龍族との和平:龍の回廊(最終回)
『はい。ずっと一人でいたから。でも、王子様たちと一緒にいると、とても楽しいです』
ミリリィアは王子の肩に止まった。その小さな体から放たれる純粋な喜びが、空間全体に広がった。
『一人でいる時は、完璧でした。でも……』ミリリィアは小さな声で続けた。『完璧だけど、空っぽでした』
アル=ゼイルの光の繭が微かに震えた。
『空っぽ……だと?』
『はい。誰とも話せなくて、誰とも笑い合えなくて。記憶の泉を見るだけの毎日でした』
ミリリィアは王子の肩から飛び立ち、アル=ゼイルの繭の前に浮かんだ。
『でも、みんなと一緒にいると、心がいっぱいになります。暖かくて、楽しくて、時には悲しくて。でも、それが生きているってことなんですよね?』
アル=ゼイルは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
『ミリリィア……汝は我が最後の純粋なる子だった。その汝が、そのようなことを言うとは……』
『アル=ゼイル様』ミリリィアの声が真剣になった。『私、外の世界を見てみたいんです。王子様たちが作った、人間と龍族が一緒に暮らす世界を』
『それは……汚染された世界だ』
『本当にそうでしょうか?』
今度はネリウスが口を開いた。
『アル=ゼイル様、私たちも最初は不安でした。人間との共存など、本当に可能なのかと。しかし……』
ネリウスの目に温かい光が宿った。
『この五年間で、私たちは多くを学びました。人間の短い命の中に込められた情熱、彼らの持つ無限の好奇心、そして何よりも……』
『愛、ですか』アル=ゼイルが先回りして言った。
『はい。愛です。しかし、それは私たちが思っていたような単純なものではありませんでした』
ネリウスは続けた。
『愛とは、相手を理解しようとする努力です。違いを受け入れる勇気です。時には衝突し、時には誤解し合いながらも、それでも共に歩もうとする意志です』
『そして』王子が加えた。『その過程で、自分自身も成長していく。相手のおかげで、一人では決して到達できない自分になれる』
アル=ゼイルの繭が、今度ははっきりと揺れた。
『汝らの言葉は……我には理解し難い。しかし……』
長い沈黙があった。
『しかし、ミリリィアの瞳に宿る光は、確かに我が見たことのないものだ』
その時、ユリスが前に出た。
「アル=ゼイル様、一つお願いがあります」
『人間の女戦士よ、何だ』
「私たちの記憶を見ていただけませんか?この五年間の、人間と龍族の共存の記憶を」
『汝らの記憶を?』
「はい。言葉だけでは伝わらないことも、記憶なら直接感じていただけるかもしれません」
ユリスは剣を抜いた。しかし、それは攻撃のためではなく、自分の記憶を込めるためだった。龍の回廊では、強い意志と感情を込めた物品は、記憶の媒体となることができるのだ。
「これは、私がこの五年間で経験した全ての記憶です」
剣から淡い光が立ち上った。その光は、ユリスの記憶を映像として空中に映し出した。
最初に現れたのは、龍族がグランベルク王国に初めて訪れた時の記憶だった。互いに警戒し、理解し合えずにいた頃の記憶。
しかし、やがて映像は変化していく。共に訓練する人間と龍族の兵士たち。お互いの技術を教え合う職人たち。そして、子供たちが種族の壁を越えて遊んでいる姿。
『これは……』
アル=ゼイルの声に驚きが混じった。
映像は続く。病気になった龍族の子供を、人間の医師が必死に治療している場面。嵐で倒壊した人間の家を、龍族たちが協力して建て直している場面。
そして、最も印象的だったのは、ある老いた龍族が静かに息を引き取る場面だった。その龍族の周りには、人間と龍族が一緒に集まり、共に涙を流していた。
『彼らは……共に悲しんでいるのか』
「はい」ユリスが答えた。「種族の違いなど関係なく、仲間の死を悼んでいます」
映像はさらに続いた。共に笑い、共に働き、共に学ぶ人間と龍族の姿。それは決して完璧な関係ではなかった。時には衝突し、誤解し合うこともあった。しかし、その度に話し合い、理解し合おうと努力する姿があった。
最後に現れたのは、つい数日前の記憶だった。ドラゴニア領で開かれた祭りの場面。人間と龍族の子供たちが一緒に踊り、歌い、心から楽しんでいる姿。
