閑話: ハートスワップ/プロジェクト・パーフェクト
これはネオニッポンに召喚された人々の故郷日本で起こったとある出来事の一部始終だ。
医学部図書館の古い木製の机に向かい、佐藤真一は神経解剖学のテキストを開いていた。窓からこぼれる夕暮れの光が、図書館内の埃を舞い上げ、幻想的な光景を作り出している。指先でページをめくる音だけが静寂を破る。彼の傍らには、父から譲り受けた聴診器が置かれていた。それは彼の宿命—心臓外科医の息子として歩むべき道—を象徴するかのようだった。
佐藤はため息をつき、集中力を失いかけていた。神経終末と神経伝達物質に関する長々とした説明を読み、試験のために暗記しなければならない。しかし心のどこかで、この勉強に対する空虚さを感じずにはいられなかった。
ふと、休憩のためにパソコンを開き、メディカルジャーナルを検索した。そこで彼の目を引いたのは、『Current Topics in Cardiology』に掲載された一つの記事だった。
「心臓移植患者における性格変化の臨床的観察:細胞記憶に関する新仮説」
タイトルを見た瞬間、佐藤の瞳孔が開いた。指先が微かに震え、マウスでリンクをクリックした。
記事は心臓移植後の患者における奇妙な変化を詳細に分析していた。34歳の女性は移植後、突如としてドナーと同じバイオリンに魅了され、以前は聴いたこともなかったクラシック音楽を好むようになった。別の症例では、57歳の男性が、嫌っていたスパイシーな食べ物を急に好むようになり、ドナーが実はメキシコ料理のシェフだったことが後に判明した。
佐藤は画面に釘付けになった。「心臓に記憶が宿る…」その言葉が彼の脳内でリピートする。医学生として、彼はそれが科学的に受け入れられていない仮説であることを知っていた。しかし、その可能性が彼の心に炎を灯した。
図書館の壁時計が9時を告げ、閉館の時間が迫っていた。佐藤は急いで記事を保存し、バッグに教科書を詰め込んだ。
佐藤のアパートは、大学から徒歩15分の場所にある。父親の経済力によって、他の学生よりも恵まれた環境に住んでいた。ドアを開けると、白い壁と整理整頓された部屋が広がる。壁には医学の図表と、父との写真が飾られている。
佐藤は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、一気に飲み干した。そして部屋の中央に置かれた作業机に向かった。彼はパソコンを立ち上げると、先ほど保存した記事を再び開き、今度は細部まで熟読し始めた。
読み進めるにつれ、彼の胸の鼓動は次第に速くなっていった。記事の最後には数行の文献リストがあり、佐藤は即座にそれらを全てダウンロードした。次々と開かれる論文の中に、彼は答えを求めていた。
「心臓細胞における記憶保持の可能性」
「移植後性格変化:ドナー特性の継承か、薬物療法の副作用か」
「細胞記憶:量子生物学的アプローチ」
深夜2時。窓の外は漆黒の闇に包まれ、佐藤の部屋だけが青白いモニターの光で照らされていた。彼のノートには乱雑な文字で「心臓 = 記憶?」「心臓 = 性格?」といった言葉が書き連ねられ、その周りには複雑な図解が描かれている。
瞳孔は開いたまま、指先は机の上でリズムを刻み、佐藤の中で何かが変わり始めていた。「もし…」と彼は声に出した。「もし本当に心臓が人格を形作るなら…」
部屋の隅にある鏡に映る自分の姿。整った顔立ちに反して、佐藤は常に自分の内面に不満を抱いていた。父親のように決断力があれば、母親のように知的な魅力があれば—。そして今、彼の目の前には答えがあるかもしれない。
「理想の外見と、理想の内面を持つ人間…それを一つに…」
その考えは医学的倫理に反するものだった。いや、法律にも人道にも反する。だが、その瞬間の佐藤の目には、科学的好奇心と狂気が入り混じっていた。彼は引き出しから古い日記帳を取り出し、その最後のページに新たな記述を始めた。
「プロジェクト・パーフェクト:第一段階」
翌朝、いつもの生理学の講義。佐藤は一晩中寝ていないにもかかわらず、異様なまでに覚醒していた。講義中、彼の目は講師ではなく、講堂に集まる学生たちを観察していた。男性も女性も、若い彼らの体は完璧に機能している。心臓は一日に約10万回脈打ち、5リットルの血液を全身に循環させる。その心臓が、もし他の体に移植されたら…。
講義が終わると、佐藤は急いでカフェテリアに向かった。そこで親友の中村拓也を見つけた。中村は背が高く、スポーツマンらしい体つきをしており、女子学生たちの間で人気があった。
「よう、真一。どうした?顔色悪いぞ」と中村は心配そうに声をかけた。
佐藤は微かに笑顔を作り、隣に座った。「ちょっと徹夜しただけだ。聞きたいことがあるんだけど…」
彼は慎重に言葉を選んだ。「知的でカリスマ性のある人を探しているんだ。研究のためなんだけど」
中村は眉をひそめた。「研究?どんな研究だ?」
「性格と身体的特徴の相関性について調べているんだ」佐藤は準備していた嘘をスムーズに口にした。「特に、知性やカリスマ性が身体のどの部分と関連しているのかを研究している」
中村は頭を掻きながらも納得したようだった。「へえ、面白そうだな。でも、そんな暇あるのか?解剖学の中間試験が来週だぞ」
「大丈夫、時間の管理はできている」佐藤は落ち着いた様子を装った。「それで、誰か紹介してくれないか?」
「まさか…」中村はにやりと笑った。「そういう子がタイプってことか?」
佐藤は一瞬、困惑したが、すぐに対応した。「いや、男でも構わない。純粋に研究のためだ」
その言葉に中村は少し驚いたが、すぐに肩をすくめた。「わかった、探してみるよ。あ、そういえば、椎名祐介ってやつを知ってるか?心理学専攻の院生で、講演とかもやってる。あいつ、すごくカリスマ性があるぞ」
佐藤の瞳が輝いた。「本当か?紹介してくれないか?」
「いいよ、連絡取ってみる」と中村は軽く答えた。彼は友人の突然の熱意を不思議に思いながらも、それ以上は詮索しなかった。
佐藤は内心で喜びに震えていた。計画の第一歩が始まった。だが、彼は心の中でもう一人の人物を思い描いていた—山田美咲。医学部では珍しい美貌の持ち主で、佐藤のクラスメイトだ。彼女の完璧な容姿と、椎名のカリスマ性。この二つが融合したら…。
数日後、中村は約束通り、椎名祐介と佐藤を引き合わせた。三人は大学近くのカフェで落ち合った。椎名は高身長で痩せ型、知的な印象を与える眼鏡をかけていた。しかし、彼の最も印象的な特徴は、話し始めた瞬間に周囲の空気を支配する能力だった。
「佐藤君、君の研究に興味があるよ」椎名の声は静かでありながら、確かな存在感を持っていた。「性格と身体的特徴の相関、特に心理学的側面からアプローチするのは面白いね」
佐藤は緊張を隠し、落ち着いた態度を装った。「ありがとう。特に心理学的な視点は僕には足りないから、君の意見を聞かせてほしいんだ」
彼らの会話は徐々に深まり、椎名は自分の研究テーマである「集団心理と個人のカリスマ性」について熱心に語った。佐藤はノートを取りながらも、椎名の仕草、話し方、そして何より彼の周囲に漂う特別なオーラを注意深く観察していた。
「佐藤君、君は何故この研究に興味を持ったんだい?」椎名の鋭い質問が突然飛んできた。
佐藤は一瞬の戸惑いを見せたが、すぐに答えを返した。「人間の本質を理解したいからだ。特に、私たちの性格や思考パターンが物理的な身体とどう結びついているかに興味がある」
椎名はその答えに満足したように微笑んだ。「深いな。僕も協力するよ」
会話が終わりに近づいた頃、佐藤は決断した。「椎名さん、今度は私の研究室で詳しい検査をさせてもらえないだろうか?もちろん、大学の倫理委員会の承認済みの範囲内だけど」
それは嘘だった。佐藤には研究室も、倫理委員会の承認もなかった。ただ、彼は父親の医院の設備を使う予定だった。
椎名は少し考え込んだが、やがて頷いた。「いいよ。興味深い研究だし、協力したい」
佐藤はそれ以上の感情を表に出さないよう注意した。「ありがとう。じゃあ、後日連絡するよ」
カフェを出た後、佐藤は静かに微笑んだ。計画は順調に進んでいる。あとは山田美咲に接触するだけだ。
翌週の解剖学実習中、佐藤は意図的に山田美咲の隣に立った。彼女は整った顔立ちと均整のとれた体型を持ち、どこか儚げな雰囲気を漂わせていた。しかし、佐藤が求めているのは彼女の外見だけだった。
「山田さん、このラベリングを手伝ってくれないか?」佐藤は自然な声で話しかけた。
山田は少し驚いたが、優しく微笑んだ。「もちろん」
二人は共同作業を始め、佐藤は徐々に会話を発展させていった。「実は、性格と身体的特徴の相関性について研究しているんだ。よかったら参加してくれないか?」
山田は最初は躊躇ったが、佐藤の熱心な説明に次第に興味を示し始めた。「どんな検査をするの?」
「簡単な心理テストと身体測定だけだよ。大学の倫理委員会にも承認されている研究だから、心配はないよ」
またしても嘘だが、佐藤の顔には真摯な表情が浮かんでいた。山田は少し考え込んだ後、「わかった、参加する」と答えた。
佐藤は内心で勝利を確信した。二人の被験者が揃った。これで計画の第一段階は完了だ。
その夜、佐藤はアパートの作業机に向かい、詳細な計画を練った。椎名と山田の情報を並べ、彼らの特徴を細かく分析した。椎名の鋭い知性とカリスマ性、山田の美しい容姿と控えめな性格。
「完璧な人間…」佐藤はその言葉を何度も繰り返した。彼の頭の中では、すでに具体的な手順が浮かび上がっていた。しかし、それを実現するには、非倫理的かつ違法な手段が必要だった。
佐藤は医学書の山の中から外科手術の専門書を取り出し、移植手術の手順を丹念に読み始めた。彼の目には狂気の光が宿り、指先は本のページをめくりながら微かに震えていた。
「完璧な人間を作り出す…」その言葉は呪文のように彼の心に刻まれていった。
次の数週間、佐藤は椎名と山田の両方と定期的に会い、「研究データ」を収集し続けた。実際には、彼は彼らの性格、行動パターン、反応を詳細に記録していた。特に椎名のカリスマ性の源泉に注目し、彼の声のトーン、ボディランゲージ、思考プロセスを詳細に分析した。
同時に、山田の身体的特徴を詳細に記録した。彼女の身長、体重、血液型、そして特に重要な心臓の状態まで。佐藤は父親の病院から持ち出した携帯型心電図で、さりげなく彼女の心拍データを収集していた。
ある夕方、佐藤は椎名と山田を同時に研究室(実際には父親の診療所の一室)に招いた。彼は二人が互いに興味を持ち、知り合うことを望んでいた。
「椎名さん、山田さん、今日は来てくれてありがとう」佐藤は冷静に話した。「今日は少し違ったアプローチで研究を進めたい。二人の相互作用を観察させてほしい」
椎名は興味を示し、山田はやや緊張した様子だった。佐藤は意図的に二人を向かい合わせに座らせた。「まずは自己紹介から始めてください。その後、いくつかの質問に答えてもらいます」
椎名は自信に満ちた態度で自己紹介を始めた。その話し方は山田の注意を引きつけ、彼女は徐々に緊張を解いていった。佐藤はその様子を観察しながら、内心で喜びを感じていた。彼の目的は、単に二人を知り合わせることではなく、二人の相性を確認することだった。
「完璧な」結果を得るためには、彼らの相性が重要だった。心臓移植後、二人の特性が最大限に発揮されるためには、基本的な相性が必要だと佐藤は考えていた。
観察の結果、佐藤は満足した。椎名のカリスマ性は山田に強い印象を与え、山田の静かな美しさは椎名を魅了していた。二人の間には、明らかな引力が働いていた。
「完璧だ…」佐藤は独り言を呟いた。計画は予想以上に順調に進んでいる。彼の頭の中では、次の段階—最終段階—の準備が始まっていた。
深夜、佐藤のアパートの作業机には大量の医学書と手術器具が広がっていた。彼は父親の病院から少しずつ持ち出した器具で、自分なりの「手術室」を整え始めていた。壁には椎名と山田の詳細な身体データと、心臓移植の手順を示す図解が貼られていた。
佐藤は冷たい金属の手術用メスを手に取り、その鋭さを確かめた。彼の心臓は高鳴り、手には微かな震えがあった。しかし、その目には確固たる決意が宿っていた。
「完璧な人間を創造する…」
彼の狂気じみた熱意は、もはや誰にも止められない所まで来ていた。倫理も法も、彼の内なる欲望の前には壁とはならなかった。佐藤真一は、自らの手で神になろうとしていたのだ。
その夜、彼は最後の計画を練り上げた。椎名と山田を同時に誘い出し、特別な「実験」を行うと伝える。そして二人が来たところで…。
佐藤の顔には不気味な微笑みが浮かんだ。あとは実行あるのみ。
# 完璧な人間を求めて - 続き
佐藤のアパートの窓から漏れる微かな光が、深夜の静寂を破る唯一の存在だった。彼は父親の病院から持ち出した生体モニターを組み立てながら、頭の中で手順を何度も確認していた。小さなデジタル時計が午前3時12分を示している。睡眠を取らない日々が続き、佐藤の目の下には濃い隈ができていたが、その目は異様な集中力で輝いていた。
「麻酔薬の量、血液型の適合性、抗生物質、免疫抑制剤...」彼は声に出して確認しながら、ノートに記された手順をチェックしていく。ノートの端には「D-7」と書かれていた。計画実行まであと7日。
彼は椎名と山田の詳細な医療データを集めるために、父親の病院のデータベースにアクセスする方法を考えていた。医学部の学生IDを使えば、限定的なアクセス権は得られるはずだ。
「心臓移植後の免疫反応...」佐藤は医学書の該当ページを開き、再度確認した。「HLA適合性が重要だが、緊急時には完全一致でなくとも...」
彼は立ち上がり、部屋の壁に貼られた椎名と山田の写真を見つめた。その視線は冷静でありながら、どこか狂気を孕んでいた。
そして、もう一つの重要な資料を取り出した。それは椎名と山田の個人的背景に関する詳細な調査メモだった。佐藤は彼らを選んだのは、外見と性格だけではなかった。彼らが「消えても」大きな騒ぎにならない可能性が高いという点も考慮していたのだ。
椎名祐介のファイルには「家族関係:疎遠」と記されていた。椎名は地方出身で、大学院に進学するために単身上京。両親は数年前に離婚し、父親は海外に移住、母親は再婚して新しい家庭を築いていた。彼は奨学金と単発のアルバイトで生活費を賄い、SNSの使用も最小限だった。休暇中も実家に帰らず、研究に没頭するタイプとして知られていた。
山田美咲のファイルには「不安定な生活状況」と書かれていた。彼女は以前からうつ病の治療を受けており、過去に一度、自殺未遂の記録があった。大学の保健センターの記録によると、山田は定期的にカウンセリングを受けていたが、最近は予約をキャンセルすることが増えていた。SNS上では「旅立ちたい」「消えたい」といった投稿が散見され、親友と呼べる人物もいない孤立した存在だった。
佐藤はこれらの情報を整理しながら、自分の計画の完璧さに満足していた。椎名が突然姿を消せば、「研究のために海外に行った」と思われるだろう。山田の場合は、「精神的な問題で休学」あるいは最悪の場合「自ら命を絶った」と解釈される可能性が高い。
「完璧だ...」佐藤は小声で呟いた。「二人とも、すぐには捜索されないだろう」
翌朝、佐藤は通常より早く大学に到着した。医学部の図書館は8時に開館するが、彼は7時45分には入り口で待機していた。開館と同時に中に入り、最も奥まった席を確保する。
彼はパソコンを起動し、父親から教えてもらった医療データベースにアクセスした。「学術研究目的」という名目で、血液型や組織適合性に関する一般的なデータを検索する。そして意図的に画面をスクロールさせながら、大学病院の患者データベースへのリンクを見つけ出した。
