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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
テオドールの章

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四十八話:過去からの亡霊と予兆

冬の終わりを告げる風が、ヴェリスフォート王国の上空を吹き抜けていた。透き通るような青空の下、薄い雲が風に流され、遠い東の地平線の向こうへと消えていく。城塞のように聳え立つヴェリスフォート王宮の高い窓辺に、一人の男が物思いにふける姿があった。窓から差し込む光は彼の厳格な横顔を浮かび上がらせ、その影が大理石の床に長く伸びていた。


カシミール・ヴェルナーは窓から遠くを眺め、眉間に深い皺を刻んでいた。王国の宰相としての威厳を漂わせる深緑色の正装に身を包み、かつての青年の面影は残しつつも、35歳という年齢に相応しい落ち着きと貫禄を身につけていた。彼の瞳は氷のように冷たく澄み、かつてヴェリスフォード魔法学校で「氷の青年」と称された水の魔法使いの素質を今も感じさせる。彼の指先からは、常に微かな水の魔力が漏れ出ており、近くの空気を僅かに湿らせていた。


彼の視線は東の方角、遥か彼方のヘルム峡谷へと向けられていた。そこには不穏な気配が漂い始めている。この半年、カシミールの元には次々と奇妙な報告が届いていた。最初は軽視していた現象が、今では無視できないほど明確になっていた。


窓の外では、王都の日常が穏やかに続いていた。石畳の通りを行き交う人々、市場での商人たちの声、子供たちの笑い声。しかし、そんな平和な日常とは裏腹に、カシミールの心は暗い予感に満ちていた。彼は国の宰相として、民が知らない多くの情報を抱え込んでいた。その重みが、彼の眉間の皺を深くしていたのだ。


扉が静かに開き、秘書官のレイモンドが恭しく部屋に入ってきた。彼は銀のトレイに載せた書類を持ち、カシミールに近づいた。レイモンドは50代と思われる痩せ型の男性で、長年の仕事で培われた正確さと忠誠心を持っていた。彼の灰色の制服は常に完璧に整えられ、その動きには無駄がなかった。


「ヴェルナー卿、最新の報告書です」レイモンドは静かで落ち着いた声で言った。彼の声には長年の経験が感じられる確かな重みがあった。


カシミールは黙って頷き、秘書が差し出した書類の束を受け取った。優雅な指使いで書類を広げ、内容を黙読する。その表情が徐々に硬くなっていく。報告書には、この数ヶ月でヘルム峡谷周辺で観測された異常現象の詳細が記されていた。冒頭には、オルデンヴェイル砂漠地方司令官からの公式報告のエンブレムが印されていた。


黒い霧の発生。日中にもかかわらず周囲が暗くなる現象。異様に高い気温と、それとは対照的な極度の寒気が交互に襲う不安定な気象。峡谷に近づく鳥や小動物が忌避するかのように逃げ去る生態系の乱れ。近隣の井戸水が一晩で干上がる現象。そして、何より気がかりだったのは、峡谷周辺に住む村人たちの間で広がる悪夢の噂だった。


報告書には、地方司令官が直接インタビューした村人たちの証言が記録されていた。エルフ・クロッシングの村のパン屋の証言:「夢の中で、誰かが私を呼んでいる声が聞こえるんです。怒りに満ちた声で、助けを求めているような...」。リトル・ヘイブンの農夫の証言:「黒い火が大地を覆い尽くす夢を見ました。その火は生き物のように動き、私を追いかけてくるんです」。サリアンの占い師の証言:「夢の中で見たのは、六つに分かれた体が、再び一つになろうとする姿です...」。


「同じ悪夢を見るようになったと...」カシミールは呟いた。彼の声には疲れと懸念が混ざっていた。「黒い炎に包まれた何かが目覚める...か」


カシミールはページをめくり、報告書の添付資料に目を通した。そこには峡谷周辺の地図が広げられ、異常現象の発生地点が赤い印で示されていた。それらの印は、まるで何かのパターンを形作るかのように分布していた。彼は地図を見つめ、その模様を理解しようと努めた。


