ネオニッポンの亡霊達:影の王との対峙
クリムゾン王国を離れてから五日が過ぎた。クラル王は西方の山岳地帯に向かって旅を続けていた。目的地は、「影の王」田辺大地が根城としている山賊の巣窟だった。
サンダーボルトの蹄音が、山道に響いている。周囲は深い森に覆われ、昼なお暗い道が続いていた。この辺りは元々人里離れた地域だったが、田辺の一団が現れてからは、まったく人の気配がなくなっていた。
「また、救えなかった……」
クラル王は馬上で呟いた。サクラの最期が、脳裏から離れなかった。彼女の絶望に満ちた表情、自分への深い失望、そして静かに散っていった桜の花びら。
あの時、もっと違う言葉をかけていれば。もっと早く気づいていれば。様々な後悔が、クラル王の心を重くしていた。
しかし、立ち止まっているわけにはいかない。残り二人の元日本人たちは、今この瞬間も罪なき人々を苦しめ続けている。
「今度こそは……」
クラル王は決意を新たにした。今度こそ、違う結末を迎えたい。力で制圧するだけではなく、真に相手を救済する方法を見つけたい。
山道を進むうちに、前方に小さな村が見えてきた。しかし、その村は異様に静まり返っていた。煙突から煙も上がっておらず、人の話し声も聞こえない。
クラル王は馬を降り、村に入った。
「誰かいませんか?」
声をかけたが、返事はない。家々の扉は固く閉ざされ、窓にも板が打ち付けられている。まるで、外界から完全に遮断しようとしているかのようだった。
その時、わずかに開いた扉の隙間から、老人の顔が覗いた。
「あんた……旅人か?」
老人の声は震えていた。
「そうです。道に迷ってしまいまして」
クラル王は穏やかに答えた。
「すぐに立ち去りなさい」老人が慌てて言った。「ここは……ここは呪われた土地だ」
「呪われた?」
「影の王の縄張りだ」老人の顔が青ざめた。「夜になると、影が生き物のように動き回る。そして……人を襲うんだ」
クラル王は内心で舌打ちした。田辺大地の影響が、もうここまで及んでいる。
「その影の王とは、どのような者ですか?」
「若い男だ。日本人のような顔をしてる」老人は声を潜めた。「でも、もう人間じゃない。影を操り、闇から闇へと移動する。まるで悪魔のような奴だ」
「被害は?」
「村の若い者たちが、次々と連れ去られた」老人の目に涙が浮かんだ。「息子も、孫も……もう二度と帰ってこない」
クラル王の拳が握りしめられた。また、罪なき人々が苦しんでいる。
「その男は、なぜそのようなことを?」
「分からん……」老人は首を振った。「最初は金品を奪うだけだった。でも、最近は人を連れ去ることが目的になってる。まるで、人間を集めて何かをしようとしているみたいだ」
クラル王は考え込んだ。田辺大地の行動パターンが変化している。単なる山賊行為から、より組織的で大規模な活動に移行しているようだった。
「その影の王の根城は、どこにあるのですか?」
「北の山奥だ」老人が指差した。「『黒い谷』と呼ばれる場所に、古い城がある。そこが奴らの根城らしい」
「ありがとうございます」
クラル王は立ち上がった。
「あんた、まさかそこに行くつもりじゃ……」老人が慌てた。
「少し、様子を見てきます」
「やめなさい!」老人が必死に制止した。「あそこは死の谷だ。入った者は、誰も帰ってこない」
「ご心配なく」クラル王は微笑んだ。「私は、そう簡単には死にません」
老人は、クラル王の目に宿る強い意志を見て、それ以上止めることを諦めた。
「……気をつけなさい。そして、もし息子や孫に会ったら……」
老人の言葉が途切れた。
「もし会ったら?」
「生きていたら……『爺ちゃんが心配している』と伝えてくれ」
クラル王は深く頭を下げた。
「必ず、伝えます」
北の山奥へ向かう道は、険しく危険な山道だった。クラル王は馬を麓に残し、徒歩で谷に向かった。
黒い谷という名前の通り、その谷は不気味なほど暗かった。昼間だというのに、濃い霧が立ち込め、太陽の光がほとんど届かない。そして、その霧の中を、不自然な影がちらちらと動いているのが見えた。
「影魔法か……」
クラル王は警戒しながら谷を進んだ。田辺大地が悪魔ベルフェゴールから学んだ影魔法は、確かに強力だった。影を自在に操り、自分自身も影となって移動できる。闇の中では、ほぼ無敵に近い能力だった。
