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閑話:命の盟約 ネガティブボーイミーツガール?

平凡な日常から抜け出したいと願いつつも、無気力な日々を送っている少年、創。そんな彼の目に留まったのは、クラスの中心的存在であり、誰もが憧れる完璧な少女、貴音梓だった。


夏休み前日、少年は教室で一人夕焼けを眺める梓に、勢いで告白するもあっけなく玉砕。失意の中、彼は偶然にも彼女が落とした「遺書」を発見してしまう。そこに綴られていたのは、母親からの虐待と父親からの過度な教育という、彼女の壮絶な過去だった。衝撃を受けた少年は、校舎の屋上から身を投げようとする梓を寸でのところで引き留める。

これはネオニッポンに召喚された人々の故郷、日本で起きた出来事の一部始終である。


「死にたいなぁ……。こんな日に、こんなことを思ってる人なんて、きっと誰もいないよね。」


そう、誰にも聞こえないように、ポツリと呟いた。途端に口の中が苦くなり、足取りは重くなる。それでも、彼女は一歩一歩、校門をくぐっていく。


死にたい——。


その思いは、朝からずっと心の底に張り付いて離れない。どれだけ振り払おうとしても、その黒い影はしつこく付きまとい、じわりと心を蝕んでいく。




今日、この日。世間一般で言えば、未来を夢見る始まりの一歩。入学式という、一生に一度の記念すべきイベントだ。新しい学校、新しい友達、新しい可能性に胸を躍らせるはずの場面。それは普通の学生にとって最大のイベントであり、期待と不安が入り混じる一日だ。


勉学に励むと決意する者もいるだろう。青春を謳歌し、遊び尽くそうとする者もいる。そして、恋愛を夢見て、憧れを胸に秘める者が大半だ。特に高校生活では、その傾向は顕著だ。


高校で出会う人たちは、それぞれが何らかの影響を与え合う。趣味が同じなら、深く理解し合える仲になるかもしれない。誰かに触発され、勉強に励むようになるかもしれない。あるいは、恋に落ち、言葉が溢れ出る詩人にでもなるかもしれない。


もしかしたら、その出会いが後の人生を大きく変えてしまうこともあるだろう。それほどまでに、高校生活というものは、人との出会いがもたらす変化で満ちている。


しかし——。


その中で、唯一、そんなことに何の期待も抱いていない一人がここにいた。


キーンコーンカーンコーン。


入学式を終え、校長の長い話も無事に終わった。初めてのホームルームがようやく終わり、生徒たちに自由が戻る。だが、ここからが本番なのか、まだ誰も急いで帰ろうとしない。廊下や教室には新たな友人との会話が飛び交い、未来への期待で満ち溢れている。


そんな中、自分だけはぽつんと一人、ぼんやりと周囲を眺めていた。誰にも話しかけられない、いや、誰にも話しかけることができない。そんな自分をひそかに自嘲しながら立っていると——


「おい、久しぶりだな!」


突然、背後から聞き覚えのある声が飛び込んできた。振り返ると、中学時代の友人が、にこやかな笑顔を浮かべて手を振っている。


彼は、無口な自分にとって貴重な存在だ。話が苦手な自分に、自然に声をかけてくれる数少ない友人。彼の存在には、いつも助けられている。


「お前も元気そうだね。相変わらず、明るいな。」


そう返すと、友人は笑みを深めた。


「当たり前だろ!これから高校生活が始まるんだぜ?新しい友達ができるし、もしかしたら彼女もできるかもって考えたら、そりゃ舞い上がるしかないだろ!」


その言葉に、自分も自然と頷いた。確かに、それが普通の反応だろう。だけど、心の奥底にある漠然とした不安が、いつまでも拭えない。この高校生活が、ただ何も変わらずに過ぎ去るだけなのではないか——そんな思いが頭をよぎる。


ふと、視線を巡らせると、教室の隅でひと際目を引く女子生徒が目に入った。彼女の周囲には数人の友達らしき女子たちが集まり、楽しげに会話をしている。しかし、その中心にいる彼女は、まるでその場の空気すら支配しているかのような圧倒的な存在感を放っていた。


もし、この世に「上位種」と「下位種」が存在するなら、彼女は間違いなく上位種だ。自然体のままで、性別を問わず人を惹きつけるその魅力に、一切のわざとらしさがない。まるで、彼女こそがこの教室の支配者であるかのようだ。


その輝きはまるで太陽のようで、影に生きる自分には、到底直視できるものではないと感じた。


「どうした?」


友人が不自然な自分の様子に気づき、怪訝そうに問いかける。


「……なんでもないよ。」


言葉を濁しながら視線をそらす。だが、「なんでもない」は「何かある」という合図にもなる。友人はそれを敏感に察したが、あえて深くは聞かず、軽く肩をすくめて返事をした。


「そっか。」しかし、内心では「まあ、その気持ちも分からなくはないけどな」と、小さく呟いていた。


そうして時が流れ、一年半が経過した。二度目の夏休みが、すぐそこまで迫っている——。


学校帰り、ふと立ち寄った本屋で、一冊の本が目に留まった。そのタイトルは「金持ちと貧乏人」。好奇心に駆られ、手に取ってみた。


ページを開くと、冒頭には「高校を卒業し、就職し、恋人ができ、結婚して子供を育て、老後を迎えて死ぬ——この普通の人生を歩んでいては、貧乏人のままで終わる」と書かれていた。その言葉に、思わず息を呑んだ。


今まで当たり前だと思っていた「普通の人生」が、この本ではまるで否定されている。それは、自分が無意識のうちに受け入れていた未来像を根底から揺るがすような一撃だった。


さらにページをめくると、成功者たち——スポーツ選手、芸能人、芸術家、専門家、重役社員、そして社長といった「雲の上の存在」たちが紹介されていた。その中でも、特に社長という存在について強調されていた。特別な技能や天賦の才能がなくても、発想と行動力さえあれば誰でも成り上がることができる、と書かれている。


だが、高校生の自分にはそれが現実離れしすぎていて、具体的に想像することさえ難しかった。しかし、それが逆に憧れを呼び起こした。無限に広がる可能性の前に、漠然とした期待と不安が入り混じる感覚を覚えたのだ。


自分は、手の中の本をじっと見つめた。ページの文字がぼやけるほど、思考が深まっていく。だが、現実に戻ると、その憧れとは裏腹に自分が「普通」から抜け出せないことを痛感する。経験も特技もない、ただ無為に過ごしているだけの自分を思うと、心が重くなる。胸の奥底に渦巻く虚しさと卑屈な感情が、じわじわと広がっていく。


「自分の人生は、なんて虚しいんだろう……」


自然とため息が漏れ、心の中でそう呟く。なぜこれまで不満を抱かなかったのか、そのことさえ腹立たしく思える。


そんな苦々しい感情を抱えながらも、どこかで新しい何かを求める気持ちが芽生えていた。これを機に、自分は「普通」じゃない何かに心を引かれるようになっていった——それが何であるかは、まだわからない。ただ、確かなことは、この本を手に取った瞬間、自分の中で何かが変わり始めたということだ。


少女は、大きな瞳を輝かせ、問題用紙を手に駆け寄った。「おとうさん!できたよ!」と、声を弾ませて伝える。だが、その期待とは裏腹に、父の表情は冷たかった。短い沈黙の後、彼は無表情で言った。「これくらい出来ても当たり前だ。」


その一言が少女の心を打ち砕く。無邪気な喜びは一瞬で消え去り、彼女は黙り込んで立ち尽くした。紙を握りしめる小さな手が震えているのがわかる。「さぁ、次だ。」父の指示に、彼女は何も言わずに頷き、再び机に向かう。広すぎる部屋に、鉛筆が紙を擦る音だけが響き渡る。寂寥感がその空間を覆い尽くしていた。


数時間が過ぎ、疲れ切った少女は、母のいる部屋にそっと声をかける。「ねぇ、おかあさん。もういいでしょう?」その声には生気が感じられない。まるで魂が抜けたような、諦めきった響きだった。


だが、母は冷酷だった。「駄目よ。いっぱい勉強しないと、いい学校にも行けないし、いい会社にも入れないわよ。」その言葉には、愛情も温かみもない。ただ社会のルールを機械的に繰り返すような調子だ。


少女は、心の中で毒づいた。「おかあさんだって、ただ父と結婚しただけで何もしていないくせに……。」だが、そんなこと口にできるはずもない。言えば、何が待ち受けているかはわかっていたからだ。


「じゃあ、少しだけ休憩させて……。」彼女がそう言うと、母の顔が険しくなる。次第に顔色が変わり、その瞳には怒りが宿る。少女の体温が一気に下がり、血の気が引いていく感覚を覚えた。まるで自分の体が重くなり、引力が強まったかのようだ。


「なんで私の言うことが聞けないの!そんなの自己中でしょ!」母の声が鋭く突き刺さる。少女は思わず口を開く。「で、でも……。」しかし、その言葉は最後まで出てこなかった。


「なんで自分の我を通そうとするの!そんなんじゃ、将来働けないわよ!」母の怒鳴り声が響き渡る。その言葉に、少女は疑問を抱く。なぜ母は自分の意見を無視し、一方的に押し付けるのだろう?そんな疑念が浮かぶが、彼女はそれを言葉にできない。


それでも、少女は心の片隅で安堵していた。怒鳴られるだけなら、まだましだ、と。


夕食の時間がやってきた。少女の目の前には、山盛りの食事が並ぶ。食欲が湧かず、彼女はうつむいたままスプーンを握りしめている。「おかあさん、もう食べられない……。」思わず出たその一言が、状況を悪化させた。


「ちゃんと食べないと、大きくなれないわよ!育つところも育たないわ!」母は激怒し、手を振り上げる。そして、その手が少女の頬を叩いた。冷たい痛みが広がるが、少女は何も言わない。これが日常茶飯事だと知っているからだ。


「世界中には食べ物がなくて困っている人がいるのよ!なんでそんなもったいないことをするの!」母の言葉が追い打ちをかける。しかし、少女の心には冷たい嘲笑が浮かぶ。「困っているわけじゃないんだから、そんなに出さなければいいのに……。」だが、そんな反論を口にできるはずがない。たとえ言ったとしても、母に通じることはない。母はいつも自分の言い分だけを繰り返し、議論など成立しない。


「ほら、食いなさい!」母は強引に食べ物を押し込んでくる。少女は吐き気を堪え、涙を堪え、恐怖に堪え、ただ耐えるしかない。抵抗すれば、また叩かれるだけだ。


「はぁ……ごはんの時間はいつも憂鬱だ……。」少女は、心の中でため息をつく。クラスメートたちは昼休みに「おなかすいたー!」と元気に叫び、楽しそうにご飯を食べる。そんな光景が彼女には遠い夢のように見える。「みんな、どうしてあんなに楽しそうに食べられるんだろう……。」彼女は羨望と絶望を感じながら、口に運ばれる食事を無理やり飲み込む。


学校へ行く朝、彼女は吐き気を覚え、路上で嘔吐したことが何度もある。そういえば、死にかけたこともあった。


「おまえがいるから、私にしわ寄せがくるんだぁぁ!」母は狂ったように叫びながら、少女を壁に押し付けた。少女の足は床から30センチほど浮かび、首には母の腕が食い込んでいる。視界がぼやけ、時間がゆっくりと流れ始めた。まるでテレビの超スロー再生を見ているかのように、現実が遠のいていく。


「これで死ぬんだな……。」彼女は冷静にそう悟った。幼い体では大人の母親に敵うはずもなく、抵抗する力も声を上げる力もなかった。


過去の出来事が一気に脳裏を駆け巡る。けれど、楽しかったことや嬉しかったことは何も浮かばない。「ああ……私は、何もなかったんだ……。」少女は静かに死を受け入れた。


しかし、意識は消えてくれない。外からエンジン音が聞こえた。「おかしいな……おとうさんの帰りは、まだ一時間後のはず……。」


突然、玄関のドアが開いた。「おい!何をしてるんだ!」父が帰宅し、少女は辛うじて生き延びた。


父は母に向かって冷たく言った。「もうやるなよ、こんなこと……。」生き延びたことには、少しばかりの安堵がある。教育の厳しさは理解していた。それが母の手によってエスカレートしていったのも、彼女は知っていた。それも許容できる範囲だった。


だが、どうして父はそれ以上の対策を取らないのか?母を一時的にでも引き離すなり、離婚することだって考えるはずだろう?その瞬間、少女は初めて父を憎んだ。


この一連の出来事が起こるまで、わずか一分しか経っていない。その後も、彼女の日常には変わらない恐怖が続いた。家では思考を停止させ、母の言うことをただ黙って聞くだけの日々。彼女はもう、自分の意志を持つことすら放棄していた。


少年の友人の心の中


最近、あいつの様子がどうも変だ。ふとした瞬間、そわそわして落ち着きがなくなっているのが目につく。恋人でもできたのか?――いや、それはなさそうだ。いつものようにみんなと話してはいるけれど、その笑顔の裏に何かが隠れているような気がする。だが、その何かが何なのか、どうしても掴めない。


ただ一つ確かなのは、あいつが少し大人びたということだ。前よりも落ち着いた空気をまとっているような、そんな気がしてならない。言葉遣いや仕草が変わったわけではないけれど、微妙な変化がそこにある。


「そうか、決心したんだな……。」ふと、そんな結論に至った。きっと、あいつは何か大きな決断をしたんだ。それが何なのか、俺にはわからない。けれど、その意志の強さは伝わってくる。


でも、俺には何もできない。口を出すわけでもなく、ただ心の中に秘めておくだけ。もしかしたら、その決断がうまくいって、あいつの望む未来が訪れるのかもしれない。でも、現実はそんなに甘くないだろう。期待したところで、裏切られるのがオチだ。そんな考えが頭をよぎり、俺は思わずため息をついた。


「やめよう、こんなこと考えても意味がない……。」自分にそう言い聞かせ、余計な思考を振り払うように足を踏み出す。アスファルトを力強く蹴り、無理やり意識を切り替える。冷たい風が頬をかすめ、街の喧騒が少しずつ遠のいていく中、俺はただ前だけを見て進んでいった。


少年は目覚ましの音に抗いながら、重いまぶたを開けた。ベッドから起き上がると、両手を上げて大きく背伸びをするが、体の奥にこびりついた睡魔はそう簡単には消えてくれない。朝日の光を顔に受けて目を覚まそうとするが、逆にまぶしさに目が痛くなり、目を細めてしまう。光の攻撃も効果は薄く、睡魔はしぶとく居座り続ける。


ふらふらと頼りない足取りで階段を下り、洗面所へ向かう。冷たい水を顔に浴びせる覚悟を決め、蛇口をひねる。冷水が顔に当たる瞬間、背筋にぞくりと寒気が走り、ようやく睡魔が薄れていった。ほっと息をつき、目が覚めた感覚がようやく戻ってくる。


茶の間に向かうと、テーブルにはすでに朝食が整っていた。両親はすでに仕事へ向かっている。食卓に一人で座り、空腹を満たすために朝食をむさぼるように食べ始める。成長期真っ只中の少年にとって、食事は体のエネルギーそのものだ。無心で食べ終えた後、歯を磨きながらスマホを手に取る。ちょっとした暇つぶしにスクロールする指が止まらないが、やがて時計を見て家を出る時間だと気づく。


学校に到着し、席に座ると、再び睡魔が襲ってくる。抗う気力もなく、机に伏せてひと眠りすることにした。だが、静かな教室に響く「よっ、おはよう!」という声が、うとうとする意識を引き戻す。挨拶には気づいているが、睡魔が勝り、面倒なので無視してそのまま寝続ける。しかし、その声の主――今井太郎はしつこい。頭をばしばしと叩いてくる。


「ん、おはよう。朝から元気だな、お前は。」机に伏せたまま、不機嫌そうに返事をする。


すると、太郎は眉をひそめ、不満げな顔を見せる。「お前じゃなくて今井太郎って名前があるだろう。苗字で呼んでっていつも言ってるじゃないか。」


「朝から本当元気だな。」そんな感想を抱きつつも、面倒なので乱雑に答える。「はいはい、わかりましたよ、太郎くん。」


「まーた適当に言いやがって。」と太郎は呆れたように返すが、こんなやりとりはもう慣れたものだ。小学生の頃からの馴染み深いやりとりであり、日常茶飯事だ。太郎も、実際はそんなに気にしていないのだろう。おそらく、だが。


太郎は時々、意味不明にニヤついたり、不気味に笑ったりすることもあるが、基本的には良いやつだ。宿題を見せてくれたり、いつも一緒に遊んだりする親友だ。しかし、眠りを邪魔するのはいただけない。今度、しっかりと言ってやろう――そう心の中で決意する。


今日は夏休み前日ということもあり、教室のあちこちで夏休みの予定について話す声が飛び交っている。だが、自分にはそれほど関係ない話だ。外で遊び尽くした感もあるし、海水浴に行く歳でもない。正直、ただダラダラ過ごしたい気分だ。しかし、時間を無駄にしている感覚に苛まれ、何かしなければという焦燥感が心を掻き立てる。


「何かしなきゃ……でも、やりたいことなんて特にないし……」そんな考えが頭をよぎる中、ふと隣から太郎が口を開いた。「おい、明日から夏休みなのに、なんでお前そんなに辛気臭い顔してんだよ。俺らまで浮いて見えるからやめろ。」


確かに辛気臭い顔をしている理由はあるが、それを正直に話す気にはなれない。適当にごまかして、茶化されるのを避けたい。「い、いや、その、まぁ、なんだ、もう高二なのに彼女いないしさ。夏休みっていったらデートしたり、夏祭り行ったりするじゃん。でも、俺は今年もそういうのないんだろうなーって、ちょっと思ってさ。」


太郎は何かを察したかのように、「ふーん」と鼻を鳴らし、それ以上は突っ込んでこなかった。あっさりと引き下がった様子に安堵しつつも、話したことは一応事実だ。ただ、隠していることがある。それは、昨日の出来事――まだ誰にも話していない、自分だけの秘密だ。


心の中で、そのことを反芻しながら、少年は再び机に伏せ、眠りの中へと身を委ねた。


キーンコーンカーンコーン。放課後の鐘が鳴り、教室内は次第に生徒たちが帰宅のために散っていく。だが、俺は帰るどころか、急に襲ってきた猛烈な便意に顔をしかめ、逆方向にあるトイレへと全力で駆け込んだ。


焦りながらも事を終え、ようやく教室に戻ってきた時には、すでに皆が帰った後だろうと安心していた。しかし、教室に戻ると予想外の光景が目に飛び込んできた。そこには、たった一人の女子生徒が、静かに夕焼けを眺めていた。