「パスワードが必要か...」佐藤は小声で呟いた。彼は父親のオフィスで何度か目にしたことのあるパスワードの組み合わせを試してみる。一度目は失敗。二度目も。三度目で「パスワードを忘れましたか?」というメッセージが表示された。佐藤は諦めず、父親の誕生日と母親の旧姓を組み合わせたパスワードを入力した。
画面が切り替わり、データベースのメイン画面が表示された。「やった...」彼の唇が薄く笑みを作る。
まず椎名祐介の名前を検索する。大学病院での受診歴はないようだ。次に山田美咲を検索したところ、昨年の健康診断のデータと、メンタルヘルス科の受診記録が見つかった。佐藤は急いでそのデータをUSBメモリにコピーした。
彼はさらに「寮生不在届」のデータベースにアクセスした。椎名と山田はどちらも大学の寮に住んでいることを事前に調査済みだった。佐藤は過去の不在届のフォーマットを参考に、二人分の偽の届出を作成する計画だった。椎名の場合は「研究交流のため、京都大学に3週間の短期留学」、山田の場合は「体調不良のため、実家に一時帰省」という内容だ。
図書館の他の利用者が増え始めたため、佐藤は慎重にデータベースからログアウトし、通常の医学論文検索に戻った。しばらく論文を読むふりをした後、彼はパソコンをシャットダウンし、次の講義に向かった。
生理学の講義中、佐藤の頭の中は計画のことでいっぱいだった。山田のデータはあるが、椎名のデータがない。彼の健康状態を確認するには、直接検査を行うしかない。それには正式な医療行為として装う必要がある。
講義が終わると、佐藤は即座に椎名にメッセージを送った。
「研究の次段階として、基本的な生体データが必要になった。大学の医学研究センターで簡単な検査ができないだろうか?もちろん、学術研究倫理委員会の承認済みだ」
これも嘘だった。実際には佐藤は父親の診療所の鍵を持っており、週末に父親が不在の時間帯を狙っていた。
椎名からの返信はすぐに来た。「いいよ。いつがいい?」
佐藤は来週の土曜日、午後3時を提案した。父親がゴルフに行く時間だ。
次に山田にも同様のメッセージを送ったが、彼女の検査は日曜日に設定した。二人を同じ日に呼ぶのは危険すぎる。
両方から承諾の返事を得ると、佐藤は静かに微笑んだ。「D-6」と彼はノートに記した。
土曜日の午後、佐藤は父親の診療所で椎名を待っていた。白衣を着て、本物の医師のように振る舞う。診療所は週末は休診だが、父親は佐藤に「勉強のために」と鍵を預けていた。もちろん、父親は息子がどんな「勉強」をするつもりなのか知る由もなかった。
3時ちょうど、ドアのチャイムが鳴り、椎名が現れた。彼はいつもの知的な雰囲気を漂わせていた。
「やあ、佐藤君。ここが研究センターなのか?」彼は周囲を見回した。
「ああ、医学部の特別研究施設だ。週末は人が少ないから、静かに研究できるんだ」佐藤は自然な笑顔を浮かべた。「さあ、こちらへ」
彼は椎名を診察室に案内した。そこには心電図や血圧計、採血用の器具が用意されていた。
「まずは基本的なバイタルサインから測定するよ」佐藤は専門家のように説明した。「血圧、心拍数、それから血液検査も少しだけね」
椎名は特に疑問を持った様子もなく、指示に従った。佐藤は慎重に彼の血圧と心拍数を測定し、記録した。次に採血の準備を始めた。
「腕を出してください」佐藤は血管を確認しながら言った。「少し痛むかもしれないけど、すぐに終わるよ」
彼は椎名の腕に消毒液を塗り、針を刺した。深紅の血液が試験管に流れ込む様子を、佐藤は少し長く見つめた。
「十分だよ」彼は二本の試験管を血液で満たすと、綿球を椎名の腕に押し当てた。「少し押さえていてね」
椎名は何も疑わず従っていた。「これでどんなことがわかるの?」
「性格特性と血液中のホルモンバランスの相関関係を調べるんだ」佐藤は準備していた説明をスムーズに話した。「特に、リーダーシップやカリスマ性を持つ人の血液には特定のパターンがあるという仮説を検証している」
椎名は興味を示した。「面白いね。結果を教えてくれるのかい?」
「もちろん」佐藤は微笑んだ。「研究が終わったら、詳細なレポートを共有するよ」
検査が終わると、佐藤は最後に心電図を取ることを提案した。「これで君の心臓の状態がわかるんだ」
椎名は同意し、シャツを脱いで検査台に横になった。佐藤は電極を彼の胸に取り付け、モニターを注視した。その波形は美しく規則正しかった。「完璧な心臓だ...」佐藤は内心で喜んだ。
検査が全て終わると、佐藤は椎名に感謝を述べ、来週も再度検査が必要だと伝えた。椎名は快く承諾し、診療所を後にした。ドアが閉まる前に、佐藤は他愛もない質問をした。
「そういえば、来週の予定はどうなの?研究で忙しいかな?」
椎名は肩をすくめた。「特に予定はないよ。論文を書いているけど、締切はまだ先だし」
「そうか」佐藤は満足げに頷いた。確かに、椎名が突然消えても、すぐには不審に思われないだろう。
椎名が去った後、佐藤は採取した血液サンプルと心電図データを丁寧に保存した。そして父親のオフィスにあるコンピュータに、椎名の詳細な医療プロファイルを作成し始めた。血液型、心臓の状態、免疫プロファイル...全てを記録していく。
「D-6完了」彼はノートに記し、明日の山田との検査の準備を始めた。
日曜日の午後も同様に、佐藤は父親の診療所で山田を待っていた。昨日と同じ白衣を着て、同じように振る舞う。ただし、山田との会話はより親しみを込めたものにした。
「山田さん、今日はありがとう」佐藤は穏やかな声で言った。「研究に協力してくれて本当に嬉しいよ」
山田は少し緊張した様子で微笑んだ。「私で役に立てるなら...」
検査の手順は椎名の時と同じだったが、佐藤は山田の体に触れる際、わずかに長く手を留めた。彼女の皮膚の感触、体温、香りを記憶に刻むように。
採血の際、佐藤は「痛くないように」と特に慎重に針を刺した。山田は針が刺さる瞬間、小さく眉をひそめた。
「大丈夫?」佐藤は優しく尋ねた。
「ええ、平気です」山田は弱々しく微笑んだ。
血液サンプルを採取し終えると、佐藤は山田にも心電図検査を提案した。山田は少し恥ずかしそうにしながらも、上着を脱ぎ、薄手のシャツだけの状態で検査台に横になった。
佐藤は電極を彼女の胸に取り付けながら、その肌の白さと柔らかさを観察した。モニターに表示される山田の心電図は、椎名のものとは明らかに異なっていた。
「少し不整脈があるね」佐藤は専門家のように言った。「心配することはないけど、定期的にチェックした方がいいかもしれない」
山田は少し心配そうな表情を浮かべた。「重大なことではないですよね?」
「いいえ、全く問題ないよ」佐藤は彼女を安心させた。「ただ、研究のためにもう少し詳しく調べたいので、来週もまた来てくれないかな?」
山田は同意し、佐藤に感謝を述べて診療所を後にしようとした。ドアの前で、佐藤は彼女に尋ねた。
「最近、調子はどう?大学生活は順調?」
山田は少し驚いたように佐藤を見た後、視線を落とした。「まあ...普通です」
「何か悩みでもあるの?」佐藤は心配そうに尋ねた。
彼女は少し躊躇った後、小さな声で答えた。「実は...休学を考えているんです。授業についていくのが辛くて...」
佐藤は驚いたふりをした。「そうなんだ。誰かに相談した?」
山田は首を横に振った。「いいえ。友達も...あまりいないので」
「そうか」佐藤は優しく微笑んだ。「何か力になれることがあったら言ってね」
山田は感謝の表情を見せ、診療所を後にした。佐藤は窓から彼女の後ろ姿を見送りながら、心の中で満足げに笑った。やはり予想通り、山田は孤立していた。彼女が消えても、すぐには気づかれないだろう。
彼女が去った後、佐藤は採取した血液サンプルと心電図データを保存し、山田の医療プロファイルも作成した。そして二人のデータを並べて分析し始めた。
「血液型...椎名はO型、山田はAB型...」佐藤は声に出して考えた。「組織適合性は...」
彼は父親から借りてきた医学書を参照しながら、二人の組織適合性を推測した。完全な分析には専門的な検査が必要だが、基本的なデータからある程度の予測はできる。
「移植後の拒絶反応のリスク...中程度か」佐藤はため息をついた。「免疫抑制剤の投与量を増やす必要があるな...」
彼は薬品リストを確認し、必要な免疫抑制剤の種類と量を計算し始めた。父親の病院から少しずつ調達するには、時間が必要だ。
「D-5完了」佐藤はノートに記し、次の段階の準備を進めた。
翌日、佐藤は通常通り大学に通い、講義や実習に参加した。表面上は普通の医学生だが、彼の頭の中は計画でいっぱいだった。解剖学の実習中、教授が心臓の構造について説明している間、佐藤は特に注意深く聴いていた。
「大動脈と肺動脈の接続は、心臓移植において最も注意を要する部分です」教授の言葉が佐藤の耳に響く。「一度でも間違えると、患者の命は失われます」
佐藤は丁寧にノートを取りながら、自分の計画に活かせる情報を集めていた。
実習後、彼は学生課に向かい、偽造した書類を提出する機会を探った。「不在届」の提出方法や処理手順を確認するため、事務員に尋ねた。
「友人が急に実家に帰ることになって、手続きを教えてほしいんです」佐藤は自然に尋ねた。
「不在届はオンラインでも提出できますよ」事務員は答えた。「学生ポータルからログインして、『各種申請』の中にあります」
佐藤は感謝を述べ、その日の午後、図書館のパソコンから椎名と山田のアカウントに不正アクセスする準備を始めた。以前の「研究」の際、二人がパスワードを入力する様子を盗み見ていたのだ。
図書館の一角で、佐藤は椎名のアカウントへのログインを試みた。パスワードは「NeuroPsych2022」—椎名が専攻している神経心理学と入学年度の組み合わせだった。見事にログインに成功し、不在届のフォームに偽情報を入力した。
「研究:京都大学認知科学研究室との共同研究のため、3週間の短期留学」
「連絡先:kyoto.research@mail.com」(佐藤が作成した偽のメールアドレス)
「期間:〇月×日~△月□日」(計画実行日から3週間後まで)
全ての項目を埋め、提出ボタンを押した。システムは「申請を受け付けました」というメッセージを表示した。
次に山田のアカウントへのアクセスを試みる。山田のパスワードはより単純で、「Misaki1998」—彼女の名前と生年だった。こちらもスムーズにログインでき、同様に不在届を提出した。
「理由:体調不良のため、実家での療養」
「連絡先:parents_house@mail.com」(別の偽メールアドレス)
「期間:〇月×日~未定」
二つの偽申請を完了させた佐藤は、満足げに図書館を後にした。これで彼らが消えても、少なくとも数週間は大学側が不審に思うことはないだろう。
夕方、図書館を出た佐藤は偶然、中村拓也と出会った。
「おい、真一!最近全然姿を見ないと思ったら、ここにいたのか」中村は陽気に声をかけた。
佐藤は友人に微笑みかけた。「ああ、研究で忙しくてさ。椎名を紹介してくれてありがとう。とても参考になっているよ」
「そうか?良かった」中村は佐藤の肩を軽く叩いた。「それで、例の研究はどんな感じなんだ?」
佐藤は一瞬緊張したが、すぐに取り繕った。「まだ初期段階だけど、面白いデータが集まり始めている。特に椎名のカリスマ性は、生理学的に説明できる可能性があるんだ」
「へえ、すごいじゃないか」中村は興味を示した。「具体的にはどんな...」
佐藤は話題を逸らすように遮った。「まだ確定的なことは言えないんだ。もう少し研究が進んだら教えるよ。それより、週末どうだった?」
二人は他愛もない会話を続けながら、キャンパスを後にした。中村は親友の様子が少し変わったことに気づいていたが、それを研究への集中のせいだと解釈していた。
「そういえば」中村が突然言った。「椎名、来週から京都に行くんだってな。研究交流かなんかで」
佐藤は驚いたふりをした。「へえ、そうなんだ。彼から直接は聞いてなかったよ」
「寮の奴から聞いたんだ」中村は肩をすくめた。「せっかく研究が進んでるのに、タイミング悪いな」
「大丈夫」佐藤は微笑んだ。「彼とは既に十分なデータを取ってるから」
夜、佐藤はアパートに戻ると、すぐに作業に取りかかった。父親の病院から持ち出した医療用品の在庫を確認し、必要なものリストを更新する。
「麻酔薬...不足、免疫抑制剤...不足」佐藤は呟きながら、ノートに記した。「明日、病院に行く必要がある」
彼は壁に貼られた椎名と山田の写真を見つめた。「もうすぐだ...」その目は決意に満ちていた。
また、彼は計画後の証拠隠滅についても考えていた。二人の個人所持品—スマートフォン、財布、IDカード—はどうするか。それらを完全に処分するための方法を考え、地図を広げた。
「全てを粉々に粉砕し、紙類は燃やし、電子機器はシュレッダーにかけた後に...」彼は父親の診療所の裏手を流れる川の位置を確認しながら計画を練った。「粉砕したものは複数の場所に分散させて川に流す。完全に痕跡を消せるはずだ」
「D-4」彼はノートに記し、就寝準備を始めた。しかし、興奮で眠れない彼は、夜中までベッドの上で計画を反芻していた。
翌日、佐藤は午後の講義をすべて欠席し、父親の病院に向かった。彼は学生教育プログラムの一環として、病院見学の許可を得ていた。
病院のロビーで受付を済ませ、学生IDを首から下げた佐藤は、自信を持って廊下を歩いた。彼は薬剤部に向かい、そこで働く薬剤師の小林さんを探した。
「小林さん、こんにちは」佐藤は挨拶した。「父から薬剤管理について学ぶように言われまして」
佐藤はバッグの中に工業用シュレッダーの小型モデルを入れていることを感じながら、冷静に会話を続けた。前日、彼は電気店で現金で購入していた。この機械は後に証拠隠滅に使う予定だった。
小林は佐藤の父親が病院の重要な心臓外科医であることを知っていたため、特に疑問を持たなかった。「ああ、佐藤先生の息子さんですね。何を知りたいですか?」
佐藤は用意していた質問を始めた。「免疫抑制剤の在庫管理はどのように行われているのですか?特に心臓移植患者用のものは」
小林は丁寧に説明し、保管場所まで案内してくれた。佐藤は注意深く観察し、セキュリティシステムやロック機構を記憶に刻んだ。
「休憩時間にコードが変わるんですよ」小林は何気なく言った。「安全のためにね」
佐藤はその情報を心に留めた。「そうなんですね。ところで、父が実験用にタクロリムスとシクロスポリンのサンプルが必要だと言っていたのですが」
小林は少し驚いた様子だった。「それなら佐藤先生自身が申請すべきでは...」
「ああ、父は忙しくて」佐藤は自然に笑った。「明日までに準備してもらえれば、彼が後で正式な書類を提出すると言っていました」
小林は少し迷ったが、病院の重要な医師の息子の頼みを断るのは難しかった。「わかりました。明日の午前中までに用意しておきます」
佐藤は内心で喜びながら、感謝を述べた。次に彼は手術室の設備を確認するために、外科部門に向かった。心臓外科の手術スケジュールを壁に貼られた予定表で確認する。次の心臓手術は明後日にあるようだった。
佐藤は廊下を歩きながら、手術準備室を見つけた。中に入り、心臓移植に必要な特殊器具の置き場所を確認した。彼は看護師が来るのを見て、すぐに出た。
「すみません、間違えました」彼は看護師に丁寧に謝り、その場を去った。
