ネオニッポンの亡霊達:王の鍛冶場と新たなる旅路(続き)
クラル王は宿で一夜を過ごし、翌朝早くに出発した。目的地は、シルトン男爵が襲撃されたという北の街道だった。
サンダーボルトに跨り、街道を北に向かう。馬の蹄の音が、朝靄の中に響いていた。
「恐らく、まだそう遠くには行っていないだろう」
クラル王は襲撃現場の状況を推測していた。田中雷斗は、犯行の後に必ず近くに留まる傾向があった。それは、自分の「作品」を眺めるためと、追っ手が現れるのを楽しむためだった。
街道を2時間ほど進むと、前方に黒煙が立ち上っているのが見えた。
「あれか……」
クラル王は馬の歩みを早めた。現場に近づくと、惨状が目に飛び込んできた。
豪華な馬車が横転し、炎上していた。周囲には、騎士たちの遺体が散乱している。どの遺体も、雷撃による激しい損傷を受けていた。
クラル王は馬から降り、現場を詳しく調べ始めた。
「護衛騎士は……12名か」
遺体の配置から、戦闘の経過を読み取ることができた。騎士たちは最初、隊形を組んで応戦しようとしていた。しかし、空中からの一方的な攻撃により、次々と倒されていった。
馬車の中には、シルトン男爵とその家族の遺体があった。男爵は60代の初老の男性で、剣の達人として知られていた。しかし、その男爵でさえ、一撃で倒されていた。
「家族まで……」
男爵の妻と、まだ幼い娘の遺体を見て、クラル王の怒りがさらに深まった。これは戦闘ではない。一方的な虐殺だった。
その時、頭上から声が聞こえてきた。
「よお、また見物人かよ」
クラル王は空を見上げた。そこには、雷に包まれた人影が浮かんでいた。
田中雷斗——17歳の少年は、空中に浮かびながら、下を見下ろしていた。その表情には、何の罪悪感もなく、むしろ楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「いい眺めだろ?俺の芸術作品だ」
雷斗は誇らしげに惨状を指差した。その姿は、確かに人間とは思えない存在だった。全身に雷のオーラを纏い、重力を無視して空中に浮かんでいる。
「あんた、商人か?それとも冒険者?」雷斗が興味深そうに尋ねた。「どっちでもいいけど、金目のものは全部出せよ」
クラル王は静かに答えた。
「私は……通りすがりの者だ」
「通りすがり?」雷斗が笑った。「面白いな、その言い方。まあいいや、どうせすぐに死ぬんだから」
雷斗の手に、青白い電撃が集まり始めた。その威力は、護衛騎士たちを一撃で倒したものと同じだった。
「最後に聞かせてくれよ」クラル王が口を開いた。「なぜこんなことをする?」
「なぜ?」雷斗が首をかしげた。「面白いからに決まってるだろ。こんな力を手に入れたんだ、使わない手はないじゃん」
「力を得ることと、人を殺すことは違うだろう」
「違うって?」雷斗の目が鋭くなった。「おっさん、説教でもするつもりか?」
「説教ではない」クラル王は剣の柄に手をかけた。「質問だ」
「質問?」
「お前は、自分がしていることを理解しているのか?」
雷斗の表情が変わった。今まで見たことのない、真剣な眼差しがクラル王に向けられた。
「あんた……ただの商人じゃないな」
「気づいたか」
クラル王は、ゆっくりと鉄鬼:斬馬刀を抜いた。巨大な刀身が、朝日を受けて鈍く光った。
「おお、でかい剣だな」雷斗が興味深そうに見下ろした。「でも、空飛ぶ相手にどうやって戦うつもりだ?」
「降りてこい」
クラル王の声には、有無を言わさぬ威圧感があった。
「降りてこい?」雷斗が大笑いした。「なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだよ」
「怖いのか?」
雷斗の笑いが止まった。
「何だって?」
「一対一で戦うのが怖いのか?空から一方的に攻撃するしかできないのか?」
雷斗の顔が怒りで歪んだ。
「ふざけるな!俺を誰だと思ってる!」