彼女――二年生の中で一番人気があり、誰もが認める学年の中心的存在。俺も例外ではなく、その魅力に取り憑かれてしまった一人だ。明るさや派手さはないが、人当たりは柔らかく、どんな相手にも自然に接する。男女問わず高い支持を集める、まさに「完璧」と呼ぶにふさわしい存在だ。


容姿端麗、成績優秀、そして運動神経も抜群。入学式の時からそのオーラはすでに際立っていて、まるでこの場を支配する女王のようだった。そんな彼女だからこそ、告白されるのも、断るのも、モテる者の「義務」といえるだろう。まるで「ラブレス・オブリージュ」――彼女はその義務を淡々とこなしている。


これまで何人もの勇敢な者たちが、彼女に挑戦しては散っていった。彼女に憧れ、恋焦がれた者たちは、皆同じ運命を辿る。それはきっと、俺も例外ではないのだろう。平凡でありきたりな自分が、特別な彼女に惹かれるのはごく自然なことだ。


そして、心のどこかでこう思う――告白して散ったとしても、それは青春の一ページとして残るだろうと。後々、高校時代を振り返った時、苦い思い出として心に刻まれるかもしれない。だが、それもまた青春の証だ。何もせず後悔するよりは、挑戦した記憶が心の支えになると信じたい。


教室にいるのは彼女一人。廊下にも人気はない。絶好のチャンスが目の前に転がっている。彼女は普段から積極的に誰かに話しかけるタイプではないし、噂が広がる心配もなさそうだ。話しかけられれば応じるが、必要以上に深い会話はしない。まるで人に興味がないかのように振る舞うが、そのミステリアスさがまた彼女を引き立てている。


「ここで決めなきゃ……」自分にそう言い聞かせ、心を奮い立たせて彼女の元へ歩み寄る。


「どうしてこんな時間まで残ってたんだ?」


俺の声に気づいた彼女は、夕焼けに向けていた視線をゆっくりとこちらに向けた。


「ちょっと夕焼けを眺めてから帰ろうと思って。むしろ、なんで君がこんな時間まで残ってたの?」と、彼女は穏やかに問いかけてくる。


思わず「うっ」と詰まり、少し間をおいてから答えた。「ト、トイレだ。後は察してくれ。」


一瞬、彼女の表情が微かに揺れた。口元を手で隠しながら、少し困ったような笑みを浮かべる。「そっか、変なこと聞いてごめんね。そろそろ帰るね。」


このまま素直に帰らせるわけにはいかない。心の中で再び気合を入れ、彼女を引き留める。「ちょ、ちょっと待ってくれ!」


彼女は眉をひそめ、察しがついたのか、不機嫌そうな顔を見せた。この時点で、もう結果は見えている。だが、男には引き下がれない瞬間がある。それが今だ。後悔しないためにも、言わなければならない。


お互いの視線が交錯し、緊張感が教室内に漂う。彼女の視線は冷たく刺さるようで、こちらを睨みつけている。しかし、ここで怯んでは何も始まらない。


「俺と……付き合ってほしい!結婚を前提に!」


勢い任せに口にした言葉は、完全に制御不能だった。


「け、結婚!?」彼女は目を見開き、思わず声を荒げた。


さすがにこれは自分でも無理があると感じた。高校生で真面目に結婚を考えているやつなんて、そうそういないだろう。俺は何を言っているんだ……。


彼女は困惑しながら一歩下がり、柔らかい声で言った。「いや、その……ごめんなさい。私、もう帰るね。」


そう言い残し、彼女は足早に教室を出ていった。


俺は呆然とその背中を見送り、やがて机に突っ伏した。教室が暗くなるまで、うなだれたまま動けなかった。


終業式が終わり、教室内は夏休みモード一色に染まっていた。明るい笑い声と会話が飛び交い、生徒たちの視線は既に夏休みの計画やお祭りへと向いている。


「じゃ、一緒に祭りでも行くか。恋人と行くことだけが祭りの醍醐味じゃないだろ?」友人の軽い提案に、俺はわざとらしいため息をついて返す。


「どうせ毎年同じメンツだろ。まぁ行くけどさ。」


「せめて祭りの時くらいは元気出せよ。お前のそのしけた面を祭りまで見たくないからな!」


「はいはい、ワロスワロス。」俺はふてくされたように言い返すが、内心少しだけ救われた気もする。


終業式が終わると、教室内は一気に浮かれた空気に包まれる。夏休みの話題で持ちきりの会話が、ここかしこで繰り広げられている。


「今年も祭り一緒に行こー!」


「えっ、直樹くんと行くの?いいなー!」


「俺は塾があるから無理だな、すまん。」


「そっか……残念。」


「あした海行こうぜ!」


「おう、いいぞ!」


そんな賑わいの中、どこからか俺をバカにするような声が飛んでくる。「なんか辛気臭い顔してるやつ居るけど、絶対童貞で彼女なしだろ!ウケるー!俺に言ってるみたいだし!」


「違いねぇ!」と、周りからも軽い笑い声があがる。


くそっ……俺に向かってそんなことを言いやがって!リア充どもが。青春を謳歌しやがって、俺に聞こえるようにわざと楽しそうに話してるんだろう?こいつらどうせ正しくもないことをしてるんだろうな、なんて考えながら、俺は内心で僻みを募らせる。


ふと、クラス一の人気者――彼女の席に目をやる。すでに机は空っぽで、人影もない。ほら見ろ、あの子はもう帰っているんだ。お前らもさっさと帰れ!


そんな苛立ちを抱えつつ、帰ろうと立ち上がった瞬間、目の前をドタバタと走る男子生徒が通り過ぎた。彼の動きを目で追っていると、何かがふわりと床に落ちるのが見えた。


――あれは、彼女の席だ。


一瞬、心臓が高鳴った。ゴクリ、と唾を飲み込む。周囲を警戒しながら、俺はさりげなくその落ちた紙の方へ歩を進める。誰にも気づかれないように自然な動作で紙を拾い上げ、ポケットに押し込んだ。


教室で中身を確認する勇気はない。すぐにトイレへ直行し、個室に閉じこもる。もしこれがラブレターなら、彼女のものかどうかを確認する前に、誰にも見られないよう葬ってやる。そんな考えが頭をよぎり、胸が高鳴る。


少しの背徳感と、いたずら心を混ぜたような緊張感が入り混じり、指先が微かに震えた。これは、好奇心だ。悪い方の、好奇心――。


ゆっくりと、紙を開いていく。ドキドキする胸の鼓動を感じながら、無意識に息を詰める。


――そこには、意外な内容が書かれていた。


「遺書」という言葉が目に入った瞬間、胸の奥で何かが凍りつくような感覚が走った。


好奇心と興奮で震えていた指が、一瞬にして冷え込み、紙を開いた手が僅かに震えた。


私は今まで何度も死にたいと思っていました――


最初の一行を読んだだけで、強烈な嫌悪感と不安が押し寄せてくる。心の中で警鐘が鳴り響く。これは、ただのラブレターではない。これ以上読んではいけない、そんな気持ちが喉元を締めつける。


だが、目は勝手に動き、次の行を追い始める。


母親からの虐待、父親からの行き過ぎた教育の強制。――毎日が辛くてたまりませんでした。


言葉が一つひとつ心臓に突き刺さる。彼女が抱えていた絶望の重さが、じわりと体の中に広がっていく。


こんな未来に未練なんてありません。――


息が詰まる。胸の奥で何かが強く締め付けられたように痛む。心のどこかで彼女が「特別な存在」だと憧れていた俺が、これほどまでに彼女の苦しみを知らなかったことが、耐えがたい。


夏休み明け早々に不快な思いをさせてしまって申し訳ございません。――


その文面からは、彼女の最後の配慮ともいえる冷静さが感じられ、なおさら悲痛だった。


俺は、これ以上読んでしまったら二度と元に戻れないような感覚に襲われ、慌てて紙をぐしゃぐしゃに握りしめた。そのまま乱雑にポケットに押し込み、教室を飛び出した。


足音が廊下に響く。心臓は早鐘のように打ち鳴り、頭の中は真っ白だ。行く先も考えず、ただ駆け出す。無意識に誰かに知らせなければという焦りが胸を駆け巡るが、具体的に何をすべきかすらわからない。


「俺は、何をしてるんだ……」


自分に問いかけるが、答えは出ない。足は止まらず、ただ無我夢中で駆け続けた。


冷静さを失ったまま、俺はこの衝撃的な現実をどう受け止めていいか、まだ分からないままだった。


玄関まで駆けつけたが、彼女の靴はまだそこにあった。ならば屋上だろうと判断し、再び全速力で階段を駆け上がる。屋上の扉にたどり着くと、案の定鍵は開いていた――いや、壊されていた。


「見かけによらずワイルドなやつだな」と、彼女に対する認識が少し変わる。壊れた扉を押し開けると、そこにはクラス一の人気者の姿があった。手すりに手をかけ、今にも身を投げ出しそうな彼女が。


どうやら人がいなくなるのを待っていたらしい。俺の気配に気づくと、彼女は一瞬こちらを見てから、決意したように飛び降りようとした。しかし、遠くにまだ人影が見えるため踏み出すことをためらったのか、動きが遅れる。そのわずかな隙に、俺は全力で駆け寄る。


着いた頃には、彼女の片足がすでに空中に浮かんでいた。


「ちょ、ちょっと待てぇぇぇぇああー!」


叫びながら、手すり越しに両手を伸ばし、なんとか彼女の足を掴む。俺がしがみつく形になり、女子の足に抱きついている状態だが、そんなことを気にしている余裕はない。彼女もそれを意識する様子はなく、冷静に問いかけてくる。


「君、人の机を漁る趣味でもあるの?私物が舐められてないか心配になってきたんだけど」


彼女は俺を鋭く睨みつける。その余裕ある態度に、俺は少し安心しつつも、慌てて否定する。


「それは違う!断じて違う!クラスの馬鹿共が走り回って、その風圧で手紙が落ちたのを好奇心で見ちゃったんだよ。今はその馬鹿たちに感謝してるけどな。」


「私は今、その馬鹿たちに殺意を抱いてるけどね。死ぬ前にそいつら殺してこようかしら。」


彼女が冗談を返してきたことで、ひとまず命の危険は回避できたかと胸を撫で下ろす。


「しかし、よく間に合ったね。ストーカーでもしてたの?」


息を切らしてここまで駆けてきた俺に、そんなことを言うとは。しかし、まともに答えるしかない。


「いやいや、玄関まで行ったら靴が無かったからここしかないと思ったんだよ。間に合ってよかった。」


「そっか、本当に運が良かっただけなのね。でもさ、『ちょっと待て』って言い方おかしくない?もっとロマンチックな言い方できなかったの?惚れさせるチャンスだったんじゃないの?」


痛いところを突かれるが、俺が何か決め台詞を言えたところで、彼女を惚れさせることなんて無理だろう。


「そんなこと言う時点で、可能性ないんじゃないの?」


その言葉に彼女は少し驚いた表情を浮かべる。


「よく分かってるじゃない、意外ね。」


「そりゃ、好きになった人の性格くらい理解してるつもりだ。」


「でも、私は君のこと好きじゃないし、告白されるまで存在すら知らなかったよ。」


その言葉に、さすがにショックを受ける。


「人に無関心なのは分かってたけど、同じクラスなのに存在すら認知されてなかったのかよ……。」


「そうだよ。私の中じゃそんなもんだよ、じゃあね。」


そう言って、彼女は再び手すりを跨ぎ、飛び降りようとする。だが、すぐに反応して再び彼女の足を掴み、拘束する。


「しつこい。」


今度ははっきりとした怒りの意思を感じる。凄まじい形相で睨みつけられるが、ここで怯んでは彼女のペースに飲まれてしまう。彼女は優秀で、どんな状況でも冷静さを保つタイプだ。だからこそ、ここが説得の糸口だと思った。


「しつこいと言われようが関係ない。気づかれず死にたいなら、そもそも遺書なんて書かなければよかっただろ。本当は救われたいんだろ?」


「違う、単に親へのあてつけよ。」


「じゃあ、家に置いておけばよかったじゃないか。」


「大げさにしたかったの。」


「ならなおさら家だろ?すぐ見つかるし、わざわざ学校に置くなんて、誰かに見つけてもらいたいんじゃないか?実は救われたかったんだろ?素直になれよ。」


「しつこいな!黙れ!」


ついに彼女の丁寧な口調が崩れ、余裕が無くなっているのが見て取れる。ここがチャンスだが、「お前」という呼び方が癪に触り、感情に任せて言い返す。


「お前じゃない!俺には名前がある!奏多創っていうんだ!」


こんな状況で名前を言うのもおかしいが、腹立たしさのせいでつい言ってしまった。


「ふーん、そんな名前だったのね。みんな名前を呼ばずに勝手に話しかけてくるから、全然覚えてないの。創なら私の名前知ってるでしょ?」


「当たり前だ。貴音梓。クラス一の人気者だ。うちの高校で名前を知らないやつなんかいないだろ。」


「そうなんだ。でも、死人には関係ないね。」


再び彼女が飛び降りようとするが、俺は全力で彼女の体を拘束し直す。彼女はヒステリックに叫ぶ。


「このセクハラ!離して!」


「セクハラ?それは死のうとしてるやつが言うセリフじゃないだろ!」


「しつこい!離せ!」


梓がこんな形で死ぬのを、どうしても俺は許せない。彼女のような才能ある人間が、こんなところで終わってしまうなんてあまりにも勿体ない。彼女の苦しみは俺には分からないが、せめて満足してから死んでほしいと思う。


「しつこくて結構だ!でもな、そんな顔して死ぬんじゃねぇ!最後くらい笑って満足気に死ね!やりきったと思ってから死ね!ただ辛いから死ぬなんて甘ったれるな!残された人間がどれだけ辛いか分かってんのか!」


「だったらどうしろって言うのよ!創が私を悔いなく殺してくれるっていうのか!」


「ああ、そうだ!夏休みの間、梓が満足するまで全力で付き合ってやる!その後なら、俺が責任もって殺してやるよ!だから今は絶対に死なせねぇ!」


自分でも馬鹿なことを言ったと思うが、彼女の返しに対して思わず口をついて出た言葉だった。しかし、梓の反応は予想外だった。


「昨日告白してきた相手が『殺してやる』なんて言うなんて、創くん、相当狂ってるね。結婚を前提にとか言ってたのに。ハハハ、ウケるわ。」


彼女は誰も見たことがないほど満面の笑みを浮かべ、心底楽しそうに笑っていた。こんなに笑う彼女を見るのは、初めてだ。


「ほんっと、こんな人初めてだよ。じゃあ、夏休みの間よろしくね、創くん!」


彼女のその笑顔を見た瞬間、俺は一瞬で救われたような気がした。もうこれでいいんじゃないかとすら思えるほどの幸福感が胸を満たす。


梓は微かに息を整え、ポケットからスマホを取り出すと、創に向けて差し出した。


「じゃあ、連絡先、交換しようか。後で困らないようにね。」


その言葉に、創は少し戸惑いながらも頷く。


「そ、そうだな。」


不器用ながらも慣れない手つきでスマホを取り出し、二人は無言でコミュニケーションアプリを開き、お互いのIDを登録していく。画面に「友達登録完了」の通知が表示されたとき、創の心には奇妙な達成感と同時に、重い現実がのしかかってくる。


――貴音梓と繋がった。だが、その代償はあまりにも重い。


校内で孤立しがちで存在感の薄い創と、学校の中心にいる人気者の梓。この二人が、同じ瞬間、同じ空間に居合わせ、互いに存在を認識するという異例の出来事が、運命の歯車を回し始めた。


創はずっと、平凡な日常からの脱却を夢見ていた。特別な何かを手に入れること、それが彼の願いだった。一方、梓は他人から注目を浴びる生活に疲れ、ただ静かで平穏な日常を求めていた。


だが、この偶然の出会いが、二人にとって皮肉な運命をもたらす。創は、梓と付き合うことになったものの、彼女を「最後に殺さなければならない」という条件付き。梓は死に損ねた自分を救ってくれた相手と、複雑な感情を抱えながらも条件付きで交際を始めることになる。どちらの願いも、望んだ形では実現していない。


互いに自分の望みを妨げるような、このねじれた関係は、まさに因果そのものだ。


創が告白した翌日、彼は偶然にも梓の遺書を見つけ、彼女を一時的にどん底から引き上げた。その告白がなければ、創は彼女の自殺を止めることもなく、友好関係は築けなかっただろう。また、遺書を見つけなければ、梓はすでにこの世には存在していなかった。


――全てが、奇妙な歯車の噛み合わせで成り立っている。


単なる偶然だと片付けるには、あまりにも出来すぎている。かといって「必然」という言葉で説明するには、それはあまりに即物的だ。


もっと感傷的で、ロマンチックな表現が必要だろう。


――この出会いは運命だ。


だが、この運命が二人にとって「幸福」なのか「不幸」なのか、それはまだ誰にもわからない。


そして、二人の間に生まれた不安定な絆は、歪で複雑な関係性を紡いでいくことになる。まるで、自分たちの願いそのものが互いに交差し、絡み合っているかのように。


これはまだ序章に過ぎない。果たして、この運命がどのような結末を迎えるのか、誰も知る由はないのだ。


夏が来た。蒸し暑さとともに、学生たちは一斉に浮足立ち、まるで季節の熱に浮かされたかのように夏休みムードに包まれる。遊びも勉強も、その一瞬一瞬が全てで、明日のことなんて頭にはない。

青春を謳歌する若者たちの姿に、大人たちは過去の自分を重ね、懐かしさと後悔の入り混じった感傷を抱きながら過ぎ去った日々に胸を締めつけられ、ほんのりと苦い思い出に顔を曇らせる。あの頃には戻れないと分かっていながらも、心のどこかで「あの時、ああしていれば…」と悔やむからだろう。

彼らにとって、夏の輝きは青春そのもの。甘く、時にはほろ苦い、忘れられない一幕なのだ。


この無邪気な夏の喧騒の中で、創と梓の姿があったとしたら、周囲の目にはどのように映るだろうか。


二人の関係は、一見したところ他の青春と変わらないように見えるかもしれない。


友人同士のじゃれ合いや、恋の駆け引きだと受け取るだろうか?


