クラルの鍛冶屋、無期限休暇編。
王都の朝は早い。商人たちが店の準備を始め、職人たちが工房に向かい、冒険者たちがギルドに集まる。そんな活気ある街の中を、一人の若者がゆっくりと歩いていた。
深いフードを被った小柄な人影。顔は完全に隠れており、その正体を知る者はいない。華奢な体つきで、歩き方も軽やか。一見すると、どこにでもいる若い旅人のようだった。
しかし、この人物こそがクラル・ヴァイス、ドラゴンブレイカーその人だった。
「これほど楽になるとは思わなかった」
クラルは心の中で呟いた。フードを深く被るだけで、これほどまでに自由になれるとは予想外だった。
実際のところ、ドラゴンブレイカーという名前は王国中に知れ渡っていたが、本人の風貌を正確に知る者は意外に少なかった。ドラゴン討伐時に同席した冒険者たちや、工房の常連客程度。一般市民の多くは、噂だけでその存在を知っているに過ぎない。
しかも、「ドラゴンブレイカー」という称号から、人々は巨漢の戦士を想像しがちだった。ドラゴンを倒すほどの実力者なら、きっと筋骨隆々の大男に違いない。そんな先入観が、クラルの正体を隠す最良の隠れ蓑となっていた。
華奢で中性的、可愛らしいとさえ言える外見のクラルと、人々が想像するドラゴンブレイカー像は、あまりにもかけ離れていた。
クラルが最初に向かったのは、王都でも最も賑やかな商業区だった。様々な店舗が軒を連ね、美味しそうな匂いが街全体に漂っている。
「何から食べようか」
彼は子供のようにワクワクしながら、食べ物の屋台を見て回った。これまでは効率性ばかりを重視し、食事も栄養補給の手段としか考えていなかった。しかし今は違う。純粋に味を楽しむための食事だった。
最初に立ち寄ったのは、焼き魚の屋台だった。
「いらっしゃい!新鮮な川魚だよ」
屋台の主人が声をかけてきた。中年の男性で、長年この商売をしているらしく手慣れた様子で魚を焼いている。
「これをください」
クラルは最も美味しそうに見える魚を指差した。
「あいよ!お兄ちゃん、旅の人かい?」
「まあ、そんなところです」
クラルは曖昧に答えた。フードの奥から覗く顔は若く、人懐っこそうな印象を与えた。
「この魚はな、今朝獲れたばかりなんだ。秘伝のタレで焼いてるから、絶対美味いよ」
焼き上がった魚を受け取り、一口食べてみる。確かに新鮮で、タレの甘辛い味付けが絶妙だった。
「本当に美味しいですね」
「だろう?」主人は嬉しそうに笑った。「また来てくれよな」
次に向かったのは、甘味処だった。王都名物の蜂蜜菓子を売る店で、いつも行列ができている。
「すみません、これをいくつか」
クラルは様々な種類の菓子を選んだ。蜂蜜の香りが食欲をそそる。
「あら、可愛い坊やね」
店の女主人が微笑みかけた。「どこから来たの?」
「遠いところからです」
「そう、大変だったでしょう。これ、サービスよ」
女主人は小さな菓子を一つ追加してくれた。
菓子を食べながら歩いていると、今度は香辛料の匂いに誘われた。異国風の料理を出す屋台で、見たことのない料理が並んでいる。
「これは何ですか?」
「南の国の料理さ。辛いけど病みつきになるよ」
店主は浅黒い肌の男性で、異国出身らしい訛りがあった。
「試してみます」
辛い料理は確かに刺激的だったが、慣れてくると癖になる味だった。汗をかきながらも、最後まで美味しく食べることができた。
昼過ぎ、クラルは職人街を訪れた。様々な職人たちが工房を構えており、それぞれが異なる技術を披露している。
木工職人の工房では、美しい彫刻が施された家具が展示されていた。革職人の店では、精巧な装飾が施された鞄や靴が並んでいる。
「すごい技術だな」
クラルは感心しながら、それぞれの作品を見て回った。自分も鍛冶屋だが、他の職人の技術を見るのは勉強になる。
特に興味を引いたのは、楽器職人の工房だった。
「いらっしゃいませ」
工房の主人は50代の男性で、丁寧に楽器を調整していた。
「こちらの楽器、触らせていただけますか?」
「もちろんです。お客様は音楽をされるのですか?」
「少しだけ」
クラルは子供の頃、村で簡単な楽器を習ったことがあった。しかし、それ以来まったく触れていない。
楽器を手に取り、おぼろげな記憶を頼りに音を出してみる。最初はぎこちなかったが、徐々に感覚を取り戻していった。
「なかなか上手ですね」職人が称賛した。「センスがおありのようです」
「ありがとうございます」