報告書の最後には、王立魔法学院から派遣された心理学者や魔法研究者によるコメントが添えられていた。「集団的な暗示の可能性も否定できないが、魔力の残滓による影響が考えられる」と。さらに詳細な分析では、「これらの現象は単なる自然現象ではなく、意識的な何かが引き起こしている可能性が高い」と記されていた。


「オルデンヴェイルからの報告はあるか?」カシミールは振り返って秘書に問うた。その瞳に映るのは真摯な懸念だった。彼の声は冷静を装っていたが、わずかな緊張が感じられた。


「はい」レイモンドは別の書類を取り出した。彼の動きは常に静かで正確だった。「アゼルム遺跡からの黒い霧の発生が拡大しています。周辺住民は避難を始めました。遺跡周辺のサキュバス、インキュバスの活動も活発化しており、この一ヶ月で目撃情報が倍増しています」


彼は一瞬躊躇った後、続けた。「また、遺跡から約50マイル以内の地域では、昼夜の区別が曖昧になる現象が報告されています。日中でも薄暗く、夜になっても完全に暗くならないという...」


カシミールは再び窓辺に立ち、東の方角を見つめた。アゼルム遺跡——10年前、黒狼団討伐作戦の前に、あるかつての同級生が調査していた場所だった。古代文明の残骸とされ、多くの魔法研究者が調査に訪れていたが、誰も真の意味を解き明かせていなかった場所。


テオドール・ワーグナー。


その名を思い出すだけで、カシミールの心には複雑な感情が渦巻いた。あの男の行方は知らない。ただ、黒狼団討伐作戦が失敗し、多くの優秀な魔法使いが命を落としたことだけは事実だった。アルフレッド王の遠征に同行したテオドールも、その作戦の後、姿を消したままだった。


「戦場から戻ってきたのは...」カシミールは思わず声に出した。「リディア姫、シルビア・ローム、そしてルーカス・フェン...テオドールの消息は誰も知らない...」


カシミールは過去の記憶に浸りながらも、現在の危機に対処しなければならなかった。彼は気を取り直し、秘書官に向き直った。


「父上に報告を上げろ」カシミールは決然と命じた。「それと、サンクトゥス神聖連合国の使者、イリス・セイントクレアとの面会を早めるよう手配してくれ。彼女の預言的直感が、今我々に必要だ」


レイモンドは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに平静を取り戻した。「わかりました。彼女は今朝王都に到着したと連絡がありました。既に宮殿内のゲストルームでお休みです」


カシミールは僅かに眉を上げた。「既に到着しているとは...やはり彼女も何かを感じ取ったのだろう」彼は窓の外を見て、静かに言った。「それなら、午後には会えるだろう。準備を頼む」


レイモンドは深々と頭を下げ、静かに部屋を後にした。


窓ガラスに映るカシミールの表情は厳しさを増していた。彼は水の魔法使いだったが、今感じているのは不吉な炎の気配だった。10年もの歳月を経て、過去の亡霊が今、再び蘇ろうとしているのだろうか?


ヴェリスフォート城の謁見の間は、歴史を刻む古い絨毯とゴブラン織りの壁掛けで彩られていた。高い天井からは水晶のシャンデリアが下がり、その光が部屋全体を柔らかく照らしている。窓から差し込む日差しは、床の大理石に美しい模様を描いていた。その壮麗な空間には、王国の繁栄と勝利を称える歴史的場面が描かれ、過去の栄光を今に伝えていた。


広間の両側には、鎧を身につけた衛兵たちが整然と並び、動かざる守護者のように立っていた。彼らの鎧は磨き上げられ、陽光を反射して輝いていた。壁に立てかけられた槍の先端は鋭く研がれ、いつでも国の防衛に備えていた。


南からやって来たイリス・セイントクレアは、その荘厳な空間で、威厳に満ちた姿でカシミールを待っていた。聖女の異名を持つ彼女は、サンクトゥス神聖連合国の預言者としての地位を持ち、各国の王家から尊敬を集めていた。彼女の予言的直感は長年にわたり証明され、時に国や民を救う役割を果たしてきた。