だが、その内側には深い闇が隠されている。お互いを理解し合おうとしながらも、心の奥底では「殺し」「殺される」覚悟を秘めている二人。その危うい均衡を保ちながら進む二人の行動は、表面の青春の輝きとは全く異なる。


創と梓の間に流れる緊張感は、他の生徒たちの熱気に紛れ、まるでなかったかのように振る舞われている。


生と死が絡み合う運命の糸がある。それは触れれば切れそうなほど繊細で、けれど運命の風に揺れながらも、絶えず二人を繋ぎ続けている。


だが、いつかその偽りの平穏が破れた時、すべてが一変する瞬間が訪れるだろう。


これは、誰にも見えない危機の物語。誰もが青春だと思い込むその裏で、静かに交わされる「命の契約」。誰も気づかないまま進むこのドラマは、果たして詩のように美しい結末を迎えるのか、それとも無情に破滅するのか。


梓とは、昨日のうちに午前十時に児童公園で待ち合わせる約束をしておいた。スマホのアプリで連絡を取り合い、当日の予定を確認する際、創は心に決めていた。「女の子を待たせるなんて男の恥だ」と。だから十五分前には公園に着けるよう、余裕を持って家を出た。


しかし、公園に到着して目にした光景は、創の予想を大きく裏切るものだった。梓は、すでにベンチに腰掛けていたのだ。彼女がいつからそこにいたのか、その問いは瞬時に消え去った。代わりに創の心を満たしたのは、目の前にいる彼女のあまりにも飾り気のない姿に対する驚きだった。


梓は、まるで周囲の目を気にする素振りもなく、シンプルを通り越して無頓着とさえ言える格好でそこにいた。髪は適当にまとめられ、服装も淡々とした色合いのTシャツとジーンズ。それは、まるでファッションに対して一切の興味を持たないかのようだった。


「これが、あの学校で人気のある梓なのか…?」


創はそう思わずにはいられなかった。しかし、直感的に理解した。彼女のその無頓着さは、単なる無関心を超えている。人に対しての無関心が、服装や外見にもそのまま反映されているのだろう。


これは由々しき事態だ。


「おはよう、創くん。」


梓の穏やかな声に引き戻され、創は一瞬忘れていた最初の疑問が再び頭に浮かんだ。


「十時の約束だったよな? なんでこんなに早いんだ?」


「分かってるよ。ただ、家にいたくなかっただけ。遺書を読んだなら、察しがつくでしょ。」


その一言で全てが腑に落ちた。創は思わず苦笑を浮かべる。


「そういうことか。俺が時間を間違えたかと思って焦ったよ。それに、正直、来てくれないんじゃないかって不安だったし。」


「大丈夫。創くんとの約束なら、私は絶対に守るから。それに、私は創くん以外を人間として見てないからね。」


梓はにこりと微笑みながら言葉を続けた。その笑顔は、明るく、無垢で、けれどその背後に何か冷たいものが透けて見えるようだった。


普通なら、この状況で「かわいい」とか「幸せだ」と感じるべきところだろう。しかし、創の胸に湧き上がったのは、明るい感情とは程遠い、背筋を凍らせる恐怖だった。


梓の言葉が示すものは、決して「創自身」への感情ではない。彼女にとって、創はあくまで「殺してくれる対象」であり、その結果に対する利益を期待しているからこそ、あんなにも嬉しそうにしているのだ、と創は直感的に感じ取った。


彼女の言葉や笑顔には、創への特別な感情など微塵も含まれていない。もし創がその期待に応えられなければ、梓は失望し、最終的に「死」という形で自分を満たすだけだろう。そして、創はその時、躊躇なく彼女を手にかけるだろう――梓のことが「好き」だから。


創は自分の胸の内が見透かされていると感じた。梓は、周囲の人間を有象無象としか見てこなかったが、今は創を初めて「人間」として認識している。彼女の知性と洞察力を考えれば、創が何を考え、何を感じているかなど簡単に見抜けてしまうだろう。


「そっか。なら、急にいなくなったりはしないんだな?」


念には念を入れて、創は確認のために再度問う。言葉を得ることで、事実を確かめておきたかった。


「もちろん。」


梓は迷いなく答えた。その声には不思議と暗い響きが混じり、笑顔の奥に隠された何かが垣間見えるようだった。


その瞬間、創は確信した。梓がどれだけ優秀で、どれだけ物事を冷静に計算しているかを。そして、彼女の中で創という存在が、どれだけ特別な位置にあるのか――それは、彼女の「最期」を共にする相手として選ばれたからに他ならないのだ。


創は、その覚悟を確かめるように、改めて梓を見つめた。そして、自分が引き受けた重荷がどれほどのものか、心の奥底でひしひしと感じ取っていた。


「よし、じゃあ本題に入るか。」


創が少し気を引き締めた様子で言うと、梓はニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべた。


「案外、あっさりしてるのね。もっと照れたり、喜んだりするかと思ってたのに。もしかして朝から抜いてきた?」


その言葉に、創は瞬時に眉をひそめた。梓のその無邪気さと、どこか挑発的な態度が混じった言葉に、内心で「こんな状況じゃなければ…」と呟かざるを得なかった。


「んなわけあるか。」


軽く言い返しながらも、創はすぐに話を進めることにした。


「で、今日はどうやって私を満足させてくれるの?」


梓が軽く身を乗り出し、目を輝かせる。彼女の中にある微かな期待感は、隠し切れないものだった。


「今日はショッピングに行こうと思ってる。好きなものをいくつか買ってやるよ。ただ、蓄えはあるけど、夏休み中に使い切ったら困るから、あまり欲張らないでくれよ。」


「はーい。」


梓が無邪気に返事をする姿に、創は少し拍子抜けする。態度がやけに砕けているのが気になったが、彼女がこんなふうに誰かと接することができる機会がなかったのだろうと思い、あえて詮索はしないことにした。


二人はショッピングのため、最寄りのスーパーへと向かうことにした。田舎のスーパーはどこか大雑把で広く、日用品から娯楽用品まで一通り揃う。街で一番大きな店だから、住んでいれば誰しも一度は訪れる場所だ。


「さすがに知り合いに見つかったら面倒だな…」創はそう思いながら、周囲をちらりと見渡す。


田舎だから、知り合いとばったり出くわす可能性は高い。少し不安が頭をよぎるが、どうするかはその時考えようと自分に言い聞かせた。


「こんな時に、変に身構えすぎても肩が凝るだけだ。」


創は気持ちを切り替え、深呼吸を一つする。梓と過ごすこの時間が、単なる買い物以上の何かになる予感があった。それが何なのかはまだわからないが、少なくともこの瞬間だけは、余計な雑念を捨てて彼女と向き合おうと決めた。


その一方で、梓はそんな創の心中を察しているのか、いないのか、無邪気な表情のまま、軽やかな足取りで店内に入っていく。彼女が目を輝かせながら、何を選ぶのか、創は静かにその背中を見つめていた。


「おぉ、すごく広いね!」


梓が目を輝かせながらスーパーの広いフロアを見渡す。その反応に、創は一瞬「えっ?」と内心戸惑うが、それを言葉に出す代わりに軽く微笑んで応じた。


「まぁ、確かに広いけど…そんなに驚くか?」


「私、普段家から出してもらえてないから、新鮮でね。」


あまりにも軽い口調で言うその言葉の裏には、深い闇が隠されているのを創は感じた。


「そうだったのか…。じゃあ、何日かかけてこの街のお店をいろいろ巡ってみるか?」


「いいね、賛成!」


梓が楽しげに応じる姿を見て、創は少し安心した。これで、しばらくの間は彼女に楽しみを提供できるかもしれない。


「でもさ、物を買っても仕方ないんだよね。置き手紙は書いてきたけど、無断で家を出てきたし、もう帰れないからさ。」


その一言に、創の心中で警鐘が鳴った。


「…最初からそれを言えよ。そうと分かってたら、別の予定を立てたのに。」


「買い物って、したことなかったからさ。一日くらいは経験してみてもいいかなって思っただけ。」


創は少し考え込むようにしてから、すぐに決断する。


「じゃあ、買うものは服と食品に絞ろう。正直言って、女子にしてはあまりにも着飾らなさすぎだと思ってたんだよ。」


今の梓の服装は、無地の白いTシャツと灰色の長ズボン。シンプルすぎるそのスタイルは、ニートか専業主婦と見紛うほどだ。創は心の中で「これじゃ彼女の良さがまるで引き立たない」と感じていた。


「まずは梓の服から買いに行こう。異論は認めないぞ。」


「オーケー。なら服選んで。理由はわかるでしょ?」


「わかってるよ。そういうことなら、やぶさかではないさ。」


創はすぐに服売り場へと向かうが、その道中で、すれ違う人々の視線が自分たちに集中しているのを感じ取った。梓の美貌が注目を集めるのは当然だが、彼女の服装のギャップがさらに人々の目を引いている。


「これじゃ、ただ歩いているだけで疲れるな…。」


創はため息をつきながらも、店内の服コーナーに到着した。ここからは、彼が梓のコーディネートを担当する時間だ。


まずは、白いワンピースを試着させてみる。シンプルながらも上品なデザインが、彼女の透明感を引き立てるはずだと期待していた。


「お、なかなかいいじゃん。」


創は素直にそう思った。梓はどんな服でも似合う。彼女の美しさは、どんな装いも「絵」になるほどだ。


しかし、梓は少し困った顔をしながら、袖のないデザインを気にしている様子だった。


「うーん、袖がないのはちょっと…。それに、裾がひらひらしすぎて踏みそう。」


「そっか、じゃあ仕方ないな。」


そこから先は、まるでファッションショーのような時間が始まった。創は次々と梓に服を選んで試させ、そのたびに彼女の反応を見ながら、最適なコーディネートを探っていく。


色とりどりのドレス、カジュアルなトップスとスカート、軽やかなカーディガンまで、あらゆるスタイルを試したが、どれもが彼女の美貌に違和感なく溶け込んでいく。


まるで着せ替え人形のように、創の指示に従って服を着ていくだけの様子に一抹の不安を感じたが、それを言葉にはせず、ただ彼女のコーディネートに集中した。


服のコーナーで梓の試着が始まってしばらく経つと、様子を見守っていた店員が、まるで「役割が逆だろう」と言いたげな視線をこちらに送ってきた。彼の表情はやや呆れ気味で、少し笑いをこらえているようにも見える。


その視線が気になり始めた頃、いつの間にか他の客が興味津々に集まってきた。最初は何気なく遠巻きに見ていた人たちが、気づけばどんどん増え、ついには二桁にまで膨れ上がっている。その大半は年配のおばちゃんたちだった。彼女たちが持つ好奇心と社交性のパワーは、まさに侮れないものがある。


「ちょっと、あの子にこれ着せてみたらどう?」


「この色も似合いそうよね!」


ギャラリーの勢いに押される形で、梓は次々と提案される服を着せ替えられることになった。彼女はまるでお人形のように、ひとつひとつの服を試すたびにそのたびごとにギャラリーから「おぉ〜!」という感嘆の声が上がる。梓自身も意外と楽しんでいる様子で、ほんの少し笑顔を見せていた。


店内はすでにミニファッションショーの様相を呈していた。創は傍観しつつも、次々と着替える梓の姿に驚きを隠せない。彼女の変化がどんどん視覚的に浮き彫りにされていく。それにしても、ここまで多くの人を巻き込んでしまったのは完全に誤算だったが、梓が楽しんでいるなら良しとしようと心の中で思った。


やがて、梓が満足そうに選んだ数着の服を持ってカウンターへ向かおうとした時、事態はさらに予想外の方向へと転がった。


「ちょっと、君!」


鋭い声に振り向くと、おばちゃんたちの一人が創を呼び止めていた。


「君、まだ服選んでないでしょ?彼女さんがこんなにおしゃれになったのに、彼氏がそれじゃあかわいそうだよ?それでも男かい?」


その言葉に他のおばちゃんたちも賛同し、口々に「そうだそうだ!」と声を上げ始める。気づけば、創はおばちゃんたちに取り囲まれ、まるで逃げ場のない状況に追い込まれていた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺は…!」


言い訳を試みるも、もはや聞く耳を持つ者は一人もいない。そして、気づけばファッションショー第二部が強制的にスタート。今度は創が主役として、次々とおばちゃんたちの手によって様々な服を試着させられる羽目になった。


創が試着室から出てくるたびに、梓やおばちゃんたちから「おぉ〜」という声が上がる。特に、梓が満足げに頷く姿が印象的だった。普段とは全く異なる自分の姿に戸惑いながらも、少しずつ恥ずかしさが薄れ、次第に笑顔がこぼれる。


気がつけば、店内は和やかな雰囲気に包まれ、店員も含めて全員が一つのチームのように一体感を持って盛り上がっていた。


おばちゃんたちのリクエストを取り入れつつも、創自身が納得できるコーディネートが決まった。梓もその姿を見て満足げに微笑んでいる。


「これでお似合いのカップル完成ね!」と、おばちゃんたちは満足気に拍手を送った。


思わぬ展開でファッションショーは終了し、創は心底疲れ果てたが、梓の笑顔を見ると、すべてが報われた気がした。この騒がしい一幕は、二人にとって忘れられない思い出となりそうだ。



怒涛のファッションショーが終わり、時刻はすでに夜の七時を回っていた。ショーが終了した瞬間、どっと疲れが押し寄せる。周囲から解放された今、二人はようやく肩の力を抜いて一息つくことができた。


「長かったねー、さすがに疲れちゃったよ」と梓が微笑んで言う。楽しげではあるが、その表情にほんの少し疲労の色が見える。


「そりゃあ疲れるさ。おばちゃんパワー恐るべしって感じだ。生気を吸われてる気分だったよ」と創が苦笑いで返す。


「うんうん、私たちがどんどん疲れていく中、おばちゃんたちだけが元気になっていくんだもんね。楽しかったけど、あれはもう勘弁かな」


「そうだな、まあ、体力回復も兼ねて何か食べに行こうか。この時間だし、ちょうど夕飯時だろ」


「さんせー」と、梓もすぐに賛成する。


夜の町を歩くと、再び視線を感じる。今回はファッションショーのような騒ぎではなく、ただ純粋に梓の美貌に見惚れているだけのようだ。しかし、それでも創には落ち着かない感覚が残る。注目されているのは梓だと分かっていても、その視線が居心地の悪さを引き起こしていた。


やがて、二人はスーパー内にある飲食店へと足を運んだ。席を選ぶ際、創は視線を気にして、駐車場の光景が広がる窓際や、入り口近くの目立つ席を避ける。結局、店内中央の席を選んだ。周りにはほとんど客がいないので、実質貸し切り状態だった。


創はメニューを手に取り、梓に手順を説明する。「飲食店に来たらまずメニューを見て注文を決めるんだ。決まったら店員さんを呼ぶだけだよ」


「ふーん、なるほど。そういうことね」と、梓は目をキラキラさせながらメニューを覗き込む。


「すみませーん、注文いいですかー」と創が声をかけると、若い男性店員がすぐに対応してくれた。「はい、ご注文をどうぞ」


創はメニューを指さしながら、「この味噌ラーメンでお願いします」と伝えた。


店員は梓に目を向け、「お連れ様のご注文はお決まりですか?」と優しく尋ねる。


「んー、じゃあこのきつねうどんでお願いします」と、梓もメニューを指さしながら注文を告げる。


「はい、かしこまりました。少々お待ちください」と、店員は丁寧にお辞儀をして厨房へ戻っていった。


「ふーん、こんな感じでいいんだね」と梓は新鮮そうに言う。


「そうそう。後は、商品名が読みにくいときはメニューを指さして『これお願いします』で大丈夫。商品名を覚えてるなら、メニュー開かずに注文してもいい。結局、伝われば問題ないんだ」


「なるほどね。分かった!」


しばらくすると、注文した品が運ばれてきた。ラーメンときつねうどんの湯気が、温かい香りとともに二人を包み込む。


「ごゆっくりどうぞー」と店員が去った後、二人は箸を手に取り、麺をすすり始めた。


麺をすする音が、ほぼ貸し切り状態の店内に心地よく響く。だが、その静寂さが逆に、二人を少し緊張させるようでもあった。


「夏だってのに、二人して熱い食べ物選んじゃったねー。美味しいけど、ちょっと後悔してるかも」と創が笑いながら言う。


「でも、あえて暑い時に熱いものを食べると涼しく感じるっていうじゃん?」


「それって、体温が上がって室温との差が縮まるからかな?それとも、汗が蒸発して吸熱反応が起きるから涼しく感じるとか?」


「う、うーん…」創は返答に困り、少し戸惑った。梓の真面目な返しに思わず詰まってしまい、これ以上話すと墓穴を掘りそうだと感じて話題を変えた。


「そういえば、梓って親に無断で家を出てきたけど、スマホとか大丈夫か?電話が大量にかかってきてたりしないの?」と、創が思い出したように尋ねる。


「いまさらな質問だね。全部拒否してるから問題なし!」と、梓はあっさりと言い放った。


「本当に大丈夫なのか…警察沙汰とかにならなきゃいいけど」と、創は一抹の不安を隠せない。


「それは大丈夫だよ。うちの父親、世間体を何より気にする人だから、そんな騒ぎには絶対しないはず。人目ばかり気にしてるくせに、結局はただの小物なんだから…」と、梓は冷ややかに吐き捨てた。


創はそんな彼女の言葉に、乾いた笑いしか返せなかった。「ハハハ…」と、気まずさを紛らわすように笑う。


その後は特に大した話もなく、二人は店を後にした。時計を見ると、すでに八時半を過ぎている。


「俺、門限が決まってるから宿を決めたら一旦解散しよう」と、創が提案する。


「わかった。じゃあ、連絡するときはスマホでいいよね?」と梓が確認する。


「まあ、それしかないだろ」と創は苦笑しながら答えた。


ポケットからスマホを取り出した創は、安い宿を探し始めた。地図アプリを頼りに価格が手頃で、街中のアクセスも悪くないビジネスホテルを見つけると、その場で予約を入れた。


ホテルに到着すると、チェックインの手続きを進める。梓と一緒にフロントへ向かうと、受付の女性が一瞬、不信感を抱いたような表情を見せた。田舎のビジネスホテルに高校生が泊まるなんて、どう見ても不自然だ。特に、若い女性と一緒にいる創に対して、ほんの一瞬だけ警戒心が垣間見えた。


だが、それも束の間。女性はすぐに営業スマイルを浮かべ、「ご予約ありがとうございます」と、丁寧に対応してくれた。


その後、女性は今回のやり取りを綺麗さっぱり忘れた。所詮仕事中な出来事。多少違和感があれども、案外記憶に残らないものなのだ。


手続きを終え、梓だけを残して創は家路に向かう。道中、頭の片隅で食事代や服代、そしてホテル代のことがよぎった。すべて創が持ち出した費用だ。バイトでコツコツ貯めていたお金は、進学や将来に備えて取っておくはずだったが、「こんな時にこそ使うべきだよな…」と、誰にともなく呟きながら、創は夜道を静かに歩いた。


