盤上の遊戯138: 勝利の後の沈黙
光の要塞が天の彼方へと消え去った後、世界には完全な沈黙が訪れた。天使軍を退け、地上世界の完全な支配権を握ったアスモデウス。彼の勝利を讃える悪魔たちの雄叫びさえも、やがて止み、ただ風が廃墟を吹き抜ける、うら寂しい音だけが残った。戦いは、終わったのだ。あまりにも、あっけなく。
「……静かすぎる」
万魔殿の玉座の間で、アスモデウスは深いため息をついた。彼の前には、ベリアルが集計した完璧な勝利の報告書が置かれている。天使軍の完全撤退、地上世界の制圧完了、そしてサタン軍さえも彼の戦略の一環として機能し、今は南の火山帯で次の破壊衝動を溜めているという事実。全てが彼の計算通りだった。だが、完璧すぎる勝利は、彼にとって退屈以外の何物でもなかった。
しかし、彼の心は勝利の喜びに満たされるどころか、次なる「遊戯」への、尽きせぬ渇望に駆られていた。
「舞台から、最も手強い役者が消えてしまっては、劇にならんではないか」
彼は、傍らに置かれた**『逆転の書』**を、まるでチェスの駒を弄ぶかのように、その指先でなぞった。天使という強大な敵を退けた今、彼の好奇心は、この禁断の魔導書が持つ、未知の可能性へと完全に向いていた。
新たな脚本、悪趣味な劇場
「ベリアルよ」
「はっ」
「この世界は、あまりにも結末が見え透いてしまった。……少しばかり、脚本に『手直し』を加えることにしよう」
アスモデウスの深紅の瞳が、邪悪な輝きを放った。彼は玉座の間で『逆転の書』を手に取り、その禁断の力を使って、この終末の世界を自らの悪趣味な劇場へと作り変える、新たな計画を練り始めた。
「勝利は確定した。ならば、次は『美しさ』を追求しようではないか」
彼の言う「美しさ」とは、調和や善性とは全く無縁の、悪魔的な美学であった。悲劇が、より悲劇的に。絶望が、より絶望的に。そして、救いようのない魂が、最も美しい形で砕け散る様。
主役女優への最初の『演出』
**彼の新たな『遊戯』の最初の標的は、この戦場で最も悲劇的で、最も強力で、そして最も彼に従順なはずの駒――「紫の帳の娘」**に定められた。
「彼女は、素晴らしい素材だ」アスモデウスは、マナ・スクリーンに映し出された、魔郷の中心で静かに佇む巨大な黒い影を見つめていた。「純粋な憎悪、底なしの悲しみ、そして失われた希望。これほどの上質な感情の塊は、魔界広しといえども、そうそうお目にかかれるものではない」
「だが、今のままでは、ただ大きいだけの、芸のない怪物に過ぎん。……彼女に、本当の『美しさ』を与えてやろう」
彼は、玉座から立ち上がると、アトリエに向かう芸術家のような足取りで、『逆転の書』が置かれた祭壇へと向かった。
「最初の『編集』だ」
アスモデウスは、『逆転の書』のページを、ゆっくりと、しかし確かな意志をもって開いた。 因果律を書き換えるための、最初の、そして最も冒涜的な詠唱が、静かな玉座の間に響き渡ろうとしていた。
物語のフェーズが「戦争」から、アスモデウス個人の、より悪質で予測不可能な「実験」へと移行する、決定的な転換点。『逆転の書』が、ついに具体的な「世界の編集」の道具として使われ始める。それは、これから始まる、新たなサ-スペンスの、不吉な序曲であった。彼がこれから描く脚本は、世界の法則そのものを、彼の悪趣味な美学のために、根底から書き換えてしまうものになるだろう。