雷斗は勢いよく地上に降り立った。その瞬間、周囲の地面に電撃が走り、小さなクレーターができた。
「いいだろう、おっさん。正面から戦ってやる」
雷斗は両手に電撃を纏わせた。その威力は、先ほど見せたものよりもはるかに強力だった。
「でも、後悔するなよ。俺の本気を見たら、きっと絶望するから」
「やってみろ」
クラル王は斬馬刀を構えた。その瞬間、周囲の大気が変化した。豊穣神としての力が、僅かに漏れ出したのだ。
雷斗の表情が変わった。今まで感じたことのない、圧倒的な力の存在を感知したのだ。
「あんた……まさか……」
「田中雷斗」クラル王が名前を呼んだ。「17歳、東京都出身。悪魔ベルゼブブから力を授かった元日本人」
雷斗の顔が青ざめた。
「なんで俺の正体を……」
「私はクラルだ」
クラル王は正体を明かした。
「グランベルク王国国王、そして……お前たちを救出した男だ」
雷斗の目が見開かれた。
「まさか……グランベルク王国の……」
「そうだ」クラル王の目に怒りが宿った。「私が命をかけて救った者が、このような悪行を重ねているとは……失望を通り越して、怒りしか感じない」
雷斗は一歩後ずさった。クラル王の名前は、ネオニッポン事件の生存者の間では伝説となっていた。
「で、でも!俺は地球に帰りたくなかったんだ!」雷斗が叫んだ。「あんたが勝手に救ったんだろ!」
「救ったことは後悔していない」クラル王は冷静に答えた。「だが、その結果がこれでは……責任を取らざるを得ない」
「責任?」
「お前を止める」
クラル王は斬馬刀を振り上げた。
「悪魔の力に頼り、罪なき人々を殺し続ける者に、生きる資格はない」
雷斗の恐怖が怒りに変わった。
「ふざけるな!俺だって必死に生きてるんだ!」
雷斗は全力で電撃を放った。青白い雷撃が、クラル王に向かって襲いかかった。
しかし、クラル王は微動だにしなかった。
雷撃がクラル王を直撃した瞬間、信じられないことが起こった。電撃がクラル王の体を包み込んだが、彼にはまったくダメージを与えなかった。
「な、なんで……」
雷斗が愕然とした。
「悪魔の力か」クラル王は淡々と言った。「確かに強力だが……神の力の前では、子供の遊びに等しい」
クラル王は一歩前に出た。その瞬間、周囲の大気が震えた。
「最後にもう一度聞く」クラル王の声に、僅かな慈悲が込められていた。「改心する気はないか?」
雷斗は答えの代わりに、さらに強力な電撃を放った。今度は連続攻撃で、辺り一面が雷の嵐に包まれた。
しかし、結果は同じだった。クラル王は無傷のまま立っていた。
「そうか……」
クラル王の声に、深い悲しみが込められた。
「では、私の責任として……お前を止める」
クラル王は斬馬刀を構えた。
雷斗は恐怖に支配されていた。目の前の男から放たれる圧倒的な力に、身動きが取れなくなっていた。
「こんな……こんなはずじゃ……」
雷斗は震え声で呟いた。ベルゼブブから授かった力は、確かに強大だった。これまで、どんな敵も一撃で倒してきた。しかし、今、その力が全く通用しない存在が目の前にいる。
「ベルゼブブ様……」雷斗は心の中で悪魔の名を呼んだ。「助けて……」
しかし、答えは返ってこなかった。悪魔たちは、既にこの世界から去っている。残されたのは、彼らから力を授かった人間だけだった。
「田中雷斗」
クラル王が静かに名前を呼んだ。
「お前は、力を得て何がしたかったのだ?」
「何って……」雷斗は困惑した。そんなことを考えたことがなかった。
「力を得たから使った。それだけか?」
「そ、それの何が悪いんだ!」雷斗が反発した。「俺は強くなったんだ!誰にも負けない力を手に入れたんだ!」
「その力で、何を成し遂げたかった?」
「成し遂げる?」雷斗はさらに困惑した。「別に……何も……」
クラル王は深いため息をついた。
「そうか……お前は、力を得ることが目的だったのだな」