その夜、田舎の小さなビジネスホテルでは、ひとり残された梓が窓の外を見つめながら、静かに考えごとをしていた。誰もいない街灯の下、時折通り過ぎる車のヘッドライトが、彼女の心を揺らすように照らしていた。


道中、スマホの通知音が耳に響いたが、創は家に着いてから確認することにした。


家に到着すると、母親が出迎えてくれた。だが、玄関に立つ創の様子を見て、彼女は一瞬目を見開く。普段とは違う、洗練された装いに驚きを隠せない。


「どうしたの、その格好?」母親は訝しげに尋ねた。


創はとっさにアドリブをきかせて答える。「ん、友達とお店を回ってて、その時の気まぐれで服を買ったんだよ。」


母親はその返答に納得する様子を見せたが、どうにもおしゃれすぎると首をひねりたくなる気持ちが残る。「そうなんだ…」と、無理やり自分を納得させるように言った。息子に干渉しすぎるのも良くないと感じ、深追いは避けることにしたのだ。


創は母親との会話を何とか切り抜けたと思い、自分の部屋へ向かった。部屋に入るとすぐに先ほどの通知を確認する。


画面に表示されたのは、たった一言「ひまー」というメッセージ。それも、だいぶ前に送られたものだった。梓と別れてから間もない時間に送られてきたようだ。


やけに砕けた言葉遣いに、創は少し戸惑いを覚える。急に距離を詰めてくるこの態度は、彼女が無意識にでも心を開いてきている証拠だろうか?あるいは、弱みをさらしても大丈夫だと思える人を求めているのか?そんな考えが頭をよぎり、創の口元に自然と笑みが浮かんだ。


だが、これも単なる推測でしかない。ここで気を抜いて安易に近づけば、きっと痛い目を見るだろう。ましてや、相手は梓だ。彼女の心の中には、どこに地雷が埋まっているか分からない。下手をすれば、急に姿を消してしまうことだってあり得る。


彼女はまるで、火がつく前の爆弾のような存在だ――何かをきっかけに、一気に爆発するかもしれない。


「調子に乗るな、自分。」創は心の中で自戒し、慎重にメッセージを打ち込む。


「すまん、返事が遅れた。話したいのは山々なんだけど、宿題が溜まってるから一時間だけなら付き合えるよ。」そう入力し、送信ボタンを押した。


返事はすぐに返ってきた。「宿題なんか一日で終わるじゃん、別に今じゃなくて良くない?」と、梓は軽い調子で言ってくる。


まるで彼女が待機していたかのようなタイミングに、創は内心驚く。それに加え、あまりに無邪気で無遠慮な発言に、少し呆れてしまう。


「普通の人は一日じゃ終わらないんだよ。梓がすごいだけ。」と、創は控えめに返した。


しかし、梓は引き下がらない。「じゃあ都合がいいときに私が見てあげるから、今は私を満足させなさいよ。約束でしょ。」


梓にはかなわないな――創は内心、苦笑いを浮かべながら返信を打つ。「じゃあ今度頼むわ。今は梓に付き合うよ。」


その後、部屋の明かりがなかなか消えないことに気付いた母親は、ドアの隙間から漏れる光を見て、微笑んだ。何かいいことでもあったのかしら、と心の中で思いつつ、彼女の表情は穏やかだった。


翌朝、創は約束通り、昨日よりも一時間早い九時に梓を迎えに行くことを決めた。家をを出るとき、母親は上機嫌な様子で、まるで何かを察しているかのように微笑んで見送ってくれた。


時刻は八時二十分。創は梓が泊まるビジネスホテルの前に到着した。


「さすがに今回は俺が先手を取っただろう…」と、少し得意気に思っていたその瞬間、ホテルの入口から軽やかな足取りで出てくる梓の姿が目に入った。


「おはよう創くん!昨日より一時間も早いけど、お店巡り以外に今日は何をして楽しませてくれるのかしら?」と、梓は嬉々とした表情で問いかける。


その明るい笑顔に、創は心の中で苦笑した。昨日といい、今日といい、どうしても彼女に先を越される。その理由がようやくわかった。梓の心理は、まるで遠足前夜の小学生と同じなのだ。長い間、自由に外出することすらままならず、行き過ぎた教育を毎日強いられていた彼女にとって、外の世界は新鮮そのものだ。だからこそ、その一つ一つが、他の子供たちとは比べ物にならないほど楽しいのだろう。


「言ってしまうと驚きが半減しちゃうから、とりあえず付いてきて。途中でわかるさ、その時に存分に喜んでくれればいいよ。」


創は、サプライズを用意しているかのように微笑みながら言った。


「うーん、気になるけど、しかたないか…じゃあ、早速行こう!」梓は楽しそうに頷くと、二人は歩き出した。


しばらく歩いていると、梓が少し不安そうに口を開いた。「ねぇ、いつまで歩くの?結構遠くない?」


「まぁ、もう少し我慢してくれよ。遠いって言ってもまだ二十分しか経ってないぞ。」


「意外と時間経ってないんだね。」


創はふと気になり、軽く尋ねた。「もしかして、あまり長距離を歩いたことない?」


「遠足でなら歩いたことはあるけど、普段はそんなに歩かないかな…」


梓は少し恥ずかしそうに答える。その様子を見て、創は思わず笑いがこぼれた。


「そっか、梓のことだから、遠足でも話す相手がいなかったんだろ?」


「う、うん…」珍しく自信なさげに答える梓。その姿が微笑ましくもあり、創はさらに笑いを抑えきれなかった。


「ハハハ、じゃあ今からその分取り返さないとな。」


その言葉に、梓の眉がぴくりと動き、一瞬だけ目を見開いた。何かを思いついたかのように、彼女は急に真剣な表情になり、問いかけた。


「じゃあさ、私を好きになった理由を教えてよ!」


思いもよらないその質問に、創は内心ドキリとする。確かに恋愛話は会話の定番だが、まさかこんなタイミングで聞かれるとは思わなかった。しかも、本人に対して直接理由を問うとは、かなり大胆だ。


「いきなりハードルが上がったな…現実ならこれ、飛び越えられずにぶつかって悶絶してるレベルだぞ…」と、創は心の中でぼやいた。


「いいから答えなさいよ。それとも『なんとなく』とか言うつもり?」


梓の目は真剣そのもので、冗談の余地など一切なかった。その視線に、創は逃げ場がないことを悟る。


「いきなり鬼畜すぎるだろ…」と内心ため息をつきつつも、創は観念して話すことにした。ただ、ただ話すだけでは何か負けた気がする。そこで創は、梓が顔を真っ赤にして聞けなくなるくらいに褒めちぎり、逆に彼女を口説き落としてやろうと決意した。


「覚悟しやがれ、梓!」創は心の中でそう宣言しつつ、深呼吸してから話し始めた。


周囲には誰一人としていない静かな道。木々が風にそよぎ、日の光がやさしく二人を照らす。そんな中、創は思いを込めて言葉を紡ぐ。


「そうだな、まず顔だな。梓以上にかわいい人を見たことがない。テレビで出ている人も含めてだ。かわいいながらも綺麗というか、両方を兼ね備えていてバランスがいい。尚且つカリスマ性も備わってる所もいい。見た目で魅了しているのは言うまでもないが、なんだか言葉一つで大勢の人に何かしらの影響を与えてしまいそうな魔力が声に籠っている。後、みんなに対して平等で嫌なイメージが一つもなく清楚な雰囲気も魅力の一つだ。なんといっても勉学とスポーツで群を抜いた才能を発揮し、内面をまったく晒さないミステリアスな雰囲気は男女関係なしに興味を駆り立て、しっかりと心を鷲掴みしている。ここまでは、誰もが共通して思っている事をだと思うよ」


「へ、へぇ、そうなんだ」


顔を真っ赤にするどころか蒼白となっている。


このまま話し続けるべきか迷ったが、ここまで話したら最後まで言わないと気が済まない。


創は畳みかける様に言い放つ。


「まぁ、俺の場合はただの一目惚れだった。端から見ているうちに憧れて、そのうち尊敬し始め、声に惚れて、雰囲気に魅了された。一日たりとも考えない日がなくなっていたね。俺にはないものをものを君が独占していたから、分けてもらいたかったのかもしれない。それが理由。それに付き合えたらなんて考え始めてしまって、いてもたってもいられなくなった。それでも始めは告白する気はなかった。無理ってわかっていたから。でも憧れや恋慕には敵わず、ここぞというタイミングが来たときに言ってしまった。明らかに本の影響だ。だから今この状況が生まれた。本を読む前であれば確実に梓は今ここにいなかった。遺書を見つけようがなかろうが。そして、梓が今ここでこうして存在していることがとても嬉しいよ。俺の人生は今まだかつてないほど変化をしている。俺が渇望してやまなかった事だ。とても感謝しているよ。この恩はを梓に今までにない満足感で満たしてあげることで、返させてもらうよ。何が何でもね。だから、覚悟しやがれ」


創がそう締めくくると、梓は一瞬口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込む。そして、わずかに震えた声で「ふ、ふーん…まあ、悪くはないかもね…」とつぶやいた。その顔は、恥ずかしさと困惑さが入り混じった複雑な表情だった。


「そろそろ着くよ。」


創の言葉に反応して、梓は周囲を見渡す。現在の空は雲一つない快晴で、その青さがさらに海の色を際立たせていた。海面は太陽の光を受けて青く輝き、澄んだ空と溶け合っているかのようだ。


創は思わず口元を綻ばせる。これ以上ないタイミングで海がその美しさを見せてくれている。この瞬間が、彼のサプライズを完璧なものにしてくれた。


梓が海を見つめたまま呟いた。「綺麗…海なんて初めて来た。」


その言葉に、創は改めて彼女がいかに世間知らずかを実感する。しかし、それももう彼にとっては当たり前のことだ。梓が新鮮な体験に喜ぶ姿を見ることが、むしろ心地良くすら感じる。


「満足していただけたかな?」創は自慢気に胸を張る。


「えぇ、テレビで見るよりずっと綺麗なのね。」


梓の瞳には、まるで宝石のように輝く青い海が映っていた。海は朝の日差しを受け、さざ波がきらめきながら岸へと寄せている。周囲には雄大な山々が海を抱きかかえるようにそびえ、左手には室蘭へと続く緩やかなカーブが広がっていた。そのカーブに沿って電車が走り、伊達の町並みが遠くに広がっている。ここからは、町の半分近くが見渡せるほどだ。


山、海、そして街が一体となったこの景色は、誰が見ても美しいと思うだろう。季節ごとに姿を変える田んぼや、夕日に染まる情景もまた、この場所を特別なものにしている。


梓はその景色に完全に心を奪われた様子で、視線を海から離そうとしない。


「天気がいいから余計に綺麗だよね。あと、死ぬなんて言い出すなよ。夏休みはまだまだ続くんだから。」


「今日の分はこれで満足ってだけ。まだまだ足りないよ。」


創は安堵の笑みを浮かべた。「よかった。あまりにも感激してたから、ちょっと心配したよ。」


「ハハハ、おかしな話ね。」


「まったくだ。」


二人の奇妙な関係はまだ終われない。



その日、創は梓とお店巡りを楽しむ予定だった。しかし、ふとした瞬間に現実が彼の脳裏をよぎる。もし知り合いに見つかったら?校内トップニュースどころでは済まないだろう。梓と一緒にいる姿を目撃されれば、噂が瞬く間に広まり、周囲は二人の関係に注目するだろう。正式に付き合っているとしても、問題はそこではない。梓の過去と、二人が抱えている事情はそんなに軽いものではないのだ。


最後に待つのは死。それが彼女の運命であり、その道をともに歩むことを決めた自分の覚悟でもある。不用意に見つかれば、創は誘拐犯や何かしらの疑惑をかけられるかもしれない。梓が家を出る際に律儀に置き手紙を残してきたと聞いてはいるが、それでも事が大事になれば警察が動くのは避けられない。すでに時間が経過している今、もしかしたら手遅れかもしれないが、だからといってリスクを増やすわけにはいかない。


「以前言った通りお店巡りをしようと思ってたけど、目撃されるのはまずいんじゃないかって思ったんだ。だから行く場所を絞ることにした。すまないが、ここは合わせてくれないか?」


「全然気にしてなかったけど、確かにまずいかもね。」梓は少し考え込むように言った。「私、学校の人たちの顔ほとんど見てないから分からないけど、創くんは見覚えのある人とかいた?」


創は首を横に振った。「わからないな。梓ほどじゃないけど、俺もあんまり友達いなかったからさ。ただ、もう手遅れかもしれない。でも目撃情報が少なければ、見間違いで片付けられる可能性もあると思う。」


「それなら、場所を絞るよりも、確実に知り合いのいない場所のほうが良くない?」


創は一瞬、言葉に詰まった。確かにその方がリスクは減るが、それでも梓に見せたい場所がまだあった。「それも考えたけど、まだ梓の知らない場所もたくさん残ってるんだ。だから…」


梓は微笑みながら創を見つめた。「もう十分楽しんだよ。創くんには未来があるんだから、無理して危険を冒す必要はないよ。」


その言葉に創は一瞬口を開きかけたが、言い返すことができなかった。彼女の気遣いが嬉しい反面、どこか胸が苦しい。「あ、あぁ…」


話題を変えるように、創は問いかけた。「ところで、公園には行ったことあるか?」


「もう察してると思うけど、無いよ。」


「じゃあ今日は公園でだらだらしようか。最近は滅多に人が来ないから、ちょうどいい場所だと思う。」


「決まりね。」梓が軽快に答える。


「じゃあ、ちょっと家から公園で使えそうなものを持ってくるから、初日に待ち合わせた公園で先に待っててくれる?」


「りょーかい。」梓は軽く手を振りながら応え、二人は道路まで一緒に歩き、そこで別れた。それぞれの道を行く背中が徐々に遠ざかり、再び交わる瞬間を心のどこかで期待しつつ、創は自分の家へと急いだ。


「ただいまー……と言いたいところだけど、野球ボールとバット、サッカーボールを取りに来ただけ。」創は玄関に足を踏み入れると、慌ただしく声をかけた。


「え?あ、うん、わかったわ。」母親は驚きつつも笑顔で息子を見送った。彼が何かを急いでいる様子を見ると、今日はまた違った用事があるのかしらと心の中で呟く。


創は部屋に駆け込み、机の上に乱雑に置かれている袋を手に取り、そこにバットとボール類を詰め込むと、一気に部屋を出た。


「いってきまーす!」声をかけるや否や、返事を待つことなく玄関を飛び出し、児童公園へと向かう。


---


公園に着くと、すでに梓がベンチに腰掛けていた。創は軽快な足取りで彼女に駆け寄る。


「おまたせ!」


梓はにこやかに振り返り、「いや、そんなに待ってないよ。」と応えた。


創は眉をひそめた。「珍しいね。いつもならいち早く先周りしてるのに。」


「ただ待つだけじゃ退屈だと思ってね。景色を見ながらのんびり歩いてきたの。ここに着いたのはほんの数分前。」


予想外の返答に、創は少し驚いた。長く待たせたかと思っていたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。


「そっか。じゃあ、遊ぶぞー!」創は勢いよく手に持っていた袋を開け、中からバットやボールを取り出した。


梓はその光景を見て、少し眉を上げながら問いかける。「なにを持ってきたのかなって気になってたけど……バットに野球ボール、そしてサッカーボールって……私、女の子よ?忘れてるんじゃないの?」


創はにやりと笑う。「いやいや、君って体育得意だよね?遠くから見てたけど、運動神経すごかったよ。今更女の子アピールか?それとも、俺が目の前で君の活躍を見たいっていう純粋な気持ちを、そんなことで無碍にするつもり?」


梓はため息をつき、呆れたように言葉を返す。「はぁ……もう、チョイスはともかく、言われた通り得意なのは確かだし、やってあげるわ。その代わり、コテンパンにしてあげるから覚悟しておいてね。」


梓の目が一瞬鋭く光り、いつもの柔らかな雰囲気とは違う冷たさが漂う。その言葉には、どこか狂気的なものが感じられた。創は一瞬ゾクっとしたが、すぐに気を取り直して笑みを浮かべる。


公園には、遊具がいくつか並んでいる。うんてい、鉄棒、砂場、ブランコ、アーチ状のうんてい、それに登ることができる鉄の棒。創はその中のうんていが、サッカーのゴールと形が似ていることに気づき、サッカーをすることを提案した。


「このうんてい、ちょうどゴールっぽいからサッカーやろうぜ。」創は自信満々に言い、ボールを蹴る準備を始める。


「サッカーか。まぁ、いいわよ。ちょっとは遊んであげる。」梓は軽くため息をつきながらも微笑んで、ゴールの前に立った。


ゲームが始まると、二人は交互に役割を交代しながら進めていく。創がボールを蹴る番になると、ゴールから約5メートル離れ、軽く助走をつけて右足を振りかぶり、梓が守るゴールに向かってボールを蹴り込んだ。しかし、ボールはあっさりとキャッチされてしまう。


「ダメね。少しカーブをかけたみたいだけど、ほぼまっすぐでキャッチしやすいわ。」梓は淡々とした声で指摘した。


「おいおい、マジかよ。そんな簡単にキャッチできるもんなんか……。」創は呆然とした表情を浮かべる。


「そう思うなら、もう少し工夫しなさいよ。」梓は腕を組んで考え込むような仕草を見せると、ニヤリと悪戯っぽく笑った。


「じゃあ手本を見せるわ。しばらくゴールキーパーやってて。感覚でやってるから、口で説明はできないけどね。」


創は不安を感じながらも、覚悟を決めて「お、おう……。」と答えた。彼は梓の実力を知っているため、何が起こるかを想像し、背中に冷や汗が流れる。


「小手調べに、キャッチしやすいようにまっすぐ蹴るから、ちゃんと取ってねー!」梓は軽やかに声をかけ、助走をつけて綺麗なフォームでボールを蹴った。


ボールは宣言通り、まっすぐ創に向かって飛んでくる。しかし、創はキャッチするタイミングがわずかに遅れ、勢いを殺せず、ボールが体を伝って顎に直撃した。


「ブヘェ!」不意に出た間抜けな声に、創は自分でも驚いた。


「ブヘェってなによ、ブヘェって。ボケるなら『ブヒィ!』って言ってよね。その方が笑えるのに、中途半端だわ。」梓はそう言いながらも、口元を手で押さえてクスクスと笑っていた。ただ、その笑いには純粋な楽しさというよりも、どこか含みのある余裕が漂っていた。