病院を後にする前に、佐藤は一階の医療廃棄物処理室に立ち寄った。そこでの処理手順と、セキュリティカメラの位置を確認した。彼の計画には、証拠を残さないための周到な準備も含まれていた。
アパートに戻った佐藤は、今日の収穫を整理した。「薬品は明日入手可能。手術器具の場所を確認。廃棄物処理の手順を確認」
彼はカレンダーを見た。「D-3」と記し、次の行動を計画した。
帰り道、佐藤は隣町までバスで行き、その地域のホームセンターで大型のクーラーボックスを購入した。心臓の保存に使うためだ。現金で支払い、顔を隠すためにマスクと帽子を着用していた。同時に小型の金属粉砕機と強力なペンチ、ノコギリも購入した。これらは後に個人所持品を粉々に分解するために使用する予定だった。
「防犯カメラが店内にあるな...」佐藤は店内を見回しながら考えた。「でも、この辺りの住人ではないし、マスクをしているから識別は難しいだろう」
彼はさらに近くのドラッグストアで、大量の使い捨て手袋、消毒液、ガーゼ、包帯なども購入した。薬局では可燃性の高いアルコールも大量に買い込んだ。これは後に紙類や布製品を完全に焼却するために使うつもりだった。全ての支払いは現金で行い、レシートもその場で受け取るとすぐにポケットにしまった。
三日後、佐藤は椎名と山田を再度、父親の診療所に呼び出した。今回は二人を同時に呼び、「研究における相互作用の観察」という名目で、二人の会話や行動パターンを記録する計画だった。
実際には、佐藤は二人の相性を最終確認していた。心臓移植後、二人の特性が最大限に発揮されるためには、基本的な互換性が重要だと考えていたからだ。
診療所の一室には隠しカメラを設置してあり、佐藤は二人の様子を細かく観察できるようにしていた。
椎名が最初に到着した。彼はいつものように知的な雰囲気を漂わせ、白いシャツに黒いジャケットという出で立ちだった。
「やあ、佐藤君。今日は特別な実験なんだよね?」椎名は佐藤に握手を求めた。
佐藤は微笑みながら彼の手を握った。「そう、今日は山田さんも来るんだ。二人の相互作用を観察したいんだ」
椎名は興味深そうに頷いた。「心理学的な視点からも面白い試みだね」
10分後、山田も到着した。彼女は少し疲れた様子で、顔色が優れなかった。
「山田さん、大丈夫?」佐藤は本当に心配したような声で尋ねた。
「ええ...少し寝不足で...」山田は弱々しく微笑んだ。
佐藤は内心で喜んだ。山田の体調が悪ければ、さらに抵抗は少なくなるだろう。
「椎名さん、山田さん、今日は特別な実験をしたいと思います」佐藤は真剣な表情で言った。「二人の脳波を同時に測定し、会話中の同期性を調べます」
彼は二人に脳波測定用の電極を取り付け、モニターを見ながら会話を促した。実際の目的は脳波ではなく、二人の言語パターンや相互反応を観察することだったが、科学的装置を使うことで、彼の「研究」の正当性を印象づけていた。
「では、まず基本的な自己紹介から始めていただけますか?」佐藤は促した。
椎名は自信を持って話し始めた。「僕は椎名祐介、心理学を専攻しています。特に人間の意思決定プロセスと感情の関係性に興味があります。最近は『集団心理とカリスマ性』をテーマに論文を書いています」
彼の声は落ち着いて明瞭で、話し方自体に人を引き込む力があった。山田は椎名の話を聞きながら、少しずつ緊張が解けていくように見えた。
「私は...山田美咲です。医学部の2年生で...特に研究テーマはまだ決めていません」彼女は遠慮がちに自己紹介した。
佐藤は二人の対話を促しながら、様々な質問を投げかけた。価値観や将来の夢、好きな音楽や映画について。椎名は知的好奇心から積極的に会話を主導し、山田は最初は遠慮がちながらも、徐々に打ち解けていった。
特に椎名が「人間の本質とは何か」というテーマで話し始めた時、山田は明らかに興味を示し、自分の考えを述べ始めた。
「私は...人間の本質は記憶にあると思います。私たちは記憶によって形作られていて、それが失われたら、私たちは私たちでなくなってしまう...」
椎名はその意見に感心したように見え、さらに議論を深めていった。佐藤はその様子を観察しながら、小さなメモを取り続けた。
「完璧だ...」彼は心の中で呟いた。椎名のカリスマ性と知性、山田の容姿と感受性。この二つの組み合わせは、彼の理想とする「完璧な人間」に必要な要素を全て満たしていた。
二時間の「実験」が終わると、佐藤は二人に深く感謝し、「次回が最後の実験になる」と伝えた。彼は目的達成のための特別な日を、来週の水曜日に設定した。父親が学会で東京に出張する日だ。
「次回は特別な実験を行います」佐藤は穏やかに言った。「二人の体が特殊な環境下でどのように反応するかを調べるため、軽い鎮静剤を使用します。もちろん、安全性は保証されていますので、ご心配なく」
椎名と山田は少し不安そうな表情を見せたが、佐藤の医学的な説明と保証に納得し、同意した。二人が診療所を去った後、佐藤は最終準備を始めた。
「あと5日」彼は計画表に記入した。そして父親の診療所の一室に、即席の手術室を設置し始めた。父親の病院から少しずつ持ち出した機材を組み立て、必要な薬品を準備する。
特に重要だったのは心肺バイパス機であった。心臓移植手術には不可欠な機器だ。佐藤は病院の倉庫から古い型の装置を見つけ出し、密かに持ち出していた。機器は大きかったが、深夜に車で何度か往復することで診療所に運び込むことができた。
佐藤は手術の手順を何度も確認し、シミュレーションを繰り返した。特に心臓の摘出と移植の部分は、最も難しい工程だ。彼は父親の手術ビデオを何度も見て、技術を学んでいた。
また、術後管理のための設備も整えていた。山田の体に椎名の心臓を移植した後、回復までには集中管理が必要になる。佐藤は簡易的なICU(集中治療室)も設置した。呼吸補助装置、心電図モニター、点滴スタンド...すべて父親の病院から少しずつ「借りてきた」ものだった。
しかし、計画には新たな要素も追加されていた。佐藤は記憶操作と心理的刷り込みのための薬物を特別に準備していた。父親の病院の薬剤部から持ち出した強力な抗精神病薬、ベンゾジアゼピン系の薬剤、さらには「スコポラミン」と呼ばれる薬物も用意した。
スコポラミンは通称「悪魔の息吹」とも呼ばれ、適切な量を投与すると一時的に被験者の記憶形成を妨げ、暗示にきわめて感受性が高くなる状態を引き起こす。精神科医が使用する催眠療法に似た効果を、薬理学的に引き起こすことができるのだ。
佐藤はさらに、神経心理学の専門書から学んだ「偽記憶の植え付け」に関する技術も研究していた。トラウマ的な出来事の後、人間の脳は新たな「物語」を受け入れやすくなるという知見を応用するつもりだった。
「これで全て整った...」佐藤はすべての準備が整ったことを確認し、最後の数日を待つだけとなった。
計画実行の前日、佐藤は最後の確認を行った。診療所の即席手術室には、心臓移植に必要なすべての器具が揃えられていた。麻酔薬、免疫抑制剤、抗生物質、そして特殊な心臓保存液まで。
彼は二人分の鎮静剤を準備し、それぞれラベルを貼った。「椎名用」と「山田用」。量は慎重に計算されていた。麻酔の効果が切れるタイミングも考慮に入れてある。
記憶操作用の薬物も用意し、注射器に詰めて「山田用-術後」とラベルを貼った。さらに、佐藤のアパートにあった写真フレームから、二人で写っている合成写真も用意した。それは後の記憶刷り込みに使うためだった。
最後に佐藤は、椎名と山田に明日の予定を確認するメッセージを送った。二人からはすぐに返信があり、予定通り来ることを確認した。
「明日、完璧な人間が誕生する...」佐藤は小さく呟いた。彼の表情には高揚感と共に、不安の影も見え隠れしていた。これから行おうとしていることの重大さを、彼も理解していたからだ。
証拠隠滅のための道具も再確認した。金属粉砕機、工業用シュレッダー、ペンチ、ノコギリ、そして高濃度アルコール。佐藤は診療所の裏手にある小さな空き地に、焼却用の金属製ドラム缶も準備していた。
さらに、遺体処理用の巨大な肉挽き機も用意していた。これは廃業した食肉加工工場から「研究用」として入手したものだ。大きな金属製のコンテナとともに、診療所の地下室に設置してあった。
その夜、佐藤は父親との電話で、何事もなかったかのように会話をした。
「研究は順調か?」父親が尋ねた。
「ええ、とても興味深いデータが集まっています」佐藤は冷静に答えた。「明日も診療所を使わせてもらってもいいですか?」
「構わないよ」父親は何も疑わず答えた。「私は明日から三日間、東京の学会だからね。鍵はきちんと閉めるように」
「わかりました。ありがとうございます」佐藤は礼儀正しく答えた。
電話を切った後、彼は深呼吸をした。「D-1完了」彼は最後のノートを記し、早めに床についた。明日のために体力を温存する必要があった。
しかし、興奮と緊張で眠れない彼は、夜中じゅう天井を見つめていた。時折、自分がしようとしていることの倫理的問題や法的リスクが頭をよぎったが、その度に彼は「完璧な人間の創造」という目標を思い出し、迷いを振り払った。
「科学の進歩には犠牲が必要だ」彼は自分自身を納得させた。「私がやらなければ、誰も挑戦しない。これは歴史を変える実験なんだ」
夜明け前、佐藤は起床し、最後の準備を始めた。彼は黒いバッグに必要な器具を詰め、診療所に向かった。
運命の日、水曜日の午後2時。佐藤は診療所で椎名と山田の到着を待っていた。白衣を着て、手術用のキャップを準備する。彼は何度も手を洗い、滅菌処理をした。
最初に到着したのは椎名だった。いつもの知的な雰囲気を纏っているが、やや緊張した表情が見て取れる。
「やあ、椎名。来てくれてありがとう」佐藤は穏やかに挨拶した。「少し早いけど、先に準備を始めようか」
椎名は頷き、佐藤の指示に従って処置室に入った。佐藤は彼に病院用のガウンに着替えるよう促し、ベッドに横になるよう指示した。
「これから軽い鎮静剤を投与します」佐藤は医師のように説明した。「少しの間、眠るような感覚になるかもしれないけど、心配ないよ」
椎名は同意し、腕を差し出した。佐藤は静脈に針を刺し、「鎮静剤」と書かれた注射器の中身を注入した。実際にはそれは強力な全身麻酔薬だった。
「少しずつ眠くなるはずだ...」佐藤は椎名の様子を観察した。
数分後、椎名の目が徐々に閉じ始め、呼吸が規則的になった。佐藤は彼の脈を確認し、完全に麻酔が効いていることを確認した。
「完璧...」彼は小声で言った。
ちょうどその時、ドアのチャイムが鳴り、山田が到着した。佐藤は急いでドアを開け、彼女を出迎えた。
「山田さん、来てくれてありがとう」彼は穏やかに微笑んだ。「椎名さんはもう準備を始めています。あなたも同じように準備してもらえますか?」
山田は頷き、別の処置室で病院用のガウンに着替えた。佐藤は彼女をベッドに横にならせ、同様に「鎮静剤」を投与した。
「少し冷たく感じるかもしれないけど、すぐに楽になりますよ」佐藤は優しく言った。
山田も徐々に麻酔の効果が現れ、意識を失った。佐藤は二人が完全に眠りについたことを確認すると、即座に行動を開始した。
まず、診療所の入り口に「臨時休診」の札を下げ、ドアに鍵をかけた。カーテンを全て引き、外からの視線を遮断する。次に、手術室として準備した部屋に椎名を運び、手術台に移した。
佐藤は手早く手術着に着替え、手術用手袋を装着した。彼は椎名の意識レベルを再確認し、麻酔の追加投与を行った。心肺バイパス機を準備し、椎名の胸部を消毒した。
「さあ、始めよう...」佐藤はメスを手に取り、椎名の胸に最初の切開を入れた。
医学部の学生として、佐藤は人体解剖の基本は心得ていた。しかし、生きた人間の手術は初めてだ。彼の手は少し震えていたが、それでも決意は揺るがなかった。
胸骨を鋸で切開し、肋骨を開く。心臓が露出した瞬間、佐藤は一瞬立ち止まった。生きた心臓が目の前で脈打っている。それは彼が教科書や解剖実習で見たものとは全く異なる光景だった。
「美しい...」彼は思わず呟いた。
佐藤は慎重に心肺バイパス機を接続し、椎名の血液循環を機械に委ねた。そして、大動脈と肺動脈を慎重に結紮し、心臓を摘出する準備を整えた。
一つ一つの血管を切断していく。佐藤の額には汗が浮かび、その滴が椎名の胸の上に落ちる。しかし、彼の集中力は途切れなかった。
ついに、椎名の心臓が完全に摘出された。佐藤はそれを特殊な保存液が入った容器に慎重に入れた。時間との戦いが始まる。心臓は摘出後、できるだけ早く移植しなければならない。
佐藤は急いで別の処置室に向かい、山田を手術台に移した。同様に麻酔を追加し、胸部を開く準備を始めた。
山田の胸を開くと、彼女の心臓も露出した。佐藤はその小ささと繊細さに一瞬驚いたが、すぐに作業に戻った。同様に心肺バイパス機を接続し、彼女の心臓を摘出した。
摘出した山田の心臓も保存液に入れるが、これは後で処分する予定だった。佐藤の目的は、椎名の心臓を山田の体に移植することだけだった。
「さあ、最も重要な段階だ...」彼は椎名の心臓を保存容器から取り出し、山田の胸腔に慎重に配置した。
大動脈、肺動脈、上下大静脈...一つ一つを丁寧に縫合していく。佐藤の手の震えは消え、驚くほど安定していた。彼はまるで何度もこの手術を行ってきたかのように、正確に作業を進めた。
最後の縫合が終わると、佐藤は心肺バイパス機の流量を徐々に減らし、山田の新しい心臓が機能し始めるのを観察した。
「さあ、動け...」彼は祈るように呟いた。
数秒の沈黙の後、心臓が動き始めた。最初はか細い鼓動だったが、徐々に強くなっていく。モニターには安定したリズムが表示され始めた。
「成功した...」佐藤の顔に、狂気じみた喜びの表情が浮かんだ。
プロジェクト・パーフェクトこれにて完了。
彼は急いで山田の胸を閉じ、縫合した。手術は予想以上に長く、既に外は暗くなりつつあった。
「さて、後始末だ」
彼は椎名の体を洗浄した後、地下室に運んだ。そこには既に準備されていた大型の肉挽き機があった。佐藤は椎名の体を解体し始めた。まず指を切断し、顔の特徴的な部分を変形させる。身元特定を困難にするためだ。
次に彼は椎名の所持品—財布、スマートフォン、学生証、金属粉砕機とシュレッダーで細かく砕いた。紙類、衣服は高濃度アルコールを使って診療所の裏手で完全に焼却した。燃えカスすら残らないよう、何度も燃やし、最後に灰を細かく砕いて風に乗せて飛ばした。
佐藤は重要な計画メモやノートも取り出し、椎名の衣服も同様に処理した。まず小さく裁断し、アルコールで浸した後、完全に焼却する。金属のボタンやジッパーは分解し、粉砕機にかけた後、複数の場所から川に流した。
解体された椎名の遺体は、肉挽き機にかけられた。佐藤は顔から始め、次第に全身をミンチにしていった。粘り気のある赤い塊が機械の出口から流れ出す様子を、彼は淡々と見つめていた。すべての肉片を大きなプラスチックの容器に集め、氷で冷やした。
佐藤は翌日の早朝、このミンチ状になった遺体を沿岸から遠く離れた海域に撒くつもりだった。彼は事前に調査し、その海域が魚介類の生息地であることを確認していた。「完全な消滅...自然の循環に還る...」彼は満足げに微笑んだ。
すべての作業を終えた頃には、夜も更けていた。佐藤は疲労困憊だったが、まだやるべきことがあった。彼は診療所を完全に清掃し、血液の痕跡を徹底的に除去した。特殊な化学薬品を使って、血液検出反応が出ないようにした。
最後に彼は診療所の監視カメラの記録を改ざんした。今日の映像をすべて削除し、過去の通常営業日の映像で上書きした。
「これで完璧だ...」佐藤は満足げに呟いた。
プロジェクト・パーフェクトこれにて完成!