「当たり前だろ!」雷斗が叫んだ。「元の世界では、俺は何の取り柄もない、つまらない高校生だった!でも、今は違う!俺は特別な存在になったんだ!」
「特別な存在になって、人を殺すことしかできないのか?」
雷斗は言葉に詰まった。
「お前には、守りたいものはないのか?愛する人は?夢は?」
「そんなもの……」雷斗の声が小さくなった。「ない……」
「ないのか?本当にないのか?」
クラル王の声には、僅かな温かみがあった。まだ17歳の少年に対する、大人としての配慮だった。
雷斗は考え込んだ。守りたいもの、愛する人、夢……
「俺には……何もない」雷斗は絞り出すように言った。「家族は俺なんかどうでもいいと思ってる。友達もいない。将来の夢もない。だから……」
「だから、力にすがった」
「そうだよ!」雷斗が叫んだ。「でも、それの何が悪いんだ!俺だって生きる権利はあるだろ!」
「生きる権利はある」クラル王は認めた。「だが、他人の生きる権利を奪う権利はない」
「そんなの関係ない!」雷斗は再び電撃を放った。「俺は強いんだ!強い者が勝つのが当然だろ!」
クラル王は攻撃を受け流しながら、ゆっくりと近づいていく。
「強さとは何だ?」
「力だよ!こんな風に敵を倒せる力だ!」
「違う」
クラル王は首を振った。
「真の強さとは、自分よりも弱い者を守ることだ」
「は?そんなの偽善だろ!」
「偽善ではない」クラル王は続けた。「私も、昔はお前と同じように考えていた」
雷斗の攻撃の手が止まった。
「力こそが全てだと思っていた。強い者が勝ち、弱い者は負ける。それが世界の理だと」
クラル王の目に、遠い記憶が浮かんだ。
「だが、家族を持ち、国を治めるようになって気づいた。本当の強さとは、誰かのために戦えることだった」
「誰かのために?」雷斗が嘲笑した。「そんなのただの自己満足だろ」
「そうかもしれない」クラル王は認めた。「だが、その自己満足が、多くの人を救い、多くの人を幸せにした」
クラル王は斬馬刀を下ろした。
「田中雷斗、最後の機会だ。その力を、誰かを守るために使え」
「誰を守るって?」雷斗が混乱した。「俺には、守るべき人なんて……」
「作れ」
クラル王の言葉が、雷斗の心に響いた。
「守りたい人を作れ。愛する人を見つけろ。そして、その人のために生きろ」
雷斗は立ち尽くしていた。今まで考えたこともない言葉だった。
「でも……俺みたいな奴を、愛してくれる人なんて……」
「いる」クラル王が断言した。「必ずいる。お前が変われば、必ず現れる」
雷斗の目に、僅かな希望の光が宿った。
しかし、その時だった。
「やめろ!」
雷斗が突然叫んだ。
「そんな綺麗事で俺を騙そうとするな!俺は……俺は……」
雷斗の中で、何かが壊れた。長年抱え続けてきた絶望と孤独が、一気に溢れ出した。
「俺は誰からも愛されない!誰も俺なんか必要としてない!だったら、みんな死んでしまえ!」
雷斗は最大出力の電撃を放った。今までとは比較にならない、凄まじい威力だった。
クラル王は悲しそうに首を振った。
「そうか……もう、手遅れか」
クラル王は斬馬刀を振り上げた。刀身が眩い光を放つ。
「許せ、田中雷斗」
神の裁きが下った。
斬馬刀が描いた軌跡に沿って、神聖な光が走った。雷斗の電撃は瞬時に消し飛び、光がそのまま雷斗を包み込んだ。
雷斗の体が光に包まれた瞬間、彼は不思議な安らぎを感じていた。今まで感じたことのない、温かい感覚だった。
「これが……」
雷斗の意識が薄れていく中で、最後に見たのは、クラル王の悲しそうな表情だった。
「愛……か」
雷斗の体が光の粒子となって消えていく。悪魔の力は浄化され、元の人間の魂だけが残った。
その魂は、安らかな表情を浮かべて、静かに天に昇っていった。
戦いが終わった後、クラル王は斬馬刀を鞘に収めた。
辺りは静寂に包まれていた。雷斗の狂った笑い声も、電撃の轟音も、もうどこにもなかった。
クラル王は、シルトン男爵一家の遺体の前にひざまずいた。