その時、近くの公園の入り口から、幼い子供たちがぞろぞろと入ってきた。彼らはその様子を見て、興奮気味に声を上げる。


「わぁー、おねーちゃんすげー!」


「めっちゃはやかったねー!」


彼らの無邪気な声に、創は赤面した。この状況を何とか挽回しなければという思いが頭をよぎるが、顎がまだ震えていて、言葉がうまく出てこない。


「ふぉーるふぁ、ふぁやふひふんふぁ……」(ボールが速すぎるんだ……)


情けない姿に、梓を含めた子供たちが一斉に笑い出す。「「ははははは!」」その声に、創はますます顔を赤くしてしまった。


「ねぇ、ちょうど半々で分けられる人数になったし、野球やらない?」梓が提案した。


「いいねー、やろう!」子供たちが元気よく賛成するので、創も同意した。


六人に分かれ、チームが決まると、創は梓と別々のチームに分けられた。創のチームメイトは最初から諦めムードに沈んでいる。


「そこまで落ち込まんでもいいだろう……。」


「だって、ブヘェの人でしょ?期待できないよ……。」


子供の無邪気な言葉に、創は純粋な怖さを感じた。大人が子供を苦手にする理由を垣間見た気がする。


一方で、梓のチームは自己紹介をしていた。「ともきです、よろしくお願いします。」「俺ははやとだ。」「私は梓、二人ともよろしくね。」彼らはスムーズに会話を始め、すぐに仲良くなっている。


それを見た創も、慌てて自己紹介を始めた。「そういや、まだ自己紹介してなかったな。俺の名前は創だ。よろしく!」


「僕、あきら。よろしく。」


「俺、かずきな!よろしく!」と元気よく答えると、創は「よし、みんなで協力して、あのバケモンに立ち向かおうぜ!」と声を上げた。


「ブヘェがなんか偉そうなこと言ってるー!」


「頼むから、その呼び方はやめてくれ……。」創は肩を落としながら嘆く。


その時、隣のチームから声が飛んできた。「あのー、バケモンとか、まる聞こえなんだけどー!」


「あっ……。」創は全身から血の気が引いた。梓が静かに笑いながら、「ふふふ、抵抗の余地なくコテンパンにしてあげるから、安心しなさいな。」と不敵な言葉を口にする。


「ブヘェのにいちゃん、頼りないなー。」子供たちの無邪気な言葉に、創は精神的ダメージを受けたまま、試合が始まった。


---


結果は、惨敗。創のチームは一方的な展開に唖然とするばかりだった。


まず、梓の打率の高さが際立っていた。彼女のスイングは力強くはないものの、正確無比で、無駄のない動きでボールを次々と打ち返していく。相手チームはアマチュアばかりで、打たれるとほとんど捕れない。


創が投げたボールも、軽くスイングされると「コツン」と音を立てて、遠くへ飛んでいく。その度に得点を奪われ、守備が逆転しても状況は変わらなかった。創がようやく打ち返したボールも、梓にあっさりキャッチされ、得点にはならなかった。


最後には、みんなが納得いかない様子だったので、創が新しい遊びを提案した。「次はキャッチボールをやらないか?これならみんなで楽しめると思うんだけど。」その提案に一同は大きく頷いた。


「さっすがブヘェにいちゃん。身の程をわきまえてるぅ。」


「じゃあ、それで決まりね。」


六人は輪になり、互いに1メートルほど離れてキャッチボールを始めた。ボールを投げ合う中で、太陽光を利用したり、フェイントをかけたりと、みんなそれぞれの工夫を凝らしていた。楽しげな笑い声が公園に響き、時はゆっくりと過ぎていった。


やがて、夕日が沈み始めた頃、子供たちの一人がポツリと呟く。「あ、そろそろ帰らなくちゃ。」


「えー、もうそんな時間か。」みんなが名残惜しそうに立ち上がり、帰る準備をする。


「じゃあ、またね、ブヘェにいちゃん!」


「おねえちゃんもまたねー!」


子供たちは楽しげに声をあげながら、名残惜しそうに最後のキャッチボールを繰り返していた。ともきが軽くボールを投げると、はやとがそれを見事にキャッチし、満足そうに頷く。その一方で、あきらと創はひそひそと何かを相談し、梓に向けてお互いニヤリと笑う。


「おい、次は俺が投げる番だろ?」創がわざとらしく肩を回しながら、梓に向かって挑戦的に言った。


「いいわよ。どんな手を使っても、私には勝てないけどね」梓は肩をすくめ、まるで興味がなさそうに見せかけているが、その瞳にはほんの少しの期待が光っている。


創は一度大きく息を吸い込み、ボールをしっかりと握りしめた。そして、わざとらしく派手な投球フォームをとり、いかにも本気で投げるように見せる。だが、投げられたボールは急にスピードを緩め、梓の足元にふわりと落ちた。


「……え?」梓は驚いた表情でボールを見下ろす。


それを見て、創とあきらは大声で笑い出す。「成功だ!狙い通り!」二人の茶目っ気たっぷりなイタズラに、周りの子供たちも笑いが止まらない。


「なんなの、その投げ方!」梓も思わず吹き出し、顔を抑えて笑い始めた。普段は冷静で落ち着いた彼女が、こんな風に無邪気に笑う姿は珍しい。


子供たちはこの瞬間を惜しむかのように、さらにもう一度ボールを投げ合った。陽がさらに沈み、影が長く伸びる中、それぞれが満足そうな表情を浮かべていた。


「さて、そろそろ本当に帰らなくちゃね」梓が空を見上げると、すでに夕焼けが薄れ、夜の帳が静かに降り始めていた。


「うん、また遊ぼうな!」ともきが手を振り、はやととあきら、かずきもそれに続いて手を振る。「じゃあね、ブヘェにいちゃん!」「おねえちゃんもまたね!」


「ブヘェはもうやめろって……」創は小さく苦笑しながらも、別れ際に手を振り返す。子供たちは明るい笑顔のまま、夕闇に溶け込むようにして公園を後にした。


「静かになったね」梓がふと呟く。騒がしかった公園に、一瞬の静寂が戻った。


「でも、悪くないよな。こういう日もさ」創は、夕暮れの残り香を感じながら、ポケットに手を突っ込む。


「そうだね。たまには、こうして何も考えずに楽しむのもいい」梓の声には、どこか優しさが滲んでいた。


その言葉を聞いて、創はふと思った。「人間らしくなってきたな、お前も」


「……そう?私は最初から人間だと思ってたけど?」梓が軽く肩をすくめる。


「いや、なんていうかさ……表情とか、話し方とかさ、前はもっとお人形さんみたいだったからさ」


「ふふ、なるほどね」梓は小さく笑った。その笑顔には、ほんの少しだけ柔らかさが増していた。


夕闇に包まれる公園には、二人の小さな足音が静かに響いた。彼らは何も言わず、ただそのまま並んで歩き始めた。

 

時刻は夕暮れ、空が茜色から徐々に紫へと染まり始め、日は八割方落ちて辺りは薄闇が漂い始めている。路地に浮かぶ街灯がオレンジ色の光を放つ中、二人はラーメン屋に足を運んだ。


店に入った瞬間、濃厚なスープの香りが鼻をつき、店内に立ち込めた湯気が彼らを包み込んだ。壁に貼られた古びたメニューと、どこか懐かしい木製のカウンターが『これぞラーメン屋』という趣を醸し出している。


「この前行った店とはまた違うね。ここは匂いがすごくて、これがザ・ラーメン屋って感じなのかな」


梓は目を輝かせながら店内を見渡す。目の前には厨房があり、湯気の向こうに忙しなく動く店員の姿が見える。


「そうそう、ここはカウンター越しに作るところが見られるのがいいんだよ」


創がそう言うと、梓はその言葉に興味を持ち、身を乗り出してまじまじと覗き込んだ。梓の視線に気づいた料理人は少し気まずそうに顔を赤らめつつも、黙々と作業を続ける。


「ずっと見てると相手も困るだろうし、そろそろ注文しようぜ?」


「うん、ごめんね。じゃあ、私はしょうゆラーメンにするよ」


「俺はみそラーメンにしようかな。すみませーん!」


創が声をかけると、店員がすぐに返事をし、二人の注文を聞き取った。しばらくして、厨房から麺を茹でる音と、スープを注ぐ音が響いてくる。


ふと、梓は今日一日の出来事を思い返しながら、口を開いた。


「今日は特に楽しかったな。子どもたちの無邪気な笑顔を見てたら、なんだかちょっぴり嫉妬しちゃった」


「それ、さっきのかくれんぼでの話だよな?結構真剣に追いかけてたし、容赦なかったけど…」


創は苦笑しながら言った。


「まあ、八割くらいは『バケモン』とか言った君への私怨だけどね」


梓は軽く微笑むが、その表情はふと真顔に戻り、まるで何かを抱え込んでいるかのように暗く沈んでいく。


「ねぇ、創くん。『憧れ』ってどういう相手に抱くか、知ってる?」


唐突な問いかけに、創は少し戸惑いながらも考えを巡らせる。


「うーん、たぶん…賞賛に値する人とか、何かすごいことをしてる人に抱くんじゃないかな?実際、俺も梓のこと尊敬してるし、憧れの存在だよ」


そう答えたものの、梓の反応を伺うと、特に変わった表情を見せることもなく、ただ無表情で創を見つめていた。


「じゃあさ、もし創が頑張れば、私のようになれると思う?」


その問いには答えがすぐに出た。創は静かに首を横に振る。


「そう、憧れっていうのは、自分とはかけ離れた存在に対して抱くものなんだ。私が子どもたちに憧れを抱いてしまったとき、自分が既に諦めていることに気づいてしまったんだよね」


梓の声はどこか寂しげで、心の奥底にある虚無感が透けて見えるようだった。創はその言葉にどう返事をしていいか分からず、ただ黙り込んだ。


その時、注文していたラーメンが運ばれてきた。


「しょうゆラーメンとみそラーメン、お待たせしましたー!」


店員が丼をテーブルに置くと、スープの湯気がゆらゆらと立ち上り、食欲をそそる香りが二人の間に広がる。しかし、創はその香りを感じる余裕もなく、心に重くのしかかる梓の言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。


スープを一口すすり、箸で麺を持ち上げるが、その動作はどこかぎこちない。まるで、ラーメンそのものが味気なくなってしまったかのように、創は無表情で麺を口に運ぶ。


その時、創のスマホが机の上で震えた。バイブ音が響き、画面には太郎からのメッセージが表示される。


「明日、遊べないか?」という内容だ。創はぶっきらぼうに「わかった」とだけ返信し、すぐに通知が再び届く。明日の待ち合わせ場所は十時に公園で、と決まり、そのままスマホをポケットにしまい込んだ。


「明日、太郎と遊ぶことになったから、お前は自由行動な。ホテル代とお小遣いを渡しておくよ」


創は一万円札を手渡し、梓は軽く受け取りながら「りょーかい」と軽く返事をした。


その後は特に言葉を交わすこともなく、ラーメンを食べ終えると、二人は店を後にした。


帰宅後、創は自室へ直行し、そのままベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、今日の出来事を反芻し、胸に苦々しい思いが押し寄せる。


「はぁ…今までやってきたこと、全部無駄だったんだろうか。覚悟しろとか言ったのに、結局、覚悟できてなかったのは俺自身かよ…」


過去の記憶が次々に蘇り、創を苦しめる。彼は頭を抱え込み、丸まるように体を縮め、そのまま眠りについた。


創は目を覚まし、いつものように朝食を済ませると、待ち合わせ場所へと向かった。澄んだ空気と柔らかい朝の光が広がる街並みを歩きながら、友人と会うことへのわずかな期待感と何気ない日常が交差していた。


待ち合わせ場所に到着すると、太郎が笑顔で手を振ってきた。


「やぁ、久々だね」太郎は軽く首をかしげて言った。


「久々だっけ?」創は少し困惑しながら答える。


「もう休みに入って二週間だぞ。十分久しぶりだよ」


「あ~、そうだったな」創は照れ隠しのように、少し間の抜けた返事をした。


太郎は映画の話を持ち出し、楽しそうに続けた。「今日、映画を見に行こうと思うんだ」


「どんな映画だい?」創が尋ねると、太郎は待ちきれなかったかのように、顔を輝かせた。


「『カリブの海に乾杯』っていう洋画だよ!」


太郎はまるで映画のシーンを映し出すかのように、生き生きと話し始めた。


「アメリカ人のオリバーが海外旅行で飛行機に乗るんだけど、運悪く飛行機事故に巻き込まれるんだ。突然乱気流に遭遇して、ルートを変更することになるんだけど、それでも逃れられず、飛行機は鳥の大群に突っ込んでしまうんだよ」


太郎の語りは熱を帯び、創はその勢いに引き込まれていく。


「エンジンに鳥が入り込んで機体は制御不能に。結果的に飛行機は海へ真っ逆さまに墜落して、オリバーは奇跡的に生き延びるんだ。彼は、持っていた荷物を盾にして何とか軽傷で済んだんだけど、そこからが本当に過酷なサバイバルが始まるんだよ」


太郎は続けて、オリバーがどうやって生き延びたのか、島に漂着した後の彼の苦難を細かに語り、映画の魅力を余すことなく伝えようとした。創は太郎の話を聞きながら、次第にその内容がリアルに頭の中で映像として再生されていくのを感じた。


「それで、島で出会ったパリジェンヌ、カトリーヌとの出会いがまた面白いんだ。言葉が通じないから、ジェスチャーでコミュニケーションするんだけど、だんだん意思疎通ができるようになっていく。サバイバルの中でお互い助け合い、次第に絆が深まっていくんだ」


太郎は映画のストーリーをダイジェストで語り続けた。遭難者たちが結束し、命を繋いでいく様子、困難の中で芽生える友情や愛情。物語は緊張感とユーモアが絶妙に絡み合い、サバイバル映画としてもラブロマンスとしても楽しめる要素が満載だった。


「でも最後に、オリバーがカトリーヌに告白しようとするんだけど、実は自分が彼女を助けたときに少しやらかしてて、そこでカトリーヌにぶん殴られるんだよ。でも、結局カトリーヌが逆にプロポーズしちゃうんだ。これがまた感動的なんだけど、コミカルでもあってさ」


太郎が語り終えると、創は呆れたように微笑んだ。


「う、うん……わかったけど、ちょっとネタバレしすぎじゃないか?それに、どれだけ細かく覚えてるんだよ。ドン引きするくらいだぞ」


太郎は眉をひそめ、少し不機嫌そうに言った。


「お前が最近付き合い悪くて暇だったんだよ。だから何度も見返したんだ、畜生!お前が彼女といちゃついてるのを俺に隠してるのかと思うと、めちゃくちゃ腹が立つんだ!」


「なっ!?何言ってるんだよ!」


太郎の冗談に対して、創は焦った様子で返すが、そのやり取りもまた二人の親しさを感じさせた。


しかし、そこでふと景色が揺らぎ、創は夢から覚めるように意識を取り戻した。


「……夢か」


寝汗を感じながら、創はベッドの上で少し不安を抱えながら目を覚ました。その胸に渦巻く奇妙な感覚を抱えつつ、友人との約束を思い出し、少し緊張したまま再び家を出る準備を始めた。


汗が滴り、息は荒れ、心臓が破裂しそうなほど鼓動が激しく高鳴る。創は薄暗い部屋の中で、額から伝う汗を拭いながら、荒れた息を整えようと深呼吸を繰り返す。


「夢…なのか…」胸の奥でわずかに残る不安を振り払うように、創は自分に問いかけた。単に太郎からの誘いを思い出しただけのはずだが、なぜか胸騒ぎが消えない。それでも気を取り直し、待ち合わせの場所である公園へと足を運ぶことにした。


毎回、太郎と会うのはこの公園だ。いつも決まった道を歩き、顔を覚えた見知らぬ人たちと軽く会釈を交わす。微かな笑みを互いに浮かべるこの瞬間には、奇妙な親しみが漂っている。まるで、顔も名前も知らないはずなのに、そこには不思議な共通のリズムが存在しているかのようだ。時計の針が九時五十五分を指す頃、太郎がやってきた。


「よっ、待たせたか?」


「いや、待ってたよ。なんか久々な感じがするな。」


創は、少し間をおいて返事をする。太郎との再会はわずか三日ぶりだというのに、やけに時間が経ったように感じていた。


「ん?まだ三日しか経ってないぜ?まあ、暇な時間が続くとそう感じるのもわからんでもないけどな。」


太郎は探るような視線を向けてこない。その無邪気な反応に、創はほっと胸を撫で下ろす。心の奥で、何かを隠し通せたような安堵が広がる。


「夏休み前までは毎日のように会ってたからさ、ちょっと間が空いただけでそう感じるんだよ。」


言葉に少しの言い訳が滲んでいるのを創自身も感じ取ったが、太郎は気にした様子もなく「ああ、なるほどね」と軽く返してきた。


「で、今日は何をする?またいつもみたいに駄弁って終わりか?」


「他にやることもないだろ?男二人で映画でも行くか?想像しただけで鳥肌立つな…。」


「お、おう…」


そのまま立ち話を切り上げ、二人は近くのコンビニへ向かい昼食と晩飯を買い、今日の長い一日を乗り切る準備を整えた。


太郎の部屋に入ると、そこにはアニメや漫画、ラノベに囲まれた空間が広がっていた。二人は揃ってアニメの話題に熱中する。鮮やかな色彩で描かれた映像美や、巧みなセリフ回し、共感を呼ぶキャラクターたち。その感想を交わし合うたびに、二人の興奮は高まっていく。


「ほんと、それな。あのシーンは痺れた。」


「センスあるよなぁ、普通じゃ思いつかないって。」


「そうそう、あの瞬間の映像とセリフが頭に残り続けるんだよなぁ。鳥肌が止まらない!」


彼らはアニメやゲームに没頭する、いわゆるオタクだ。太郎の部屋に足を運ぶたび、朝から夜までゲームをして過ごし、アニメや漫画の話題に花を咲かせる。彼らの日常は、変わらない、しかしそれでいて心地よいルーチンに包まれている。


「明日も来るか?」


「いや、今日はもういいかな。気が向いたらまた来るよ。」


「そうか…じゃあ、またな。」


「また今度な。」


軽く手を振り、創は帰路についた。公園での会話からずっと抱いていた「疑われているのでは?」という不安は、太郎と過ごすことで自然に消えていった。だが、帰り道でふと、創は足を止め、頭の中に不満がよぎる。