谷の奥に進むにつれて、影の動きが活発になってきた。時折、クラル王の足元や背後に影が伸びてくるが、豊穣神の力で簡単に払い除けることができた。
やがて、谷の最奥部に古い城が見えてきた。元々は山岳地帯の領主が建てたものだろうが、今では黒い霧に包まれ、不気味な雰囲気を漂わせていた。
城の周囲には、数十人の人影が見えた。しかし、よく見ると、それらの人々の目には生気がなく、まるで操り人形のように動いていた。
「村人たちか……」
クラル王は悲しみを感じた。連れ去られた村人たちが、何らかの魔法で操られているのだ。
城門に近づくと、突然影から声が聞こえてきた。
「何者だ」
振り返ると、城壁の影から人影が浮かび上がってきた。それが田辺大地だった。
18歳になった彼は、以前とは別人のように変わっていた。元々内向的だった少年の面影はなく、今では冷酷で威圧的な雰囲気を纏っている。全身を黒いローブで包み、影のように揺らめく姿は、確かに人間離れしていた。
「俺の縄張りに、何の用だ?」
大地の声は、低く響いた。まるで、底なし沼から聞こえてくるような不気味な声だった。
「田辺大地」クラル王は名前を呼んだ。「お前を迎えに来た」
大地の表情が変わった。
「その名前を知ってるのか……まさか」
大地は影から完全に姿を現した。その瞬間、周囲の影がざわめき始めた。
「グランベルク王国の王か?」
「その通りだ」
大地は笑った。しかし、それは喜びの笑いではなく、狂気を含んだ笑いだった。
「面白い。あの時の救世主様が、わざわざ俺に会いに来てくれるなんて」
「救世主?」クラル王は眉をひそめた。
「そうだよ」大地の目に嘲笑の色が浮かんだ。「ネオニッポンで俺たちを『救って』くれたじゃないか。でも、その結果がこれだ」
大地は城と操られた村人たちを指差した。
「俺は元の世界では、誰からも注目されない、つまらない高校生だった。でも、力を得て変わった。今では、数百人の人間を支配している」
「支配して、何をするつもりだ?」
「何をする?」大地が首をかしげた。「別に、特別な目的なんてない。ただ、支配することが楽しいんだ」
クラル王は愕然とした。大地には、明確な野望や目標がなかった。ただ、人を支配することそのものが目的になっている。
「楽しい?人の自由を奪うことが楽しいのか?」
「そうだよ」大地は当然のように答えた。「元の世界では、俺はいつも支配される側だった。学校では教師に、家では親に、社会では大人たちに。でも、今は違う」
大地の影が大きく広がった。
「今度は俺が支配する側だ。俺の意思で人を動かし、俺の気分で人の運命を決める。これほど爽快なことはない」
「その人たちも、お前と同じように家族がいる。夢がある。生きる権利がある」
「権利?」大地が笑った。「弱い者に権利なんてない。強い者が全てを決めるんだ」
クラル王は深いため息をついた。大地の価値観は、完全に歪んでしまっていた。
「田辺大地、最後に聞く。その人たちを解放する気はないか?」
「解放?」大地は首を振った。「なんで俺が、せっかく集めた駒を手放さなきゃいけないんだ?」
「ならば……」クラル王は斬馬刀の柄に手をかけた。
「仕方がない」
大地は影魔法を発動した。瞬間、城の周囲が完全な闇に包まれた。太陽の光も遮断され、まるで夜中のような暗闇になった。
「この闇の中では、俺は無敵だ」大地の声が、四方八方から聞こえてきた。「影から影へと自由に移動できる。お前には、俺の位置すらわからないだろう」
確かに、クラル王には大地の正確な位置がつかめなかった。影魔法により、大地は文字通り影そのものになっているのだ。
突然、クラル王の背後から影の刃が襲いかかった。クラル王は直感で身をかわしたが、影の刃は彼の頬をかすめていった。
「どうした?もう終わりか?」
大地の嘲笑が響く。
「俺は元の世界では、いじめられっ子だった。みんなから無視され、馬鹿にされ、存在しないもののように扱われた」
再び影の攻撃が襲ってくる。今度は複数の方向から同時に。
「でも、ベルフェゴール様が俺に力をくれた。影を操る力を。そして俺は理解したんだ」
クラル王は斬馬刀で影の攻撃を防いだが、攻撃は次々と続いた。