その子供たちの瞳には、純粋な喜びと、種族の壁など存在しないかのような自然さがあった。
『あの子供たちの瞳は……』
アル=ゼイルの声が震えていた。
『ミリリィアと同じ光を宿している』
「そうです」王子が言った。「彼らにとって、人間も龍族も関係ありません。ただの友達です」
『友達……』
アル=ゼイルがその言葉を反芻した。
『我は、友達というものを持ったことがない』
「それは……寂しいことですね」
『寂しい……』
再び、アル=ゼイルがその言葉を繰り返した。
『我は、寂しいということがどのようなものか、知らなかった』
その時、光の繭にひびが入った。
繭のひびは次第に大きくなり、やがて光が溢れ出した。しかし、それは先ほどまでの冷たい光ではなく、温かい、生命に満ちた光だった。
そして、繭が完全に砕け散った時、そこに現れたのは……
王子たちが想像していたよりも、はるかに美しく、穏やかな表情のアル=ゼイルだった。純白の鱗は相変わらず神々しく輝いていたが、その目には、先ほどまでの冷たさがなく、深い困惑と、そして微かな好奇心が宿っていた。
『これが……我の真の姿か』
アル=ゼイル自身も、自分の変化に驚いているようだった。
『数万年の間、我は完璧であろうとするあまり、己の心を封じ込めていたのかもしれぬ』
『アル=ゼイル様……』ミリリィアが感動の声を上げた。
『ミリリィア』アル=ゼイルの声が、今度は本当に優しかった。『汝の言う通りだった。完璧だけでは、確かに空っぽだった』
アル=ゼイルは王子を見つめた。
『人間の王子よ。いや……アレクサンダーよ』
「はい」
『汝の言葉は、我に多くのことを教えてくれた。真の完璧さとは、他者との関わりの中にあるのかもしれぬ』
王子は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、人間と龍族の共存を……」
『待て』
アル=ゼイルが手を上げた。
『我は、まだその世界を直接見ていない。汝らの記憶だけでは、まだ十分ではない』
王子の心に不安がよぎった。
『故に』アル=ゼイルが続けた。『我も、その世界を見に行こう』
一同が驚いた。
『え?』
『我は長い間、この封印の中にいた。外の世界がどのように変わったのか、この目で確かめたい』
アル=ゼイルは王子を見つめた。
『そして、汝らの築いた世界が真に価値あるものならば……我も、その一員となろう』
『ただし』アル=ゼイルが条件を提示した。『我にも条件がある』
「どのような条件ですか?」
『まず、我は龍族を支配しない。彼らの選択を尊重する』
これは意外な条件だった。王子は思わず聞き返した。
「支配しない、とは?」
『これまで我は、龍族に絶対の秩序を強制してきた。しかし、汝らの言う通り、それは彼らの可能性を奪うものだった』
アル=ゼイルの目に、深い反省の色が浮かんだ。
『今後は、彼らが自らの意思で選択できるようにしたい。我に従うも良し、独自の道を歩むも良し』
「それは……素晴らしい考えです」
『次に』アル=ゼイルは続けた。『我は学習する』
「学習?」
『そうだ。我はこれまで、自分が全てを知っていると思い込んでいた。しかし、汝らの記憶を見て、我にはまだ知らないことが無数にあることを知った』
アル=ゼイルの表情に、初めて謙虚さが現れた。
『人間の文化、龍族と人間の関係、そして……友情や愛について。我は一から学び直したい』
「喜んでお教えします」王子が答えた。
『そして、最後に』アル=ゼイルの声が少し恥ずかしそうになった。『我に……友達を作らせてくれ』
『友達!』ミリリィアが嬉しそうに叫んだ。『私が最初の友達です!』
アル=ゼイルが微笑んだ。その笑顔は、数万年ぶりの、心からの笑顔だった。
『ありがとう、ミリリィア。そして……』
アル=ゼイルは王子を見つめた。
『アレクサンダー、汝も我の友となってくれるか?』
「もちろんです」王子も微笑んだ。「喜んで」
ネリウスが感動で涙を流していた。
『アル=ゼイル様……長い間、この日を夢見ていました』
『ネリウス、汝には迷惑をかけた。許してくれ』
『とんでもございません。むしろ、私たちの方こそ……』
『過去のことは忘れよう』アル=ゼイルが優しく言った。『大切なのは、これからだ』