「すまない……間に合わなかった」
彼は深く頭を下げた。王として、そして一人の人間として、無力感に苛まれていた。
しばらくして、クラル王は立ち上がった。遺体を荼毘に付し、簡素な墓を作った。それが、彼にできる唯一の償いだった。
作業を終えると、クラル王は通信用の指輪を取り出した。
「アレクサンダー」
指輪が微かに光り、王子の声が聞こえてきた。
『父上!ご無事ですか?』
「ああ、無事だ。報告がある」
『はい』
「田中雷斗を始末した」
指輪の向こうで、息を呑む音が聞こえた。
戦いが終わった後、クラル王は斬馬刀を鞘に収めた。
辺りは静寂に包まれていた。雷斗の狂った笑い声も、電撃の轟音も、もうどこにもなかった。荒れ果てた街道に、風だけが吹き抜けていく。
クラル王は、シルトン男爵一家の遺体の前にひざまずいた。
「すまない……間に合わなかった」
彼は深く頭を下げた。王として、そして一人の人間として、無力感に苛まれていた。もう少し早く動いていれば、この一家を救えたかもしれない。そんな後悔が、心を重くしていた。
男爵の娘は、まだ7、8歳だっただろうか。小さな手には、壊れた人形が握られていた。きっと、大切にしていたのだろう。その人形を見つめながら、クラル王の胸に深い悲しみが宿った。
「田中雷斗……」
クラル王は呟いた。あの少年の最期の表情を思い出す。最後の瞬間、雷斗の目には僅かな後悔の色があった。もしかすると、違う道もあったのかもしれない。しかし、もう遅すぎた。
クラル王は立ち上がり、周囲を見回した。誰もいない。この惨状を片付けるのは、自分一人の仕事だった。
まず、遺体を丁寧に並べ直した。シルトン男爵は、最期まで家族を守ろうとしていたのだろう。妻と娘を庇うような姿勢で倒れていた。護衛騎士たちも、それぞれが最後まで主君を守ろうとした形跡があった。
「せめて、安らかに眠ってくれ」
クラル王は簡素だが心のこもった墓を作った。石を積み上げ、その上に男爵家の紋章を刻む。そして、一人一人の名前を丁寧に刻んでいく。
作業は日没まで続いた。最後に、クラル王は墓の前で静かに祈りを捧げた。
「どうか、安らかに。そして、このような悲劇が二度と起こらないことを」
夜が深まる中、クラル王は一人で野営の準備を始めた。サンダーボルトに餌を与え、簡単な食事を取る。しかし、食べ物の味はしなかった。
焚き火の前に座り、炎を見つめながら考えていた。
残りは三人。サクラ・ミヤモト、田辺大地、そして河村雄斗。それぞれが、異なる地域で異なる悪行を重ねている。
「次は誰から手をつけるべきか……」
クラル王は頭の中で地図を思い浮かべた。最も効率的なルートを考える必要があった。しかし、効率だけを考えていいのだろうか。被害の大きさ、緊急性、そして捕捉の難易度……様々な要素を検討しなければならない。
風が強くなり、焚き火の炎が揺らめいた。その炎を見つめながら、クラル王は過去を振り返っていた。
ネオニッポン事件から数年。あの時救出した15万人の大部分は、確かに平和な生活を送っている。農民として畑を耕す者、商人として成功を収める者、学者として新しい発見をする者……彼らの多くは、この世界に感謝し、懸命に生きている。
しかし、一部の者たちは道を誤った。力を得たことで、人間としての大切なものを失ってしまった。
「力とは、呪いでもあるのだな」
クラル王は自分自身のことを考えた。豊穣神として覚醒し、絶大な力を得た。その力で王国を築き、多くの人を救ってきた。しかし、同時に多くの敵も作り、多くの血も流してきた。
力を持つ者の責任。それは、時として重すぎる荷物になる。
夜が更けても、クラル王は眠らなかった。炎を見つめ続け、これからの旅路について考えていた。
翌朝、クラル王は南方のクリムゾン王国に向けて出発した。