「人間は、目に見えるものしか恐れない。だから、見えない影になれば、誰でも支配できる」
「お前は間違っている」クラル王が反論した。「人間が恐れるのは、見えないものではない。理解できないものだ」
「理解?」大地の笑い声が響いた。「俺を理解してくれる奴なんて、誰もいなかった」
影の攻撃が一段と激しくなる。
「学校でも、家でも、誰も俺のことなんて見てくれなかった。俺がどれだけ苦しんでも、どれだけ助けを求めても」
クラル王は、大地の声に込められた深い孤独を感じ取っていた。
「だから俺は決めたんだ。もう誰にも理解されようとは思わない。その代わり、俺が全てを支配してやる」
「それでは、真の解決にはならない」クラル王は暗闇の中で声をかけた。「支配は恐怖を生むだけだ」
「恐怖で十分だ!」大地が叫んだ。「愛されるより、恐れられる方がマシだ」
その瞬間、クラル王は豊穣神の力を発動した。神の光が闇を貫き、大地が作り出した暗闇を消し飛ばした。
「何?」
大地が驚愕の声を上げた。自分の最大の武器である闇が、簡単に無効化されてしまった。
「田辺大地」クラル王は光に包まれながら立っていた。「お前の苦しみは理解できる。だが、その苦しみを他人に押し付けてはならない」
大地は慌てて別の魔法を発動した。影の分身を数十体作り出し、クラル王を包囲する。
「うるさい!俺の何がわかるっていうんだ!」
影の分身たちが一斉に攻撃してくる。しかし、クラル王は冷静に対応した。斬馬刀の一閃で、分身たちを次々と切り払っていく。
「お前は孤独だった」クラル王は戦いながら話し続けた。「誰にも理解されず、誰からも愛されず、一人で苦しんでいた」
「黙れ!」
大地はさらに強力な影魔法を発動した。城全体を影で包み込み、巨大な影の怪物を作り出す。
「でも、それは本当にお前だけの問題だったのか?」
クラル王は影の怪物に向かって突進した。
「周りの人たちも、実はお前と同じように苦しんでいたのではないか?」
斬馬刀が影の怪物を真っ二つに切り裂いた。
「お前が理解されたいと思っていたように、他の人たちも理解されたいと思っていた」
「そんなこと……」大地の声が震えた。
「お前が愛されたいと思っていたように、他の人たちも愛されたいと思っていた」
クラル王は大地の本体に向かって歩いていく。
「だが、お前は自分の苦しみにしか目を向けなかった。他人の苦しみを理解しようとしなかった」
「違う!」大地が叫んだ。「俺は……俺は……」
しかし、言葉が続かなかった。
「田辺大地」クラル王は優しく呼びかけた。「まだ遅くない。その人たちを解放し、真の仲間を作れ」
「仲間?」大地が困惑した。
「支配ではなく、理解に基づいた関係を築け。恐怖ではなく、信頼に基づいた絆を作れ」
大地は立ち尽くしていた。今まで考えたこともない概念だった。
「でも……俺なんかと仲間になってくれる人なんて……」
「いる」クラル王が断言した。「必ずいる。お前が変われば、必ず現れる」
大地の目に、僅かな希望の光が宿った。
しかし、その時だった。
「嘘だ……」
大地が突然呟いた。
「そんなのは綺麗事だ」
大地の表情が再び冷たくなった。
「俺は18年間生きてきて、一度もそんな『仲間』なんて出会ったことがない」
「それは……」
「もし本当にそんな人がいるなら」大地の目に狂気が戻ってきた。「なんで今まで現れなかったんだ?なんで俺がこんなに苦しんでいる時に、誰も助けてくれなかったんだ?」
クラル王は言葉に詰まった。確かに、大地の言う通りだった。彼が苦しんでいた18年間、誰も手を差し伸べなかった。
「結局、人間は自分のことしか考えない」大地の声が憎悪に満ちてきた。「俺が苦しんでいても、みんな見て見ぬふりをした」
大地は周囲の村人たちを見回した。
「この人たちだって同じだ。俺に支配されるまでは、俺のことなんて眼中になかった」
「だが、それでも……」
「もううんざりだ!」大地が叫んだ。「綺麗事にはうんざりだ!」
大地は最後の魔法を発動した。それは、自分と支配下の人々を道連れにする自滅魔法だった。
「俺が消えるなら、この人たちも一緒だ!俺を無視した世界への復讐として!」
クラル王は急いで神の力を発動しようとしたが、大地の魔法の方が早かった。