『さあ』アル=ゼイルが立ち上がった。『外の世界に行こう。我は、汝らの築いた世界を見てみたい』
『でも、どうやって現実世界に?』ミリリィアが心配そうに言った。『私、ずっとここにいたから、帰り方がわからないんです』
「大丈夫です」王子が答えた。「僕たちが一緒に帰りましょう」
アル=ゼイルが手を上げると、周囲の空間が変化し始めた。
『我の力で、現実世界への扉を開こう』
巨大な光の扉が現れた。その向こうに、ドラゴニア領の神殿が見えた。
『行こう』
一行は扉をくぐった。最初にネリウス、次にユリスと騎士たち、そして王子とミリリィア、最後にアル=ゼイルが続いた。
ドラゴニア領の神殿に戻ると、そこには心配そうに待っていたドラコニス・レックスと他の上級龍たちがいた。
「おかえりなさい、アレクサンダー王子!」レックスが安堵の声を上げた。「無事でしたか?」
「はい、無事です。そして……」
王子が振り返ると、アル=ゼイルが姿を現した。
神殿内に緊張が走った。上級龍たちは一瞬身構えたが、アル=ゼイルの穏やかな表情を見て、困惑した。
『我が子らよ』アル=ゼイルが優しく語りかけた。『長い間、汝らに迷惑をかけて申し訳なかった』
「アル=ゼイル様……」ガラードが震え声で言った。「お許しください、私たちは……」
『汝らは正しいことをした』アル=ゼイルが遮った。『我こそが間違っていたのだ』
『これからは』アル=ゼイルは続けた。『汝らの選択を尊重する。我と共に歩むも良し、独自の道を選ぶも良し』
フリギアが涙を流していた。「アル=ゼイル様……私たちは、ただ……」
『わかっている』アル=ゼイルが微笑んだ。『汝らは、より良い世界を作りたかっただけだ。そして、それを成し遂げた』
その日の夕方、一行はグランベルク王国の首都カストラムに向かった。
アル=ゼイルは人化形態を取って同行した。その姿は、白い髪と金色の瞳を持つ、威厳ある老人の姿だった。しかし、その表情には穏やかさと好奇心が宿っていた。
ミリリィアは王子の肩に止まったまま、目をきらきらと輝かせて外の世界を見回していた。
『わあ、建物がいっぱい!人間の街って、こんなに賑やかなんですね』
「まだまだこれからです」王子が笑った。「王宮に着いたら、もっと驚くと思いますよ」
王宮に到着すると、クラル王とエリザベス王妃、そしてイザベラ王女が出迎えた。
「アレクサンダー!」
エリザベス王妃が息子を抱きしめた。
「おかえりなさい。心配しました」
「ただいま、母上。約束通り、和平を守って帰ってきました」
クラル王は、アル=ゼイルを見つめていた。豊穣神としての直感で、この老人が只者ではないことを感じ取っていた。
「こちらは?」
「父上、紹介します。アル=ゼイル様です。龍族の……」
「創造神だ」クラル王が静かに言った。「その力、その威厳……間違いない」
アル=ゼイルが軽く頭を下げた。
「グランベルク王よ。息子の世話になった」
「息子?」
「今日から、アレクサンダーは我の友だ」アル=ゼイルが微笑んだ。「初めての友なのだ」
クラル王は一瞬驚いたが、すぐに微笑み返した。
「それは光栄です。我が息子と友達になってくださって、ありがとうございます」
『あの、あの』ミリリィアが遠慮がちに声をかけた。『私はミリリィアです。よろしくお願いします』
イザベラ王女の目が輝いた。
「わあ、小さな龍さん!かわいい!」
『えへへ、ありがとうございます』ミリリィアが嬉しそうに答えた。
その夜、王宮では歓迎の晩餐会が開かれた。
大きなテーブルに、人間と龍族が一緒に座った。アル=ゼイルは全てが新鮮らしく、人間の料理や文化について次々と質問した。
「これは何という料理だ?」
「ローストビーフです」ユリスが答えた。「牛肉を焼いたものです」
「ほう、人間は肉を火で調理するのか。興味深い」
アル=ゼイルが一口食べて、目を見開いた。
「美味い!この味の複雑さは、龍族の料理にはないものだ」
『私も食べてみたいです』ミリリィアが言った。
「君は小さいから、少しずつね」王子が小さく切って差し出した。
『おいしい!』ミリリィアが嬉しそうに羽をばたつかせた。
晩餐会は和やかに進んだ。アル=ゼイルは、人間の子供たちの話を聞いて感動し、龍族の若者たちの夢について語り合った。