次の標的は、サクラ・ミヤモト。「魔女」と呼ばれる16歳の少女だった。彼女は現在、クリムゾン王国で魔法顧問として活動している。表向きは国政に貢献しているが、実際は魅了の魔法で国王を操り、近隣諸国との戦争を扇動している。
クリムゾン王国までの道のりは険しかった。山間部を抜け、森を越え、川を渡る。片道だけで一週間以上かかる距離だった。
道中、クラル王は様々な情報を収集していた。街道の宿場町で商人や旅人から話を聞き、クリムゾン王国の現状を把握していく。
「最近、クリムゾン王国の様子がおかしいんですよ」
ある宿場町で出会った商人が言った。
「国王陛下が、急に好戦的になられて。今まで平和主義だった方なのに、近隣諸国に対して強硬な態度を取るようになりました」
「いつ頃からですか?」
「半年ほど前からですかね。新しい魔法顧問が就任されてからです」
クラル王は内心で舌打ちした。サクラ・ミヤモトの影響が、既に国家レベルで現れている。
「その魔法顧問とは、どのような方ですか?」
「美しい女性らしいです。まだ若い方で、東方から来られたとか。魔法の腕前は相当なもので、国王陛下も絶大な信頼を寄せていらっしゃるそうです」
「そうですか……」
クラル王は情報を整理していた。サクラの魅了魔法は、アスモデウスから直接学んだものだった。その威力は、常人には抗うことができないレベルだった。
しかし、クラル王は以前アスモデウスと魂を融合している。その記憶は封印されているが、魅了魔法に対する耐性は残っているはずだった。
「問題は、どうやって彼女に接近するかだ」
クリムゾン王国の魔法顧問ともなれば、厳重な警備に囲まれているだろう。王宮への侵入は困難を極める。
クラル王は作戦を練っていた。正面突破は現実的ではない。何らかの名目で、正式に面会を申し込む必要があった。
その時、良い考えが浮かんだ。
「そうだ……外交使節として行けばいい」
クラル王は身分を偽り、隣国の外交官として潜入することを決めた。
三日後、クラル王はクリムゾン王国の首都ルビアナに到着していた。
彼は完全に別人の姿をしていた。髪の色は栗色に変わり、体格もやや細身に調整していた。服装も、外交官らしい上品なものに身を包んでいる。
偽造した書類も完璧だった。豊穣神の力により、本物と見分けのつかない外交文書を作成していた。身分証明書から推薦状まで、必要な書類は全て揃っている。
「ノートン・ハーバート卿」
これが、クラル王の偽名だった。アルフェリア公国の外交官という設定で、クリムゾン王国との通商協定について協議するために派遣されたことになっている。
王宮の門番は、書類を入念にチェックした後、彼の入城を許可した。
「ノートン卿、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
案内された応接室は、豪華な装飾が施された広い部屋だった。壁には歴代国王の肖像画が掛けられ、中央には大きなテーブルが置かれている。
「しばらくお待ちください。陛下のご都合を確認いたします」
侍従が去った後、クラル王は一人で室内を観察していた。この王宮の雰囲気は、以前とは明らかに違っていた。空気が重く、どこか不自然な緊張感が漂っている。
魅了魔法の影響だろう。王宮全体が、サクラの魔法に支配されているのかもしれない。
30分ほど待った後、扉が開いた。
「ノートン卿、陛下がお会いになります」
クラル王は案内されるまま、謁見の間に向かった。
謁見の間は、さらに豪華な造りだった。高い天井には美しいフレスコ画が描かれ、巨大なシャンデリアが吊り下げられている。その奥の玉座に、クリムゾン王国国王が座っていた。
しかし、国王の様子は明らかにおかしかった。目に生気がなく、まるで操り人形のようだった。
そして、玉座の脇に立つ一人の女性。
それが、サクラ・ミヤモトだった。
16歳とは思えないほど美しく成熟した女性だった。黒髪を優雅に結い上げ、深紅のドレスに身を包んでいる。その美しさは確かに人を魅了するものだったが、その目には冷たい光が宿っていた。
