三つ巴のハルマゲドン130:終幕の役者たち
アスモデウスは、アシェルの精神世界という名の劇場から、万魔殿の玉座へと帰還した。彼の帰還を出迎えたのは、先程の天地を揺るがすほどの異変に、畏怖と困惑を隠せない、ベリアルやマルファスといった腹心の悪魔たちだった。
「我が主よ……。先程の、あの禍々しい波動は、一体……?」
アスモデウスは、玉座に深く身を沈めると、極上の魂のエキスが注がれたグラスを、満足げに傾けた。
「案ずるな、我が眷属たちよ」
彼の声は、最高の芝居を観終えた後の、満ち足りた観客のそれであった。
「諸君、喜べ!あの、我らの愉悦を邪魔していた、忌まわしい怨念の塊は、もはや我々の脅威ではない」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、集まった数百の悪魔たちの前で、高らかに宣言した。
「あれは今、我らが『天』という名の、退屈極まりない観客どもを、その高尚なる玉座から引きずり下ろすための、最も悲劇的で、最も美しい『主役女優』となったのだ!」
悲劇の軍団
アスモデウスの命令一下、悪魔軍の戦略は、根本から書き換えられた。彼は、アシェルの魂に埋め込んだ「汚染された聖痕」を通じて、魔郷の怨念の軍勢を、自らの意のままに操れるようになっていたのだ。
彼は、サイラスの因果律ハッキングによって強化された怨念の魔物たちを、自軍の、消耗を厭わぬ最前線の盾として再配置する。
「マルファスよ」アスモデウスは、戦闘狂の悪魔に命じた。「怨念どもを『特攻部隊』として使え。天使どもの浄化の光を受け止める、最高の肉壁となるだろう」
悪魔の軍勢は、その後方に控え、直接的な戦闘を極力避ける。怨念の魔物を「悲劇の合唱団」として精神攻撃を行わせ、「舞台装置」として天使軍の陣形を乱す。そして、消耗し、混乱した天使たちを、悪魔たちが漁夫の利を得るかのように効率的に消耗させる。あまりにも非情で、計算され尽くした戦術だった。
サイラスの思念もまた、アスモデウスの魔力を分け与えられたことでより強力な存在となり、怨念の軍勢の方面軍司令官のような役割を担っていた。彼の知的で陰湿な精神攻撃は、今や天使軍の指揮官クラス、熾天使ミカエルとさえも同等の力をもって渡り合えるほどの脅威と化していた。
天界の観測者、最後の決断
その、あまりにも冒涜的で、歪んだ軍勢の誕生を、天界の最高司令官、熾天使ミ-カエルは、「万象儀」の間で、冷徹な瞳で観測していた。
地上の邪悪なオーラが、これまでとは比較にならないほど増大し、さらに、これまで混沌としていた怨念と悪魔の二つの勢力が、一つの、巨大な悪意の下に統制され始めていることを、彼は正確に感じ取っていた。
「……なるほど。悪が、悪を喰らったか。興味深い」
ミカエルは、部下の天使たちの動揺を、静かな一言で制した。
「だが、騒ぐ必要はない。所詮は、より純粋で、より効率的な『不協和音』の集合体と化しただけのこと。穢れは穢れ。その本質に、何の変化もない」
彼は、炎の剣の柄に、そっと手をかけた。
「ならば、こちらも予定通り、『最終楽章』を奏でるまでだ」
ミカエルは、もはや地上の個々の戦闘など、些細な問題として捉えてはいなかった。彼もまた、この一連の出来事という名の演劇が、神々さえも巻き込む、宇宙的な規模の最終幕に近づいていることを予感していたのだ。彼の言う「最終楽章」とは、もはや浄化などという生ぬるいものではない。それは、この不協和音に満ちた舞台そのものを、役者もろとも、完全に「無音」にする、究極の破壊を意味していた。
揃った役者たち、最後の幕へ
こうして、舞台の上の全ての役者は、揃った。
主役女優――アスモデウスに操られる、悲劇の化身**「紫の帳の娘」**
舞台監督にして主演男優――全てを愉しむ魔王アスモデウス
憤怒の狂戦士――予測不能な破壊者サタン
悲劇の合唱団――利用される怨念と悪魔の軍勢
そして、全てを無に帰す、冷徹な指揮者――熾天使ミカ-エル
怨念の魔物が悪魔軍に組み込まれるものの、それはあくまで一方的に利用される駒でしかないという非情な関係。**「共闘ではない」**ことが、ここに明確に描写された。
天使側の最終手段を『最終楽章』と表現することで、物語全体が、一つの壮大な、そして救いのない演劇に見立てられ、次章「天魔大戦」への期待感が、最大限に煽られる。
世界の終焉を告げる、最後の幕が、今、静かに上がろうとしていた。それは、神と悪魔と、人間であったものの悲劇が交錯する、誰も見たことのない、壮絶なオペラの始まりであった。