音楽という、武器作りとは全く異なる分野に触れることで、クラルは新鮮な刺激を感じていた。
夕方になると、クラルは貴族街を散策した。高級な店舗が立ち並び、上品な雰囲気が漂っている。
「ここは別世界だな」
建物の装飾、道路の整備、行き交う人々の服装。すべてが商業区とは格段に違っていた。
高級茶房に入り、上質な茶を味わった。値段は商業区の数倍だったが、その価値は十分にあった。
「こちらの茶葉は、遠い東の国から取り寄せたものです」
給仕の女性が説明してくれた。
「とても香り高いですね」
「ありがとうございます。お客様はどちらから?」
「旅をしています」
曖昧な返答だったが、給仕は深く追求せず、上品な微笑みで応じた。
窓際の席で茶を飲みながら、貴族街の景色を眺める。ゆったりとした時間の流れが、心を落ち着かせてくれた。
夜になると、クラルは庶民街に足を向けた。ここは労働者や小商人が住む地区で、飾り気のない素朴な雰囲気があった。
酒場に入り、地元の人々の会話に耳を傾ける。
「今日も仕事がきつかったな」
「そういえば、ドラゴンブレイカーの武器が評判らしいぞ」
「ああ、風見鶏っていう店だろう?一度見に行ってみたいが、高そうでな」
クラルは思わず苦笑いした。まさか本人が目の前にいるとは、誰も想像していない。
「でも、あの人はどんな人なんだろうな」
「きっと大きくて強そうな人だろう」
「ドラゴンを倒すくらいだからな」
人々の想像するドラゴンブレイカー像は、やはりクラルの実像とはかけ離れていた。
「案外、普通の人かもしれないよ」
クラルは思わず口を挟んだ。
「そうかな?でも、普通の人にドラゴンが倒せるとは思えないが」
「確かにそうだな」
会話はそこで終わったが、クラルは人々の率直な意見を聞くことができて興味深かった。
クラルが休暇を始めて数週間が経った頃、王都では春祭りが開催された。街全体が祭りの装飾で彩られ、多くの屋台や出し物が並んでいる。
「これは楽しそうだ」
クラルは迷わず祭りに参加することにした。フードを被った正体不明の若者として、群衆に紛れ込む。
祭りの屋台では、普段見かけない料理や菓子が並んでいた。
「お兄ちゃん、これ食べてみない?」
屋台の女性が声をかけてきた。色とりどりの団子を売っている。
「美味しそうですね」
「祭りの特別メニューよ。一年でこの時期しか作らないの」
団子を食べながら、クラルは祭りの雰囲気を楽しんだ。音楽、踊り、笑い声。すべてが活気に満ちている。
射的の屋台では、的を狙って景品を獲得するゲームが行われていた。
「やってみませんか?」
「はい」
クラルは弓を手に取った。冒険者としての技術が役立ち、見事に的を射抜く。
「すごいじゃないか!景品をどうぞ」
店主が小さな人形を渡してくれた。可愛らしい動物の人形で、見ているだけで癒される。
夜になると、花火が打ち上げられた。夜空に咲く美しい花が、祭りのクライマックスを飾る。
「きれいだな」
クラルは空を見上げながら呟いた。こんなにゆっくりと花火を眺めるのは、何年ぶりだろうか。
夏になると、今度は夏祭りが開催された。春祭りとは異なる趣向で、より大規模な催し物だった。
「今度はどんな出し物があるだろう」
クラルは期待を胸に、再び祭りに参加した。
夏祭りでは、伝統的な踊りの披露が行われていた。地元の若い女性たちが色鮮やかな衣装を身に着け、優雅に踊っている。
「美しいですね」
隣にいた老人が話しかけてきた。
「ええ、本当に」
「この踊りは、豊作を祈願する伝統的なものなんですよ」
「そうなんですか」
「昔から続いている大切な文化です」
老人の説明を聞きながら、クラルは王都の歴史と文化に触れることができた。
屋台では、夏らしい冷たい食べ物が人気だった。
「かき氷はいかがですか?」
「お願いします」
色とりどりのシロップがかかったかき氷は、暑い夏の日にぴったりだった。
「美味しいですか?」
「とても」
店の女性は嬉しそうに微笑んだ。
夜店では、金魚すくいが行われていた。子供たちが真剣な表情で金魚を追いかけている。
「僕もやってみたい」
クラルは子供に混じって金魚すくいに挑戦した。最初は難しかったが、コツを掴むと上手に金魚を捕まえることができた。
「お兄ちゃん、上手だね」
隣の子供が感心していた。
「ありがとう」
子供たちとの交流も、クラルにとって新鮮な体験だった。