「ノートン卿」
国王が口を開いたが、その声は感情のこもらない機械的なものだった。
「アルフェリア公国からようこそ。通商協定について、話し合いましょう」
クラル王は深くお辞儀をした。
「陛下、このたびは貴重なお時間をいただき、ありがとうございます」
その時、サクラが口を開いた。
「ノートン卿、初めてお目にかかります。私は王国魔法顧問のサクラと申します」
その声は蜂蜜のように甘く、聞く者の心を惑わせる魔力を含んでいた。実際、謁見の間にいる他の廷臣たちは、うっとりとした表情を浮かべている。
しかし、クラル王には効果がなかった。
「サクラ様、お美しい方ですね。噂はかねがね伺っております」
クラル王は完璧に外交官を演じていた。
しかし、サクラの目が僅かに細められた。自分の魅了魔法が効かない相手を前に、警戒心を抱いたのだ。
「ノートン卿は、魔法の心得がおありなのですか?」
「いえ、全くの素人です。魔法については何も知りません」
「そうですか……」
サクラは疑いの目を向けていたが、表面上は微笑みを保っていた。
「では、通商協定の件ですが」国王が再び口を開いた。「我が国としては、軍事物資の輸入を増やしたいと考えています」
クラル王は内心で驚いた。通商協定の話は建前だったが、国王の回答は明らかに戦争準備を示唆していた。
「軍事物資、ですか?」
「そうです」サクラが割って入った。「我が国は、近隣諸国からの脅威に備える必要があります。特に、北方のエリドニア王国は、最近我が国に対して敵対的な態度を示しています」
これは明らかな嘘だった。エリドニア王国は平和主義で知られており、他国を攻撃するような国ではない。
「それは穏やかではありませんね」クラル王は慎重に答えた。「しかし、アルフェリア公国としては、戦争に関わる物資の輸出は控えたいところです」
サクラの表情が一瞬強張った。
「ノートン卿、それは非友好的な態度ではないでしょうか?」
「決してそのような意図はございません。ただ、我が国の方針として……」
「方針?」サクラの目が鋭くなった。「方針など、変えればよいのです」
その瞬間、サクラの魅了魔法が放たれた。今度は先ほどよりもはるかに強力な魔法だった。謁見の間の空気が重くなり、他の廷臣たちはさらに深い魅了状態に陥った。
しかし、クラル王には相変わらず効果がなかった。
「申し訳ございませんが、我が国の方針は簡単には変えられません」
クラル王の返答を聞いて、サクラの疑念は確信に変わった。
「ノートン卿……あなた、本当にアルフェリア公国の外交官ですか?」
緊張が謁見の間を満たした。
クラル王は覚悟を決めた。もはや、偽装を続ける意味はない。
「いいえ」
クラル王は立ち上がり、変装を解いた。豊穣神の力により、元の姿に戻る。
謁見の間にどよめきが起こった。
「私はクラル。グランベルク王国国王だ」
サクラの顔が青ざめた。
「グランベルク王国の……まさか……」
「そうだ、サクラ・ミヤモト」クラル王は彼女の本名を呼んだ。「お前を迎えに来た」
謁見の間は騒然となった。廷臣たちは困惑し、衛兵たちは武器に手をかけた。しかし、サクラが手を上げて制止した。
「皆、下がりなさい」
サクラの命令に従い、廷臣と衛兵たちは謁見の間から退出していく。最後に残ったのは、クラル王、サクラ、そして魅了状態の国王だけだった。
「まさか、あのグランベルク王国の王が、わざわざ私を迎えに来るなんて」サクラは皮肉な笑みを浮かべた。「光栄ですわ」
「迎えに来たのではない」クラル王は冷静に答えた。「止めに来たのだ」
「止める?」サクラが笑った。「何を止めるというのですか?私は、この国の発展に貢献していますのよ」
「発展?」クラル王は国王を見た。「あの状態を発展と呼ぶのか?」
国王は虚ろな目で玉座に座っていた。まるで魂が抜けたように、生気がまったくない。