彼は回復室に戻り、山田の状態を確認した。バイタルサインは安定しており、新しい心臓は順調に機能していた。佐藤は山田に免疫抑制剤を投与し、拒絶反応を防ぐ処置を施した。
そして、彼は特別に準備した記憶操作用の薬物を注射器に詰め、山田の点滴ラインに接続した。これらの薬物は山田の短期記憶形成を妨げ、暗示に対する感受性を高める効果があった。
「さあ、新しい人生の始まりだ...」佐藤は山田の額に触れながら呟いた。
翌朝、佐藤は早起きし、ミンチ状になった椎名の遺体を車に積み込んだ。彼は事前に手配していた小型ボートで沖に出て、少しずつ海に撒いていった。栄養豊富な肉片は魚たちを引き寄せ、あっという間に姿を消した。
診療所に戻った佐藤は、山田の状態を確認した。彼女はまだ麻酔と記憶操作薬の効果で眠っていたが、バイタルサインは安定していた。
佐藤は準備を始めた。彼は部屋を少し暗くし、山田のベッドの周りに彼女と佐藤が一緒に写った合成写真を配置した。それらの写真は、彼らが恋人同士であるかのように見えるように加工されていた。
また、部屋にはラベンダーの香りのアロマを焚き、穏やかなクラシック音楽をかけた。これらの感覚刺激は、後の暗示をより効果的にするための環境設定だった。
午後になって、山田が目を覚まし始めた。佐藤は即座に彼女の側に行き、優しく手を握った。
「美咲、大丈夫?」彼は親密な口調で呼びかけた。
山田は混乱した様子で周囲を見回した。「ここは...どこ...?私は...」
「美咲、覚えていないの?」佐藤は心配そうな表情を浮かべた。「君は交通事故に遭ったんだよ。一週間前のことだ。ひどい頭の怪我で、記憶障害が起きると医師は言っていた」
山田は混乱した表情で自分の頭に触れた。そこには佐藤が施した小さな傷跡があった。「事故...?」
「そう」佐藤は穏やかに頷いた。「君は横断歩道を渡っていたとき、信号無視の車にはねられたんだ。幸い、命に別状はなかったけれど...」
彼は途中で言葉を詰まらせるように演技した。「医師は...記憶が完全に戻らない可能性もあると言っていた」
山田は更に混乱した様子で、部屋を見回した。そこには彼女と佐藤が一緒に写った写真がいくつも飾られていた。海辺、遊園地、レストラン...二人は常に笑顔で、親密な雰囲気だった。
「これは...私たち?」山田は弱々しい声で尋ねた。
佐藤は悲しげに微笑んだ。「そう、私たちだよ。君と僕は去年の春から付き合っている。覚えていない?」
山田は困惑して首を振った。「ごめんなさい...全く記憶がない...」
佐藤は理解を示すように頷き、山田の手を優しく握った。「大丈夫、焦らなくていい。記憶は少しずつ戻るかもしれない。それに...僕がすべて教えてあげるから」
彼は山田に水を飲ませながら、彼らの「関係」について静かに話し始めた。最初の出会い、初めてのデート、初めてのキス...すべて作り話だったが、佐藤はそれらを詳細に、情感豊かに語った。
山田の脳は薬物の効果で高度に暗示にかかりやすい状態にあり、偽の記憶を真実として受け入れる準備ができていた。彼女は佐藤の話に徐々に引き込まれていった。
「ねえ、この曲聞こえる?」佐藤は流れているクラシック音楽に注意を向けさせた。「これは君が大好きなバッハだよ。いつも『この曲を聴くと心が落ち着く』って言ってたんだ」
山田は音楽に耳を傾け、何かを思い出そうとするように目を閉じた。「なんだか...懐かしい感じがする...」
それは椎名の心臓がもたらした嗜好の変化だったが、佐藤は山田にそれを「記憶の断片」として解釈させた。
「ねえ、この曲聞こえる?」佐藤は流れているクラシック音楽に注意を向けさせた。「これは君が大好きなバッハだよ。いつも『この曲を聴くと心が落ち着く』って言ってたんだ」
山田は音楽に耳を傾け、何かを思い出そうとするように目を閉じた。「なんだか...懐かしい感じがする...」
それは椎名の心臓がもたらした嗜好の変化だったが、佐藤は山田にそれを「記憶の断片」として解釈させた。
「そうだよ、少しずつ思い出せているんだ」佐藤は優しく微笑んだ。「君の体は記憶していたんだね」
彼は慎重に言葉を選びながら、山田の「過去」について語り続けた。実際には椎名の趣味や性格的特徴を、山田自身の記憶であるかのように植え付けていく。
「君はいつも哲学書を読むのが好きだった。特にカントとニーチェについて、よく議論したものだよ」佐藤は山田の反応を注視しながら言った。
山田は混乱した表情を見せたが、どこか納得したようにも見えた。「私が...哲学...?でも医学部なのに...」
「そう、君は医学の道を選んだけど、心の奥では常に哲学に惹かれていたんだ。『人間の体を治すには、その精神も理解しなければならない』って、よく言っていたよ」
山田はゆっくりと頷いた。「なんだか...それは私らしい気がする...」
佐藤は内心で喜びに震えた。椎名の心臓と共に、その思考パターンや価値観も山田の中に浸透し始めていた。彼の実験は成功しつつあった。
数日間、佐藤は山田に対して根気強く「記憶の再構築」を続けた。薬物の助けもあり、山田は徐々に佐藤の話す「過去」を自分の記憶として受け入れ始めていった。
術後一週間が経過した頃、山田はベッドから起き上がれるようになっていた。佐藤は彼女に「回復訓練」として、短い散歩を勧めた。診療所の中を二人で歩きながら、彼はさらなる偽記憶の植え付けを行った。
「ここで初めてキスしたんだよね」佐藤は診療所の窓際で立ち止まり、山田の目を見つめた。「雨の日だった。君が風邪をひいて診てもらいに来たとき、ちょうど父は不在で、僕が代わりに診察したんだ」
山田は窓の外を見つめ、想像上の記憶を形作ろうとするかのように目を細めた。「雨...雨の音を覚えているような...」
「そう、大粒の雨だった」佐藤は彼女の肩に優しく手を置いた。「診察が終わったあと、君は帰りたくないと言った。僕たちはここに立って、長い間話をした。そして...」
彼は山田の顎を優しく持ち上げ、唇に軽くキスをした。山田は一瞬驚いたが、抵抗はしなかった。
「思い出した?」佐藤は囁いた。
山田はゆっくりと目を開け、微かに微笑んだ。「少し...かもしれない」
佐藤は満足げに頷いた。山田の心と体は、彼の創り上げた物語を受け入れつつあった。そして最も重要なことに、椎名の心臓は順調に機能し、拒絶反応の兆候も見られなかった。
術後二週間が経過すると、山田の回復は驚くほど順調だった。佐藤は免疫抑制剤の量を調整しながら、彼女の状態を細かく観察し続けた。また、記憶操作のための薬物も徐々に減らしていった。これ以上続けると、副作用のリスクが高まるからだ。
「美咲、そろそろ家に帰れそうだよ」ある朝、佐藤は山田に告げた。
「家...?」山田は少し不安そうに尋ねた。
「そう、僕のアパートだよ」佐藤は微笑んだ。「僕たちは一緒に住んでいたんだ。事故の前から半年ほど」
これも嘘だった。実際には佐藤は事前に自分のアパートの一部屋を、あたかも二人で暮らしていたかのように改装していた。山田の服(寮から盗み出したもの)や、偽の思い出の品々を配置していた。
山田は不安と期待が入り混じった表情を見せた。「本当に...大丈夫かな。まだ自分のことをよく覚えていないのに...」
「大丈夫、僕が傍にいるから」佐藤は彼女の手を握った。「それに、馴染みのある環境が記憶を取り戻すのに役立つかもしれないよ」
翌日、佐藤は山田を自分のアパートに連れて行った。彼は事前に準備していた「二人の寝室」に山田を案内した。そこには、合成写真や偽の日記、二人で観たという映画のチケットの半券など、細部まで計算された小道具が配置されていた。
「どう?何か思い出せる?」佐藤は期待を込めて尋ねた。
山田は部屋をゆっくりと見回し、ベッドの脇に置かれた本棚に目を留めた。そこには哲学書が整然と並んでいた。彼女はその中の一冊、ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を手に取った。
「この本...」彼女はページをめくりながら呟いた。「読んだ覚えがある...」
それは椎名の蔵書だった。佐藤は彼の寮を訪れ、個人的な所持品を密かに持ち出していたのだ。
「そう、君のお気に入りだったよ」佐藤は嬉しそうに言った。「よく夜中まで読んでいて、僕が『もう寝なさい』って言っても聞かなかったっけ」
山田は本を胸に抱きながら、ベッドに座った。「なんだか不思議...体が覚えているのに、頭では思い出せない...」
「時間をかければ、きっと全て戻ってくるよ」佐藤は彼女の隣に座り、肩を抱いた。「それまで僕が君の記憶になるから」
その夜、二人は同じベッドで眠った。佐藤は山田を優しく抱きしめながら、彼女の中で椎名の心臓が脈打つ音に耳を傾けた。「完璧だ...」彼は心の中で呟いた。
それから一ヶ月が経過した。山田の体調は安定し、佐藤は彼女に少しずつ外出を許可するようになった。もちろん、常に自分が同伴するという条件で。
彼は山田に大学を休学していることを伝え、「回復するまでゆっくり過ごそう」と諭した。また、友人関係も「君は元々あまり親しい友達はいなかった」と説明し、他者との接触を最小限に抑えた。
この間、山田の行動や思考パターンには、明らかな変化が現れていた。以前の山田は控えめで自信がなかったが、今では論理的に考え、自分の意見をはっきりと述べるようになっていた。彼女の話し方や身振りには、椎名を思わせる特徴が随所に見られた。
また、音楽や文学の好みも大きく変わっていた。かつてポップミュージックばかり聴いていた彼女が、今ではクラシック音楽、特にバッハに深い愛着を示すようになっていた。
「僕の実験は成功した...」佐藤は日記に書いた。「心臓移植によって、ドナーの性格特性が受容者に伝達されるという仮説は証明された。美咲の体と椎名の精神が融合した完璧な人間が、ここに誕生したのだ」
しかし、全てが佐藤の思い通りに進んでいるわけではなかった。山田が突然、奇妙な疑問や違和感を口にすることがあった。
「真一、私たちがどうやって出会ったか、もう一度聞かせてくれない?」ある日の夕食時、彼女は唐突に尋ねた。
佐藤は事前に用意していた物語を滑らかに語った。「医学部の解剖実習で隣り合わせになったんだ。君は緊張していて、メスをうまく扱えなかった。僕が手伝ったことがきっかけで話すようになって...」
山田は納得したように頷いたが、すぐに別の質問をした。「でも、私がどうして哲学に興味を持ったのか覚えていないの。医学生なのに、なぜ...」
「君はいつも『医学だけでは人間を理解できない』と言っていたよ」佐藤は即座に答えた。「体の治療だけでなく、魂のケアも必要だって」
山田はそれ以上追及しなかったが、彼女の目には一瞬、疑いの色が浮かんだ。佐藤はそれを見逃さなかった。
その夜、佐藤は「念のため」と称して、山田の飲み物に軽い睡眠薬を混ぜた。彼女が眠った後、佐藤は彼女のスマートフォン(新しく購入したもの)をチェックした。特に不審な検索履歴や連絡はなかったが、佐藤は念のため、位置情報追跡アプリをインストールした。
「少し警戒し過ぎかもしれないが...」彼は自分に言い聞かせた。「完璧な人間を創り上げるには、細心の注意が必要だ」
二ヶ月が経過した頃、佐藤は山田の「社会復帰」を段階的に進めることにした。まず、大学に復学する準備として、医学書の勉強を再開させた。
「少しずつ記憶を取り戻していくといいね」佐藤は解剖学の教科書を山田に渡しながら言った。
山田は真剣な表情で勉強に取り組んだ。彼女の集中力と理解力は以前よりも明らかに高まっていた。特に論理的思考を要する問題に対しては、驚くほど鋭い分析力を示した。
「不思議ね」山田は複雑な生理学の概念を理解した後、首を傾げた。「前はこんなに簡単に理解できなかったはずなのに...」
「事故後に脳の神経回路が再構築されることがあるんだ」佐藤は医学的な説明を加えた。「それによって認知能力が向上する例もあるよ」
山田は納得したように頷いたが、佐藤は彼女の表情に微かな不信感を読み取った。
三ヶ月目に入ると、佐藤は山田を外の世界に少しずつ戻し始めた。まずは近所のカフェに一緒に行ったり、公園を散歩したりする程度から始めた。
「人混みに慣れていこう」佐藤は山田の肩を抱きながら言った。「焦る必要はないけどね」
ある日、二人が街中を歩いていると、向こうから中村拓也が近づいてきた。佐藤は一瞬、緊張したが、冷静さを保った。
「おい、真一!」中村は手を振った。「久しぶりじゃないか!最近全然見ないと思ったら...」
彼は山田に気づき、言葉を切った。「あれ?山田さん?」
佐藤は即座に状況を収拾した。「ああ、中村。久しぶり。実は美咲が事故に遭って...記憶障害があるんだ。今はリハビリ中なんだよ」
中村は驚いた表情を見せた。「マジで?大丈夫か?」
「ええ、徐々に良くなっています」山田は微笑んだ。「ただ、記憶が...断片的で」
「そうか...」中村は心配そうに言った。「ところで真一、あの研究はどうなった?椎名を使った奴」
佐藤の表情が一瞬こわばった。「あー、それは...中断しているよ。美咲のことがあってからね」
「椎名?」山田が尋ねた。「誰のこと?」
「ああ、研究に協力してくれた学生だよ」佐藤は軽く答えた。「心理学専攻の」
中村は不思議そうな表情を見せた。「そういえば、あいつ最近見ないな。京都に行ったんじゃなかったっけ?」
「ああ、そうだよ」佐藤は慌てて答えた。「研究交流で長期滞在しているはずだ」
山田はその会話を聞きながら、頭の中で小さな警報が鳴るのを感じた。「椎名...」その名前は彼女の心に奇妙な反応を引き起こした。
中村との会話を終え、佐藤と山田はアパートへ戻る途中、山田が突然立ち止まった。
「真一、その椎名さんについてもっと教えて」彼女は真剣な表情で言った。「なぜか気になるの」
佐藤は冷静を装った。「ただの研究協力者だよ。心理学を専攻していて、カリスマ性のある人だった。なぜ気になるの?」
「わからない」山田は首を振った。「ただ、その名前を聞いたとき、心臓が...変な感じがしたの」
佐藤は山田の腕を優しく掴んだ。「美咲、君は疲れているんだよ。あまり考え過ぎない方がいいよ。記憶は少しずつ戻ってくるから」
山田は黙って頷いたが、その夜から彼女は「椎名祐介」の名前を忘れることができなくなった。
四ヶ月目、山田の体調は完全に回復し、佐藤は彼女の大学復学を認めた。もちろん、限定的な授業参加からのスタートだった。
「最初は週に2回だけにしよう」佐藤は言った。「無理は禁物だからね」
山田は大学に戻ることに興奮していた。しかし同時に、かつての友人や知人との再会に不安も感じていた。「みんな私のことを覚えているかしら...私は彼らのことを覚えていないのに」
佐藤は彼女を安心させた。「大丈夫、僕が一緒にいるから。それに、君はもともとあまり人付き合いが多くなかったんだ」
実際のところ、佐藤は山田が他の学生と深く関わることを警戒していた。特に、椎名のことを知っている人物との接触は避けたかった。
最初の授業日、佐藤は山田を教室まで送り、「終わったら迎えに来るから」と約束した。彼は自分の授業に向かいながらも、常に携帯電話をチェックし、山田の動向を気にしていた。
山田は久しぶりの授業に緊張していたが、意外にも内容は理解しやすかった。特に神経生理学の複雑な概念が、以前よりも明確に頭に入ってくるのを感じた。
「不思議...」彼女は講義ノートを取りながら思った。「こんなに簡単に理解できるなんて」
授業の後、数人のクラスメイトが彼女に話しかけてきた。
「山田さん、久しぶり!どうしてた?」
「休学してたって聞いたけど、体調悪かったの?」
山田は佐藤に言われた通り、「事故で記憶障害がある」と簡潔に説明した。クラスメイトたちは驚き、同情を示したが、彼女はそれ以上の詳細には触れなかった。
しかし、一人の女子学生が気になる質問をした。「それって、椎名先輩の研究と関係あるの?佐藤くんが二人を紹介してたって聞いたけど」
山田は一瞬、呼吸が止まるのを感じた。「椎名先輩...?」
「ほら、心理学専攻の。すごくカリスマ的な人で、山田さんも一緒に何か実験に参加してたって噂だったけど...」
その瞬間、山田の頭に鋭い痛みが走った。断片的なイメージが浮かび上がる—白いシャツを着た男性、落ち着いた声で哲学について語る姿、そして診療所での脳波測定...