秋になると、収穫祭が開催された。その年の豊作を祝う、一年で最も重要な祭りの一つだった。
「今度は収穫祭か」
クラルは既に祭りの常連となっていた。フードを被った謎の若者として、地元の人々にも顔を覚えられ始めている。
「あ、また来てくれたのね」
屋台の女性が声をかけてきた。春祭りで団子を売っていた人だった。
「楽しみにしていました」
「今度は秋の味覚よ。栗や芋を使った料理を用意したの」
秋祭りでは、その年に収穫された農作物を使った料理が多く並んでいた。栗ご飯、焼き芋、きのこ料理。どれも季節感あふれる美味しいものばかりだった。
「これは僕の故郷を思い出します」
「故郷はどちら?」
「小さな農村です」
「そう、きっと懐かしいでしょうね」
女性の温かい言葉に、クラルは心が和んだ。
農作物の品評会も行われており、自慢の作物を持参した農家の人々が誇らしげに展示していた。
「立派な作物ですね」
「ありがとう。今年は天候に恵まれてね」
農家の男性が嬉しそうに説明してくれた。
クラルは自分も農業に携わっていた経験から、作物の品質を正確に評価することができた。しかし、それを表に出すことはせず、一般的な感想に留めていた。
冬になると、年末の大祭りが開催された。一年の締めくくりとして、最も盛大な催し物だった。
「もう一年が終わるのか」
クラルは感慨深く呟いた。休暇を始めてから、季節の移り変わりと共に様々な祭りを体験してきた。
冬祭りでは、温かい食べ物が中心だった。鍋料理、焼き肉、温かいスープ。寒い冬の夜に、体を温めてくれる料理ばかりだった。
「これで体が温まりますよ」
屋台の主人が湯気の立つスープを渡してくれた。
「ありがとうございます」
スープを飲みながら、クラルは一年を振り返っていた。ドラゴン討伐、従業員の雇用、量産体制の構築、そして長期休暇。本当に激動の一年だった。
「来年はどんな年になるだろう」
まだ休暇を終える気はなかったが、ふと将来について考えてしまう。
祭りの最後には、除夜の鐘ならぬ除夜の花火が打ち上げられた。新年を迎える瞬間に合わせて、夜空に大輪の花が咲く。
「新年おめでとうございます」
周囲の人々と共に、クラルも新年の挨拶を交わした。
四季を通じて祭りを楽しみ、王都の様々な地区を巡った結果、クラルは多くのことを学んでいた。
人々の日常生活、文化と伝統、季節の移り変わり。これまで見過ごしていた多くのことに気づくことができた。
そして何より、自分自身について深く考える時間を得ることができた。
「ドラゴンブレイカーという肩書きを忘れて生活するのは、こんなにも自由なことなのか」
責任やプレッシャーから完全に解放され、一人の人間として日々を過ごす。それは彼にとって貴重な体験だった。
しかし同時に、自分の作った武器が人々の間で話題になっているのを聞くと、職人としての誇りも感じていた。
「いつかは仕事に戻ることになるだろう」
「でも、それがいつになるかは分からない」
クラルは焦ることなく、自分のペースで休暇を続けることにした。真の意味でのリフレッシュができるまで、この匿名の生活を楽しもうと思っていた。
フードの奥に隠れた表情は、以前よりもずっと穏やかで、満足げだった。長期休暇は、彼にとって本当に必要な時間だったのだ。
クラルが王都の繁華街で匿名の生活を楽しんでいたある日の午後、風見鶏には予期せぬ来訪者があった。
「すまない、店主はいるかね?」
工房の扉を開けて入ってきたのは、60代の男性だった。農民らしい質素な服装だが、威厳のある雰囲気を醸し出している。その後ろには、同じく農民風の男女が数人控えていた。
「いらっしゃいませ」
ヴェラが応対に出た。「申し訳ございませんが、店主のクラルは長期休暇中でして...」
「やはりそうか」男性は深くため息をついた。「私はバルドス。クラルが生まれ育った村の村長だ」
ヴェラとダンは顔を見合わせた。クラルから故郷の話はほとんど聞いたことがなく、まさか村長自らが訪ねてくるとは予想していなかった。
「村長さんですか」ダンが驚いて言った。「遠いところからわざわざ...」
「ああ、クラルを連れ戻しに来たのだ」
バルドスの言葉に、工房の空気が一瞬で緊張した。
「事情をお聞かせください」
ヴェラは冷静に対応した。彼女の論理的な性格が、こうした場面では頼りになる。
「クラルがいなくなってから、村の農業が大変なことになっている」バルドスは重い口調で説明を始めた。「あいつは農業の指導者だったんだ。土壌管理、作物の病気対策、収穫時期の判断...すべてをクラルに頼っていた」