「これは必要な処置です」サクラは冷たく言った。「愚かな王では、国は守れません。私が代わりに統治しているのです」
「お前に、その権利があるのか?」
「権利?」サクラの目が鋭くなった。「力こそが権利です。私には、この国を支配する力がある」
「その力で、何をするつもりだ?」
「決まっているでしょう」サクラは玉座の方を見た。「この国を、大陸最強の王国にするのです。そして、私がその頂点に立つ」
クラル王は深いため息をついた。
「お前も、力に溺れてしまったのだな」
「溺れた?」サクラが憤った。「私は力を得たのです!元の世界では、私は何の価値もない女子高生でした。でも、今は違う」
サクラの目に狂気の光が宿った。
「今の私は、王でさえも意のままに操れる。男どもは皆、私の美しさに魅了される。これこそが、真の力です」
「それで満足なのか?」
「満足?」サクラが笑った。「まだまだです。私の野望は、このような小国では終わりません」
サクラは立ち上がり、窓の外を見た。
「いずれは大陸全土を支配し、全ての男を私の奴隷にする。そして、私だけの理想郷を作るのです」
クラル王は愕然とした。サクラの野望は、想像以上に巨大で危険だった。
「その理想郷で、お前は何をするつもりだ?」
「何をする?」サクラは振り返った。「当然、女王として君臨するのです。美しく、強く、誰からも愛される完璧な女王として」
「愛される?」クラル王は首を振った。「それは愛ではない。恐怖による支配だ」
「愛も恐怖も、結果は同じです」サクラは冷たく言った。「重要なのは、私が頂点に立つことです」
クラル王は、サクラの中にある深い孤独を感じ取っていた。彼女の言動の裏には、誰からも理解されなかった過去の痛みが隠されている。
「サクラ・ミヤモト」クラル王は優しい声で呼びかけた。「お前は、本当に愛されたいのではないのか?」
サクラの表情が一瞬揺らいだ。
「何を……」
「偽りの魅了ではなく、真の愛を求めているのではないか?」
「黙りなさい!」サクラが叫んだ。「私には愛など必要ありません!」
しかし、その声は震えていた。
「必要ないのではない。怖いのだ」クラル王は続けた。「真の愛を求めて、再び傷つくことが怖いのだ」
「黙れ!」
サクラは魅了魔法を放った。今度は全力での攻撃だった。空気が歪み、精神に直接作用する強力な魔法が、クラル王を襲った。
しかし、クラル王は微動だにしなかった。
「やはり、効かないか」サクラは舌打ちした。「アスモデウス様の元恋人だけのことはありますね」
クラル王は驚いた。サクラが、アスモデウスとの融合について知っている。
「どこで、その情報を?」
「アスモデウス様から直接伺いました」サクラの目に嫉妬の光が宿った。「あの方の愛を受けた男として、とても有名でしたから」
「嫉妬しているのか?」
「嫉妬?」サクラは否定した。「そんなもの、するはずがないでしょう」
しかし、その表情は明らかに嫉妬を示していた。
「お前は、アスモデウスを愛していたのだな」
「愛していた?」サクラの目から涙が流れ始めた。「愛していました……心から愛していました」
サクラの声が震えた。
「でも、アスモデウス様は私など見向きもしませんでした。常に、あなたのことばかり話していた」
クラル王は、サクラの痛みを理解した。愛する人から愛されない苦しみ。それが、彼女を狂わせた原因だった。
「だから、私は決めたのです」サクラは涙を拭った。「愛されないなら、力で全てを手に入れると」
「それでも、虚しいだろう」
「虚しい?」サクラは笑った。「虚しくても、何もないよりはマシです」
クラル王は深く悲しんだ。彼女もまた、愛に飢えた可哀想な少女だった。
「サクラ、まだ遅くない」クラル王は手を差し伸べた。「やり直すことができる」
「やり直す?」サクラは首を振った。「もう遅すぎます。私は、もう戻れません」