「大丈夫?顔色悪いよ」クラスメイトが心配そうに言った。
「ええ、ちょっと頭が...」山田は弱々しく微笑んだ。「まだ完全には回復してないみたい」
その日の晩、山田は佐藤に椎名についてもっと知りたいと伝えた。
「クラスメイトが椎名先輩のことを言ってたの。私たちは本当に何か実験をしていたの?」
佐藤は内心で動揺したが、冷静に対応した。「ああ、そうだよ。性格と身体的特徴の相関性に関する研究だった。君と椎名さんは被験者として参加してくれたんだ」
「そう...」山田は考え込んだ。「でも、なぜか彼のことを思い出せそうで思い出せないの。心が反応するのに、頭では...」
「焦らないで」佐藤は彼女の手を握った。「記憶は時間をかけて戻るものだから。それより、今日の授業はどうだった?」
話題を変えることで、佐藤はこの危機を乗り切ったが、山田の中に芽生えた疑問の種は、確実に成長し始めていた。
四ヶ月目、山田の体調は完全に回復し、佐藤は彼女の大学復学を認めた。もちろん、限定的な授業参加からのスタートだった。
「最初は週に2回だけにしよう」佐藤は言った。「無理は禁物だからね」
山田は大学に戻ることに興奮していた。しかし同時に、かつての友人や知人との再会に不安も感じていた。「みんな私のことを覚えているかしら...私は彼らのことを覚えていないのに」
佐藤は彼女を安心させた。「大丈夫、僕が一緒にいるから。それに、君はもともとあまり人付き合いが多くなかったんだ」
実際のところ、佐藤は山田が他の学生と深く関わることを警戒していた。彼女の言動の変化に誰かが気づく可能性は低かったが、リスクはゼロではなかった。特に、椎名のことを知っている人物との接触は避けたかった。
最初の授業日、佐藤は山田を教室まで送り、「終わったら迎えに来るから」と約束した。彼は自分の授業に向かいながらも、常に携帯電話をチェックし、山田の動向を気にしていた。
山田は久しぶりの授業に緊張していたが、意外にも内容は理解しやすかった。特に神経生理学の複雑な概念が、以前よりも明確に頭に入ってくるのを感じた。
「不思議...」彼女は講義ノートを取りながら思った。「こんなに簡単に理解できるなんて」
授業の後、数人のクラスメイトが彼女に話しかけてきた。
「山田さん、久しぶり!どうしてた?」
「休学してたって聞いたけど、体調悪かったの?」
山田は佐藤に言われた通り、「事故で記憶障害がある」と簡潔に説明した。クラスメイトたちは驚き、同情を示したが、彼女はそれ以上の詳細には触れなかった。
授業が終わると、約束通り佐藤が教室の前で待っていた。彼は山田の腕を取り、二人で帰路についた。途中、学内の掲示板の前を通りかかると、そこに椎名祐介の失踪に関するポスターが貼られていた。
「心当たりのある方は警察までご連絡ください」
佐藤は一瞬緊張したが、山田の反応を見るために、あえてポスターに目を向けた。「椎名さん、まだ見つからないんだな...」
山田はポスターの顔写真を見つめた。整った顔立ちに知的な雰囲気を漂わせた青年の写真。「この人...」
「僕の研究の被験者だったんだ」佐藤は冷静に説明した。「君も会ったことがあるけど、事故で覚えていないだろうね」
山田は写真をじっと見つめ、どこか懐かしいような感覚を覚えた。しかし、具体的な記憶は浮かんでこなかった。「何か...引っかかる感じがするけど...」
「みんなそう言うよ」佐藤は軽く受け流した。「椎名さんは人を惹きつける不思議な魅力があった人だから」
その日の夜、山田は椎名の顔が頭から離れなかった。寝る前に佐藤に尋ねた。「真一、あの椎名さんのこと、もう少し教えてくれない?」
佐藤は内心で警戒しながらも、表面上は落ち着いて答えた。「そうだな...彼は心理学を専攻していて、カリスマ性のある人だった。僕の『性格と身体的特徴の相関性』という研究に協力してくれたんだ」
「私も...その研究に参加したの?」
「そう、君も被験者として協力してくれた。それがきっかけで僕たちは親しくなっていったんだよ」佐藤は用意していた偽の物語を語った。
山田はしばらく考え込んでいたが、やがて小さなあくびをした。「なんだか疲れちゃった...」
「初日から無理しないで」佐藤は優しく微笑み、彼女の額にキスをした。「おやすみ、美咲」
部屋の電気を消し、山田の寝息が規則正しくなったのを確認すると、佐藤はリビングに戻り、パソコンを開いた。彼は椎名の失踪に関する最新のニュースを検索した。
警察の捜査は依然として進展がなく、「手がかりを求めている」状態だった。佐藤は安堵のため息をついた。彼の完璧な計画は、ここまでのところ成功していた。
五ヶ月目に入ると、山田は完全に大学生活に戻っていた。彼女の学業成績は以前よりも格段に向上し、教授たちを驚かせていた。特に論理的思考を要する科目では、クラストップの成績を収めるようになっていた。
「美咲、君の分析力には驚かされるよ」生理学の教授が講義後に彼女を呼び止めて言った。「記憶障害があるとは思えないほどだ」
山田は照れながらも、どこか誇らしげに微笑んだ。「ありがとうございます。不思議なことに、理論的な内容は以前より理解しやすくなったんです」
佐藤はそんな彼女の変化を細かく記録し続けていた。椎名の心臓を移植してから生じた性格や能力の変化は、彼の仮説を裏付けるものだった。特に論理的思考力の向上、哲学への関心、そしてクラシック音楽への嗜好—これらはすべて椎名の特徴だった。
ある週末、佐藤は山田を連れて高級レストランでディナーを楽しんだ。彼らの「交際一周年」を祝うためだと彼は説明した。
「本当は3ヶ月前が一周年だったんだけど、君の事故のことがあったから延期していたんだ」佐藤はワイングラスを掲げながら言った。
山田は幸せそうに微笑んだが、その目には微かな違和感も宿っていた。「真一...私、まだ自分の過去のことがあまり思い出せないの。私たちがどうやって好きになったのか、最初のデートはどんなだったのか...」
佐藤は彼女の手を取った。「大丈夫、焦らなくていいんだよ。それに...もし記憶が戻らなくても、新しい思い出をたくさん作ればいい」
彼は内ポケットから小さな箱を取り出した。開けると、シンプルながらも上品なシルバーのネックレスが入っていた。
「美咲、これからもずっと一緒にいてほしい」佐藤は真剣な表情で言った。
山田は感動して目に涙を浮かべた。「ありがとう、真一...」
彼女がネックレスに見入っている間、佐藤は密かに満足の微笑みを浮かべた。彼の計画は完璧に進行していた。山田は椎名の心臓と共に、彼の特性も受け継ぎ、佐藤の理想とする「完璧な人間」になりつつあった。そして、彼女はすっかり佐藤の愛に包まれていると信じていた。
レストランから帰る途中、二人は満月の輝く夜空の下を歩いた。山田は突然立ち止まり、空を見上げた。
「月が綺麗ね」彼女は呟いた。
佐藤はハッとした。その表現は椎名がよく使っていたものだった。日本文学に精通していた椎名は、この言葉が「愛している」の婉曲表現であることを知っていたのだ。
「美咲...?」
山田は不思議そうな表情で佐藤を見た。「どうしたの?」
「いや...その言葉、椎名がよく使っていたんだ」佐藤は言葉を選びながら言った。
「そう...」山田は再び月を見上げた。「なんとなく、口をついて出たの」
その夜、佐藤は眠れなかった。隣で眠る山田を見つめながら、彼の中に奇妙な感情が湧き上がっていた。それは喜びと恐れが入り混じったような、複雑な感情だった。
「彼女の中の椎名は、どこまで意識的なのだろうか...」佐藤は暗闇の中で考え込んだ。
六ヶ月目、椎名の失踪事件は徐々に人々の記憶から薄れつつあった。警察は依然として捜査を続けていたが、進展はなく、メディアの関心も次第に失われていった。
大学では新学期が始まり、新入生の到来で活気づいていた。山田は完全に大学生活に溶け込み、学業でも目覚ましい成績を収めていた。佐藤との関係も安定し、二人は佐藤のアパートで平穏な日々を送っていた。
表面上は全てが順調に見えたが、佐藤の中には微かな不安が芽生えていた。山田の言動や思考パターンには、椎名の特徴がますます顕著に現れるようになっていた。彼女の書く論文のスタイル、議論の展開方法、そして何より哲学的な洞察—これらはまるで椎名が生きているかのようだった。
ある日、佐藤が研究室から帰宅すると、山田がニーチェの本を読みながら熱心にメモを取っていた。
「ただいま」佐藤が声をかけると、山田は顔を上げ、輝く目で微笑んだ。
「おかえり、真一。ねえ、この『永遠回帰』の概念について考えていたんだけど...」
彼女は熱心に自分の解釈を語り始めた。その洞察の鋭さと論理の展開は、まさに椎名そのものだった。佐藤は混乱した感情を覚えながら彼女の話に耳を傾けた。
彼の実験は成功していた—あまりにも成功していた。山田の体と椎名の心(文字通りの意味で)が融合し、佐藤の理想とする人間が誕生していた。しかし、その過程で彼は予想していなかった問題に直面していた。
「美咲...いや、誰なんだ、君は...」佐藤は心の中で呟いた。
山田が熱心に話し続ける姿を見ながら、佐藤は複雑な感情に襲われた。彼が愛しているのは山田なのか、それとも椎名の特性を持つ新しい存在なのか、自分でもわからなくなっていた。
その夜、二人はいつものように同じベッドで眠った。深夜、佐藤が目を覚ますと、山田がベッドに座り、窓の外を見つめていた。
「美咲?」佐藤が小声で呼びかけた。
彼女はゆっくりと振り向いた。月明かりに照らされた彼女の表情には、得体の知れない何かが宿っていた。
「私...誰なのかしら」彼女は静かに言った。
佐藤の心臓が高鳴った。「美咲、どうしたの?悪い夢でも見たの?」
「いいえ...」彼女は首を振った。「ただ、自分の中に別の誰かがいるような気がするの。私の思考や感情が...私のものじゃないような」
佐藤は緊張しながらも、冷静に対応しようとした。「それは記憶障害の影響かもしれないね。自分の過去の記憶がないから、アイデンティティの混乱を感じるのは自然なことだよ」
山田は少し考え込んだ後、小さく頷いた。「そうかもしれない...でも、時々...別の人生の断片を思い出すような感覚があるの」
「どんな断片?」佐藤は慎重に尋ねた。
「哲学の講義をしている自分...ピアノを弾いている自分...でも私、ピアノなんて習ったことないのに」
佐藤は山田を抱きしめた。「大丈夫、それは単なる夢想だよ。脳が混乱して、架空の記憶を作り出すことはあるんだ」
彼は医学的な説明を重ね、山田を安心させようとした。やがて彼女は再び眠りについたが、佐藤は長い間、天井を見つめたまま横たわっていた。
「彼女の中の椎名が目覚め始めている...」彼は恐怖と興奮が入り混じった感情で考え込んだ。
七ヶ月目、夏休みが始まり、佐藤は山田を連れて海辺の別荘に旅行に出かけた。都会から離れ、二人きりで過ごす時間は、山田の精神状態を安定させるのに役立つと佐藤は考えていた。
「美しい場所ね」山田は広がる海を見ながら感嘆の声を上げた。
佐藤は彼女の横顔を見つめた。彼女は以前の山田よりも自信に満ち、知的な魅力が増していた。椎名の特性が彼女に与えた変化は、佐藤の予想を遥かに超えるものだった。
二人は静かな日々を過ごした。朝は海辺を散歩し、昼は読書や会話を楽しみ、夜は星空の下でワインを飲んだ。表面上は完璧な休暇だったが、佐藤は常に山田の言動を観察し、「椎名の兆候」を探っていた。
ある夕方、二人はテラスで夕食を取っていた。山田は突然、食事の途中で箸を置いた。
「真一...あなたは人間の本質は何だと思う?」
佐藤は驚いたが、冷静に答えた。「難しい質問だね。医学的に言えば、遺伝子と環境の相互作用かな」
山田は首を横に振った。「いいえ、もっと深いところ。私たちの意識、自己認識、記憶...それが失われたら、私たちは私たちでなくなるの?」
佐藤は喉の渇きを覚えた。これは椎名がよく議論していたテーマだった。「それは哲学的な問いだね。君は何と考える?」
「私は...記憶が人間の本質を形作ると思う」山田は真剣な表情で言った。「でも、私の場合...記憶がないのに、何かが残っている。それは一体何なのかしら」
佐藤は彼女の手を取った。「美咲、あまり考え込まないで。時間が解決してくれるよ」
しかし、山田の疑問は彼女の中で大きくなりつつあった。それは佐藤にとって危険な兆候だった。
旅行から戻った後、山田はより内省的になった。彼女は日記を書き始め、自分の感情や思考を記録するようになった。佐藤はこっそりとその日記を読むことで、彼女の精神状態を把握しようとした。
ある日の記述が特に彼の目を引いた。
「私の中に二つの声がある。一つは私のもの、もう一つは...別の誰かのもの。その声は論理的で、哲学的で、時に私よりも賢い。それは夢なのか、幻想なのか、それとも...私の中に別の誰かが住んでいるのか?」
佐藤はページを閉じ、深く考え込んだ。彼の実験は予想外の方向に進展していた。心臓移植が単なる嗜好や傾向ではなく、より深いレベルでの人格の転移をもたらしているようだった。
それは科学的に説明できるのか、それとも彼が触れてはならない何かに手を出したのか—佐藤は答えを見つけられずにいた。
八ヶ月目、新学期が始まり、山田は研究プロジェクトに取り組み始めた。彼女は「記憶と人格の関係性」をテーマに選び、教授陣からも高い評価を受けていた。
佐藤にとって、これは皮肉としか言いようがなかった。山田は自分自身が被験者となっている実験について、学術的に研究していたのだ。
ある日、佐藤が研究室で作業をしていると、同僚の教授が話しかけてきた。
「佐藤君、山田さんの研究テーマ、興味深いね。彼女の分析力は驚くべきものがある。まるで椎名くんを思い出すよ」
佐藤は一瞬固まったが、すぐに平静を装った。「そうですね、彼女は事故の後、学習能力が向上したようです」
「不思議なものだよ、人間の脳は」教授は微笑んだ。「ところで、椎名くんの件はその後進展があったのかね?」
「特にないと思います」佐藤は肩をすくめた。「警察も行き詰まっているようです」
教授は残念そうに首を振った。「あんな優秀な学生が消えるなんて...本当に残念だ」
佐藤はその会話の後、長い間考え込んだ。自分の行為の重大さが改めて胸に迫ってきた。彼は人間の生命を奪い、別の人間を改造したのだ。それは医学の発展のためだったのか、それとも単なる自己満足のためだったのか...
