「和の国興亡記」 第1話「神王の引退」
時期:グランベルク暦1247年春、第十部終了から5年後
序幕 夜明け前の決意
地平の彼方が、まだ深紺の闇に沈む時刻。グランベルク王都で最も天に近い場所、千年の風雪に耐え抜いた「永遠の塔」の頂上で、一人の男が静かに夜明けを待っていた。
その男、クラル王。実年齢は百三十五年を数えるが、神々の血脈か、あるいは彼自身が成し遂げた魔法の偉業か、その容姿は四十代の壮健な姿を留めている。されど、深い湖沼の色を湛えたその双眸には、百を超える歳月を生きた者だけが宿す、人智を超えた叡智と、そして微かな疲労の色が沈殿していた。
彼がこの景色を、この場所から眺めるのは、一体何度目になるだろうか。眼下に広がる王都の街並みは、彼が眠りから覚めた千年前に比べれば、まるで別の生き物のように成長し、複雑化していた。朝靄の中に沈む屋根瓦の一枚一枚に、そこに住まう民の生活の息遣いが感じられる。遠く、東方の空を衝く山脈のシルエット。そして、その更に遥か向こうに広がる、地図にすらまだ余白の多い未知の大陸。幾度となく見たはずの光景が、今朝に限っては、まるで初めて見る絵画のように新鮮で、そしてどこか物悲しく彼の目に映っていた。
龍族との長きにわたる緊張を終焉させ、歴史的な和平を成し遂げてから五年。大陸を蝕んでいた致死の奇病、ドラゴンレア症候群の治療法を確立してから三年。そして何より、己の血を分けた息子アレクサンダーが、一人の王子から、国を背負うに足る王へと成熟していく様を、父として、そして統治者として見守り続けてきた歳月。すべての条件は満たされた。ついに、永きにわたった自らの役目を終える、その日が訪れたのだ。
「陛下」
背後から凛とした、しかしどこか温かみのある声がかかる。振り返るまでもない。この声の主は、彼の治世の最後の二十年、影のように寄り添い、その辣腕で王国を支え続けてきた秘書長官エリオット、その人に違いなかった。六十五歳となった彼の顔には、忠誠心という言葉だけでは表しきれない、深い敬愛の念が刻まれている。
「おはよう、エリオット。いや、もうすぐ『陛下』ではなくなる、と言うべきか」
クラルは穏やかな笑みを浮かべた。その笑みは、王としての威厳ではなく、一人の人間としての親しみに満ちていた。
「滅相もございません。あなた様は、グランベルク王国にとって永遠に我らが王。ただ、そのお役割が少し、お変わりになる。それだけのことでございます」
エリオットの言葉に、クラルは静かに頷いた。「そうか。では今日この日を以て、私は『統治する王』から、『世界を見守る神』へと、その座を移すのだな」
その言葉と時を同じくして、地平線の縁が微かに白み始めた。やがて一条の光が闇を裂き、世界に色を取り戻していく。荘厳な朝日は、まず永遠の塔の頂を照らし、そして王都全体を祝福するかのように黄金色に染め上げた。この美しく、そして愛おしい国を、息子に託す時が来たのだ。
第一場 永遠の玉座の間
グランベルク王国建国以来、千年の歴史のすべてを目撃してきた証人。それが、聖王宮の中心に位置する「永遠の玉座の間」であった。
天上は遥か五十メートル先にあり、そこには王国の創世から現代に至るまでの歴史が、壮大なフレスコ画として描かれている。神話の時代に天から降り立った初代王の姿、幾多の王朝が経験した栄光と衰退の物語、そして現在のクラル王朝が成し遂げた数々の偉業。しかし、その長大な絵巻の最も新しい部分には、歴史家たちの意図によって、今日まさに描き加えられるべき新たな一ページの、神聖な余白が残されていた。
