封印の綻びと真実の発覚
クラル王が鍛冶業に専念してから一年が過ぎた頃、異変はより顕著になってきた。
「また頭痛ですか?」
エリザベス王妃が心配そうに夫を見つめていた。最近、クラル王は時折激しい頭痛に襲われるようになっていた。
その時、工房の炎が再び異常な動きを見せた。
『クラル……』
微かに聞こえる声。今度ははっきりと言葉として認識できた。
「誰だ?」
『忘れたのか?我は……アスモデウスだ』
クラル王の体が硬直した。その名前を聞いた瞬間、封印されていた記憶の一部が蘇ってきた。
「アスモデウス……悪魔の……」
『そうだ。そして、お前の魂の伴侶だ』
その夜、クラル王は家族に全てを告白した。河村雄斗との戦いで魂切りによって封印に綻びが生じ、アスモデウスの力が漏れ出していること。そして、このまま進行すれば完全融合に至ることを。
『元々の契約では、クラルの寿命が尽きた時点で我は魔界に戻る予定だった』
アスモデウスが家族の前で説明した。
『しかし、封印の綻びにより、完全融合は避けられない』
「完全融合すると、どうなるのですか?」
アレクサンダー王が尋ねた。
『悪魔には寿命がない』アスモデウスは重大な事実を告白した。『肉体の損傷以外では死ぬことがなくなる。ただし、病気にはかかる可能性がある』
数日間の熟考の末、クラル王は決断を下した。
「私は完全融合を受け入れる」
家族全員が息を呑んだ。
「ただし、この力を正しく使うために、新たな道を歩む」
王宮の大広間で、永遠の契約の儀式が執り行われた。アル=ゼイルも立ち会い、神聖な雰囲気の中で契約が結ばれた。
『クラル・グランベルク』
アスモデウスが荘厳な声で名前を呼んだ。
『汝は、永遠の時を世界の発展と平和のために捧げることを誓うか?』
「誓う」
『汝は、この力を民の幸福のためにのみ使うことを誓うか?』
「誓う」
『ならば、完全なる融合を開始する』
光が二人を包み込み、契約は成立した。
しかし、この契約にはサイクルによる休眠期間は設けられなかった。クラル王は文字通り永遠に生き続け、統治し続けることになったのだ。
国外では、クラル王に対する認識が複雑だった。
「グランベルク王国の『魔王』が、また領土を拡大している」
近隣諸国の宮廷では、そんな噂が飛び交っていた。
魔王——それは、魔人族を統べる王という意味で使われ始めた呼び名だった。
「魔獣を食べて変化した異形の民を支配する王」
「不老不死の力を持つ恐ろしい存在」
外国では、クラル王は畏怖の対象として語られていた。
しかし、実際にグランベルク王国を訪れた使節たちは驚いた。
「魔王と呼ばれる方が、これほど温和だとは……」
「国民も幸せそうで、圧政の影は見えません」
クラル王は、この「魔王」の異名を外交に巧妙に利用した。
「私を魔王と呼びたければ、そう呼ぶがいい」
敵対的な国の使節に対しては、威圧的な態度を取った。
「ただし、私の民に危害を加えるなら、その『魔王』の力を思い知ることになるだろう」
一方、友好的な国に対しては、全く違う顔を見せた。
「魔王などと呼ばれていますが、私はただの農民出身の王です」
謙虚で親しみやすい態度で接し、相手を安心させた。
この二面性により、クラル王は「恐怖による抑制」と「信頼による協力」を使い分けることができた。
グランベルク王国内では、もう一つの重要な変化が起こっていた。
龍族たちが、クラル王を完全に「主君」として認めるようになったのだ。
「クラル王よ」
ドラコニス・レックスが深々と頭を下げた。
「我々龍族は、あなたを永遠の盟主として認めます」
「盟主?」
「はい。あなたの永遠の生命と無限の知恵により、我々を導いてください」
これは龍族にとって前例のない行為だった。誇り高い龍族が、他種族の王に完全に服従することなど、歴史上一度もなかった。
しかし、クラル王の永遠性と神格化により、彼らの価値観が変化していた。
「私たちも、不朽の神に仕えることを光栄に思います」
ネリウスも同調した。
『数千年生きる我々でも、永遠には敵わない』