イリスの姿は一目見ただけで、その特別さを感じさせるものだった。白金色の長い髪は光を宿したように輝き、その端正な顔立ちは人間離れした美しさを湛えていた。白と金の装束に身を包んだその存在感は、部屋全体を神聖な雰囲気で満たし、彼女の周りには微かな光の粒子が浮遊しているようにさえ見えた。その瞳は澄んだサファイアのような青色で、見る者の心の奥まで見透かすような鋭さを持っていた。


イリスの傍らには二人の侍女が控えていた。彼女たちも白と金の衣装を身につけ、敬虔な態度で聖女に仕えていた。一人は『光の書』と呼ばれる古い聖典を持ち、もう一人は祈りの道具を収めた小さな箱を抱えていた。


カシミールが謁見の間に入るとき、イリスは窓辺に立ち、東方を見つめていた。彼女は物思いに耽るように静かな表情をしていたが、カシミールの足音に気づき、ゆっくりと振り返った。


「ヴェルナー卿、お目にかかれて光栄です」


イリスは静かに挨拶した。その声は柔らかくも力強く、聞く者の心に直接語りかけるような響きを持っていた。彼女の声には不思議な力があり、聞く者に安心感と同時に畏怖の念を抱かせた。


カシミールは丁重に頭を下げた。「こちらこそ、セイントクレア様。急なご来訪に感謝します」彼の声には敬意と共に、切迫した状況への認識が滲んでいた。


形式的な挨拶を交わした後、二人は前に用意された席に着いた。イリスの侍女たちは静かに後退し、部屋の隅に控えた。侍従たちが退室し、二人きりになると、イリスの表情はより真剣さを増した。


「私が来た理由はお察しでしょう」イリスは穏やかに言った。彼女の声は低く、まるで秘密を共有するかのようだった。彼女の表情は厳粛で、眉間にはわずかな懸念の影が見えた。


「ヘルム峡谷の異変についてでしょうか」カシミールは直接的に答えた。彼は水晶のグラスに注がれた水に触れ、わずかに含まれる魔力の流れを感じながら、イリスの反応を観察した。


「はい、しかしそれは表面的な現象に過ぎません」イリスの瞳が深い洞察に満ちて光った。「真の問題は...魔王の誕生の可能性です」


彼女は言葉を選ぶように一瞬躊躇した後、続けた。「私たちの神殿では、毎夜同じ夢を見る僧侶が増えています。黒い炎に包まれた存在が目覚め、その怒りで世界が燃え上がる映像です。これは単なる悪夢ではなく、預言的な示唆と考えています」


カシミールは思わず身を乗り出した。「魔王?」彼の声には驚きと不信が混じっていた。魔王とは古い伝説の中の存在、あるいは子供を脅すための物語の登場人物でしかないと思っていた。それは古代の書物や伝承に登場する存在であり、現代においては象徴的な概念として扱われることが多かった。


「魔王」という言葉自体が、カシミールの頭の中で違和感を持って響いた。彼は教育者たちから、魔王とは古代の人々が自然災害や疫病を人格化したものだと教わってきた。しかし、彼の前に座る聖女の表情は、それが単なる迷信ではないことを物語っていた。


イリスは小さく頷き、懐から取り出した古い羊皮紙を注意深く広げた。羊皮紙は年代を感じさせる黄ばみと、端の部分のわずかな劣化が見られたが、それに書かれた文字は不思議とはっきりと残っていた。文字は古代語で書かれており、カシミールにはその一部しか読み取れなかった。


「これは、私たちの神殿に伝わる預言の一部です」イリスは謹厳な表情で言った。彼女の指が羊皮紙の上を丁寧になぞった。「『深き怒りを持つ者、分断されし体は集められ、黒き城に眠る。十の冬を経て、彼は目覚め、怒りの炎で世界を焼き尽くさん』」