玉座は、一片の曇りもない純白の大理石を削り出して作られている。その玉座の前には、幅二十メートル、奥行き百メートルにも及ぶ広大な空間が、磨き上げられた床面を鏡のように輝かせている。そして今、その空間を埋め尽くすように、一万の参列者が、水を打ったような静けさの中、粛然と立ち並んでいた。
最前列を占めるのは、大陸諸国の王族や大使たち。白銀のドレスを纏ったアルテミス王国女王マリアンナ三世、黄金の軍服に身を包んだセレスティア帝国皇帝アウグストゥス二世、そして質実剛健なフロックコート姿のヴェリタス共和国大統領ジェームズ・ハリソン。その他、十五を超える国家の元首たちが、歴史的瞬間に立ち会うべく、緊張した面持ちでその時を待っている。
続く第二列には、グランベルク王国を支える貴族と重臣たちが並ぶ。八十二歳にしてなお矍鑠とした宮廷詩人、枢機卿アルフレッド・ストーリーテラー。国の財政を一手に担う大蔵大臣マーカス・フィンレイ。百戦錬磨の風格を漂わせる軍務大臣レオナルド・ハードキャッスル。そして、各公爵、侯爵、伯爵家の当主たちが、それぞれの家紋を胸に誇らしげに控えていた。
第三列以降は、この国のあらゆる階層を代表する者たちで構成されている。たくましい腕を組む商工会議所の代表、土の匂いを纏った農民組合の代表、硬質な指を持つ職人ギルドの代表。学者、芸術家、宗教指導者たち。そして、その最後尾には、この栄誉ある式典への参加権を、幸運な抽選によって勝ち取った一般市民の代表たちが、感激と畏敬の念に打ち震えながら立っていた。
午前十時。王宮の鐘楼から、荘厳にして深淵な鐘の音が十二回、王都の隅々にまで響き渡った。それは、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる合図であった。
第二場 父と息子
玉座の間の最も奥、巨大な扉が音もなく開かれると、二つの人影が厳かに姿を現した。
先頭を歩むのは、次代の王アレクサンダー。八十四歳という年齢を感じさせない、身長百八十センチの堂々たる体軀を、王家の色である濃紺のビロードのマントが包んでいる。その胸元には、王国の紋章たる「永遠の桜」が、眩いばかりの黄金の刺繍で施されていた。彼の顔には、偉大すぎる父からこの国を受け継ぐという、計り知れない責任の重さが影を落とす一方で、それを乗り越えんとする静かで鋼のような決意が刻まれていた。
そして、その一歩後ろを、クラル王が続く。身長百八十五センチ、艶やかな黒髪に、空の青を溶かし込んだかのような瞳。四十代にしか見えぬその容姿から放たれる存在感は、見る者全ての呼吸を奪うほどに圧倒的だった。今日という特別な日のために、彼は王国建国時に天から与えられたと伝わる伝説の御衣、「神王の御衣」をその身に纏っていた。純白のシルクに金糸で織り込まれた複雑極まる紋様は、差し込む光の角度によって虹色の輝きを放ち、彼が人ならざる者であるという事実を、参列者の脳裏に焼き付けた。
二人は万雷の拍手の中をゆっくりと進み、やがて玉座の前で向かい合って立ち止まった。
一万の参列者が、文字通り息を殺してその一挙手一投足を見守る中、クラルが静かに口を開いた。魔法の力が込められているわけではない。だが、彼の声は、この広大な間の最も後ろの席にまで、明瞭に、そして荘厳に響き渡った。
「本日ここに集った、グランベルクの民よ、そして大陸の友よ。長きにわたり、私はこの国を、そしてこの世界の一角を統治してきた」
完璧な静寂が、会場を支配する。それはまるで、風の音さえもが王の言葉に聞き入っているかのようであった。
「しかし、統治とは、一人の人間が永続して担うべきものではない。それは、一つの世代から次の世代へと受け継がれ、時代の流れと共に発展し、進歩していくべきものだ」