「戻れる。必ず戻れる」
「嘘です!」サクラが叫んだ。「私がしたことを、誰が許してくれるというのですか!」
確かに、サクラの犯した罪は重い。しかし、クラル王は諦めなかった。
「私が許そう」
サクラは言葉を失った。
「私が、お前を許そう。そして、新しい人生を始める手助けをしよう」
「なぜ……」サクラの声が小さくなった。「なぜ、そこまで……」
「お前も、私が救った者の一人だからだ」クラル王は答えた。「私には、責任がある」
サクラは長い間、クラル王を見つめていた。その目には、希望と絶望が入り混じっていた。
しかし、最終的に絶望が勝った。
「無理です……」サクラは首を振った。「私には、もう……」
サクラは魔法の杖を取り出した。それは、アスモデウスから授かった特別な品だった。
「私は……醜い化け物になってしまいました」
サクラの目に、深い自己嫌悪が宿っていた。
「元の世界では、誰からも愛されない哀れな女子高生。こちらの世界では、力に溺れた魔女。どちらの私も……偽物です」
「サクラ……」
クラル王が声をかけようとしたが、サクラは首を振った。
「もう、疲れました」サクラの声が静かになった。「本当の自分がわからない。本当の愛もわからない。このまま生きていても、きっと……また同じことを繰り返してしまう」
サクラは魔法の杖を胸に向けた。
「せめて、最後は……綺麗に終わりたいと思います」
「やめろ!それでは何も解決しない!」
クラル王が前に出ようとしたその時、サクラは微笑んだ。
「ありがとうございました、クラル王。あなたに救われた人生でした。短かったけれど……少しだけ、光を見ることができました」
その瞬間、サクラは杖に込められた破壊魔法を自分に向けて発動した。
強力な魔法エネルギーが彼女の体を包み込む。しかし、それは苦痛を与えるものではなく、むしろ安らかな光だった。
「アスモデウス様……」
サクラの最後の言葉が、謁見の間に響いた。
光の中で、サクラの体が消えていく。悪魔の力と共に、彼女の魂も浄化されながら消滅していった。
最後に残ったのは、美しい桜の花びらが舞い散る光景だった。
クラル王は、その光景を静かに見守っていた。拳を握りしめ、唇を噛みながら。
「すまない……」
クラル王の声が震えていた。
「また、救えなかった……」
桜の花びらが消えると、謁見の間には重い静寂が流れた。
クラル王は床にひざまずき、サクラが最後にいた場所で静かに祈りを捧げた。
「安らかに眠れ、サクラ・ミヤモト。お前の苦しみは、もう終わった」
サクラの自滅により、クリムゾン王国全体にかかっていた魅了魔法も解けた。
国王は徐々に意識を取り戻し、自分がしてきたことを理解して愕然とした。
「私は……一体何を……」
「陛下、大且夫です」クラル王が声をかけた。「全ては魔法の影響でした」
国王は震える手で顔を覆った。
「戦争を起こそうとしていた……隣国に宣戦布告まで……」
「まだ間に合います」クラル王は慰めた。「今から撤回すれば、戦争は避けられます」
国王は深く頭を下げた。
「ありがとうございます、クラル王。あなたがいなければ、我が国は破滅していました」
クラル王は国王と共に、戦争回避のための緊急措置を講じた。隣国への謝罪文書の作成、軍備の縮小、そして国内の混乱収拾。
しかし、クラル王の心は重かった。サクラを救うことができなかった無力感が、深く心を蝕んでいた。
三日後、クラル王は静かにクリムゾン王国を後にした。残りは二人。田辺大地と河村雄斗。
しかし、その前に彼は一人になって、深く考える必要があった。力で解決することの限界を、痛いほど感じていたからだ。
「私のやり方は、本当に正しいのだろうか……」
クラル王は馬上で呟いた。救おうとすればするほど、相手は自滅を選んでしまう。これが、救済の限界なのだろうか。
残り二人への対処について、クラル王は新たな方法を模索し始めていた。