「はぁ、俺は何をやってるんだ…」


いつもの日常に感じる安らぎと、どこか物足りなさがせめぎ合う。この矛盾に苛立ちを覚えつつも、創は頭を振り、雑念を振り払うかのように前を向いて歩き続けた。


その心の片隅に、梓と過ごす日々が蘇る。彼女と向き合っている時、自分が求めている何かに手が届くような気がするのだ。しかし、彼女を死なせずに済む方法が見つからず、創はその思考に深く沈んでいく。気持ちの重さに耐えかね、やがて彼は布団に潜り込み、いつもと変わらぬ一日の終わりを迎えた。眠りにつく直前まで、胸の中には解決の見えない苦悩が漂い続けていた。


朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く照らす。創は目を覚ますと、ぼんやりとした視界のまま枕元にあるスマホを手に取った。何も考えずに画面をスワイプし、メッセージアプリを開く。指先で梓の名前をタップし、短い文章を打ち込む。


「ごめん、気分があまりよくないから、花火見に行く時間まで休んでいていいか?」


送信ボタンを押した瞬間、画面には既読のマークがすぐに表示される。まるで梓が待機していたかのように、瞬時に返事が返ってきた。


「夏風邪でも引いた?」


その文字が目に映ると、創は軽くため息をつき、指を動かしながらゆっくりと返信を打つ。


「なんというか、ただダラダラしていたい気分なんだ」


実際には何か具体的な理由があるわけではない。ただ、体を動かす気力が湧かず、気分が重い。そんな心のざわめきを隠しつつ、気楽な調子で返事をする。


一瞬の間を置いて、梓からのメッセージが届く。


「そっか、遊び疲れただけかな?まぁ、その間暇だけどどうにかするよ。」


創はその言葉に少し安心を覚えながら、「ありがとう、時間になったらまた連絡する」と打ち込み、再び送信する。梓は気にする素振りもなく、むしろ気遣いを見せる。それがかえって心にチクチクと刺さるような感覚を覚えたが、気にしないふりをしてスマホを乱雑に布団の上に投げ出した。


その後、アプリの目覚まし機能を開き、花火大会の開始時間に合わせてタイマーを設定する。まるで、現実から逃げ出すように布団に潜り込むと、再び体を丸める。瞼を閉じながら、創は心の奥底にあるもやもやとした感情を押し隠そうとする。音もなくスマホが揺れ、目覚ましのセットを確認する画面だけがぼんやりと光を放っていた。


雑念を振り払うように、創は頭の中を空っぽにして眠りに落ちようとするが、どこか心が休まらず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


朝日がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中を淡く照らす。創は目を覚ますと、ぼんやりとした視界のまま枕元にあるスマホを手に取った。何も考えずに画面をスワイプし、メッセージアプリを開く。指先で梓の名前をタップし、短い文章を打ち込む。


「ごめん、気分があまりよくないから、花火見に行く時間まで休んでいていいか?」


送信ボタンを押した瞬間、画面には既読のマークがすぐに表示される。まるで梓が待機していたかのように、瞬時に返事が返ってきた。


「夏風邪でも引いた?」


その文字が目に映ると、創は軽くため息をつき、指を動かしながらゆっくりと返信を打つ。


「なんというか、ただダラダラしていたい気分なんだ」


実際には何か具体的な理由があるわけではない。ただ、体を動かす気力が湧かず、気分が重い。そんな心のざわめきを隠しつつ、気楽な調子で返事をする。


一瞬の間を置いて、梓からのメッセージが届く。


「そっか、遊び疲れただけかな?まぁ、その間暇だけどどうにかするよ。」


創はその言葉に少し安心を覚えながら、「ありがとう、時間になったらまた連絡する」と打ち込み、再び送信する。梓は気にする素振りもなく、むしろ気遣いを見せる。それがかえって心にチクチクと刺さるような感覚を覚えたが、気にしないふりをしてスマホを乱雑に布団の上に投げ出した。


その後、アプリの目覚まし機能を開き、花火大会の開始時間に合わせてタイマーを設定する。まるで、現実から逃げ出すように布団に潜り込むと、再び体を丸める。瞼を閉じながら、創は心の奥底にあるもやもやとした感情を押し隠そうとする。音もなくスマホが揺れ、目覚ましのセットを確認する画面だけがぼんやりと光を放っていた。


雑念を振り払うように、創は頭の中を空っぽにして眠りに落ちようとするが、どこか心が休まらず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。


夏休みが始まり、いつも一人で過ごすことが多い太郎にとって、その時間は何とも言えない退屈な日々だった。創が一緒なら、ただ駄弁って過ごすだけでも十分楽しめると高を括っていたのだが、最近は創の付き合いが悪く、太郎の期待は見事に裏切られた。結果、家に閉じこもってゲームやアニメを楽しむことになるのだが、一人でそれを続けるのは虚しさを感じる瞬間が増えてきた。誰かと共有する喜びがないと、楽しみが半減してしまうのだ。


その日も、何となくゲームをしていたが、いつものような没頭感がなく、気晴らしがてら外に出て散歩をすることにした。何も考えず足を運んだ先は、近所の児童公園だった。


そこには、太郎が全く予想していなかった人物がベンチに座っていた。背中越しにしか見えなかったが、そのシルエットだけで誰なのかすぐに分かった。校内で一番の有名人、梓だ。なぜこんなところに彼女がいるのか、太郎は不思議で仕方なかった。


「なんでこんなところにいるんだ?」思わず声をかけたが、梓は振り返ることなく、手元で何かに集中している様子だ。若干うつむいて、黙々と画面を見つめているように見えた。


反応がないのを不思議に思い、太郎は更に近づき、彼女が何をしているのか確認しようとした。梓の手元が見える位置まで来た時、太郎は衝撃を受けた。そこには、彼女がスマホでゲームをしている姿があったのだ。


「えっ、あの梓がゲームを?」まさかの光景に戸惑いつつも、興味が湧いた太郎は、もう一度声をかけた。


「おーい、聞こえてるか?」


その瞬間、梓はようやく気が付いたようで、びくっと体を震わせた。驚いた表情を浮かべ、彼女は振り返る。


「誰?」その一言で、太郎はさらにショックを受けた。彼女は同じクラスの太郎を全く認識していなかったのだ。


「同じクラスだろう……さすがに顔くらいは覚えてるだろ?」


梓はしばらく考え込んだ後、軽く肩をすくめるように言った。「ああ、そうだったんだ。ごめんね、クラスのことはあんまり覚えてなくて。」


そのあまりにも淡白な反応に、太郎は呆れてしまった。話が進まなそうだと悟った太郎は、気を取り直して自己紹介をすることにした。


「まあいいや、改めて名乗っておくよ。同じクラスの今井太郎だ。よろしくな。」


梓が何か言おうとしたところで、太郎は手のひらを掲げてそれを制止した。「いや、君は有名人だから名前はいいよ。校内で知らない人なんていないだろ。」


その言葉に、梓は突然腹を抱えて笑い出した。彼女の意外な反応に、太郎は戸惑いを隠せなかった。


「何かおかしいことでも言ったか?」


梓は笑いをこらえながら、首を横に振る。「いや、全然。そんなことないよ。」


口元を押さえつつも、まだ笑いが止まらない様子だ。太郎は、その笑いの意味を深く追及せず、話題を変えることにした。


「それよりさ、今やってるのってポ○モンだろ?君がゲームをするなんて意外だな。しかも、こんなに集中してやってるとは。」


梓はスマホの画面を見ながら、軽く頷いた。「まあ、最近始めたばかりだし、今日は夜までの暇つぶしだから、ゲームをやらないと言っても過言じゃないかな。」


太郎はすかさず突っ込んだ。「それにしては、かなりのめり込んでたみたいだけど?」


梓は少し考えた後、答える。「全然やらないからこそ、逆に新鮮で熱中しちゃうんだよね。多分、慣れてしまったらそこまでハマらないと思う。私がここまで楽しんでるのは、まだ未知の体験だからだし。」


太郎は、その言葉を聞いて、自分が少し前に感じていた「ゲーム疲れ」との対比を思い出し、少し苦笑いを浮かべた。「ハハハ、一本取られたな。まあ、そんな君にゲームのコツを教えてあげようか?見た感じ、まだ序盤だろうし。」


梓は興味深そうに目を輝かせて、「ぜひ、お願い」と答えた。それから二人は、太郎がゲームのポイントを教えつつ、しばらく一緒にプレイを続けた。時間が過ぎるのも忘れ、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。


帰り際、ふと太郎は思い出したように聞いた。「そういえば、近々武者祭りがあるけど、君は行くのか?」


梓は少し考えた後、軽く頷いた。「行ったことはないけど、今年は行こうかなって思ってる。」


太郎はその返事に納得しつつも、どこか不思議な感覚を抱いた。彼女がなぜ突然公園でゲームをしているのか、そして、これまで学校外でほとんど見かけることがなかった彼女が、今年に限って外出している理由が気になったのだ。


「なるほどね。じゃあ、また今度どこかで会おうか。」そう言って、太郎は軽く手を挙げて別れを告げた。


梓が去った後、太郎は一人、ふとつぶやいた。「創も、あのゲームをよくやってたな……これは面白くなりそうだ。」


そう言うと、太郎は微かな笑みを浮かべながら、夜の街へと歩き出した。


梓のスマホから通知音が鳴り響いた。画面を見ると、創からのメッセージが表示されていた。「そろそろ行くから、駅前に来てくれ。」梓は短く「わかった」とだけ返事を打ち込み、準備を整えて駅へ向かった。


駅に着くと、すぐに創の姿が見えた。彼は軽く手を挙げて挨拶を交わした。


「お待たせ。」


「全然待ってないよ。連絡したばかりだし、それにしても早すぎない?」


梓は、駅前に着いたばかりだというのに、創がすでに待っていたことに驚いていた。


「連絡が来た時には近くの公園にいたんだ。」


「ああ、なるほど。じゃあ、その間ずっとおすすめしたゲームをやってたの?」


「そうそう。」梓は軽く笑いながら答えた。


その言葉に、創は思わず公園のベンチに一人で静かにゲームに没頭する梓の姿を想像してしまい、微かに苦笑いを漏らした。梓がそのシーンにどうしても似合わないと感じたのだ。


「なにさ、その笑い方。ちょっとひどくない?」


梓は軽くむっとした表情で、ポコポコと軽く創の背中を叩いてきた。その仕草に、創は内心驚いた。この短期間で彼女の態度が驚くほど柔らかくなっていることに気づき、思わず口元が綻んだ。


その柔らかな笑顔を見た瞬間、創は驚いたように一歩後ずさりした。普段無表情に近い梓が、こんな風に笑うことは珍しかったのだ。


創は、梓とこんなに自然に話せる時間が、このままずっと続けばどんなに幸せだろうかと思わずにはいられなかった。だが、その願いが叶えば叶うほど、何かが遠ざかっていくような漠然とした不安感が胸に広がる。


創はその考えを振り払うように、ふと思い出したことを口にした。「実はさ、この時間はもうバスが出ないから、タクシーを呼んだんだ。多分、そろそろ来ると思うよ。」


「タクシー?結構お金かかるんじゃないの?大丈夫?」


梓は心配そうに顔を覗き込んだ。タクシーに乗るとなれば、かなりの出費になるだろうと思ったのだ。


「大丈夫大丈夫。実は、ちょっとずつ貯金してたんだ。」創は軽く笑いながら答えたが、梓はその金額の多さに疑問を抱いた。ホテルの宿泊費、買い食い、買い物、それにお小遣いまで。これほど余裕があるのなら、もしかして創はお金持ちなのではないかと考え始めた。


「でも、貯めてるって言っても結構な額だよね?もしかして、本当にお金持ちなの?」


その問いに、創は少し戸惑った表情を浮かべた。「いや、そんなことはないよ。ただ、無駄遣いせずに貯めてただけだから。」彼は気まずそうに、言葉を選びながら答えた。


梓はその答えを聞いて納得はしたものの、どこかまだ腑に落ちない部分を感じつつも、それ以上は追及せず、静かに次の話題へと移った。


梓はますます創に対する不信感を募らせた。「流石に怪しいよ。観念して話してよ。この際、どんなことでも目を瞑るからさ。」彼女の鋭い視線と言葉に、創はしばらく黙っていたが、やがて深く息をついて、決意したように口を開いた。


「誤解しないでほしいんだ。ちゃんと貯めたお金なんだ。ただ、進学のためにコツコツと貯めていたものなんだよ。」


「え……そんな大切なお金を……」


梓が驚きと戸惑いを声に乗せた瞬間、タクシーが到着し、ドアが開いた。二人は言葉を飲み込んだまま車内へ乗り込んだ。


「どちらまで行かれますか?」と、運転手が尋ねる。


「洞爺湖バスターミナルまでお願いします。」創が即座に答えた。


「え?結構遠いけど、本当にいいのかい?料金がかなりかかるよ。」


「いいですよ。」創はためらうことなく、あっさりと答えた。その即答ぶりに梓は驚き、言葉を失った。


タクシーは洞爺湖バスターミナルに向けて出発し、二人の間に気まずい沈黙が流れた。約一時間半の道のり、車内はずっと静まり返っていた。創が学費のために貯めていた大切なお金を、何のためらいもなく使う姿を見て、梓は気まずさを感じずにはいられなかった。


「そんなにあからさまに気まずい顔しないでくれよ……。だから話したくなかったんだ。」創はぼそりと呟いたが、梓は何も言えなかった。


やがてバスターミナルに到着し、二人は車を降りた。


「とりあえず足湯に行こう。あそこは早く行かないと場所を取られちゃうから。」


「うん……。」


夏休み中とはいえ、今日は平日だったせいか、足湯にはほとんど人がいなかった。実質、貸切状態だ。


「珍しいな。こんなに空いてるなんて今日は運がいい。」


「確かにね。周りに何人か歩いてはいるけど、こっちには来ないみたい。せっかくの花火なのに、ちょっと寂しいね。」


「多分、先に俺たちが陣取ってるから入りにくいんだろうな。それにロングラン花火だから、毎日やってて特に混雑することもないんだよ。平日だしなおさら。」


「そうなんだ……やっぱり私、こういう地元の事情とか全然わからないんだね。地元の人なら誰でも知ってそうなことも、私にはわからないことばかり。」


梓はそう言いながら、ため息をついた。


「まあ、環境が違うんだからしょうがないさ。でも、君は学力や運動では誰にも負けないだろ?」創は梓を励ますように言ったが、彼女はただ「はぁ」と再びため息を漏らすだけだった。


梓は、ため息と共に口を開いた。「それは親に無理やりやらされて身につけたものだよ。前にも少し話したけど、別に自分が望んで頑張ったわけじゃないし。こんなもの、苦しいだけならいらない。普通でよかったんだ。」


その言葉を受けて、創は少し考え込んでから返した。「普通ってのも、それはそれで辛いもんだよ。どんなに苦しくても、何かすごいものが欲しいって思ってしまう。欲しいものが手に入らない、そのジレンマに苛まれるんだ。俺が進学のために貯めたお金を惜しみなく使うのは、そのジレンマが理由なんだよ。ちょっと分かりにくかったかな?」


梓は小さく頷いた。


創は続けた。「俺は普通ってものが、たまらなく嫌なんだ。だから、普通からかけ離れている梓に憧れ、尊敬を抱いたんだよ。そして、夏休みの前日、普通ではありえないような体験をした。その時、これがチャンスだと思ったんだ。自分も普通じゃない何かになれるかもしれないって。それで梓を満足させたいって誓った。だから、親の顔色を伺って進学や就職して、妥協で生きていくより、梓との時間に全てを注ぎ込む方がいいと思ったんだ。この一瞬のために、お金なんて惜しみなく使えるんだよ。」


その時、夜空に花火が打ち上がった。ひゅ~、ぱぁん、と音が響き、足湯の場所に設置されたカラフルなライトが光り始めた。


梓は花火を見上げながら、ため息混じりに笑った。「ほんと、君って馬鹿だね。それも筋金入りの。どうしようもないほどクレイジーだよ。でも、もう既に君が望んだ“普通じゃない何か”を手に入れてるじゃない。自殺を止めて、貯めたお金を惜しげもなく使って、普通じゃないよ。それが君なんだよ。私と付き合い始めた瞬間から、君はもう普通じゃなくなってたんだと思う。」


創は腕を組んで首をかしげ、少し悩むように唸った。「そっか~。実感は湧かないけど、俺の望みはもう叶ってたんだね。言われなきゃ気づかないなんて、俺も馬鹿だよな。そういう観点で言えば、梓だって望みが叶ってるんじゃないか?」


梓は少し怪訝そうに、眉をひそめた。「どこが?」


「俺と一緒に遊び回って、普通の体験をしてるじゃん。特別なことは何もしてないよ。普通ってのが未体験だったから、あんなにも楽しかったんじゃないか?もう手に入ってるとは思わないかい?」


梓はしばらく黙り込んだが、やがて小さな声で「た、確かにそうかもしれない」と応えた。


「ありがとう、創くん。」だが、その言葉とは裏腹に、彼女の表情には笑みがなかった。


「まだ早いよ。君に見せたい普通が、まだまだあるんだ。今日だけじゃない。これからも一緒に体験していこう。」創は意気込んで言ったが、梓の表情は氷のように冷たかった。


「君には分からないでしょうね、この辛さが。長いこと虐待されて生きてきた私の気持ちなんて。だって君、ずっと普通に暮らしてきたんでしょ?私は早く終わりたいの。あなたはそのためのお手伝いのはずだったでしょ?忘れたの?」梓は真顔で、名前を呼ばずに冷ややかに皮肉を言い放った。


その言葉には、長年の痛みと苦しみが滲んでいた。創は、それがどれほど重いものか、すぐには理解できなかった。彼にはそれを受け止める準備ができていなかった。


創は心の中で、花火の夜に全てをさらけ出せば、梓の心を動かせると思っていた。実際にいいムードになり、お互いに望みが叶っていることも知った。しかし、それが最善だったのは、その瞬間までのことだった。梓にとって、すでに満足し終わっていたのだ。その事実が、今、この瞬間、最悪の形で創に突きつけられた。


創が何も言えずにいると、梓はさらに追い討ちをかけるように冷たく言った。「こんな短い期間で私を理解したつもりでいた?止められると思った?そんなの無理に決まってるじゃない。私たち、言葉を交わした数も、一緒に過ごした時間も少ないのよ。勝手に分かった気にならないで。でも安心して、君には感謝してるし、この世の誰よりも大事に思ってるよ。でもね、積み重ねたものは簡単には消えないの。」