クラルは、真っ直ぐに息子の顔を見つめた。
「息子よ、アレクサンダー。お前は私の血を継ぎ、私の理念を深く理解し、そして時に私を超えるほどの力をその身に宿した。今こそ、この国の真の未来を、お前のその両手に託す時が来たのだ」
その言葉を受け、アレクサンダーが深々と、恭しく頭を下げた。
「父上。偉大なる父上の御業を汚すことなく継承し、そして、新しい時代の要求に応えるべく、身命を賭してこの国を導くことを、ここに誓います」
第三場 統治の剣の継承
クラルは玉座の傍らに設えられた台座から、恭しく一振りの剣を取り上げた。
「統治の剣、『イーターナル』」
それは、王国建国の黎明期に、クラル王自身が星の欠片と古竜の牙を以て鍛え上げたとされる、伝説の宝剣であった。刃長は八十センチ、その刀身にはミスリル銀と竜の鱗の粉末が織り込まれており、まるで月光をそのまま固めたかのような幽玄な輝きを放っている。柄頭には、王家の紋章である「永遠の桜」を模した、巨大な宝石が埋め込まれていた。しかし、この剣の真の価値は、その物質的な美しさや鋭さにあるのではない。千年の間、王位と共に継承されてきた、その象徴的な意味にあった。
「この剣は、ただ敵を斬り裂くための武器ではない。これは、為政者が胸に抱くべき『統治の意志』、そのものの象徴である」
クラルは剣を両手で水平に捧げ持ち、アレクサンダーに向けて厳かに差し出した。
「悪を挫き、正義を貫く鋼の強さ。虐げられる民を守り、慈しむ太陽の慈愛。偽りを見抜き、真実の道を示す星々の知恵。そして何よりも、権力という蜜に溺れ、己の欲望に打ち克つ、不動の自制心。これら、王たる者に必須の徳のすべてが、この剣の一振り一振りに込められている」
アレクサンダーが、緊張に強張った両手で、その剣を受け取った。その瞬間、まるで剣が新しい主を認めたかのように、刀身が淡い光を放った。それは偶然、天井の窓から差し込んだ午前の陽光が、絶妙な角度で刃に反射しただけの物理現象に過ぎなかった。だが、その場にいた一万の参列者の目には、それがまごうことなき「神の祝福」として映った。
「アレクサンダー・グランベルク」
クラルの声が、一層厳粛な響きを帯びる。
「汝は今この瞬間より、グランベルク王国第二代国王として、この国と、国に生きる全ての民を統治する、至高の権威と無限の責任を継承する。汝の統治が、正義と平和、そして繁栄に満ちたものとなるよう、神々の大いなる加護があらんことを」
アレクサンダーは、受け取った剣を高々と天に掲げた。
「私、アレクサンダー・グランベルクは、神々と祖先の御前にて誓う。この国の永続的な繁栄と、民草一人ひとりの幸福のために、この命の最後の一滴までも捧げることを。常に正義を胸に貫き、慈愛を行動で示し、英知を以てこの国を統治することを!」
その宣誓が終わるや否や、会場は雷鳴のような拍手と、地鳴りのような歓声に包まれた。新しい王の誕生を祝福する熱狂は、数分間、鳴り止むことがなかった。やがて、その嵐のような喝采が収まると、今度はクラルが再び口を開いた。
第四場 神王の新たな宣言
「そして今、私、クラル・グランベルクは、ここに新たな誓いを立てるものなり」
参列者たちは、予期せぬ言葉に、再び水を打ったような静寂の中へと引き戻された。誰もが固唾を飲んで、神王の次の一言を待っていた。
「私は本日を以て統治者の座を完全に退き、新たなる役割、『見守り手』としての責務を引き受ける。この美しく、そして謎に満ちた世界を、より広く、より深く知るために。そして、未だ見ぬ国々、出会わぬ民族、触れたことのない文化から学び、そこで得た知恵を、いつの日かそれを必要とする者たちと分かち合うために」