アル=ゼイルまでもが、クラル王を「対等な存在」から「敬うべき存在」として扱うようになっていた。
『汝は既に、神の領域に達している』
龍族の完全服従により、クラル王は新たな軍事組織を創設した。
「龍族騎士団を結成する」
この騎士団は、龍族の飛行能力と戦闘力を活かした、世界最強の軍事組織だった。
「団長にはドラコニス・レックス、副団長にはネリウスを任命する」
「光栄です」
レックスは感激で震え声になった。
「我が生涯の全てを、不朽の神クラル王に捧げます」
龍族騎士団の結成により、グランベルク王国の軍事力は他国を圧倒するレベルに達した。
空からの攻撃が可能で、なおかつ高い知性を持つ龍族の騎士団は、まさに無敵の存在だった。
完全融合から10年が経った頃、クラル王の呼称が変化していた。
国内では「豊穣神クラル王」または単に「豊穣神様」。
国外では「魔王クラル」または「グランベルクの魔王」。
しかし、最近になって新たな呼称が生まれていた。
「不朽の神」
これは、クラル王の永遠性と神格化が完全に定着したことを示していた。
「不朽の神よ、今年の収穫はいかがでしょうか?」
農民たちは、本当にクラル王を神として崇拝していた。
「おかげさまで豊作です。神の恵みに感謝いたします」
クラル王も、完全に神としての役割を受け入れていた。
しかし、神格化には重い責任が伴った。
「不朽の神として、私は完璧でなければならない」
クラル王は家族に漏らした。
「間違いは許されない。弱さを見せることもできない」
「お父様……」
イザベラが心配そうに言った。
「でも、あなたは人間でもあるのよ」
「人間の部分は、もう表に出せない」クラル王は苦笑いした。「不朽の神は、常に民の期待に応えなければならない」
エリザベス王妃は夫の手を握った。
「私たちの前では、人間のままでいてください」
「ありがとう、エリザベス」
家族だけは、クラル王が「不朽の神」になる前の人間らしさを知っていた。
90歳になったエリザベス王妃の体調が悪化してきた。
「もう……長くはないでしょう」
宮廷医師の診断は厳しいものだった。
クラル王は妻のベッドサイドに座り、彼女の手を握っていた。
「クラル……」
エリザベス王妃の声は弱々しかった。
「私がいなくなっても、あなたは永遠に生きていくのね」
「エリザベス……」
「寂しくない?」
クラル王は答えに詰まった。確かに、愛する人たちを次々と見送る永遠の人生は、想像を絶する孤独だった。
「大丈夫」クラル王は微笑んだ。「お前のことは忘れない。永遠に心の中にいる」
「ありがとう……」
エリザベス王妃は安らかな表情を浮かべた。
「あなたに愛されて……本当に幸せでした……」
翌朝、エリザベス王妃は静かに息を引き取った。
エリザベス王妃の国葬は、王国史上最大規模で行われた。
「豊穣神の伴侶として、国母として、多大な貢献をしてくださいました」
クラル王の弔辞は、参列者全員を涙させた。
しかし、クラル王自身は涙を流さなかった。
不朽の神として、民の前で悲しみを表すわけにはいかなかった。
「不朽の神は、永遠の愛を胸に、さらなる発展を目指します」
力強い言葉で締めくくったが、その夜、一人になった寝室で、クラル王は声を上げて泣いた。
『クラル……』
アスモデウスの声が優しく響いた。
『私がついている。お前は一人ではない』
「ありがとう……」
永遠の孤独の始まりだった。
エリザベス王妃の死から5年後、アレクサンダー王も60歳に達していた。
「父上、そろそろ正式に王位を返していいでしょうか?」
「王位を返す?」
クラル王は困惑した。
「はい。私はもう老人です。でも、父上は永遠に若い」
「それは……」
「国民も、不朽の神である父上の直接統治を望んでいます」
確かに、国民の間では「神が直接統治する国」への憧れが高まっていた。
「不朽の神様が王でいてくださる限り、グランベルク王国は永遠に繁栄する」
「人間の王では、神様に劣ってしまう」
このような声が、次第に大きくなっていた。
「分かった」クラル王は決断した。「私が永続的に王位を保持しよう」