暗黒の力が城全体を包み込み、建物が崩れ始める。村人たちは魔法で操られているため、危険を認識できずにその場に立ち尽くしていた。
「田辺大地、やめろ!」
クラル王は必死に叫んだ。
「彼らは無関係だ!」
「無関係?」大地が笑った。「俺が苦しんでいた時、彼らは無関係でいられたのか?」
建物の崩壊が激しくなる。このままでは、村人たちも巻き込まれてしまう。
クラル王は決断した。豊穣神としての全力を使い、村人たちを守ることを優先する。
神の光が城全体を包み、村人たちを崩壊から守った。しかし、その結果として大地を止めることはできなかった。
「ありがとう、クラル王」
大地の声が、最後に聞こえた。
「俺を……思い出してくれる人がいて……少しだけ……嬉しかった」
暗黒の魔法が大地自身を飲み込んでいく。
「でも……もう疲れた……」
大地の姿が影と共に消えていく。
「みんな……俺のことを……忘れて……」
最後の言葉と共に、田辺大地は完全に消滅した。
大地の死と共に、彼の魔法も解けた。操られていた村人たちが、徐々に意識を取り戻していく。
「ここは……どこだ?」
「俺たちは……何をしていたんだ?」
混乱する村人たちを、クラル王は静かに見守っていた。彼らは皆、大地に連れ去られた被害者だった。
「皆さん、大丈夫です」クラル王が声をかけた。「もう安全です」
村人たちは、クラル王の姿を見て驚いた。
「あなたは……」
「旅の者です」クラル王は正体を明かさなかった。「皆さんを故郷にお送りします」
村人たちの中には、あの老人の息子や孫もいた。彼らは無事で、記憶も徐々に戻ってきていた。
「爷ちゃんは……元気ですか?」
若い男性が心配そうに尋ねた。
「元気です」クラル王は微笑んだ。「とても心配していました」
男性の目に涙が浮かんだ。
「ありがとうございます……俺たちを助けてくれて……」
クラル王は複雑な気持ちだった。確かに村人たちは救われた。しかし、田辺大地は救えなかった。また一人、絶望の中で消えていった。
数日かけて、クラル王は村人たちを各々の故郷に送り届けた。再会の喜びに涙する家族たちを見ていると、救済の意味について考えさせられた。
最後に、あの老人の村を訪れた。
「お帰り!」
老人は息子と孫を抱きしめて泣いていた。
「本当に……本当にありがとうございます」
老人はクラル王に深く頭を下げた。
「どうやって……あの化け物を倒したのですか?」
クラル王は答えに困った。田辺大地を「化け物」と呼ぶ老人の気持ちも理解できるが、同時に大地の孤独も理解していた。
「彼も……苦しんでいたのです」
クラル王は静かに答えた。
「苦しんでいた?」老人が困惑した。
「ええ。誰にも理解されず、誰からも愛されず……とても深い孤独を抱えていました」
「でも、だからといって……」
「そうです」クラル王は認めた。「だからといって、他人を苦しめて良い理由にはなりません。でも……」
クラル王は空を見上げた。
「もし、もっと早く誰かが手を差し伸べていれば……違う結末もあったかもしれません」
老人は考え込んだ。
「そうですね……」老人が小さく頷いた。「私たちも、もっと周りの人に気を配るべきでした」
クラル王は老人の言葉に、僅かな希望を感じた。
この悲劇が、少しでも未来の悲劇を防ぐ教訓になれば……田辺大地の死も、無駄ではないかもしれない。
村を離れる時、クラル王は振り返った。
「田辺大地……安らかに眠れ」
田辺大地の件から一週間後、クラル王は北方のシルバーポート商業都市に向かっていた。
最後の標的、「金の悪魔」河村雄斗が待っている。
三人の中で最も狡猾で、最も組織的な悪行を行っている人物だった。違法な奴隷貿易を拡大し、各国の商業に深刻な影響を与えている。
しかし、今回は違うアプローチを取ることにしていた。これまでの二人の失敗から、クラル王は多くを学んでいた。
力だけでは、真の救済はできない。相手の心に寄り添い、本当の意味で理解することが必要だった。
「今度こそは……」
クラル王は馬上で呟いた。
「今度こそ、正しい終わり方を見つける」
シルバーポートまでの道のりで、クラル王は綿密な計画を練っていた。河村雄斗の過去、動機、そして現在の状況を詳しく分析し、最適な対応方法を模索していた。
最後の戦いが、間もなく始まる。