彼女は言葉を区切りながら朗読し、その声は次第に力強さを増していった。朗読が終わると、部屋の空気が重く沈んだような感覚があった。


カシミールはその言葉を反芻した。古い言い回しながらも、意味するところは明確だった。「これが...ヘルム峡谷の異変と関係しているのですか?」彼の声は静かだったが、内心では様々な考えが渦巻いていた。


「はい。預言は明確です。そして時期も一致しています」イリスの青い瞳が真剣さを増した。「『十の冬を経て』...今年でちょうど10年です」


カシミールは椅子の背に深く身を沈め、考え込んだ。10年前——黒狼団討伐作戦が失敗した年だった。その年にテオドール・ワーグナーが姿を消した。しかし、その詳細は機密扱いとなり、公式には「作戦は部分的に成功し、黒狼団は弱体化した」という発表だけがなされていた。実際には、多くの犠牲者を出し、ヴォルフという最大の敵は依然として生き残っていたのだ。


カシミールの記憶の中で、テオドールの姿が浮かび上がった。魔法学校時代の彼は、常に周囲と一定の距離を保ち、冷静で理知的な印象を与える男だった。しかし、その内側には誰にも真似できない情熱と、時に恐ろしいほどの怒りが潜んでいた。彼の「ファイアペイン」と呼ばれる魔法は、炎に痛みの要素を加える残酷なものだったが、彼はそれを常に正義のために使うと主張していた。


「この魔王とは...具体的に誰のことなのでしょうか?」カシミールは慎重に尋ねた。彼の声は静かだったが、内心では既に答えを恐れていた。頭の中で様々な可能性が浮かんでは消えていった。


イリスは慎重に言葉を選び、彼を見つめた。「預言は名前を明かしていません。しかし、強い怒りを抱いたまま失われた者についての言及があります。その者は『分断され』、そして『集められる』とあります」


彼女は羊皮紙を閉じると、静かに続けた。「さらに、『彼の怒りは正しきものより始まり、歪められし後も消えることなし』と。過去に深い不正を受け、その怒りが歪められた者...それが誰であるかは、預言は直接語っていません」


イリスの表情から、彼女も何か具体的な名前を想像していることは明らかだった。だが、確証がない以上、軽々しく名前を口にすることは避けているようだった。


カシミールは立ち上がり、窓辺へと歩いた。「10年前の作戦で、我々は多くのものを失いました」彼は遠い目をして言った。「しかし、最も大きな損失は...」


その時、謁見の間の扉が唐突に開かれ、小柄な女性が駆け込んできた。それはアイリス・エルマリアだった。彼女の顔は汗で光り、息を切らせていた。彼女の緑色の服は旅の塵で汚れており、普段整えられているはずの褐色の髪も乱れていた。


「すみません、無断で入ってしまって...」アイリスは肩で息をしながら言った。彼女の緑色の瞳は恐怖と焦りで大きく見開かれていた。「でも、これは重要なことなんです。ヘルム峡谷の色が変わりました。赤と黒の渦...これは、10年前に見た色なんです」


彼女の声には切迫感があり、その手は小刻みに震えていた。「それだけではありません。昨夜、渦の中心から光が放たれました。それは空高く上り、そして東へ、オルデンヴェイルの方角へと向かいました」


カシミールとイリスは互いに視線を交わし、同じ結論に達したようだった。イリスは立ち上がり、アイリスに近づいた。


「エルマリア様、詳しく説明していただけますか?あなたの『色』を見る能力は、今この状況で非常に重要です」


アイリス・エルマリアは、10年前の黒狼団討伐作戦後、故郷の小さな村サリアンで薬草師として静かに暮らしていた。村はヘルム峡谷から遠くない場所にあり、丘陵地帯の肥沃な土壌に恵まれた農村だった。彼女の持つ魔法の「色」を見る特殊能力を活かし、植物の持つ力を読み取り、村人たちの病を癒やしていた。