「それで、困ったことになったのですね」
「そうだ。去年の収穫は散々だった。病気の見極めができず、多くの作物を失った。排水の問題も解決できないまま、畑の一部は使い物にならなくなった」
バルドスの後ろに控えていた村人たちも、深刻な表情で頷いていた。
「今年もこのままでは...」一人の中年男性が口を開いた。「村全体の生活がかかっているんです」
「クラルさえ戻ってくれれば、すべて解決する」若い女性が付け加えた。「あの人は天才だった。何でも分かっていた」
ヴェラとダンは困惑していた。確かに村人たちの事情は深刻で、同情すべき点も多い。しかし、クラルの立場や気持ちを考えると、簡単に賛同するわけにもいかない。
「クラルさんの気持ちも考えないと...」
ダンが慎重に言葉を選んで発言した。
「気持ち?」バルドスは眉をひそめた。「村を見捨てて、勝手に出て行ったのはあいつの方だぞ」
「でも、クラルさんには冒険者や鍛冶屋としての人生があります」
「そんなものより、村の皆の生活の方が大切だろう」
議論は平行線を辿っていた。
奥から出てきたボルトとガースも、複雑な表情で会話を聞いていた。
「村長さんのお気持ちも分かります」ボルトが重い口調で言った。「しかし、クラルさんも自分の人生を歩む権利があるのでは」
「人生?」バルドスは怒気を含んだ声で反論した。「村があったからこそ、今のクラルがあるんだ。恩を忘れて自分勝手に生きることが、人生というのか」
ガースも困った様子で口を開いた。「確かに、故郷への恩義は大切です。でも...」
「でも何だ?」
「強制的に連れ戻すのは、違うような気がします」
会話は堂々巡りになっていた。どちらの言い分にも一理あり、簡単に結論を出せる問題ではなかった。
結局、ヴェラが代表して工房の立場を表明することになった。
「村長さん、皆さんの事情はよく分かりました」
彼女は丁寧だが毅然とした態度で話し始めた。
「しかし、私たちはクラルの従業員です。雇い主の意思を尊重するのが筋だと思います」
「だが、村の危機だぞ」
「それは理解しています。ただし、クラルの現在の居場所も分からない状況で、私たちだけでは何も決められません」
ヴェラの論理的な説明に、バルドスも一時的に言葉を失った。
「工房にとっても、クラルは欠かせない人物です」ダンが補足した。「技術面でも経営面でも、彼なしには成り立たない」
「つまり、お前たちも自分の利益しか考えていないということか」
「そうではありません」ヴェラが反論した。「本人の意思に任せるべきだと申し上げているのです」
「クラルが戻ってきたら、村長さんの話も聞いてもらいます」ボルトが仲裁に入った。「その上で、彼自身に判断してもらう。それが一番公平だと思います」
結局、村長たちも一時的にこの提案を受け入れることになった。しかし、バルドスの表情は納得しているとは言い難かった。
翌日から、バルドスをはじめとする村民たちは、王都中を分散してクラルを探し始めた。
「背は低くて、華奢な体つき」
「顔は若くて、中性的な感じ」
「黒い髪で、おとなしそうな印象」
彼らは克明にクラルの特徴を覚えており、聞き込み調査を行った。
商業区の屋台で、職人街の工房で、貴族街の店舗で。様々な場所でクラルらしき人物の目撃情報を集めていく。
「ああ、そういう若い子なら見たことがある」
焼き魚の屋台の主人が答えた。「フードを被った子だろう?よく来るよ」
「最近も来ましたか?」
「うん、数日前にも来た。いつも一人で、あまり話さないけど、感じの良い子だった」
「どの辺りに住んでいるか、分かりませんか?」
「さあ、それは分からないな。でも、よく繁華街をうろついているみたいだ」
このような聞き込みを繰り返すことで、村民たちは徐々にクラルの行動パターンを掴んでいった。
一方、クラルは村民たちの存在に気付いていた。
「あれは...村の人たちか」
繁華街を歩いていたクラルは、遠くに見覚えのある人影を発見した。バルドス村長の特徴的な歩き方、そして一緒にいる村民たち。間違いなく、故郷から来た人々だった。
「なぜここに...」
クラルは慌てて人混みに身を隠した。彼らがなぜ王都にいるのか、その理由は容易に想像がついた。自分を連れ戻しに来たのだ。
「まだ帰る気はない」