こうして、クラル王の永続統治が正式に決定された。
永続統治に合わせて、行政システムも大幅に再編された。
「私は永遠に統治するが、実務は世代交代していく」
クラル王は新しいシステムを説明した。
「私は最高決定権者として国の方向性を決める。しかし、日常的な行政は、任期制の宰相と大臣たちが担当する」
「任期は何年ですか?」
「10年とする。ただし、私の判断で延長や短縮も可能だ」
このシステムにより、クラル王は「永遠の指導者」として君臨しながら、実務的な負担を軽減することができた。
クラル王の神格化は、国際情勢にも大きな影響を与えていた。
近隣諸国は脅威を感じていたが、同時に魅力も感じていた。
「不朽の神に統治される国民は、本当に幸せそうだ」
「病気や飢饉がほとんどない」
「技術も急速に発展している」
実際、クラル王の永続統治により、王国は安定した発展を続けていた。
政策の継続性が保たれ、長期的な計画が実行可能で、なおかつクラル王の超人的な能力により、様々な問題が迅速に解決されていた。
「我が国も、不朽の神の保護を求めたい」
小国からの朝貢申請が相次いだ。
「グランベルク王国の属国として、保護していただきたい」
クラル王は、これらの申請を慎重に検討した。
「保護は与える。しかし、内政には干渉しない」
「ただし、民の幸福を最優先にせよ。そうでなければ、保護を取り消す」
この方針により、グランベルク王国を中心とした「平和圏」が形成されていった。
一方、王国内では龍人族の成長が著しかった。
エリーは既に45歳になっていたが、外見は25歳程度を保っていた。龍人族の長寿がいかに特殊かを示していた。
「おじいちゃま、私たち龍人族も、あなたのお役に立ちたいです」
「どのように?」
「不朽の神の教えを世界に広める、宣教師になりたいんです」
クラル王は興味を示した。
「宣教師か……面白いな」
「私たちは長寿ですから、長期間の海外活動が可能です」
「そして、人間・魔人族・龍族の血を引く存在として、どの種族とも対話できます」
クラル王は龍人族宣教師団の結成を承認した。
「世界に平和と繁栄を広めてくれ」
龍人族宣教師たちの活動により、豊穣神信仰は世界各地に広まっていった。
「グランベルクの豊穣神は、本当に奇跡を起こすらしい」
「不老不死の神が、実際に存在するという」
「信仰すれば、豊かな収穫が得られる」
各国で豊穣神信仰の信者が増加し、それに伴ってグランベルク王国への憧れも高まった。
「いつか、豊穣神様に直接お会いしたい」
「グランベルク王国で暮らしてみたい」
このような声が世界中で聞かれるようになった。
契約から20年が経った。
クラル王は95歳になったが、外見は相変わらず40代前半を保っていた。
家族の多くは既に世を去り、新しい世代が生まれ育っていた。
「ひいひいおじいちゃま」
エリーの曾孫が懐いてきた。この子にとって、クラル王は生まれた時から「不朽の神」だった。
「お話しして」
「何の話がいい?」
「神様のお話」
クラル王は微笑んだ。
もはや彼は、完全に「不朽の神」として受け入れられていた。
人間だった頃の記憶は、家族の一部と自分自身の心の奥にのみ残っていた。
「昔々、ある所に小さな村がありました」
「そこに、一人の農民がいました」
「その農民は、村人たちのために、とても大切なことをしたのです」
自分の過去を、まるで古い伝説のように語る。
それが、不朽の神クラル王の新しい現実だった。
『満足しているか?』
夜中に、アスモデウスが尋ねた。
「満足……かどうかは分からない」クラル王は正直に答えた。「しかし、後悔はしていない」
『それで十分だ』
「そうだな。これが、私たちが選んだ道だ」
窓の外には、平和で繁栄したグランベルク王国が広がっていた。
街の明かりが美しく輝き、人々の幸せそうな声が聞こえてくる。
「この光景を守り続けよう」
クラル王——いや、不朽の神は、永遠の使命を胸に刻んだ。
愛する者たちの記憶と共に、永遠に歩み続けるために。