彼女の能力は、目に見えない魔力の流れを色として認識するという稀有なものだった。植物の持つ治癒の力は彼女の目には優しい緑や柔らかな青に見え、病気の毒は不快な黄色や茶色に見えた。この能力で彼女は、どの植物がどの病に効くかを正確に見分けることができた。また、人の感情や意図も色として見ることができ、嘘をつく人の周りには灰色がかった霧のようなものが見えた。


アイリスはかつて魔法学校時代、この能力ゆえに「色彩の魔女」と呼ばれ、特殊能力研究の対象となっていた。彼女自身は目立つことを好まず、卒業後は静かな生活を選んだのだった。しかし今、その能力が再び必要とされていた。


彼女が暮らす小さな石造りの家は、村の外れにあり、周囲にはハーブガーデンが広がっていた。窓際には様々な瓶や乾燥ハーブが並び、部屋の中央には古代のエルマリア文字で書かれた本が積み重ねられていた。壁には彼女が描いた色彩の図表が貼られており、それぞれの色が持つ意味や効能が細かく記されていた。


彼女の日常は平穏なものだった。朝は日の出と共に起き、ハーブガーデンの手入れをし、村人たちの健康相談に応じる。午後には森へ出かけ、新しい薬草を探す。夕方には集めた薬草を調合し、薬や軟膏を作る。そんな日々を送っていた。


しかし半年前から、彼女は東の方角から不穏な色彩を感じるようになっていた。最初は微かだった赤と黒の混ざった色彩が、日に日に強くなっていった。それは渦を巻くように動き、時に燃え上がる炎のように見え、時に深い闇のように見えた。


「かつて学生時代に、ある人の魔法に見た色...でも、もっと強く、もっと暗い」


彼女はその色を見るたびに、魔法学校時代の記憶が蘇った。テオドール・ワーグナーの「ファイアペイン」——炎に痛みの魔力を付与する魔法。その魔法は彼女の目には深い赤と黒の混合色に見えた。しかし今見えているのは、その色彩がより強烈に、より不吉になったものだった。


アイリスは心配になり、古代エルマリア語の本を調べ始めた。彼女の家系は代々、色彩感知の能力を持ち、古代からその知識を受け継いできた。祖母から受け継いだ古い革表紙の本の中に、「黒き炎の誕生」についての記述を見つけたのだ。


それには、「強き恨みを抱きし者、分断されても力失わず。怒りは成長し、黒き炎となりて再び立ち上がる」と書かれていた。また、「色彩の変化は魂の変化を反映する。黒き炎の背後には、純白の核が隠されていることを忘れるなかれ」という謎めいた一文もあった。


恐れを抱きながらも、アイリスは決意を固め、王都へと向かった。彼女は麻のシンプルな旅装束を身にまとい、古代エルマリア語の本を手に、馬車を利用して数日かけてヴェリスフォートに到着したのだった。途中、何度も不吉な色彩の渦に怯えながらも、彼女は使命感に突き動かされるように旅を続けた。


「二人とも、非常に懸念されているようですね」カシミールは二人の女性を見た。彼の表情は冷静だったが、内心では不安が高まっていた。彼はアイリスの能力を知っており、彼女が見る「色」が単なる幻覚ではないことを理解していた。


アイリスは頷いた。彼女の顔は疲労の色を帯びていたが、その瞳は強い決意に満ちていた。「この色彩は...生きている者の色ではありません。何か別のものです。魔法の残響、あるいは遺物からの発現かもしれません」


彼女は窓際の光の中で、今見えている色彩を描写するように手を動かした。「それは炎のように揺らぎ、しかし炎よりも暗く、より密度が高い。通常の魔法なら、発動した後は薄れていくものですが、これは日に日に強まっています」


彼女の手がリズミカルに動き、空間に色彩を描き出すような仕草をした。「今朝、サリアンを出る前、ヘルム峡谷の方向を見たとき、その色彩は巨大な黒い太陽のように見えました。そして、その黒い太陽から一筋の光が東へ向かって伸びていったのです」


