動向を探る。

第五の顔は、「僧侶・慈雲」。慈悲深く、人々の悩みを聞くこの修行僧の姿で、彼は宗教的な動向や、大衆の精神状態を分析する。

第六の顔は、「貴族・藤原雅之」。教養豊かなこの中年貴族の姿で、彼は政治の中枢に食い込み、上層部の権力闘争の情報を手に入れる。

そして、第七の顔は、「乞食・ボロ吉」。最も汚く、最も蔑まれるこの老人の姿で、彼は裏社会の情報を一手に集め、犯罪組織の動向までも監視していた。


彼の変装は、単に衣装や化粧を変えるといった、表面的なものではない。それは、人格そのものを、根底から完全に転換させる、恐るべき憑依技術であった。商会の地下深くにある、彼だけが知る「変装室」。そこで彼は、体型を調整する器具や、皮膚の質感を変化させる特殊な化粧、声色や方言の使い分け、さらには、それぞれの職業特有の身のこなしや思考パターンに至るまで、二時間以上をかけて、完璧な別人へと生まれ変わるのである。この三十九年間、ただの一度たりとも、その正体を見破られたことはなかった。


第三場 忍道の現代的解釈


無名の全ての行動を貫く、ただ一つの絶対的な行動原理。それは、「国家の繁栄のためならば、いかなる手段も厭わない」という、冷徹なまでのリアリズムであった。「個人の感情や、ちっぽけな道徳心などは、国家の存続という、より大きな善の前では、何の意味も持たぬ」。その思想は、非情で、時に冷酷にさえ見える。だが、それは彼なりの、ねじくれた、しかし誰よりも純粋で強固な愛国心の、紛れもない表れであった。


彼は、父から受け継いだ古来の忍術を、この現代の異世界で通用する、より実践的な六つの諜報技術として、独自に体系化していた。「見られずに見る」隠密の術、「なりたい者になる」変装の術、そして、「必要な時のみ、痕跡を残さず」実行する、暗殺の術。ただし、彼にとって暗殺は、あくまでも最後の、そして最悪の手段であり、過去十年間に、彼が自らの手を下したのは、国家の存亡に関わる、わずか三件のみであった。さらに、敵組織を内部から崩壊させる「調略」の術、「全てを知り、何も知られない」ことを究極の目標とする「諜報」の術、そして、敵の兵站線や重要拠点を破壊し、その力の源を根絶やしにする、「破壊」の術。これら六つの技能を、彼は状況に応じて自在に使い分け、これまで幾度となく、この国を目に見えぬ危機から救ってきたのである。


第四場 影の帝国の組織運営


彼が一代で築き上げた影の帝国は、厳格な階層構造によって、極めて効率的に運営されていた。頂点に君臨する、彼を含めた三名の「上忍」。その下に、各地域や分野の責任者である、十二名の「中忍」。そして、実際に手足となって動く、百三十五名の「下忍」。この鉄のピラミッド構造が、彼の意のままに動く、巨大な情報網の正体であった。


その活動を支える膨大な資金は、影山商会の合法的な商業活動や、各国への情報売買、さらには傭兵業といった、多様な収入源によって、潤沢に確保されていた。そして彼の私生活さえも、その全てが、諜報活動の一環として、冷徹なまでに計算され、構築されていた。上流社会の情報を得るための芸者の妾、商業ギルドの情報を探るための商人の未亡人の妾、そして、農村部の動向を把握するための農家の娘の妾。彼が、三人の妾との間に儲けた七人の子供たちは、その全てが、生まれながらにして、彼の帝国を受け継ぐ、次世代の諜報員として、幼少期から過酷な特殊教育を施されていた。彼らにとって、父とは、愛情を注いでくれる家族ではなく、絶対的な忠誠を誓うべき、「組織の長」でしかなかった。


第五場 クラウド・マーチャントという謎


「影山様、例のグランベルクから来たという、香辛料商人についての、初期調査の結果をご報告いたします」。腹心の中忍、雲隠才蔵が、緊張した面持ちで報告書を差し出した。

「クラウド・マーチャント。四十五歳、独身。グランベルク王都で、十五年間にわたり、香辛料専門の商いを続けていた記録がございます。現在のところ、特に怪しい点は、見当たりません」


無名は、その報告書に静かに目を通しながら、思考を巡らせていた。表面上の経歴は、完璧にクリーンだ。だが、彼の、長年の諜報活動によって研ぎ澄まされた直感が、警鐘を鳴らしていた。何かがある。この報告書の行間に隠された、何か決定的な情報が、欠落している。