その言葉を紡ぐクラルの瞳に、先程までの厳粛さとは全く異なる、新しい光が宿った。それは、千年の重責を終えた解放感というよりも、むしろ、これから始まる未知なる冒険への、少年のような純粋な興奮の輝きであった。
「私は『不朽の神』として、この国の最高宗教指導者としての地位は維持する。そして年に一度、定められた『神託の日』には必ずやこの地へ帰還し、国の行く末を左右する重要な決定に対し、助言を与えることを約束しよう。しかし、それ以外の日々の統治における一切の判断は、新王アレクサンダー、ただ一人に委ねるものとする」
その宣言を受け、アレクサンダーが再び父に向かって深く、そして感謝を込めて頭を垂れた。
「父上の偉大なるご指導を仰ぎつつも、それに甘えることなく、私自身の足で、私なりの王道を歩んでまいる所存です」
「それでよい、息子よ。王とは、誰かの作った道を歩む者ではない。自らの手で、道を切り開く者のことだ」
クラルは、会場の一万の瞳を一人ひとり見つめるかのように、ゆっくりと全体を見渡した。
「皆よ、新王アレクサンダーを支え、この国の輝かしい未来を、彼と共に築いてほしい。そして、これから始まる私の新たな旅路を、どうか温かく見守ってくれ」
再び、割れんばかりの拍手が巻き起こった。しかし、今度の拍手には、先程の祝福に加えて、千年の統治への心からの感謝と、偉大なる王との別れを惜しむ、万感の思いが込められていた。
第五場 エリオットとの最後の会話
喧騒が去り、荘厳な式典が幕を閉じた後、広大な玉座の間には、クラルと秘書長官エリオットの二人だけが残されていた。傾き始めた午後の陽光が、巨大なステンドグラスを通して色とりどりの光の帯となり、二人の影を床に長く伸ばしている。
「エリオット、この二十年間、本当にご苦労だった。心から感謝する」
クラルの労いの言葉に、エリオットは深く頭を下げた。
「勿体なきお言葉。私のような者こそ、陛下の治世という、歴史上最も重要な時代にお仕えできましたこと、生涯の光栄に存じます」
クラルはエリオットの肩に、そっと手を置いた。それは王が臣下に示す仕草ではなく、長年の友が友に示す、親愛の情のこもった仕草だった。
「君に、最後の命令だ。いや、命令という言葉はもう相応しくないな。一人の友人として、最後の願いを聞いてくれるか」
「なんなりと、お申し付けください」
「私はもう、いかなる公式な会議にも出席しない。日々の政治的な決定にも一切関与しない。全ては新王アレクサンダーの判断に任せる。君は今後、彼の秘書長官として、これまで私にしてくれたように、全身全霊で彼を支えてやってくれ」
エリオットの目に、堪えていた涙が光った。老練な政治家の仮面が剥がれ、一人の男としての寂寥感が滲み出ていた。
「陛下が、この王宮からおられなくなると思うと……」
「居なくなるわけではない。ただ、役割が変わり、居場所が変わるだけだ」
クラルは、窓の外、自身の書斎がある塔の方向を見つめた。
「私はこの千年、この城という名の美しい鳥籠の中で、政務に明け暮れてきた。それは確かに、計り知れないやりがいのある仕事だった。だが同時に、私は『この城の外にある広大な世界』を、この目で見る時間を、あまりにも持たなすぎた」
「新たな学びを、お求めになられるのですね」
エリオットは、主君の真意を悟った。
「そうだ。世界は広い。私が未だ知らぬ文化があり、私が到底理解できぬ価値観があり、私が一度も体験したことのない人間関係が、そこには無数に広がっているはずだ」
クラルの瞳は、窓の外の景色ではなく、その遥か向こうにある未知の世界を見つめていた。