「詳しく説明していただけますか?」カシミールは彼女に促した。彼の声は穏やかだったが、その目は鋭く焦点を合わせていた。


アイリスは古代エルマリア語の本を開き、部屋の中央のテーブルに置いた。黄ばんだページには複雑な図式と、流れるような優美な文字が記されていた。彼女はページをめくりながら適切なページを探し、ついに見つけると指で示した。


「この本によると、強い感情が刻まれた場所や物には、その感情自体が残り続けることがあるそうです」彼女は真剣な表情で語った。「特に深い怒りや恨みは、時として魔法的現象を引き起こすと...」


彼女の指が本の一節を辿る。「『怒りと魔力が融合すれば、その者の意思は死後も存続し得る』と書かれています。また、『分断されしものは、再び一つになろうとする性質を持つ』とも」


彼女は別のページを開き、そこに描かれた図を示した。それは六つの点が一つの中心に向かって集まっていく様子を表していた。「また、ここには『六つに分かれしものが再び一つになる時、黒き炎は最も強く燃え上がる』とあります。私たちの先祖は、これを『怨霊の再生』と呼んでいました」


イリスが付け加えた。「そして預言によれば、『十の冬を経て』...今年でちょうど10年」彼女の声には重みがあった。「かつて存在した強大な力が、再び形を成そうとしている可能性があります」


アイリスは少し躊躇った後、続けた。「それだけではありません。昨夜、私は奇妙な夢を見ました。その夢の中で、ヘルム峡谷に埋められていた何かが掘り起こされ、東へと運ばれていく様子を...それは人間の体の部位のようでした」


カシミールは深く息を吸い込んだ。彼はテーブルに両手をつき、頭を垂れた。彼らは皆、10年前にヘルム峡谷で失われた魔法使いを思い浮かべていたが、その名前は口にしなかった。テオドール・ワーグナー——かつての同級生であり、恐るべき魔法の使い手。彼は本当に死んでいなかったのか?あるいは、彼の怒りと恨みが形となって復活しようとしているのか?


「我々は何をすべきか...」カシミールは自問するように呟いた。彼の声は静かだったが、部屋の重い空気の中で明確に響いた。


イリスは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。「これが預言通りのことなら、我々には準備が必要です。黒き炎の力は強大ですが、必ずしも全てを破壊するとは限りません」彼女は振り返り、二人を見つめた。「預言には、『白銀の水と金色の風が合わさるとき、黒き炎は浄化されん』とも記されています」


「水と風...」カシミールは呟いた。彼自身が水の魔法使いであり、リディア姫が風の魔法使いだった。彼らは意味深な視線を交わした。


アイリスは本をさらにめくり、別の図を示した。そこには色彩の変化を表す図式が描かれていた。「また、この本によれば、強い怒りから生まれた色彩には必ず正反対の色彩が存在するとされています。黒い炎には、純白の輝きが...」


その時、また一人の人物が部屋に入ってきた。それはヴェリスフォート・オラクルの主任記者、セリア・ウィンターブルームだった。彼女は40代と思われる落ち着いた雰囲気の女性で、知性の光る眼差しを持っていた。洗練された深緑色のスーツを着こなし、その姿からは長年のジャーナリスト経験に裏打ちされた威厳が感じられた。


「失礼します」セリアは静かな声で言った。彼女の声は落ち着きがあり、どこか心地よい響きを持っていた。「重要な情報を持ってまいりました。ヘルム峡谷で、アイアンアントたちが何かを運び出しているのです。目撃者によれば...それは人間の体のように見えたそうです」


部屋の空気が凍りついた。四人は互いの顔を見合わせ、言葉にならない恐怖を共有した。過去の亡霊が、ついに動き出したのだ。


セリア・ウィンターブルームは、インクの香りのする紙の束を取り出した。それはヴェリスフォート・オラクル紙の未発行記事の原稿だった。彼女は記者としての鋭い直感で、この情報が公になる前に、まず当局に知らせるべきだと判断したのだ。