その夜、佐藤はアパートに帰ると、山田が研究資料に囲まれて熱心に作業していた。
「おかえり、真一」彼女は明るく笑った。「ねえ、この論文見て。人格形成における身体的要素の影響について書かれているの」
佐藤はその論文を見て、血の気が引いた。それは心臓移植後の性格変化に関する症例報告だった。
「どこでこれを見つけたの?」彼は動揺を隠せなかった。
「図書館のデータベースよ」山田は興奮した様子で言った。「面白いでしょう?心臓移植を受けた患者が、ドナーの趣味や嗜好を持つようになるなんて...」
佐藤は冷や汗を流しながらも、冷静を装った。「そうだね...興味深い研究だ」
「私の研究テーマにぴったりなの」山田は続けた。「記憶がなくなっても、体が何かを記憶している可能性...」
佐藤は彼女の熱心な様子を見ながら、恐怖を感じていた。山田は無意識のうちに、自分自身の状態に近づきつつあった。
九ヶ月目に入ると、山田の研究はさらに進展し、彼女は「身体記憶と人格の相関性」に関する小論文を書き上げていた。教授陣からの評価は非常に高く、医学誌への投稿も勧められていた。
しかし、佐藤にとって、最初の不安材料は椎名の遺体処理に使用した挽肉機の処分問題だった。巨大な工業用肉挽き機は、廃業した食肉加工工場から「研究用」として入手したものだが、あまりに目立つため長期保管が困難だった。さらに、犯行から時間が経つにつれ、彼のアリバイに穴が見つかる可能性も出てきていた。
佐藤は入念な調査の末、東京郊外の産業廃棄物処理業者「高橋リサイクル工業」と接触した。この業者は金属廃棄物の回収、解体、素材としての転売まで一貫して請け負うことで知られていた。何より、質問をあまりせず、現金取引に応じる柔軟さが佐藤には都合が良かった。
「医療研究用の機器なんですが、もう使わないので処分したいんです」佐藤は電話で淡々と説明した。
「サイズと重量はどのくらいですか?」担当者が事務的に尋ねた。
佐藤は正確な数値を伝え、「ステンレス製が主体です」と付け加えた。
「それなら引き取れます。むしろ、いい素材なので買取も可能ですよ」担当者の声には商売人特有の打算が見えた。
佐藤はそこで一計を案じた。「実は機密性の高い研究に使っていたもので、できれば完全に分解して素材に戻してほしいんです。部品ごとに異なる処理経路で」
「ああ、知財関係ですか」担当者は慣れた様子で応じた。「それなら追加料金で対応可能です。分解作業と個別処理のオプションがありますよ」
2日後、佐藤は診療所の裏口にバンを横付けさせた。二人の作業員が現れ、事前に佐藤が洗浄・分解しておいた挽肉機の主要部分を手際よく積み込んでいく。
「これ、医療機器っすか?」若い作業員が好奇心から尋ねた。
「いや、話すな」年配の作業員が制した。「質問しないのがウチの方針だろ」
佐藤は満足げに現金で支払いを済ませ、受領書を受け取った。書類には曖昧な「金属製機器一式」という記載だけで、詳細は記されていなかった。
「完全分解して異なるラインで処理するんですよね」佐藤は最後に確認した。
「もちろん」年配の作業員が頷いた。「ウチは約束は守りますよ。明日には鉄鋼メーカーの溶鉱炉行きのものと、ステンレス再生工場行きのものに分けて発送します」
バンが去った後、佐藤は深いため息をついた。挽肉機は今、複数の産業廃棄物処理ラインに流れ、やがて溶解され、新しい金属製品の一部として生まれ変わる。証拠は文字通り消えて形を変え、二度と元の姿では見つからない。
「完璧だ...」佐藤は最後の証拠が消えていくのを見届け、安堵のため息をついた。
「美咲!信じられないわ」山田は息を切らしながらアパートに飛び込んできた。「私の論文が医学部の研究発表会で取り上げられることになったの!」
佐藤は笑顔を作りながらも、内心では動揺していた。「それは素晴らしいね、おめでとう」
「しかも、心臓移植の専門家である三宅教授がコメンテーターになってくれるの!」山田は目を輝かせていた。
三宅教授—佐藤の父親と同じ病院で働き、心臓外科の権威として知られる人物だった。彼は椎名の心臓を山田に移植した手術についても、確実に疑問を持つだろう。
「三宅教授...そうか」佐藤はなんとか平静を装いながら言った。「彼は父とも親しいんだ」
「知ってるわ!」山田は嬉しそうに言った。「教授が『佐藤先生の息子さんのガールフレンドなら、特別な注目に値する』って言ってくれたの」
佐藤は無理に笑顔を作った。「発表はいつ?」
「来月よ」山田は答えた。「準備しなくちゃ」
その夜、佐藤は一人で研究室に残り、長い間考え込んでいた。状況は危険な方向に進みつつあった。山田の研究が注目を集め、三宅教授のような専門家が関わることで、彼女の「特異な回復」や「性格変化」に疑問が投げかけられる可能性があった。
さらに懸念されたのは、山田自身が自分の状態に疑問を持ち始めていることだった。彼女の日記には最近、次のような記述が見られるようになっていた。
「私の中の『別の誰か』は、研究を進めるにつれてより明確になる。それは単なる思い込みではなく、実在する存在のように感じる。私の好みや考え方が、事故の前とは明らかに違うことに気づき始めた。これは通常の記憶障害では説明できないことだ...」
佐藤は選択肢を考え始めた。研究発表会をなんとか阻止できないか、あるいは山田に別のテーマに変更するよう説得できないか...。しかし、それらは目立ちすぎる行動だった。
結局、彼は「見守る」ことにした。最悪の事態になれば...彼は考えたくもない選択肢を頭の片隅に置いておいた。
発表会まであと二週間という時期、山田は三宅教授との事前ミーティングに向かった。佐藤は不安を隠しながら彼女を送り出した。
数時間後、山田が帰宅した際、普段とは違う様子だった。
「どうだった?」佐藤は彼女を出迎えた。
山田はじっと佐藤を見つめた。その目には恐怖と疑惑が混じっていた。「三宅教授が奇妙なことを言ったの」
佐藤の心臓が高鳴った。「どんなこと?」
「私の心臓について…」山田は震える声で言った。「教授が『君の胸の傷跡は心臓手術のものに似ている』と…」
佐藤は言葉を失った。三宅教授は心臓外科の専門家として、山田の胸の傷跡を一目見て、それが交通事故の傷ではなく、心臓手術の痕だと気づいたのだ。
「それは…」佐藤は言葉を探した。「そんなことはないよ。君は交通事故で胸を強打しただけだ。教授は見間違えたんだ」
山田は首を横に振った。「それだけじゃないの。教授は私の研究に興味を持ち、さらに詳しく調べるために、私の健康診断データを見せてほしいと言ったわ。そして…」
彼女は深呼吸をした。「私の血液型を尋ねたの。私はAB型だと答えたけど、教授は驚いた様子で、『君の最新の記録ではO型となっているが』と言ったわ」
佐藤の顔から血の気が引いた。山田の元の血液型はAB型だったが、椎名の心臓移植後、彼女の血液はドナーのO型の影響を受けていた。これは医学的に説明可能な現象だったが、三宅教授のような専門家には、疑念を抱かせるに十分だった。
「それは検査ミスだよ」佐藤はなんとか言った。「たまにあることさ」
「真一…」山田は彼に近づいた。「嘘はもういいわ。私の体に何が起きたの?この傷跡…私の中の別の声…血液型の変化…全て繋がり始めているの」
彼女は自分の胸に手を当てた。「この心臓…私のものじゃないでしょう?」
佐藤は沈黙した。
佐藤は状況を収拾するために必死だった。「美咲、君は疲れているんだ。研究発表会のプレッシャーでストレスを感じているのは分かる。休んだ方がいいよ」
彼は優しく彼女の肩に手を置き、ベッドルームに導いた。「明日になれば、もっとクリアに考えられるさ。今夜はゆっくり眠って」
山田は抵抗せず、ベッドに横になった。佐藤は「安定剤」と称して、実際には軽い睡眠薬を含んだ水を彼女に飲ませた。
「真一…」山田は眠りに落ちる前に呟いた。「私の中の声…椎名さんの声なの?」
佐藤は彼女の額に軽くキスをした。「それは単なる疲労からくる幻想だよ。おやすみ、美咲」
しかし、山田の疑念を消すことはそう簡単ではなかった。彼女の鋭い直感と、椎名の分析的思考能力が融合した現在の山田は、普通の人間以上に真実に迫る力を持っていた。
研究発表会の日、大学の講堂は予想以上の聴衆で埋まっていた。山田は緊張しながらも堂々と壇上に立ち、「身体記憶と人格の相関性」についてのプレゼンテーションを始めた。
「心臓移植を受けた患者の中には、ドナーの嗜好や特性を獲得したと報告する例が少なくありません。これは単なる偶然か、それとも身体が『記憶』を保持する証拠なのでしょうか…」
山田の発表は明晰で論理的、そして情熱に満ちていた。会場の聴衆は彼女の言葉に引き込まれ、特に三宅教授は熱心にメモを取っていた。
発表後の質疑応答でも、山田は鋭い質問に対して的確に答え、学術的な深みを示した。三宅教授も「非常に興味深い視点だ」と評価し、さらなる研究の発展を促した。
佐藤は会場の後方で、誇らしげな表情と内心の不安を同時に抱きながら見守っていた。山田の発表は成功だったが、それは同時に彼女が自分の状態に近づいていることも意味していた。
発表会の後、医学部の教授陣と学生たちは近くの居酒屋で打ち上げを行った。山田は今日の主役として、教授たちから祝福と称賛の言葉を受けていた。
「山田さん、君の研究は医学部の歴史に残るかもしれないね」学部長が杯を上げて言った。
「ありがとうございます」山田は照れくさそうに微笑んだ。
酒が進むにつれて、場の雰囲気はより和やかになった。そのとき、三宅教授が意味ありげな視線を佐藤と山田に向けた。
「そういえば、二人の関係はどうなんだ?研究仲間以上のものを感じるが…」
場の空気が一瞬静まり、全員の視線が二人に集まった。佐藤は山田の反応を見て、慎重に言葉を選ぼうとしたが、山田が先に立ち上がった。
「実は…私たちは付き合っています」彼女は少し赤面しながら宣言した。「事故の後、真一が私を支えてくれて…そこから関係が発展しました」
場は一気に沸き立ち、祝福の声と冗談が飛び交った。佐藤は山田の自発的な告白に少し驚きながらも、安堵の笑みを浮かべた。
「それで最近の山田さんが変わったわけだ」同級生の一人が言った。「前より自信に満ちているし、積極的になったもんね」
「恋は人を変えるってことね」別の学生が茶化した。
山田も微笑みながら頷いた。「そうかもしれないわね」
その言葉に、山田自身も何か納得するものを感じていた。彼女の中の変化—以前とは違う好み、異なる思考パターン、新たな能力—それは恋愛によって引き起こされた変化なのかもしれない。そう思えば、すべての違和感が説明できるような気がした。
「真一と出会って、私は変わったの」山田は佐藤の手を取りながら言った。「それは良い方向への変化だと思う」
佐藤は彼女の手を優しく握り返した。山田が自ら作り出した説明に安堵しつつも、内心では複雑な感情を抱えていた。彼女は自分自身の変化を「恋愛」のせいだと思い込むことで、真実から遠ざかっていた。それは佐藤にとって都合の良いことだった。
しかし、同時に彼は自問せずにはいられなかった。「彼女は本当に私を愛しているのか?それとも、椎名の心臓が私に対して反応しているだけなのか?」
打ち上げの終わり頃、酔った山田が佐藤の耳元で囁いた。「私、時々変な夢を見るの。私じゃない誰かの記憶みたいな…でも、それも私の一部なのかもしれないわね」
佐藤は微かに身体を硬直させたが、すぐに笑顔を取り戻した。「君の想像力が作り出した夢かもしれないね。研究のことを考えすぎているんだ」
山田は頷いて微笑んだが、その目には僅かな疑問の影が残っていた。
研究発表会の成功から一週間後、山田と佐藤の関係は周囲に知られるようになり、二人は名実ともにキャンパスでの「カップル」として認知されるようになった。山田の研究は医学部内で話題となり、彼女は学内でちょっとした有名人となっていた。
「美咲、三宅教授が君の論文を医学雑誌に推薦してくれたそうだね」佐藤はアパートの朝食テーブルで山田に伝えた。
「ええ!」山田は目を輝かせた。「でも、まだ改訂する余地があるわ。特に身体記憶の神経学的基盤の部分を強化したいの」
佐藤は彼女の学術的熱意に微笑みながらも、内心では警戒していた。山田の研究が深まるほど、彼女自身の状態に気づく可能性も高まるからだ。
「そういえば」山田は唐突に話題を変えた。「最近、私、変な夢を見るの」
佐藤は緊張しながらも、平静を装った。「どんな夢?」
「私じゃない誰かの記憶みたいなの」山田は首を傾げた。「研究室で講義している自分とか、全然知らない人たちと哲学的な議論をしている自分とか…」
佐藤は慎重に言葉を選んだ。「それは単なる夢だよ。研究のテーマが影響しているんだろう」
「でも、それが夢とは思えないほど鮮明なの」山田は不思議そうに言った。「まるで本当の記憶みたい…」
二人の会話は、電話の着信音で中断された。佐藤の父からだった。
「真一、今日の夕食に美咲さんも連れてきてくれないか?母さんが会いたがっているんだ」
佐藤は承諾し、電話を切った。「今日、うちの両親と夕食だって。母が君に会いたがっているよ」
「え?」山田は驚いたような表情になった。「でも、準備が…」
「大丈夫、君は今のままで十分素敵だよ」佐藤は微笑んだ。
佐藤家での夕食は、予想以上に和やかな雰囲気で進んだ。佐藤の父は有名な心臓外科医で、母は元大学教授という知的な家庭だった。
「美咲さん、真一から聞いたわよ。研究発表が大成功だったそうね」佐藤の母が優しく微笑んだ。
「ありがとうございます」山田は少し緊張しながらも笑顔で答えた。
「どんな研究テーマなの?」母が尋ねた。
山田は自分の研究について熱心に説明し始めた。「身体記憶と人格の相関性について研究しています。特に、心臓移植後に患者がドナーの好みや特性を持つようになる現象に興味があって…」
佐藤は緊張しながらも、平静を装った。彼の父、佐藤医師は興味深そうに聞いていた。
「興味深いテーマだね」父は専門家らしい表情で言った。「確かにそういった症例報告はあるが、科学的に証明するのは難しい領域だろう」
「はい」山田は熱心に頷いた。「だからこそ研究する価値があると思います」
夕食の会話は医学や研究のテーマから、より個人的な話題へと移っていった。佐藤の両親は山田の「事故」について心配し、彼女の記憶障害の状態について質問した。
「少しずつ良くなっています」山田は微笑んだ。「真一のおかげで…」
彼女は佐藤を見つめ、彼が手を取った。その光景に佐藤の両親は満足げな表情を浮かべた。
帰り道、山田は静かだった。
「どうしたの?」佐藤が尋ねた。
「あなたのご両親、素敵な方たちね」山田は遠くを見つめながら言った。「でも…私、なぜかとても懐かしい気持ちになったの。まるで前にも会ったことがあるような…」
佐藤の心臓が高鳴った。実際、山田は以前にも佐藤の両親に会ったことがあったが、それは「研究被験者」としてだった。しかし、椎名も一度、佐藤の家で晩餐会に招かれたことがあった。椎名の心臓が持つ記憶が反応したのだろうか?