「君も、報告書で知っているだろう?この大陸の遥か東端、五十数年前に彼の地に取り残された、帰還拒否者たちの子孫が、小さな国を築いたという話を」
「はっ。確か……『大和国』と名乗り、我々とは異なる独自の文化を育んでいる、との報告が上がっておりますが……」
クラルは満足そうに微笑んだ。「そこが、私の旅の、最初の目的地になるだろう」
第六場 書斎での地図研究
その夜、月明かりだけが静かに室内を照らす中、クラルは王宮の最上階に位置する、彼の私的な書斎にいた。
この円形の書斎は、床から天井まで、彼が長年にわたって世界中から収集した数万の書物と、数百枚の地図で埋め尽くされている。壁一面を覆う書棚には、各国の歴史書、文化人類学、言語学、そして失われた古代文明に関する民俗学の文献が、彼の meticulous な性格を反映して、分野ごと、年代ごとに完璧に整理されて並んでいる。しかし、今夜の彼の関心を独占していたのは、中央の巨大な円卓の上に広げられた、一枚の世界地図であった。
それは、縦二メートル、横三メートルにも及ぶ、羊皮紙を繋ぎ合わせて作られた精密な地図だった。既知の大陸のあらゆる地域、無数の島々、峻険な山脈、大河の流れ、そして栄枯盛衰を繰り返してきた都市の位置が、当代最高の地図職人の手によって、驚くべき精度で描き込まれていた。
「ここが、我がグランベルク王国」
クラルは、地図の中央からやや西寄りの、広大な版図をゆっくりと指でなぞった。紛れもなく大陸屈指の大国だが、この広大な世界全体から見れば、それはほんの一部分に過ぎないことを、彼は誰よりも理解していた。
「そして……ここが、大和国」
彼の指は、地図の最も東の端、大陸から突き出た小さな半島部分で止まった。グランベルクからの直線距離にして、およそ二千キロメートル。健脚な者でも三ヶ月、最速の馬を乗り継いでも二ヶ月はかかる、遥かなる旅路だ。
「五十七年前、私の手で彼の地へ送り届けた、あの帰還拒否者たち……リーダーだった田中源蔵という男は、まだ存命だろうか」
彼は地図の余白に、諜報部からもたらされた最新の情報を書き込んだ、自身のメモを読み返した。
人口:約四十五万人
主要都市:桜京(首都)
政治体制:桜、侍、忍の三騎士団による合議制
主要産業:米作を中心とした農業、独自の様式を持つ手工業、近隣諸国との限定的な貿易
特徴:日本と呼ばれる異世界の文化と、現地の土着文化の、奇妙ながらも美しい融合
「三騎士団による合議制、か。それぞれが異なる理念を掲げているという。実に面白い」
クラルは、他の未知の地域にも目を走らせた。
北方に広がる極寒のツンドラ地帯には、「氷の王国イスファーン」。
南方の灼熱の砂漠には、オアシスごとに独立した「砂漠の商業都市群」。
西方の嵐の海に浮かぶ島々には、「海の民の共和国」。
そして、海を越えた遥か南の大陸には、今なお多くが謎に包まれた「古代文明の遺跡群」が点在している。
「私が知らない文化、私がまだ出会っていない人々が、こんなにも多くいるのか……」
思わず、声に出して呟いていた。千年の統治者としての経験は、確かに何物にも代えがたい財産だ。だが同時に、それは「一つの場所に留まり続けていた」ことによる、視野の狭窄という限界もまた、彼にもたらしていた。
ふと窓の外に目をやると、王都の夜景が宝石を撒き散らしたように美しく広がっていた。無数に灯る街の明かりの一つ一つが、平和で豊かなこの国の民の生活を象徴しているかのようだった。
「アレクサンダーならば、心配ない。あの子は、この国を私以上に、より良い方向へと導いてくれるだろう」
彼は息子への信頼を胸に、再び地図へと視線を戻した。