「……面白い。ならば、この私が、直接、観察してみることにしよう」


翌日、彼は「商人・影山無名」として、商談のために訪れたクラウド・マーチャントを、自らの執務室に迎え入れた。外見は、報告書の通り、人の良さそうな中年商人だ。だが、彼の、全てを見透かすような鋭い観察眼は、その完璧な偽装の裏に隠された、いくつかの微細な、しかし決定的な不自然さを、見逃さなかった。商人にしては、あまりにも隙のない、鍛え上げられた者の歩き方。会話の最中ですら、絶えず周囲の状況を警戒する、鋭い視線の動き。香辛料を扱う商人の手としては、不自然なほどに傷が少なく、手入れが行き届いている、その指先。


「この男……ただの商人ではないな」

その夜、彼は「学者・田所博文」の姿に化け、マーチャントが宿泊する宿屋を訪れた。歴史研究家として近づき、グランベルク王国の文化について尋ねると、男は、驚くほど詳細で、深い知識を披露した。それは、単なる一介の商人が持ちうるレベルを、遥かに超えていた。翌朝には、「農民・山田太郎」として、偶然を装って朝の散歩に同行したが、男は、無邪気な農民との会話の中ですら、一切の警戒を解くことはなかった。


三度の、異なる角度からの接触を通じて、無名は、一つの確信を得た。「この男は、商人などではない。恐らくは、何らかの、極めて重要な任務を帯びて、この国に潜入している、高度な訓練を受けた、何者かだ」。だが、その目的が、そして、その正体が何なのかは、全く分からない。


その夜、彼は、自ら黒装束に身を包み、マーチャントが眠る宿屋の部屋へと、音もなく潜入した。だが、部屋の中をいくら調べても、彼の正体に繋がるようなものは、何も見つからない。しかし、一つだけ、奇妙なことがあった。部屋に置かれた荷物の配置が、まるで、侵入者の動きを予測し、その行動を制限するかのように、巧妙に仕掛けられていたのだ。

「……やはり、この男は……!」

彼が、部屋から脱出しようとした、まさにその刹那、廊下から、マーチャントが戻ってくる足音が聞こえた。慌てて窓から身を翻した、その一瞬。闇の中で、二人の視線が、確かに交錯した。その時、マーチャントの瞳の奥に、一瞬だけ宿った、王者のごとき鋭い光を、無名は、見逃さなかった。


終幕 相互警戒の始まり


商会に戻った無名は、直ちに最高幹部を招集し、緊急会議を開いた。「クラウド・マーチャントに対する警戒レベルを、本日付で、最高度に引き上げる。あの男は、我々の想像を、遥かに超える大物である可能性が高い」


同じ頃、宿屋の一室で、クラウド・マーチャントことクラル王は、今宵の珍客の気配を、静かに振り返っていた。「影山無名……商人、学者、そして農民か。面白い。実に、面白い男ではないか」。彼の、千年の統治者としての経験は、無名の完璧な変装の裏にある、一つの、共通した魂の気配を、既に見抜いていたのである。「恐らく、この国の影を支配する、諜報組織の長であろう。これほどの使い手と出会うのは、久しいな」


そして、彼は、先程の侵入者の、卓越した技術についても、静かな感嘆を覚えていた。あの、完全に気配を消し去る術、そして、一瞬の判断で最適な離脱経路を選択する能力。それは、紛れもなく、最高レベルの忍者の技であった。

「……よかろう。正体を隠したまま、もう少し、この男との知恵比べを、楽しませてもらうとしようか」


こうして、桜京の、静かな秋の夜。二人の、常人ならざる高度な知略を持つ男たちによる、息詰まるような、静かな探り合いが、幕を開けた。一方は、国家の影を支配し、全てを知ろうとする、忍者の頭領。そしてもう一方は、その正体を、神の仮面の下に隠したまま、全てを見通そうとする、千年の王。


大和国の、そして大陸全体の未来をさえも左右するかもしれない、この二人の危険な出会いが、どのような結末を迎えるのか。それは、まだ、誰にも分からなかった。

**次回予告**:

三つの騎士団の中で深刻化する世代間対立。武田信玄の血統論、桜井義信の融和論、そして影山無名の現実論。それぞれ異なる価値観を持つ三人の指導者による茶会が開かれることになった。しかし、そこで起こったのは理解ではなく、更なる分裂だった。一方、正体を隠したクラル王は、この対立の深刻さを目の当たりにする。

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