「アル=ゼイル様」イザベラ王女が無邪気に尋ねた。「お友達がいなくて、寂しくなかったんですか?」
アル=ゼイルは少し考えてから答えた。
「寂しいということが何なのか、わからなかった。でも、今思えば……とても寂しかったのかもしれない」
「でも、もう大丈夫です」イザベラが笑った。「お兄様がお友達になってくれたから」
「そうだな」アル=ゼイルも笑った。「もう寂しくない」
それから数日後、空の裂け目は完全に消失した。
アル=ゼイルの封印が解かれ、龍族の集合的記憶が正常に戻ったことで、世界の均衡が回復したのだ。
同時に、龍族の中で起こっていた「秩序への回帰」の動きも収まった。アル=ゼイル自身が変化を受け入れたことで、他の龍族たちも安心して新しい生活を続けることができるようになった。
アル=ゼイルは王宮の一室を与えられ、そこで人間の文化を学ぶ生活を始めた。毎日、アレクサンダー王子から人間の歴史や文化について学び、時には街に出て実際に人々の生活を観察した。
ミリリィアは王宮の庭園を住処として、イザベラ王女の遊び相手となった。長い間一人でいた彼女にとって、無邪気な王女との時間は何物にも代え難い宝物だった。
そして、一ヶ月後。
アル=ゼイルは正式にグランベルク王国の名誉顧問として迎えられ、人間と龍族の更なる協力関係構築に貢献することとなった。
「アル=ゼイル様」ある日、王子が尋ねた。「人間の世界はいかがですか?」
「素晴らしい」アル=ゼイルが心からの笑顔で答えた。「毎日新しい発見がある。毎日成長できる。これほど刺激的な世界があったとは」
「そして何より」アル=ゼイルは続けた。「友達がいるということが、どれほど素晴らしいことか」
王子も微笑んだ。
「僕も、アル=ゼイル様と友達になれて嬉しいです」
『私も、私も!』ミリリィアが飛んできた。『みんなでお友達になれて、とっても嬉しいです』
三人は一緒に笑った。
その笑い声は、新しい時代の始まりを告げる、希望に満ちた音色だった。
それから一年後。
グランベルク王国は、真の多種族王国として新たな発展を遂げていた。
人間、新グランベルク人、龍族、そして伝説の創造神までもが共に暮らす、世界でも類を見ない国家となっていた。
アレクサンダー王子は18歳となり、王位継承の準備を本格的に進めていた。龍の回廊での経験により、彼の統治者としての資質はさらに磨かれ、多種族間の調整役として高い評価を得ていた。
アル=ゼイルは、もはや完全にグランベルク王国の一員となっていた。人間の文化を学ぶうちに、彼自身も大きく変化し、かつての冷たい完璧主義者ではなく、温かく好奇心旺盛な存在となっていた。
ミリリィアは相変わらずイザベラ王女の親友で、時には王宮の中を追いかけっこして回り、時には一緒に昼寝をする日々を過ごしていた。
そして、空にはもう裂け目は存在せず、澄み切った青空が王国に平和をもたらしていた。
「父上」ある日、王子がクラル王に尋ねた。「僕は、良き王になれるでしょうか?」
「お前は既に、良き王の資質を示している」クラル王が答えた。「異なる存在同士を理解させ、対立を対話で解決し、そして何より……」
クラル王は息子を見つめた。
「誰とでも友達になれる心を持っている。それこそが、真の王の資質だ」
王子は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。僕は、みんなが幸せに暮らせる王国を作ります」
「期待している」
その時、窓の外から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
中庭では、イザベラ王女とミリリィア、そしてアル=ゼイルが一緒に遊んでいた。かつて完璧な孤独を好んだ創造神が、今では無邪気に子供たちと戯れている姿は、まさに奇跡的な光景だった。
「本当に……素晴らしい世界になりましたね」エリザベス王妃が微笑んだ。
「ああ」クラル王も微笑み返した。「これが、アレクサンダーが築いた未来だ」
そして、グランベルク王国の新しい伝説が、今日もまた一ページずつ綴られていく。
人間と龍族と神が共に笑い、共に学び、共に成長する、史上類を見ない王国の物語として。