「さて、明日からはどのような身分で旅をしようか。諸国の文献を渉猟する学者としてか。それとも各地の産物を商う商人としてか。いや……やはり、何の肩書きも持たぬ、ただの一般の旅人として、ありのままの自分でこの世界を見てみたい」
第七場 変装の準備と新たな身分
翌朝、まだ日の昇らぬ薄明かりの中、クラルは王宮の地下深く、ごく一部の者しかその存在を知らない「秘密の部屋」にいた。
この部屋は、彼が過去、王であることを隠して行う諜報活動や、極秘の外交交渉の際に使用してきた、あらゆる変装用具や偽造身分証明書を保管している、彼だけの特別な場所である。壁には、諸国の貴族の豪奢な衣装から、物乞いの纏うぼろ布までが所狭しと掛けられ、机の上には、髪の色を変える薬品、肌の質感を変化させる化粧品、そして実年齢を自在に操って見せる特殊な小道具の数々が、整然と並べられていた。
「さて、どのような男に化けるべきか」
彼は巨大な姿見の前に立ち、自身の素顔を冷静に吟味する。身長百八十五センチ、長年の鍛錬によって引き締まった筋肉質な体格、そして何より、一度見たら忘れられない、深く青い瞳。これら全てを、ありふれた市井の人物のそれへと変える必要があった。
まず、特殊な薬草を調合した染料で、艶やかな黒髪を、日に焼けて少し赤みがかった平凡な茶色に染め直す。そして、それを無造作に掻き上げるように整え、手入れの行き届いていない印象を与えた。次に、精巧な化粧技術を用いて、目元や口元に浅い皺を描き込み、実年齢を五十歳手前に見せる。服装は、仕立ては良いが、長旅で少し着古した、目立たない商人の旅装束を選んだ。
「名前は……クラウド・マーチャント、としようか。大陸中の珍しい香辛料を扱う、中堅どころの商人だ」
彼は、壁の隠し棚から、完璧に偽造された身分証明書を一枚取り出した。これはただの偽物ではない。グランベルク商人組合の印章も、透かしも、担当官の署名に至るまで、本物と寸分違わぬ精度で再現された逸品である。
さらに、商人としてのリアリティを追求するため、彼は実際の商品も入念に準備した。
荷馬車の積荷として、サフランやシナモン、クローブといった高品質な香辛料を数種類。
見本として携行するための、上質な絹織物の切れ端。
グランベルク王国の特産品である、伝統的な意匠の陶器や木彫りの工芸品。
そして、帳簿には、過去三年間にわたる、もっともらしい取引の記録を自らの手で書き込んだ。
「これだけ揃えておけば、どこの国のどんなに抜け目のない税関役人でも、まさか私の正体を疑うことはあるまい」
最後に、彼は旅の資金を革袋に詰めた。金貨五百枚、銀貨二千枚、そして大陸諸国の通貨も少量ずつ。大商人としてはささやかだが、個人商人としては十分すぎるほどの資金量だ。
鏡の前で、彼は入念に最終チェックを行う。
「よし。クラウド・マーチャント、四十五歳、独身。グランベルク王都出身の香辛料商人。東方の未だ見ぬ商品を求め、長い旅に出ている、と」
変装は完璧だった。神王としての近寄りがたい威厳は完全に消え去り、そこには、どこにでもいる、少し人の好さそうな、実直な中年商人の姿があるだけだった。
第八場 旅立ちの朝
グランベルク暦千二百四十七年、春。若葉が萌え、生命が息吹く四月十五日の早朝。
まだほとんどの人影もない王都の東門から、一台の何の変哲もない荷馬車が、車輪の軋む音を響かせながら、静かに出発した。御者席に座るのは、人の良さそうな中年商人風の男。日の出前の薄闇の中、門番たちも軽く会釈を交わすだけで、その男が、昨日までこの広大な王国を統治していた神王その人であるとは、誰も夢にも思わなかった。
幌に覆われた荷台の中で、クラウド・マーチャントと名を変えたクラルは、改めて旅の計画を最終確認していた。