創は、それに何も返すことができなかった。花火の音が最後にひときわ大きく響き、白い光が夜空に広がった。創の耳には、その音が辛辣に響いた。


「花火、終わっちゃったけど、これからどうするの?」梓がそう言った時、創はようやく我に返った。


「あ、あぁ、そうだね。今日は旅館に泊まろうと思ってるんだ。初めてでしょ?」


さっきの話がなかったかのように、梓は明るく「もちろん」と返事をした。


お決まりのやり取りを交わし、創はスマホで良さげな旅館を見つけた。二人はその旅館に向かうことにし、途中で梓は母親に「遅くなったけど、太郎の家に泊まっていく」と連絡を入れた。



洞爺湖ホテルに到着した創と梓は、カウンターでチェックインの手続きをすることになった。


「すみませーん、宿泊したいんですけど」


「ご予約はされていますか?」


「いえ、してないです」


「一人部屋と二人部屋、どちらをご希望ですか?」


「じゃあ、一人――」


「二人部屋でお願いします!」


創が「一人部屋」と言いかけたその瞬間、梓が彼の言葉を遮るように声を張り上げた。


「ちょっ、勝手に決めるなよ」


「わざわざ別々の部屋にする必要ないでしょ。店員さん、二人部屋でお願いします」


店員はニコリと微笑み、部屋まで案内してくれた。


案内された部屋は、純和風の落ち着いた雰囲気が漂う部屋だった。


「おお~、これ、テレビでしか見たことない光景だ…」


感嘆の声を上げる創を見て、梓は肩をすくめた。


「喜んでくれてるのはいいけど、よくも勝手に決めたなぁ」


「そんなことばっかり言ってると、器が小さく見えるよ?」


梓に対抗する気がなくなった創は、ため息をついて降参した。


「この際もういいや。今日は疲れただろうし、先に風呂に入ってきなよ」


これ以上、口論するのも面倒だと感じた創は、梓を風呂に送り出そうと促した。


「じゃあ、そうするよ」


梓はあっさりと受け入れ、風呂へと向かっていった。


創は彼女が反論してこなかったことに一瞬驚いたが、それ以上深くは考えず、ため息をつきながら部屋に置かれていたイスに倒れ込んだ。音を立てて座り込み、身体中の緊張が解けるのを感じた。


「おーい、聞こえる? 起きてー」


梓の声が聞こえ、創は目を覚ました。どうやら少しの間、寝てしまっていたらしい。目をこすって目を開けると、目の前にはバスタオル一枚を身にまとった梓が立っていた。


「ちょっ、お前、ななななんて格好してるんだよ!」


その言葉に、梓はいたずらっぽい笑みを浮かべ、創の反応を見るなり腹を抱えて大笑いした。


「バスタオル巻いてるだけなのに、そんなに反応するなんてウケるわ!」


梓は笑いすぎて四つん這いになり、涙を流しながら笑い続けていた。そんな彼女の姿に、創は顔が熱くなり、耐えきれず顔を背けた。


「俺、風呂に行ってくる…!」


早歩きで風呂場へと向かう創に、梓は右手を上げて軽く返事をしたが、彼は振り返ることなくその場を去った。


風呂に入り、疲れを癒そうと思った創だったが、頭の中はさっきの梓の姿がちらつき、どうにもリラックスできなかった。風呂から上がると、すでに寝床が整えられていた。しかし布団は隣り合わせに並べられており、時代劇でよく見かけるシチュエーションのように思えた。


「え、えぇ…」


この状況では、寝ても覚めても気が休まらない。そんなことを考えながら、創は無言で立ち尽くしていた。


「そろそろ電気消すよ、布団に入った入った」


梓の軽やかな声が部屋に響く。創は困惑した表情を浮かべた。


「いやいや、さすがにまずいだろ」


「もう、意気地なしだなぁ。あの時の度胸はどこにいったの? 私を満足させてくれるって言ってたじゃない」


その言葉に、創は弱ってしまった。あの時の約束を思い出し、彼女に逆らうことができなくなっていた。


「ふぅ、わかったよ。反論できないな…」


諦めた創は布団に潜り込む。梓が電気を消すと、部屋の中は急に静まり返った。その沈黙を破ったのは、やはり梓だった。


「別に襲ってもいいんだよ?」


冗談めかした声に、創は布団の中から顔を覗かせ、彼女の方を見た。暗がりの中で、梓の胸元が大きく開き、彼の視線を誘っていた。


「そんなことしねーよ」


創は粗雑に答え、背を向けた。


「つまんないの」


「わかってるくせに」


「そんなことないよ? 私はエスパーじゃないんだから」


「まぁ…そうだな」


再び梓のペースに巻き込まれそうになった創は、話を変えようと試みた。


「夏休み前までは、こんな状況、思いもしなかったよなぁ」


梓はしばらく黙った後、優しく答えた。


「本当にね。私は何もかもが嫌で、誰のことも信じてなかったのに、今では創くんのことばかり考えてる。毎日が新鮮で、楽しいって普通のことが、私にとっては新鮮だったの。ありがとう、創くんのことは一生忘れないよ。最後まで一緒にいるから、忘れるわけないけどね」


その言葉を聞いた創は、もう抵抗する気を失い、ただ寝返りで応じた。


その後、二人は無言で眠りに就いた。どちらが先に眠ったのかは分からないが、その間の沈黙は、花火の時の緊張感を忘れさせるほど心地よいものだった。


朝、先に目を覚ましたのは創だった。目を擦りながら体を伸ばし、大きく息を吐く。寝返りを打った梓の方を向くと、彼女はまだ眠っている。魅力的な寝顔に思わず顔を近づけた。


「やっぱり、梓はすごく可愛いな…」


胸の鼓動が高まり、顔が火照っていく。顔と顔が近づき、お互いの吐息が感じられるほどの距離にまでなった。


「この瞬間を永遠に繰り返せたら…」


創は心の底からそう願った。しかしそんなことはできるはずもない。距離が縮まるのと同じように、彼らがこうしていられる時間も短いのだ。


梓の目がゆっくりと開き、彼女は微笑んだ。


「やっぱり、そういうことしたいんじゃない。素直じゃないなぁ」


梓は優しく創の頬に手を添え、彼にキスをした。創は何も言わず、彼女のキスを静かに受け入れた。


創は、まだ寝ぼけた頭を冷ますために、窓を開けて外の風に当たっていた。頭がぼんやりして、思考がまとまらない中、外の風が少しずつ彼を目覚めさせていた。そんな時、背中にふわっと柔らかい感触が伝わり、梓が後ろから抱きついてきた。


「ねぇ、今日はどんなことして楽しませてくれるの?」梓の甘えた声が耳元で囁かれる。創は一瞬で緊張し、心臓が激しく鼓動を打つ。すでに限界に近い感覚だった。


「ちょっ、お前またそんな…」言い終わる前に、梓はさらに彼に畳みかけるように言葉を続けた。「ほんと素直じゃないなぁ。君が堅物だったから今まで遠慮してたけど、さっきは抵抗しなかったじゃない。私が甘えられるのは創くんしかいないんだから、もう少し甘えさせてよ、ね?」


創は、彼女の甘い言葉と柔らかい感触に、ただでさえオーバーヒート寸前の心をさらに揺さぶられる。いつもなら冗談でかわすところだが、このときばかりは彼もその誘惑に抗えなかった。


「まぁ…人目につかないところなら…」創は照れくささを隠せず、顔を真っ赤にしながら、少し怒ったような口調で返した。


梓は驚いたように目を見開き、急に真剣な表情になった。「んなっ!人目も気にせずそんなことやると思ってんの!?あんた、ほんと勘違いしてるでしょ!」そう言うなり、怒りを抑えきれず、拳をぎゅっと握りしめた。


「一発殴らせて!」彼女の言葉に、創は反射的に「あぁ」と答えた。返事を終えた瞬間、彼の頬には梓の全力の拳が突き刺さった。思わず顔を押さえたが、創は笑みを浮かべて言った。「悪かったよ。それと…目が覚めた。ありがとう。」


梓は少し不機嫌そうにしながらも、「ど う い た し ま し て!」とわざとらしく礼を返した。すっきりした様子で、「まぁ、私もスッキリしたし、お互い様ってことで」と笑った。


創は頬の痛みを感じながら、苦笑いを浮かべて「ハハハハ…」と笑い、今日の予定を伝えた。「今日は洞爺湖周辺を回ろうと思ってるけど、いいよね?」


梓はにっこりと微笑みながら、「もちろん」と返事をした。


二人は短い会話を終え、チェックアウトを済ませて、洞爺湖の美しい湖畔へ向かっていった。


「お、ちょうどいいな。エスポワール号がもうすぐ出発だ。少し高いけど、乗るよね?」と創は自信満々に提案した。


梓は軽く頷きながら、「もちろんいいけど、その何とか号って…あのラブホみたいなやつ?」と聞いてきた。


創は思わず嫌そうに眉をひそめ、「せめて城みたいなやつって言ってほしいな。それにしても、なんでそんな単語知ってんだよ。ちょっと驚いたわ」と言い返した。


「いや、あんまりお金かけさせるのも悪いと思って、格安のホテルを調べたらね。そういうのがいくつか出てきたの」と梓はさりげなく説明する。


「それはどうも。でも、俺はお金を使い切ってもいい覚悟でいるから、気にしなくていいよ。無難な選択でだらだらするより、太く短く、大胆に駆け抜けたいからさ」と創は堂々と話す。


「太く短くか、いい言葉だね」と梓は感心しながら答えた。


「だろう?後悔はしたくないんだ。細く長く、無難で安心安全、普通で幸せな日常なんて、俺にとっては退屈すぎて死んでしまいそうだからな。今の俺ならね」と創は少し遠くを見るような目で語る。


梓はふと自分の考えと照らし合わせるように、「私はそれが欲しかったけど、それが日常だったら、そう感じることもあるんだね。ある意味では、私と同じだね」としみじみと返す。


創は驚きながらも笑って、「俺とは真逆のところにいる人だと思っていたけど、実は背中合わせだったのか。なんか嬉しいな」と少し得意げに言った。


「類は友を呼ぶって言うけど、まさにその通りだね。こんな人、世界にもう一人といないだろうし」と梓は軽く冗談を交えながら応じる。


「そうだな、確信はないけど、運命を感じちゃうよ」と創は照れくさそうに続けた。


「くっさ(笑)」と梓は笑いをこらえきれずに返し、創も苦笑しながら、「いつの間に覚えたんだ…まあ、そろそろ乗ろうか」と言った。


いつものように、創が二人分の料金を払い、豪華な雰囲気のエスポワール号に乗船した。内部はシャンデリアの明かりが煌めき、セピア色のトーンで彩られており、船全体に独特の豪華な雰囲気が漂っていた。


「なんだか豪華客船みたいで華やかだね」と梓は船内を見渡しながら感想を述べる。


「豪華客船にしては狭いし、安物だろうけど、雰囲気作りは上手いな」と創は冷静に答えた。


「ところで、この船って真ん中の島に行くの?それとも湖を回るだけ?」と梓は尋ねた。


「真ん中にある中島に行くんだ。鹿がいっぱいいるところで、運が良ければ泳いでいる姿も見られるらしいよ」と創は説明するが、続けて付け加えるように、「でも、俺は何回か来てるけど、見たことはないんだよね」と言う。


「なんだ、見たことないのか」と梓は少し残念そうに言う。


「まあ、それは仕方ないよ。その代わりと言っちゃなんだけど、人慣れしたウミネコが手すりに止まるから、そっちを眺めていてよ」と創は微笑んで答える。


「頻度はどれくらい?」と梓が聞くと、創は即答する。「ほぼ確実に見れるくらいだよ」


「なら、期待して待ってるよ」と梓は満足そうに返事をした。


「俺はお土産売り場を見てくるから、ウミネコでも見て楽しんでて」と創は船内のお土産売り場に向かうことにした。梓は「買わないの?」と問いかけたが、創は観光地価格をぼやきながら、「キーホルダーくらいなら考えるけどね」と軽く返した。


お土産売り場に着いた創は、キーホルダーを探しながら、「マリ○ッコリ…これ、ほんと趣味悪いよなぁ」と心の中で呟く。緑色の全身に、股間が強調されたこのふざけたキャラクターが、なぜか女子の間で人気があったことに、創は首をかしげた。


お土産屋を出た後、梓は船内を歩きながら、ウミネコを探し、飛んでいるウミネコをまだ追っていた。


「おっ、止まった、止まった」


近くにいたウミネコにそーっと近づく梓。しかし、鳥は気づくやいなや、羽音を立てて飛び去ってしまう。


「あーあ、もう少し近くで見たかったのに」と、わずかに不満を感じながらも、数分間その場に留まっていた。


「もう飽きた。創くんと話してたほうがずっと面白いし、呼びに行こう」


そう決めた梓は、その場を後にし、お土産屋へ向かった。


「創、確かお土産屋にいるって言ってたっけ?」


お土産屋に着いたが、創は見当たらない。そこで梓は、「今お土産屋にいるから来て」とメッセージを送り、創が来るまでの間、店内を物色することにした。


「これは何だ…」梓は売り物の中に、一見して奇妙な品物を見つけ、思わず笑い声を漏らしてしまった。その声は周囲の人々の注意を引いたが、彼女はまったく気にする様子もない。


笑ってしまったことに少し敗北感を覚えた梓は、戒めとしてその珍妙な品を購入することにした。見た目のユーモアに耐え切れず、また笑ってしまわないように、という思いもあった。


「しっかし、○リッコリのキーホルダーなんてつけてる人、いないよね。昔の同級生が変わってただけなんだろうか」


そんなことを考えながら、梓は買い物を続けた。


その頃、創はお土産屋にいないことを嘆いていたが、スマホが鳴った。


誰からかは一瞬でわかった。メッセージ内容も予想通りだ。「今お土産屋にいるから来て」という内容。創は痴女探しをやめ、梓が待つお土産屋へ向かうことにした。


「なんでまたこれ持ってるんだ…」


梓の手には、例の奇妙な品が握られていた。


「ああ、これね?さっき見て思わず笑っちゃったから、負けた気分になって戒めとして買っちゃった」


「…そう」


創はどうでもいい、という表情を浮かべた。


その後、二人は観光地として名高い中島へ足を運んだ。創は梓が感動の言葉を口にすることを期待していたが、彼女の第一声は予想外だった。


「鹿は?もっとたくさんの鹿が群れでお出迎えしてくれるかと思ってたのに」


夏休みの始めに見せた純粋無垢な梓はもういない、と創は内心ため息をついた。


二人は道に沿って森の中を歩き始めた。観光客もちらほら見かけるため、梓は特に大胆な行動は取らない。創は、梓が約束を守っていることに少し安堵を覚えた。


周囲は植物ばかりで、道は軽く石が撒かれているだけの簡素なもの。創はこれが梓にとって新鮮だろうと思ったが、彼女は道端の枝を見つけては踏みつけ、バキバキと音を立てて楽しんでいた。


「まるで男子じゃないか…」と創は心の中で突っ込んだ。


今回は他の観光客もいるため、梓の行動を止めようと思ったが、他の子供たちも彼女の真似をし始め、まるで仲良くなっているかのように見えた。親たちは関わりにくそうな雰囲気を漂わせ、創も彼らに倣って黙って様子を見守ることにした。


結局、鹿を見ることなく、船内に戻ることになった。船内では、どこかしこで険悪なムードが漂っていた。異なる言語が飛び交っていたが、内容はきっとどこも同じだろう、と創は思った。自分たちの状況もまさにそうだからだ。


「はぁ…お前のせいで鹿が見れなかったよ。それどころか、この雰囲気まで作ったのもお前だぞ」


「そうなの?」梓は全く自覚がないようだった。


「あんなにバキバキと音を立ててたら、動物が寄ってくるわけないだろ」


「でも、子供たちは寄ってきたよ?」


「動物じゃないじゃん」


「人間も動物でしょ?」


「う…まぁ、そうだけど」梓との会話は、まるで子供相手のように通じず、創は頭を抱えた。


「ほら、ググればすぐ出てくるよ」そう言って梓はスマホを見せてくる。


「いや、いいよ」創は答えるのも面倒になり、船が到着するまで黙り込んでしまった。


船が港に着き、特にすることもなく、そのまま帰宅した。創は梓に内緒にしているが、お金はもうほとんど残っていないのだ。


そして、夏休みの終わりに向け、創は一つの決心をした。


「武者祭りが始まるまでに宿題を全部終わらせるぞ」


そんな決意とともに、創は日々を過ごしていった。



夏休み前から、創は太郎と一緒に祭りに行くことを決めていたため、梓とは別行動を取ることにした。もともと梓に見つかるとまずい状況だったので、太郎を誘ったのは自然な成り行きだった。


当日、太郎とは駅前で待ち合わせしていた。パレードの出発地点だ。


「久しぶりだな。連絡ないから驚いたぞ」


「いや、急に家族旅行に行くことになってさ。それで手一杯だったんだ」


もちろん、この言い訳は嘘八百だったが、とっさにそれっぽいことを言えた自分を少し誇らしく感じつつ、次の言葉に備えた。


「ふーん。お前がいない間、めっちゃ退屈だったよ。まあ、これでまた毎日遊べるな。明日は俺んちでゲームしようぜ」


内心焦ったが、疑われないように「あ、あぁ」と曖昧に返事をした。後でちゃんと断る理由を考えればいいだろうと思い、軽く胸をなでおろした。


祭りの会場では、リーダーらしき人物が演説を始めた。創は太郎との会話にそわそわしながらも、祭りの始まりを迎えていた。


「やっと始まったな」


「うん」


「そっけないねぇ」


「いや、毎年同じだし、真面目に聞いてるやつなんていないだろ」


「夏休み前、彼女と祭り行きたいって言ってたくせに、彼女できなかったから落ち込んでるんだろ?また今年も俺かーって感じか?」


太郎は楽しそうに冗談を飛ばしてきたが、微妙に図星だったため、返事に困った。仕方なく「まぁ、そんなとこ」と曖昧に応じる。


太郎はさらに楽しそうだったが、創は太郎の趣味の悪さに気づき、少し嫌気がさしていた。


演説は延々と続く。参加地区の代表者たちが武者祭りに対する情熱を語る一方、創は「早く終わらないかな」と冷めた気持ちでその場にいた。周りの人たちも演説には興味がなく、屋台で飲み食いしているのが目に入る。