クラルは心の中で呟いた。確かに村には恩義があるし、村人たちが困っているのも心苦しい。しかし、今の自分には休息が必要だった。
それに、村に戻ったとしても、結局は同じことの繰り返しになる。農業指導に明け暮れ、自分の人生を犠牲にして村のために尽くす。それが本当に正しいことなのか、クラルには分からなかった。
「もう少し、時間が欲しい」
彼は村民たちから距離を取るように、行動パターンを変更することにした。
長期休暇を続けていたクラルだったが、最近になって心境に変化が現れていた。
「気分転換もしたし、そろそろオーダーメイドくらいは再開しても良いかな」
四季を通じて王都の生活を満喫し、心身共にリフレッシュできた。完全に仕事から離れていたい気持ちは薄れ、徐々に創作意欲が戻ってきていた。
特に、職人街で他の職人の作品を見たことが刺激になっていた。様々な分野の職人技を目の当たりにし、自分も何か新しいものを作りたいという気持ちが芽生えていた。
「でも、村長には会いたくない」
村民たちが自分を探していることを知ったクラルは、工房に戻ることを躊躇していた。オーダーメイドを再開したくても、村長と鉢合わせする可能性があった。
「長期依頼でもあれば...」
そこでクラルは一つのアイデアを思いついた。ギルドで長期の依頼を受けることで、堂々と王都を離れることができる。そうすれば村長たちとも遭遇することなく、適度に仕事を再開できる。
翌日、クラルは久しぶりにギルドを訪れた。幸い、村長たちの手はまだギルドまでは伸びていないようで、いつも通りの雰囲気だった。
「あら、クラルさん!」
受付嬢のマリアが驚いて声を上げた。「長期休暇中じゃなかったんですか?」
「まだ休暇中ですが、少し確認したいことがあって」
クラルはフードを外し、マリアに顔を見せた。数ヶ月ぶりに見る彼の表情は、以前よりもずっと穏やかで生気に満ちていた。
「なんだか、とても元気そうですね」
「おかげさまで、よく休めました」
「それで、今日は何の用事でしょうか?」
「長期の依頼があるか確認したくて。一ヶ月くらいの期間で」
マリアは依頼書の束を取り出した。「そうですね...いくつかありますよ」
彼女が紹介したのは、以下のような依頼だった。
「遠方の街での魔獣討伐。期間は6週間程度」
「古代遺跡の調査。学者の護衛として2ヶ月」
「商隊の長距離護衛。往復で1ヶ月半」
どれも王都から離れた場所での任務で、クラルの希望に合致していた。
マリアが提示した三つの依頼を見つめながら、クラルの頭の中では新たな計画が形成されていた。
「実は、全部の依頼を受けたいのですが」
「全部ですか?」マリアは驚いた表情を見せた。「でも、同時には無理ですよね」
「近い場所から順番に終わらせていく予定です」
クラルは地図を指差しながら説明した。「まず商隊護衛で南の大都市まで行き、そこから魔獣討伐の街へ向かう。最後に古代遺跡の調査。全部で4ヶ月程度の予定です」
「4ヶ月...それは本格的な長期依頼ですね」
マリアは計算しながら言った。「報酬も合計で金貨200枚を超えますが、本当に大丈夫ですか?」
「問題ありません」
クラルの表情には迷いがなかった。これだけの期間があれば、村長たちも諦めて帰るだろう。そして自分も、本格的に仕事に復帰する準備を整えることができる。
「分かりました」マリアは書類を整理し始めた。「最初の商隊護衛は3日後の出発予定です。残りの依頼は予約扱いにして、他の冒険者も受けられるようにしておきますね」
「お願いします」
「ただし、クラルさんが予定通りに来られない場合は、他の冒険者に依頼が回ることがあります」
「承知しています」
手続きを終えたクラルは、ようやく安堵の表情を見せた。これで堂々と王都を離れることができる。
クラルは慎重に計画を立てた。まず、安全な方法で従業員に連絡を取り、必要な装備を準備してもらう。そして、村長たちに気付かれることなく王都を出発する。
「しばらくは放浪の旅になりそうだ」
クラルは少し苦笑いした。休暇を終えて仕事に復帰するはずが、結果的にさらなる逃避行が始まることになった。
しかし、彼はそれを完全に悪いこととは思っていなかった。長期依頼を通じて新たな経験を積み、本当の意味で仕事に復帰する準備を整える。それも悪くない選択肢だった。
「村長には申し訳ないが...」
クラルは心の中で謝罪した。いずれは村の問題とも向き合わなければならないだろう。しかし、今はまだその時ではない。