第一目的地:大和国(桜半島)
所要期間:約二ヶ月間の長旅
通過予定地:
まず、国内最大の商業都市ミッドランドに一週間滞在し、商人としての足場を固める。
次に、国境の町ボーダータウンで出国手続きを行い、三日ほど滞在。
そこから先は、大陸東部に点在する幾つかの都市に二、三日ずつ立ち寄りながら情報を収集し、最終目的地である大和国の首都、桜京を目指す。
「田中源蔵翁は、御年九十二歳か。私が救ってから、もう五十数年。まだ、お元気でいてくれると良いのだが」
荷馬車が、王都を取り囲む最後の城壁を抜け、郊外の街道に差し掛かったその時だった。後方から、蹄の音が急速に近づいてくる。振り返ると、朝靄を切り裂いて、一騎の騎士がこちらに向かって駆けてくるのが見えた。騎乗の人物は、新王アレクサンダーであった。
「父上!」
クラルは御者に合図して荷馬車を停止させ、幌から顔を出して息子に向き直った。
「どうした、アレクサンダー。見送りならば、昨夜のうちに済ませたはずだが」
「どうしても、どうしてももう一度、お礼を申し上げたくて」
アレクサンダーは馬から飛び降りると、旅装の父の前で、王としてではなく、一人の息子として、深々と頭を下げた。
「父上が築き上げてこられた、この平和で豊かな国……父上の偉業を、私は決して、決して無駄にはいたしません。必ずや守り抜き、さらに発展させてみせます」
「分かっている。お前なら、必ずやれる。そして、いずれ私を超える王になるだろう」
「父上のお帰りを、この国の民と共に、いつでもお待ち申し上げております」
「ああ。年に一度の約束の日は、必ず帰る。それまでに、世界中の面白い土産話を、山ほど集めてくるさ」
父と息子は、最後の、そして力強い抱擁を交わした。そして、荷馬車は再び東へ向かって、ゆっくりと進み始めた。
終幕 新たな冒険への期待
地平線の向こうに、父を乗せた荷馬車の影が、朝陽に溶けるように消えていくのを、アレクサンダー王はいつまでも見送っていた。その胸には、偉大なる父への尽きせぬ感謝と、己が背負う責任の重さが、新たな決意となって満ちていた。
同じ頃、ゆっくりと揺れる荷馬車の中で、クラルは千年の人生で初めて感じる、完全な自由という感覚に、その身を浸していた。
「私はこれまで、常に『王』という役割として生きてきた。だが今日この瞬間から、私はただの一人の人間として、この広大な世界を見つめることができる」
荷馬車は、春の息吹に満ちた広大な野原を進んでいく。道端には、名も知らぬ色とりどりの野花が咲き乱れ、空高くでは雲雀が楽しげにさえずっている。遠くに見える山々の、そのさらに向こうに、未知の文化と、未知の人々との出会いが待っている。
「大和国では、一体どのような人々と出会うことになるのだろうか。そして私は、この旅で、何を学び、何を得ることができるのだろうか」
これまでの、統治者として生きてきた千年よりも遥かに心躍る、本当の意味での冒険が、今、静かに始まった。
神王クラル・グランベルクの、新たなる旅路。それは、世界の多様性の深淵を覗き込み、一人の人間としての器を無限に広げていく、かけがえのない学びの旅となるだろう。
やがて太陽が中天に高く昇る頃、その荷馬車は、最初の目的地であるミッドランド商業都市に向かって、軽快な車輪の音を響かせながら、進み続けていた。
**次回予告**
大陸東端の桜半島で、帰還拒否者の子孫たちが築いた大和国。そこでは三つの騎士団による独特の政治体制が確立されていたが、世代間の価値観の違いが深刻な対立を生んでいた。商人クラウド・マーチャントとして潜入したクラル王が最初に目にするのは、美しくも複雑な文化融合の実験場だった。