「これは、昨日ヘルム峡谷の周辺で取材を行っていた我が社の記者から届いた報告です」セリアは説明した。彼女の声は静かながらも、その内容の重大さを伝えるように張りつめていた。「リトル・ヘイブンの住民たちが目撃したのは、数百匹ものアイアンアントが一斉に同じ方向に向かって動いている光景でした」


彼女は報告書を広げ、添付された粗い素描を示した。そこには、列をなして何かを運ぶアイアンアントの群れが描かれていた。「アイアンアントは縄張り意識が強く、軍隊で行動することはありません。しかし現在、彼らは明らかに協調して動いています。そして、彼らが運んでいるものは...」


セリアは一瞬言葉を切り、深呼吸をした。「目撃者の証言によれば、人間の腕、脚、そして頭部のように見えるものだったそうです。それらは慎重に扱われ、すべて同じ方向——オルデンヴェイルへと運ばれていったとのことです」


カシミールは青ざめた顔で窓際に立ち、東の方角を見つめた。「テオドール...」彼の口から無意識にその名前が漏れた。


「私たちの予想通りです」イリスは静かに言った。「『分断されしものが集められる』...預言は現実となりつつあります」


アイリスは震える手で古い本のページをめくり、色彩の記録を探した。「私が10年前に見た色...テオドールの魔法の色は、赤と黒の混合でした。しかし、その中心には常に小さな白い光があったのです。それは彼の根本にある正義感と善意の現れだと思います」


彼女は窓から差し込む光の中で手を動かし、空中に色彩を描くかのようにした。「今、ヘルム峡谷から広がる色彩は、その白い光が見えません。ただ怒りと憎しみの色だけが渦巻いています。これは...テオドールの魂が歪められている証拠かもしれません」


セリアが咳払いをして、全員の注目を集めた。「もう一つ、重要な情報があります」彼女は別の報告書を取り出した。「オルデンヴェイルで建設中の『黒き城』とされる建造物から、奇妙な儀式の音が聞こえるようになったそうです」


「我々は行動を起こさなければならない」カシミールは決断を下した。彼の声は冷静さを取り戻し、指揮官としての威厳に満ちていた。「イリス様、預言のさらなる解釈をお願いします。アイリスさん、あなたの色彩感知の能力が必要です。そして、セリアさん...」


彼は記者の方を向いた。「この情報は一般には公開しないでください。パニックを避けるためです。代わりに、ヘルム峡谷とオルデンヴェイル周辺に旅行者向けの警告を出してください。危険地域として立ち入りを制限する...という形で」


セリアは理解を示して頷いた。「わかりました。オラクル紙はできる限り協力します」


カシミールは窓辺から離れ、部屋の中央に戻った。「そして、私はリディア姫に連絡を取り、共にオルデンヴェイルへ向かいます。『白銀の水と金色の風』...私たちが何かできるかもしれません」


彼は一瞬躊躇った後、続けた。「それと、エルグレイン王国のシルビア・ロームにも連絡を取りましょう。彼女こそが、この事態の核心を知っているはずです」


部屋の中で決意が固まりつつあった時、扉が再び開いた。衛兵が息を切らせて駆け込んできた。


「ヴェルナー卿!緊急報告です!」衛兵は深く頭を下げ、言葉を続けた。「オルデンヴェイルの方角から、巨大な黒い雲が発生しています。それは通常の気象現象ではなく、魔力を帯びているようです」



カシミールとイリスは窓辺に駆け寄り、東の空を見た。遥か遠くではあったが、確かに不自然な暗雲が立ち上っていた。それは通常の雲よりも濃く、光を吸収するかのように黒かった。


「時間がない」イリスの表情に焦りが浮かんだ。「『彼の力が天に達する時、破壊は始まる』...預言はそう警告しています」


カシミールは決然と命じた。「直ちに準備せよ。我々はオルデンヴェイルへ向かう。魔法学院の最精鋭を集め、王国騎士団にも準備を命じろ」


彼は窓の外を見つめながら、「...テオドール...お前は本当に敵となったのか...」

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