祭りが進行していく中、パレードは駅前からスタートし、ガソリンスタンドを経由して交差点に差し掛かる。この交差点は祭りの見どころであり、写真家やカメラマンが集まって撮影するスポットだ。


「次の地区が動き始めるぞ、見に行こう」


「旅行で疲れてあまり動きたくないんだけど…」


しかし太郎は不機嫌そうに、「ふざけんなよ。俺は夏休み中ずっと暇だったんだ。文句言うなら最初から言えよ」と言い放ち、創を無理やり引っ張っていく。


その時、創の心は別のことに向いていた。できれば梓に出くわしたくないという強い気持ちが胸を締め付けていた。梓との関係があまりに近くなりすぎて、何かしらミスを犯す可能性が高いと感じていたのだ。


一方、太鼓の音やよさこいの曲が響き渡る中、梓は独り祭りの雰囲気に浸っていた。彼女はこのような大きなイベントに参加するのは初めてで、何か新しい世界に飛び込んだような感覚に包まれていた。普段は家から出ることがほとんどなく、親に従うだけの生活を送っていたため、自分の世界がいかに狭いかを改めて痛感していた。


最近、梓は創のおかげで「人間らしく」感じることができるようになったが、以前の自分がどれだけ無機質だったかを思い出し、複雑な気持ちになっていた。しかし、祭りの賑わいがその暗い思考をかき消してくれた。


「創くん、どこにいるのかな…」


梓は祭りの活気に満ちた人ごみの中で創を探していた。スマホで連絡しても祭りの混雑で見つけるのは難しいだろうと感じ、結局は自分の足で探すことにした。しかし、慣れない外出のせいか、彼女の目は遠くの人影をうまく捉えることができず、焦りが募る。


それでも、ふと「偶然見つけられたほうがロマンチックかな」と、少し乙女チックな思考が浮かび、自分に苦笑いした。


その頃、創は太郎とのやりとりにすっかり疲れ果てていた。太郎の無邪気なからかいも、いつものようには楽しめず、ただうんざりしていた。武者祭りの見慣れた風景も、太郎のしつこさも、すべてがつまらなく感じていた。何より、梓に出会ってしまうかもしれないという不安が、創の心を重くしていた。


「創くん、どこにいるんだろう…」梓は再び創を探しながら、人混みの中を歩いていく。


太郎が突然、反対車線の歩道へ渡るために、堂々とYOSAKOIをやっている大通りを横切り始めた。その様子を見た私は、仕方なくついて行った。気がつけば、どさくさに紛れて何人かの人も私たちについてきていた。この状況では、確かに少人数で目立つ場所を渡るのは気が引けるものだ。だが、太郎はそんなことを全く気にしていない。彼のその図太さが、どこか羨ましく感じた。


「み~つけた。」太郎の目の前に梓が現れた。やたらと動き回る太郎を不思議に思っていたが、どうやら梓を探していたようだ。梓は確かに可愛い。それだけに太郎が梓に目をつけるのも無理はない。しかし、私たちはここで軽い気持ちで済ませられるような状況ではなかった。


梓の表情は、まるでこの世の終わりでも見ているかのように絶望的だった。さらに、後ろから鋭い視線を放ちながら、怒りに満ちた様子で近づいてくる一人の男がいた。彼はまじめで厳しそうな雰囲気を持ったイケメンの中年男性だった。この状況に、私は一体何が起きているのかまるで分からなかった。


梓は何も言わず、ただ無言で立ち尽くしていた。いや、何も言えないでいたのかもしれない。「さぁ、帰るぞ。もう十分遊んだだろう。」そう言って梓の腕をつかむ男。その様子から、おそらく彼は梓の父親なのだろう。あの厳しそうな顔立ちは、父親にふさわしいように思えた。梓のうつろな目を見て、私は夏休み前日に起きたある出来事を思い出した。創にとって、それはもう遠い過去のようにも感じる記憶だが、きっと今、梓は私の助けを待っているに違いない。


私は勢いで男の手をつかみ、「待ってくれ!」と叫んだ。だが、男の激しい形相に凄まれ、手も足も出せなくなってしまった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、私は何もできずただ呆然と梓が連れて行かれるのを見ていることしかできなかった。


放心状態で立ち尽くしていると、太郎が突然笑い出した。「ハハハハハ!滑稽だな!最高だ。何も知らずにホイホイついてくるとは、気分が高まってつい悪乗りし過ぎたぜ!」


その言葉を聞いた瞬間、怒りが一気に沸き上がった。「お前!騙したな!ふざけるなよ!」


「お互い様だろう?」と太郎は冷たく言い放った。「梓とお前が付き合ってることくらい、分かってたさ。夏休みの二日目だったか、コンビニにお菓子を買いに行った時、仲良さげに歩いているお前たちを見たんだ。その時は問い詰めてやろうかと思ったが、ゲームが飽きてた頃だったし、暇つぶしにお前らの関係を調べてみようと思ってな。それで学校に行って、担任にちょっかいをかけながら、お前らの住所を調べたんだ。」


「おいおい、それってストーカーじゃないか…」


「言いたいだけ言えよ。しかし、俺はその後、待ってもお前らが帰ってこなかったんだ。むしろ夫婦喧嘩が始まってさ、『あなたが厳しすぎるから帰って来ないんでしょ!』とか『お前が暴力を振るうからだろ!』ってな。その声が聞こえた時はさすがに驚いたよ。だけど、今日まで待って、お前から真相を聞いてやろうと思ってたところに、こうして梓に会うことができたってわけだ。」


私は状況があまりに用意周到すぎることに唖然としながらも、「じゃあ、なぜこんなことを?」と問いかけた。


太郎は淡々と答えた。「お前も梓が人気者だって知ってるだろ?振られた男たちは数知れない。その連中の総意さ。」


太郎はスマホを取り出し、グループチャットの画面を私に見せつけてきた。そこには、心無い言葉の数々が羅列されていた。


「草」「見ろよあの顔」「しね」「梓に釣り合うわけがない」…


その瞬間、周囲から徐々に見知った顔や知らない顔ぶれが現れ始めた。まるで示し合わせたかのように次々と集まってくる。絶望感で足が竦み、次第に体の力が抜けていった。


「お前ら、何をするつもりだ?」私は強がって声を張り上げたが、返事をする者は誰一人としていなかった。太郎の手ごまであろう男子高校生たちに囲まれ、首元に激痛が走る。次第に視界がぼやけ、意識が遠のいていった。


そして、目を覚ますと、そこは薄暗い廃墟の中だった。



梓はしばらくの間、茫然自失の状態でいた。しかし、腕を強く引っ張られる感覚に痛みを感じ始め、やがて意識がはっきりしてきた。


「離して!」


叫んだ瞬間、父親は冷たく笑いながら言葉を投げかける。


「逃げるつもりか?もしそうするなら、あの少年を誘拐罪か拉致監禁の疑いで警察に突き出すことになる。それは今すぐにでも可能だ。それでも逃げたいなら、好きにすればいい。」


そう言い終わると、父親はあっさりと梓の腕を放した。梓はその場で立ちすくみ、何も言えなかった。


「賢い選択だ。もし大人しく家に帰るなら、少年は無事でいられる。普通ならこんな状況、大事になるはずなんだがな。むしろ不問にしてやるんだから、感謝されてもおかしくないんだ。」


父親の言葉に返答する気力もなく、梓は沈黙を保った。父親もそれ以上何かを期待している様子はなく、二人の間には冷たい沈黙が漂ったままだった。


家に着くまでの道中、重苦しい空気が続いた。家の玄関に着くと、母親が待っていた。いつものようにヒステリックに怒鳴り散らす姿ではなく、静かで穏やかな表情をしていた。悪く言えば、無表情とも取れる。


その表情に、梓は少しだけ安堵した。恐れていた怒鳴り声がなかったことで、胸を撫で下ろしたのだ。


「やっと帰ってきたのね。心配してたのよ。」


母親のその言葉には、普段の冷たさと、今の無機質な表情が重なり、本心からの言葉だとはとても思えなかった。


「私たちは反省したんだ。あまりにも厳しく接しすぎた。逃げられても仕方がないと気づいたよ。だから、これからはちゃんと向き合っていこうって話になった。梓にただ願望を押し付けても不満が溜まるだけだし、それは合理的ではないと分かったんだ。」


母親の言葉には一応納得したが、あまりにも遅すぎる気づきに、梓の心は複雑だった。もっと早くに気づいていれば、こんなに苦しむことはなかったのに――そう思わずにはいられない。


だが、梓の胸には一つの疑念が残った。あまりにも急な変わりようが不自然だった。二週間程度の失踪で、彼らの態度がここまで急変するだろうか?今まで道具のように扱われ、強制的な教育を押し付けられてきた彼らが、こんなにすぐ反省できるとは考えにくい。


「信用できない。ずっと長い間ひどい扱いをしてきたのに、失踪しただけでこんなに変わるなんておかしい。普通ならもっと怒り狂って私の自由を完全に奪うはずだ。何があったのか、ちゃんと説明してもらわないと信用できない。」


梓の言葉に、父親は一瞬驚いた表情を見せた。そして観念したように、真相を語り始めた。


「さすがだな。お前は賢い。実は、太郎という少年が我が家を訪ねてきて、お前の居場所を教えると言ってきたんだ。どうしてお前が帰ってこないことを知っていたのかというと、夫婦喧嘩の内容が外に漏れていたらしくてな。恥ずかしい話だが。その時、太郎は条件を提示してきた。『梓とちゃんと接すること。でないなら虐待で通報する』と言われたんだ。夫婦喧嘩の内容と、学校でのお前の様子、そして失踪を繋げたらすぐに分かったらしい。正直、手も足も出なかったよ。だから、条件を飲むしかなかった。でも、冷静に考えれば、彼の言うことは合理的だと気づいたんだ。それが真相だよ。」


梓は驚きつつも、呆れた気持ちを隠せなかった。そんな簡単なことも理解できなかったのか、と言いたい気持ちが湧き上がったが、言葉にするのは控えた。


「それなら信用する。」


梓はその一言を口にし、話は終わった。そして、二週間ぶりに自分の部屋に戻った。もともとはもう戻るつもりなどなかったはずなのに、そんなことを思いながら、少しだけ笑った。やはり、住み慣れた部屋は落ち着く場所だった。


ふと昨日の出来事を思い出し、創くんのことが気になった。彼はどうしているのだろうか?その疑問が心に浮かび、梓はスマホを手に取った。創くんに連絡しようと思ったが、友達リストには彼の名前がなかった。


太郎が消したに違いないと、梓は確信していた。親はこんなアプリがあることさえ知らないはずだからだ。しかし、太郎がただの嫌がらせで消したとは考えにくかった。彼の行動は、親を説得するための一環としての献身に見えたからだ。


梓はさらに深く考えた。太郎には数人の仲間がいた。その連中にスマホが渡っていたら、友達リストを消された理由もつじつまが合う。だが、スマホが戻ってきたということは、彼らに渡ったわけではないだろう。創くんに対する敵意を感じていた彼らのことを考えると、校内でひっそりと会うのは難しそうだった。ならば、人気のない場所で会うしかない。


梓は決意を固め、家を出る準備をした。幸運にも、家を出る許可は簡単に取れた。これ以上待つ必要はなかった。


一方、創は友達リストから梓を消されていた。親に連れ戻された彼女が自殺している可能性は低いと感じ、少しだけ安心した。だが、今は何もすることがなく、体の痛みもあって、ただ横たわっていた。


「はぁ、退屈だな。やることがない。」


創は何もすることがなく、ただ怠惰な一日を過ごしていた。宿題は終わり、やりたいゲームもない。梓と一緒に過ごしていた時間が、どれだけ楽しかったかを痛感した。


創は相変わらず宿題をやる気配がない。母親は、たまりかねて声をかけた。


「いい加減宿題やりなさい。もうやり始めないと辛くなるよ?」


ところが創は即座に答えた。


「もう終わってるよ。」


一瞬、母親は戸惑い、困惑の表情を浮かべる。そう言えば、最近は自主的に勉強をしている姿を見かけたことを思い出すが、それでも信じきれない様子だった。母親はそれ以上何も言わず、ただその場で創の言葉を呑み込んだ。


しかし、創はそんな母親の様子には気づかないまま、ふと外に出ることを決めた。自堕落な生活を続けるのはさすがにまずいと感じたのだ。彼は突然思い出したように、物置へ向かう。そこには隠してあった新品同様のテントがあった。それをゴミ袋に詰めて処分することに決めた。


「もったいないけど、仕方ないか。」


創は少しだけ未練を感じていた。テントは彼の学費を削ってまで購入したものだ。貴重な財産とも言えるその品を捨てることは、彼にとって大きな決断だった。しかし、学生の身では売りに出すこともできず、友達もいない今、譲る相手もいなかったのだ。学費を使い込んでしまったことが発覚すれば、怒られるのは必至だろう。自分で稼いだお金とはいえ、今後の進路にも影響する。


「正直に話せば良いんだろうけど、信じてもらえそうにないしな…」


創はため息をつきながら、ゴミ袋を片手に歩き出した。彼の心には、何かが引っかかっていた。梓との時間が終わってしまったような虚無感と、同時に未だに残る疑念があった。


「本人を連れてくるしか説得の方法はないかもな…」


そうつぶやいた後、創は再び梓との思い出の場所へ向かうことを決めた。体はだいぶ回復し、また外に出られる気力が湧いてきたのだ。梓と過ごした場所――海や公園、あるいは学校。そこなら、彼女とまた会えるかもしれないという淡い期待があった。


街に出ると、以前のトラブルで目にした輩たちがちらほらと視界に入った。彼らを避けるように、創は学校へ向かい、階段を登りながら思い出にふけっていた。


特に記憶に強く残っているのは、あの言葉だった。


「しつこい!離せ!」


「しつこくて結構だ!でもな、そんな顔して死ぬんじゃねぇ!最後くらい笑って死ねよ!満足して、やりきったと思って死ね!ただ辛いから死ぬなんて甘えだ!残された人たちはもっと辛いんだぞ!梓は、自分の辛さを他人に押しつけて、みっともなく死んでいくのか?」


「あんたに何がわかるのよ!じゃあ、どうしろっていうの?創が私を悔いなく殺してくれるっていうの?」


「ああ、そうだよ!夏休みの間、俺が全力で梓に付き合ってやる。梓が満足するまで。そして、最後は俺が殺してやる!だから、今は絶対に死なせない!」


創にとって、その瞬間は今も鮮烈に心に刻まれている。彼の人生において、これほど思い切った行動は他にない。それは創自身が変わるきっかけにもなった。彼は、ただ流されるだけの無個性な生活から脱却し、自らの意志で動くようになったのだ。


「本当に有意義な夏休みだったな…問題がひとつ残ってるけど。」


創は、学校の教室の扉をそっと開けて中を覗き込んだ。すると、机の下に折りたたまれた紙が落ちているのに気づく。以前と同じ場所に。


「もしかして、いるのか…?」


彼は紙を手に取ると、静かに屋上へと向かった。


梓は驚くほどあっさりと親から外出の許可をもらい、胸が軽くなるのを感じた。彼女は、創との馴れ初めの舞台である学校の屋上へ向かうため、心を決めて歩き出した。ちょうど学校の門が開いているのは、部活動が行われている時間帯だからだ。これは梓にとって好都合だった。あまり目立ちたくない彼女にとって、人目を避ける理由が簡単に作れる。


梓は人の目を気にしながら、なるべく静かなルートを選ぶ。職員室や体育館、文芸部が使いそうな教室の近くは避け、教室前を経由して階段へと進んでいく。その途中、ふと立ち止まり、自分の机の下に何も書かれていない白紙の紙を折りたたんでそっと置いた。これも計画の一環だ。帰り際にそれを回収すれば、自然な形で証拠を残さない。


屋上に着くと、やはり鍵はかかっていたが、梓にとってそれは問題にならない。事前にネットで調べた知識を駆使して、すぐに鍵をピッキングする。夏休み前日、衝動的に鍵を壊してしまった失敗は、もう繰り返さない。慎重かつ静かに屋上の扉を開けると、梓は物陰に身を潜めた。下では運動部が片付けを始める気配が感じられる。梓は、誰にも見つからないように時間を計って退散するつもりだった。


これが、梓の日課となっていた。夏休みが終わるまで、彼女は何度もこうして屋上に足を運び、同じことを繰り返すつもりだ。創がここに来るのを待つ。それが梓の新しい日常となっていた。街中を無駄に歩き回るよりも、効率的で確実だと判断したのだ。


こうして静かに待ちながら、梓はふと、創との出会いからこれまでの出来事を思い返していた。まるで妄想にふけるかのように、彼との思い出が鮮明に蘇る。


「そういえば、最初の待ち合わせは私が先回りしてたんだっけ。今は待ち伏せだけど。」


そう呟いて、自分の言葉に思わずクスッと笑う。あの時も、こうして創を待っていたことを思い出してしまったのだ。


屋上で待つこと一時間ほど経った時、不意に戸が開く音がした。梓は身を潜め、警戒心を高めた。ちらりと確認すると、そこに立っていたのは間違いなく創だった。


「あ、本当に居たんだ。」梓は少し驚いたように微笑む。


創は少し照れくさそうに返事をした。「もう待ちくたびれたよ。女の子を待たせるなんて、それでも男かい?」


「いいえ、男の子です。」彼の意外な返答に、梓は思わず笑ってしまった。


「そういうのはこの辺でやめにして…白紙のメッセージ、わかりやすかったでしょ?」


創は頷き、梓が机の下に置いた紙を思い出していた。彼女の行動を見て、何を伝えたかったのか理解したのだ。


「それで、考えは変わらなかったのか?」


その問いに対して、梓は答えず、ただ微笑んだままだった。そして一歩、創に近づく。


「まずはお礼を言わせて。ありがとう。あの時、止めてくれなかったら、こんなに楽しい日々を過ごすことなんてできなかった。何もかもが新鮮で、今までの絶望なんて嘘みたいに忘れられたの。」


彼女の笑顔は、以前とは比べものにならないほど輝いていた。その幸福そうな顔に、創もまた嬉しそうに微笑み返す。


「もしあの時、創くんが引き留めてくれなかったら、不幸なまま、満足することもなく死んでいただろうね。でも、創くんのおかげで私は満足したよ。」


梓はそっと創に耳打ちした。「本当に、ありがとう。」


そう言って、彼女は一瞬ためらいながらも、手を差し出した。その仕草は、どこか自信なさげでありながらも、創にとっては魅力的なものに映った。彼女の小さな手が、二人の間に新たな約束を刻むかのように、輝いて見えた。

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