「気のせいじゃないかな」佐藤はなんとか冷静を装った。「君は緊張していたから」
その夜、佐藤はなかなか眠れなかった。山田の中の椎名の存在が、次第に強くなっているように感じられた。それは彼の実験の成功を意味する反面、危険な状況にもつながりかねなかった。
数日後、山田は医学雑誌への投稿論文を完成させていた。彼女の研究は学内外で注目を集め、他大学からの講演依頼まで来るようになっていた。
同時に、彼女の中の「違和感」は日に日に強まっていた。
「真一」ある夜、彼女はベッドの中で突然言った。「私、自分が誰なのか分からなくなることがあるの」
佐藤は緊張しながらも、彼女の手を握った。「どういうこと?」
「私の中に…別の誰かがいるような気がするの」山田は困惑した表情で言った。「私の考えや好みが、本当に私自身のものなのか分からなくなる瞬間があるの」
「美咲…」
「特に、あなたのそばにいると…」山田は佐藤の顔をじっと見つめた。「私の心が奇妙な反応をするの。愛情と同時に、何か別の感情も…」
佐藤は彼女を抱きしめた。「それは君が自分自身を取り戻しつつある証拠かもしれないね。記憶が少しずつ戻ってきている」
しかし、彼は内心で恐れていた。山田の中の椎名の意識が、佐藤に対する複雑な感情—友情や尊敬、そして研究への共感—を思い出し始めているのかもしれない。あるいは、佐藤が行った恐ろしい行為への憎しみさえも。
翌日、佐藤は研究室で作業をしていると、同僚の教授が話しかけてきた。
「佐藤君、山田さんの研究テーマ、興味深いね。彼女の分析力は驚くべきものがある」
佐藤は微笑んだ。「ありがとうございます。彼女は才能があります」
「ところで」教授は何気ない様子で言った。「彼女の胸の傷跡…あれは交通事故によるものなのかい?」
佐藤の血の気が引いた。「はい、そうです。なぜですか?」
「いや」教授は肩をすくめた。「三宅教授が気になると言っていたものでね。あの傷跡のパターンが心臓手術によく似ているらしい」
佐藤は平静を装いながらも、冷や汗が背中を伝うのを感じた。「そうですか…彼女は事故で胸を強打したので、緊急手術が必要だったと聞いています」
「なるほど」教授は頷いた。「それで説明がつくな」
佐藤はその会話の後、長い間、資料を睨んだまま動けなかった。事態は危険な方向に進みつつあった。三宅教授のような専門家が疑念を抱き始めれば、真実が明るみに出る可能性が高まる。
## 第十七章:最終的な対峙
その夜、佐藤はアパートに帰宅すると、山田が落ち着かない様子で待っていた。
「真一…今日、三宅教授と再び会ったの」彼女の声は震えていた。
佐藤の心臓が高鳴った。「そうなんだ、どうだった?」
「教授が更に踏み込んだことを言ったの」山田は混乱した表情で言った。「私の研究テーマにとても興味を持ってくれて、ある仮説を話してくれたわ」
「どんな仮説?」佐藤は緊張して尋ねた。
「私自身が…心臓移植を受けたのではないかって」山田は震える声で言った。「私の傷跡のパターン、血液型の変化、そして私の性格や嗜好の変化…全て説明がつくって」
佐藤は言葉を失った。三宅教授は山田の状態を見抜いていた。心臓外科医としての彼の専門知識が、佐藤の実験の痕跡を認識したのだ。
「美咲、それは…」佐藤は何と言えばいいのか分からなかった。
「真実なの?」山田は真剣な目で佐藤を見つめた。「私の中にある別の存在…それは心臓のドナーの記憶なの?」
佐藤は長い間、沈黙していた。部屋の空気は張り詰め、時間だけが静かに流れていくようだった。
「真一、答えて」山田は声を震わせながらも、目は鋭く佐藤を捉えていた。「私の中の心臓は…」
「私は…誰なの?」山田は泣きながら尋ねた。
この瞬間、佐藤は選択を迫られていた。真実を告白するか、最後まで嘘を貫くか。しかし、山田の涙に濡れた瞳を見つめた時、彼は自分が作り出した「完璧な人間」が、実は完璧ではなく、ただひたすら真実を求める一人の人間であることを理解した。
椎名祐介の失踪事件は完全に迷宮入りしたわけではなかった。警視庁捜査一課の刑事・中原は、この一年近く未解決となっている事件からどうしても手を放せずにいた。
「何か見落としている。あの優秀な院生が突然姿を消す理由がない」中原刑事は、デスクいっぱいに広げられた資料を眺めながら呟いた。
椎名の最後の足取りを何度も見直すうちに、一つの矛盾点が浮かび上がってきた。京都行きの申請はオンラインでなされていたが、実際に椎名が京都に到着した記録はどこにもなかった。そして、彼が最後に目撃されたのは、佐藤真一の父親が院長を務める診療所の方向に向かう道だった。
「もう一度、佐藤診療所周辺を当たり直そう」中原は若い刑事・田中に指示した。
翌日、二人の刑事は佐藤診療所を訪れた。白衣を着た年配の男性、佐藤勇一院長が丁寧に対応した。
「椎名祐介さんのことですか?確かに息子の研究に協力していたようですが、診療所に来たかどうかは...」院長は思い出そうとしているような仕草をした。
「息子さんによると、失踪当日に椎名さんがここに立ち寄ったと聞いています」中原は静かに言った。
「そうなんですか?私はその日は学会で不在でした。スタッフに確認してみます」院長は秘書を呼び、確認を依頼した。
結局、診療所のスタッフの誰も椎名の来訪を明確に覚えておらず、監視カメラも当日はシステム更新中で機能していなかったという答えだった。
「息子さんの最近の様子はいかがですか?何か変わったことはありませんか?」中原は何気ない口調で尋ねた。
院長は少し考えてから答えた。「そうですね...特に変わったことと言えば、彼がガールフレンドを作ったことでしょうか。医学部の山田という学生です。彼女が事故に遭った後、真一は献身的に彼女をサポートしていました」
「事故ですか?」中原の眉が少し上がった。
「ええ、交通事故で記憶障害を負ったそうです。息子が面倒を見ていました」
刑事たちが診療所を後にすると、中原は何か引っかかるものを感じていた。「山田という学生...記録を当たってみよう」
彼らは大学の記録を調査したが、山田美咲の交通事故の公式記録は見つからなかった。病院のデータベースにも該当する記録はなかった。
「おかしいな...」中原は眉をひそめた。「交通事故なら警察記録があるはずだが...」
さらに調査を進めると、興味深い発見があった。椎名の失踪直前に、佐藤は医療機器専門店でいくつかの特殊な器具を購入していた。そして失踪の数週間後、「高橋リサイクル工業」という会社に現金で支払いをした記録があった。
「高橋リサイクル工業...」中原はネットで検索すると、金属廃棄物の回収と処理を専門とする会社だと分かった。「なぜ医学生がリサイクル会社と取引する必要がある?」
田中がさらに調査を進めると、高橋リサイクル工業が「機密性の高い廃棄物処理」に特化していることが判明した。そして、佐藤が支払った金額は一般的な廃棄物処理費としては異常に高額だった。
「これは匂いますね」田中は報告した。「特に医療関係者からの依頼が多いようです。詳細な記録は残さないことでも知られているとか」
中原はこの情報を胸に、大学の医学部を訪れ、佐藤真一と面談することにした。佐藤は研究室で、山田と一緒に作業をしていた。
「こんにちは、佐藤さん。以前にもお会いしましたね」中原は自己紹介した。「椎名祐介さんの件で、もう少しお話を伺いたいのですが」
佐藤は平静を装いながらも、内心では動揺していた。「もちろんです。何でも」
「椎名さんが最後に診療所に立ち寄った日のことをもう少し詳しく教えていただけますか?」
佐藤は既に何度も繰り返した説明をした。椎名が研究資料を受け取りに来て、短時間で帰ったという話だ。
「診療所には何時頃いらしたんですか?」
「午後2時頃だったと思います」
「正面玄関からですか?」
「ええ...いや、その日は患者さんが多かったので、裏口からだったかもしれません」
中原の目が僅かに細くなった。「裏口...そうですか。診療所の裏口付近に監視カメラはありますか?」
「あったとしても、その日はシステム更新中でしたから」佐藤は慎重に答えた。
中原は話題を変えた。「ところで、高橋リサイクル工業という会社をご存知ですか?」
佐藤の顔から一瞬、血の気が引いた。「え?なぜそんな...」
「あなたが昨年、そちらに高額な支払いをされていますよね」
「ああ、それは...研究室の古い機器を処分する必要があって」佐藤はなんとか冷静を取り戻した。
「医学生が個人で研究機器を処分するのは珍しくないですか?」
「父の診療所からの古い機器も一緒だったんです」佐藤は説明した。「父が忙しかったので、私が代わりに手配しました」
中原は納得したふりをした。「分かりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
刑事たちが去った後、佐藤は警戒を強めていた。警察が高橋リサイクル工業との繋がりに気づいたということは、彼らが何かの匂いを嗅ぎつけたということだ。
数日後、中原刑事は高橋リサイクル工業を訪問した。社長の高橋は無愛想な中年男性で、警察の訪問を明らかに不快に思っている様子だった。
「我々は法的に問題ない範囲で営業しています」高橋は腕を組んで言った。「顧客情報は守秘義務がありますから」
「これは失踪事件の捜査です」中原は静かに言った。「佐藤真一さんという方から依頼を受けた廃棄物の内容を教えていただけませんか?」
「記録は最小限しか残していません」高橋は答えた。「確か...金属製の医療機器だったはずです。詳細は記録にありません」
「その機器はどのように処理されましたか?」
「通常通り分解して、素材別にリサイクルラインに流しました」高橋は肩をすくめた。「鉄鋼メーカーやステンレス再生工場に素材として売却しています」
「機器にはどのような特徴がありましたか?」
「さあ...」高橋は不快そうに答えた。「大きなステンレス製の何かだったと思います。作業員が回収に行きましたから、私は直接見ていません」
中原はさらに質問を続けた。「回収に行った作業員に会うことはできますか?」
「彼らはもう退職しました」高橋は冷たく言った。「他に質問がなければ、お引き取りいただきたい。忙しいんでね」
中原は高橋リサイクル工業を後にしたが、確信めいたものを感じていた。何かが隠されている。彼は田中に指示した。
「退職したという作業員を探し出せ。そして佐藤が高橋に依頼した直前の期間に、佐藤診療所の周辺で何か目撃情報がないか、もう一度当たり直せ」
佐藤真一は父親の診療所の院長室に呼び出された。父親の表情は厳しく、机の上には警察からの問い合わせ書類が広げられていた。
「真一、警察が私のアリバイを確認していった」父親は静かに言った。「椎名君が失踪した日、私が本当に学会に出ていたのかを確認するためだ」
佐藤は緊張したが、冷静さを保った。「父さんのアリバイに問題はないでしょう?」
「ない。だが問題は別のところにある」父親の目が鋭く息子を捉えた。「なぜ君が私の名前を使って、病院の機器を廃棄したと警察に言ったのか」
「それは...古い機器が...」
「嘘をつくな」父親は厳しく言った。「私は何も廃棄を依頼していない。何が起きているんだ、真一?」
佐藤は言葉に詰まった。父親の追及と警察の捜査が同時に迫りつつあった。彼の完璧だったはずの計画に、ほつれが生じ始めていた。
数日後、元高橋リサイクル工業の作業員・鈴木が匿名で警察に連絡してきた。
「あの日、佐藤診療所で回収した機械ですが...」鈴木は緊張した様子で話し始めた。「普通の医療機器じゃなかったんです。肉挽き機のような...大型の機械でした」
中原の背筋が寒くなった。「肉挽き機?」
「ええ、食肉加工用の大型のやつです。でも念入りに洗浄されていました」
中原は田中と視線を交わした。「佐藤診療所での回収場所は正確にどこでしたか?」
「裏口です。普通の患者さんが使わない通路からでした」
中原は立ち上がった。「鈴木さん、正式な証言をお願いします。そして田中、佐藤診療所の裏口周辺の土壌サンプルを採取する令状を取ってくれ」
捜査は新たな局面に入った。佐藤真一と椎名祐介の失踪には、何らかの関連があるという確信が強まりつつあった。
中原刑事の捜査が進むにつれ、佐藤は次第に追い詰められ始めていた。自宅に戻った彼は、父親からの電話で知らされた警察の動きに震える手でメモを取っていた。山田は彼の様子を心配そうに見つめていた。
「真一、どうしたの?何かあったの?」
佐藤は深いため息をついた。「ちょっと仕事のことで...気にしないで」
山田はそれ以上質問しなかったが、佐藤の異常な緊張感を感じていた。二人の間に奇妙な沈黙が流れた。
次の日、佐藤診療所の裏手では、警察の科学捜査班が土壌サンプルを採取していた。白い防護服に身を包んだ捜査官たちは、慎重に地面を掘り返し、複数のサンプルを採取していった。
「特に裏口から10メートル圏内を重点的に」中原刑事は指示した。
