三つ巴のハルマゲドン129:穢れた聖杯
ついに、アシェルの怨念は、アスモデウスの悪魔的な提案を受け入れた。 彼女の、永遠に続く孤独の悪夢の中に差し込まれた「共に」という甘美な響き。それは、彼女が心の最も深い場所で渇望していた、唯一の救いであったからだ。
『……あなたの、力を……』
歪んだ劇場の中で、アシェルの魂が、初めて自らの意志で、他者を求めた。
「よろしい。ならば、受け入れるがいい」
アスモデウスは、微笑んだ。そして、彼の指先から、一滴の、凝縮された純粋な魔力が、雫となって現れた。それは、彼の魂そのものの一部。あまりにも美しく、そしてあまりにも猛毒な、闇の結晶だった。
彼は、その雫を、アシェルの唇へと、そっと運んだ。
彼女は、それが絶望を共有するための神聖な「契約」の儀式だと、信じている。
だが、実際には、それは一方的に彼女を利用し、操るための、呪いの印を刻む行為に他ならなかった。
穢れた聖痕
アシェルが、その魔力の雫を飲み干した、その瞬間。
アスモデウスは、その身をかがめると、まるで愛しい娘に祝福を与える父のように、彼女の額に、そっとキスをした。
しかし、その行為は、決して愛情の表現ではなかった。
彼の唇が触れた場所から、稲妻のように、アシェルの純粋だった魂の表面に、黒い亀裂が走り始めた。
それは、ガラスにヒビが入るかのような、乾いた、取り返しのつかない音を立てた。
その亀裂は、蜘蛛の巣のように瞬く間に彼女の魂全体へと広がり、その中心、額の部分には、一つの禍々しい紋様が浮かび上がった。逆さ五芒星の中央に、涙を流す瞳が描かれた紋様。それこそが、アスモデウスが彼女の怨念を、内側から完全にコントロールするための、奴隷の刻印――「汚染された聖痕」を埋め込む、冒涜的な儀式に他ならなかった。
アシェルの魂という、純粋な悲しみを湛えた「聖杯」が、今、悪魔の王の唇によって、完全に「穢された」 のである。
砕け散る精神世界
契約が結ばれた瞬間、彼女の精神世界そのものが、壮絶な音を立てて崩壊を始めた。
黒と白の市松模様の床は、奈落の底へと砕け落ち、壁に貼られていた思い出の写真は、炎に包まれて灰と化す。空を舞っていた黒い蝶たちは、悲鳴を上げて光の粒子となり消滅していく。彼女の心を構成していた、全ての悲しみの象徴が、今、より大きな絶望の前に、無に帰していく。
彼女が抱いていた、ひび割れた人形が、その手から滑り落ち、床に叩きつけられて、木っ端微塵に砕け散った。
『あ……ああ……あああああああああああっ!!』
アシェルの魂は、これまで経験したことのない、新しい種類の苦痛に絶叫した。憎しみとも、悲しみとも違う、自らの存在そのものが、他者の意志によって上書きされていく、絶対的な屈辱と陵辱の痛み。
世界の変質
そして、その影響は、ただちに現実世界にも現れた。
魔郷の中心で、雷鳴のような轟音と共に、脈打っていたあの巨大な黒い水晶が、内部からの凄まじい圧力によって、放射状にひび割れたのだ。そこから、アスモデウスの濃密な魔力を帯びた、これまでとは比較にならないほど禍々しい瘴気が、間欠泉のように激しく噴出した。
それはもはや、単なる死のエーテルではない。それは、アスモデウスの「支配」と「混沌」の意志を宿した、能動的な悪意そのものだった。
魔郷の瘴気は、アスモデデウスの魔力によって、新たに「対天使属性」を帯び、天界の浄化の光をさえも蝕み、減衰させるほどの力 を持ち始めた。これまで、かろうじて拮抗を保っていた天使と魔物の戦力バランスが、この瞬間に、決定的に崩れた。
黒い涙
空が、泣いた。
これまで赤黒く染まっていた魔郷の空は、さらに絶望的な、インクをぶちまけたような完全な漆黒へと変わり、まるで神が流す黒い涙のように、粘り気のある、油のような雨が、世界に降り注ぎ始めたのだ。
その黒い雨に触れた、地上の全てが、急速に腐敗し、溶解していった。廃墟となった建物の残骸も、僅かに残っていた枯れ木も、そして大地そのものさえも。
「……始まったな」
パンデモニウムの玉座で、アスモデウスは、自らの肉体を取り戻し、満足げに呟いていた。「――最後の楽章が」
契約の非可逆性と、それがもたらす絶望的な結果は、あまりにも明白だった。アシェルの魂は、もはや彼女自身のものではなく、アスモデウスが奏でる、破滅の交響曲の、最も重要な楽器と成り果てた。「共闘」などという甘い幻想は、最初から存在しなかったのだ。物語は、世界の理そのものが悪意によって捻じ曲げられていく、最終局面へと突入した。




