天魔大戦137:悪魔の好奇心
勝利の後の退屈
天使軍を退けた後、アスモデウスは、自らの完全な勝利を確信するどころか、むしろ深い虚無感に襲われていた。玉座の間に響き渡る悪魔たちの勝利の雄叫びも、彼の耳には、意味のない騒音としか聞こえなかった。
(……これで、終わりか)
彼は、完璧なチェス盤の上で、相手のキングを詰ませてしまった名人のような、言いようのない退屈を感じていた。怨念の軍勢も、サタンの暴力も、天使の秩序も、全ては彼の計算通りに動き、そして彼の望んだ通りに、互いを消耗し、あるいは彼の駒と化した。もはやこの盤上には、彼を知的に興奮させるような、予測不可能なプレイヤーは存在しない。
彼は、その禍々しい書物が、単なる兵器ではなく、因果律そのものを書き換える恐るべき代物であること、そしてアシェルの悲劇が全て時間逆行の結果であったことを完全に理解した時、彼の心に、勝利への満足感ではなく、全く新しい、そして最も危険な好奇心が芽生えた。
脚本家の誕生
「この呪詛を、もし我が意のままに操れたなら……」
アスモデウスは、玉座の間で、手に入れた『逆転の書』を恍惚として眺めていた。
「この、あまりにも陳-腐な結末――ただ悪が勝利するだけの物語を、もっと、もっと面白く『書き換える』ことができるのではないか?」
例えば、時間をさらに巻き戻し、アシェルが英雄となる「前」に、絶望の淵にいたサイラスと出会わせてみたら、二人は共鳴し、全く新しい悪を生み出したのではないか?
あるいは、時間を遥か未来へと飛ばし、この地獄が千年続いた後の、荒廃しきった世界の最後の生き残りの物語を、覗いてみるのも一興か。
それとも、最も悪趣味な実験。アシェルの純粋な「怨念」と、ミカエルの完璧な「秩序」の魂を、この書を使って強制的に**『融合』**させてみたら?一体、どのような矛盾を孕んだ、美しい怪物が生まれるのだろうか?
アスモデウスの行動原理が、再び「支配」や「勝利」から、より高次の「物語の編集」という、予測不可能な「混沌の追求」へとシフトした瞬間だった。彼はもはや、この劇の登場人物ではない。彼は、この劇の作者そのものに、なろうとしていた。
最初の『編集』
「手始めに、少しばかり『配役』を入れ替えてみるとしようか」
アスモデウスは、楽しげに『逆転の書』を開いた。そして、そこに自らの魔力を注ぎ込み、因果律に最初の、気まぐれな「編集」を加えた。
彼の標的は、この戦場で最も純粋で、最も予測可能な動きしかしない存在――天使たちであった。
物語の新たな転換点
翌日。天界へと敗走し、光の要塞で傷を癒していた天使軍の陣営で、信じられない事態が起こった。
「報告!ガブリエル様が……!熾天使ガブリエル様が、忽然と姿を消されました!」
だが、ガブリエルは消えたのではなかった。「転移」させられたのだ。アスモデウスの気まぐれによって、敵陣の、最も危険な場所へと。
「……ここは……どこだ……?」
ガブリエルが意識を取り戻した時、彼は一人、怨念の魔物たちが渦巻く、魔郷の中心、あの黒水晶の玉座の前に立っていた。
「ククク……。ようこそ、天使よ。私の新しい劇の、最初の主演俳優として、君を招待した」
玉座の間から、アスモデウスの声が響き渡る。
彼の目的が、単なる天使軍への最終的な勝利ではなくなったことを示唆する、物語の新たな転換点。
アスモデウスは、天使という絶対的な「秩序」と、怨念という絶対的な「悲劇」を、自らの脚本の上で強制的に交わらせることで、どのような化学反応が起こるのかを、観劇しようとしていたのだ。
世界の運命は、もはや善悪の戦いなどではなく、一人の気まぐれな悪魔の、悪趣味な好奇心の、その指先一つに委ねられてしまった。彼の次の「編集」が、この世界を、一体どのような、予測不可能な結末へと導くのか。それは、彼自身にさえも、分かっていなかった。物語は、最も危険で、最も混沌とした最終章へと、その舵を切った。