サンプル採取の様子は、病院の窓から見ていた看護師たちの間で話題になった。やがてその噂は院長の耳にも入り、佐藤勇一は息子に緊急の連絡を入れた。
「真一、警察が診療所の裏で何かを探している。何が起きているんだ?」父親の声には怒りと恐れが混じっていた。
「父さん、私にも分からない」佐藤は嘘をついた。「椎名の失踪事件の捜査の一環じゃないか」
週末、中原刑事は科学捜査班からの報告書を受け取った。診療所の裏手で採取した土壌サンプルからは、微量の血液反応が検出されたものの、DNAの特定には至らなかった。しかし、興味深い発見があった。
「洗剤や漂白剤の成分が通常より高濃度で検出されています」報告書にはそう記されていた。「何かが念入りに洗浄された可能性が高いです」
中原は眉をひそめた。「診療所だから医療廃棄物の消毒は日常的に行われるだろうが...」
「でも院長によると、医療廃棄物は通常、裏口ではなく専用の廃棄物処理室から出すそうです」田中が補足した。
さらに調査を進めると、椎名失踪の前後に、佐藤診療所の水道使用量が急増していたことが判明した。通常の医療行為では説明できない量の水が使用されていたのだ。
「何かを徹底的に洗浄したな...」中原は呟いた。
次に、彼らは山田美咲の過去の医療記録を調査した。彼女の「交通事故」の詳細を確認するためだ。驚くべきことに、山田の過去の健康診断記録には血液型がAB型と記録されていたが、最近の記録ではO型になっていた。
「血液型が変わるということはないはずだが...」中原は医療専門家に確認した。
「確かに通常はありえません」専門家は答えた。「ただし、骨髄移植や臓器移植後には、ドナーの血液型特性が現れることがあります」
「臓器移植...」中原の目が鋭くなった。
彼は急いで、山田が「交通事故」で入院したとされる期間の病院記録を調べようとしたが、該当する患者記録は存在しなかった。一方、同じ期間に佐藤診療所では電力使用量が異常に増加していた。特に手術室に使われるような高出力機器の使用が記録されていた。
「田中」中原は決断した。「佐藤真一と山田美咲の両方に対する聴取令状を取ってくれ。そして佐藤診療所の全記録と、佐藤真一のアパートの捜索令状も」
その日の夕方、佐藤真一は大学から帰る途中、病院の前に止まっているパトカーを見かけた。彼は一瞬足を止め、何気ない素振りで歩みを続けた。
「警察...?」彼は内心で動揺したが、表情には出さなかった。
携帯電話に父からの着信が何件か入っていたが、佐藤はあえて無視していた。パトカーを見た今、その着信の意味が理解できた。何か問題が起きている。
彼はアパートに戻ると、山田が論文を書いているのを見つけた。
「おかえり、真一」彼女は明るく笑った。「今日はどうだった?」
「普通だよ」佐藤は平静を装った。「少し疲れただけ」
彼は自室に入り、椅子に深く腰掛けた。「冷静に考えろ...」彼は自分に言い聞かせた。「高橋への支払いが調査されたとしても、それだけでは何も証明できない」
翌日、中原刑事は高橋リサイクル工業を再度訪れていた。埃っぽい事務所で、社長の高橋は不快そうな表情で警察の質問に答えていた。
「佐藤真一という医学生からの依頼ですが、詳細を教えていただけますか?」中原は穏やかに尋ねた。
高橋は面倒くさそうに古い伝票ファイルを引っ張り出した。「ああ、あの件か。随分と大きな取引だったな」
「具体的にはどのようなものを回収したのですか?」
「大型の金属製機械だ。医療機器とは言っていたが、見たところ食肉加工用の機械のように見えたな」高橋は肩をすくめた。「うちは質問はしない。依頼があれば回収する、それだけだ」
中原の背筋に電流が走った。「食肉加工用…肉挽き機のようなものですか?」
「そうだな、大型の肉挽き機みたいなものだった。医療用と言われればそうなんだろうが、正直変わった機器だった」高橋は何気なく答えた。「あんなものが医療研究に使われるとはな」
「医療研究…依頼者はそう言ったのですか?」
「ああ、若いお兄さんは『医学研究用の機器だが、もう不要になった』と言っていた」高橋は記憶を辿るように言った。「妙に清潔だったな。普通、古い機器はもっと汚れているものだが、あれは徹底的に洗浄されていた」
翌朝、佐藤が朝食の準備をしていると、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、中原刑事と田中刑事が立っていた。
「佐藤真一さんですね」中原は身分証を見せた。「椎名祐介さんの失踪事件について、いくつか新たな質問があります」
佐藤は平静を装いながら二人を招き入れた。「何でも聞いてください」
「高橋リサイクル工業という会社をご存知ですね?」中原は単刀直入に尋ねた。
佐藤は一瞬だけ瞬きをしたが、すぐに冷静な表情を取り戻した。「ええ、知っています。研究機器の処分を依頼しました」
「その機器とは、大型の肉挽き機のようなものだったと聞いていますが」中原の目は佐藤の反応を見逃さないよう注視していた。
「そうですね、古い食肉研究用の機器です」佐藤は滑らかに答えた。「私は医療人類学にも関心があり、古い医療機器や関連機器を収集しています。その一部を処分する必要があったのです」
「医学生が個人で300万円以上もの支払いをするのは珍しいと思いませんか?」
「祖父から相続した資産があります」佐藤は微笑んだ。「趣味に使っているだけです」
この時、山田が寝室から出てきた。彼女は警察官を見て驚いた様子だった。
「あ、おはようございます…」彼女は戸惑いながら言った。
「山田美咲さんですね」中原は挨拶した。「いくつかお聞きしたいことがあります」
佐藤は素早く介入した。「彼女は事故で記憶障害があるんです。椎名のことはほとんど覚えていません」
「それでも構いません」中原は山田に向き直った。「山田さん、あなたの事故についての公式記録が見当たらないのですが、いつどこで事故に遭われたのでしょうか?」
佐藤の表情が硬直した。山田は混乱したように中原を見つめた。
「えっと…」彼女は佐藤の方をちらりと見た。「正確な日付は覚えていません。記憶障害なので…」
中原は立ち上がった。「お二人とも、明日警察署に来ていただけますか?さらに詳しくお話を伺いたいことがあります」
佐藤は頷いた。「もちろん」
警察官たちが去った後、部屋には重い沈黙が流れた。山田は混乱した表情で佐藤を見つめていた。
「真一…何が起きているの?」
佐藤は彼女の手を取った。「美咲、信じてほしい。すべては君のためなんだ」
山田の目に恐怖の色が浮かんだ。「どういう意味?」
佐藤は彼女の目をじっと見つめた。「今夜、すべてを話す。だが今は、二人の時間が必要だ。どこか遠くへ行こう」
警察が去った後、佐藤は落ち着かない様子でリビングを行ったり来たりしていた。山田はソファに座り、彼の様子を見つめていた。
「美咲、少し考えていたんだ。明日の警察の事情聴取の前に、少し遠出してみないか?」
「遠出?」山田は首を傾げた。「今?」
「ああ、気分転換だ」佐藤は微笑んだ。「山に行こう。父の別荘がある。静かで良い場所だよ」
30分後、二人はアパートを出て、佐藤の車に乗り込んだ。目的地は東北の山間部にある別荘。人目につきにくい場所だった。
その頃、警察署では中原刑事が事態を把握していた。
「彼は椎名祐介が失踪した当日、父親の診療所にいたと証言しています」田中刑事が報告した。「しかし、診療所のスタッフは誰も椎名が訪れたのを覚えていません」
「肉挽き機の件も気になる」中原は考え込んだ。「医学生が個人で食肉加工用の機械を所有し、300万円以上かけて処分するなんて不自然だ」
「山田美咲の事故記録も確認できませんでした」田中は別のファイルを開いた。「佐藤総合病院にも入院記録はないようです」
二人の刑事がアパートを訪れたのは夜の9時頃だった。しかし、何度呼び鈴を鳴らしても応答はなかった。
アパートの管理人は、佐藤と山田が荷物を持って出かけたのを目撃していた。「2時間ほど前です。旅行に行くような感じでしたよ」
中原の表情が曇った。「田中、佐藤勇一院長に連絡を取れ。息子と連絡が取れるか確認するんだ」
佐藤総合病院で、中原は院長室に案内された。佐藤勇一は窓際に立ち、外を見つめていた。
「息子から連絡がありました」院長は振り向かずに言った。「『山に行く』と。警察の事情聴取があるのに」
「いつ連絡がありましたか?」中原は素早く尋ねた。
「1時間ほど前です」院長は振り向いた。
院長は不安そうな表情で地図を広げた。「別荘はここです。蔵王山系の西側、栗駒への道を20キロほど行った場所です」
「ありがとうございます」中原は地図をメモに写した。「現地の警察と連携して、息子さんを見つけ出します」
別荘に着いたのは夜の11時頃だった。佐藤は暖炉に火を入れ、山田はソファに座って暖を取っていた。
「懐かしい場所ね」山田は別荘の中を見回しながら言った。「来たことあるような気がする」
佐藤は驚いた。「君をここに連れてきたことはないよ」
「そう...?」山田は首を傾げた。「でも、あのテラスから見える景色を知っているような...」
佐藤は山田の横に座り、彼女の肩に腕を回した。「美咲、聞きたいことがある」
「なに?」
「もし...僕が何か悪いことをしていたとしても、君は僕の味方でいてくれる?」佐藤の声は低く、震えていた。
山田は彼をじっと見つめた。「真一...あなた、何をしたの?」
佐藤は立ち上がり、窓の外の暗闇を眺めた。遠くで車のヘッドライトが見えたような気がしたが、すぐに消えた。
「美咲、僕たちは特別な関係だよね」佐藤は窓に背を向けたまま言った。「君が事故で記憶を失った後、僕は君を支え続けた。そして君は僕の研究をサポートしてくれた」
「もし...その関係の始まりが、君の思っているのとは違っていたとしても、今の僕たちは本物だ」佐藤は彼女の目を見つめた。「それだけは信じてほしい」
山田の表情に疑念が浮かんだ。「真一、私に何か隠していることがあるなら、教えて」
その時、別荘の外で車の音がした。佐藤は窓に駆け寄り、外を見た。パトカーのライトが暗闇を切り裂いていた。
「警察だ...」佐藤は呟いた。時間が尽きたようだった。
山田は彼に真実を問い詰めた。
「真一、答えて。私に何をしたの?この心臓は…誰のものなの?」
観念した佐藤は、震える声で全てを告白した。椎名祐介の殺害、心臓移植、そして「完璧な人間」を創造するという狂気の計画。
山田は恐怖と怒りに打ち震え、後ずさる。彼女の中で、美咲としての感情と、椎名としての冷静な分析が激しく衝突していた。
「なぜ…」
「君を愛していたからだ」佐藤は叫んだ。
「いや、君という完璧な器と、椎名という完璧な精神が融合した、僕の理想の人間を愛してしまったんだ」
その時、玄関のドアが激しく叩かれ、警察の投降を促す声が響き渡った。
「佐藤真一!中にいるのは分かっている!包囲されている、出てきなさい!」
絶望的な状況の中、佐藤は山田に二つの注射器を見せた。
「美咲、選んでくれ」
一つは強力な鎮静剤だった。
「これを使えば、君はまた『記憶障害の患者』に戻れる。僕は一人で罪を償う。君は何も知らなかった被害者として生きていける」
もう一つは、即効性の毒薬だった。
「あるいは、これを使えば…僕の創り上げた『完璧な人間』のまま、二人でこの物語を終わらせることができる」
それは究極の選択だった。山田の目から涙が溢れた。佐藤を殺したいほど憎い。しかし、彼が自分に注いだ歪んだ愛情も、今の自分を形作った事実も否定できない。彼女の中で、椎名の声が囁いた。「論理的な帰結は一つしかない」と。
「あなたの創った人間が、最後の決断を下すわ」
山田は佐藤の手から毒薬の注射器を奪い取った。そして、警察がドアを破って突入してくる、まさにその瞬間、彼女は注射器を、驚愕する佐藤の腕をすり抜け、自分自身の胸に突き立てた。
「ッ…!」
「これで、椎名さんも、私も、そしてあなたの創った『怪物』も…全て終わる」
山田は薄れゆく意識の中、佐藤の頬にそっと手を伸ばした。その表情は、安堵のようでもあり、慈愛に満ちているようにも見えた。
突入してきた警官隊が目にしたのは、腕の中で冷たくなっていく少女を抱きしめ、天を仰いで慟哭する男の姿だった。
彼の「プロジェクト・パーフェクト」は、彼が創造した完璧な人間が、自らの意志で「自己犠牲」という最も人間的な選択をすることで、最も皮肉な形で「完成」したのだった。
数年後。終身刑となった佐藤が、刑務所の独房で手記を綴っている。
「私は神になろうとした。だが、私が創り出したのは、罪を犯した創造主を赦し、自らの死を選ぶほどの『完璧な人間性』を持つ存在だった。彼女の最後の選択こそが、私の実験の唯一にして最高の成果であり、そして永遠の罰なのだ」
彼の独房の壁には、一枚の色褪せた写真が貼られている。
それは、まだ何も知らなかった頃の、ごく普通の医学生だった山田美咲の笑顔。彼は毎日それを見つめながら、彼女の最後の心臓の鼓動を胸に刻み、永遠に続く罪を噛みしめて生きていく。




