三つ巴のハルマゲドン128:絶望のデュエット
アスモデウスが放った、神への反逆という甘美な毒。それは、アシェルの、凍てついていた精神世界に、致命的な亀裂を生じさせた。
彼女の心象風景が、彼の囁きによって激しく揺らぎ始める。
完璧なまでに整然としていたはずの黒と白の市松模様の床に、稲妻のような亀裂が走り、その裂け目からは、さらに深い、底なしの闇が覗いている。壁に貼られていた仲間たちの笑顔のモノクロ写真が、まるで燃え尽きた灰のように、一枚、また一枚と音もなく剥がれ落ち、虚無の中へと消えていく。希望だったはずの過去の記憶が、今や意味のないガラクタと化して、彼女の世界から剥落していくのだ。
そして、空を舞っていた黒い蝶の群れが、突如として嵐のように激しくなり、狂った竜巻となって劇場全体を吹き荒れた。それは、彼女の魂の奥底で、最後の理性が悲鳴を上げているかのようだった。
魂の絶叫
「わからない……」
虚ろだったアシェルの瞳に、初めて、激しい混乱と苦悩の色が浮かんだ。彼女は、胸に抱いていたひび割れた人形を、さらに強く、砕けよとばかりに抱きしめた。
「……私は……どうすれば……いいの……?」
仲間への憎しみか?学園への復讐か?それとも、この世界そのものを呪うべきなのか?憎しみの矛先を見失った彼女の魂は、絶対的な孤独の中で、声にならない叫びを上げていた。
神を呪え、と目の前の男は言う。だが、あまりにも巨大で、あまりにも抽象的なその「敵」に、彼女の純粋すぎる憎悪は、どこを向けば良いのか分からない。
悪魔の契約、歪められた共有
その、魂が最も無防備になった瞬間を見計らい、アスモデウスは、最も甘美で、最も悪魔的な契約を持ちかけた。
彼は、優しいカウンセラーのように、彼女の前にひざまずき、その視線を合わせた。そして、クラルの記憶を悪用し、彼女がかつて希望として掲げた、最も信じていたはずの理念――「共有」という言葉を、悪魔的に歪めて囁きかけたのだ。
「……独りかい?アシェル。その絶望を、独りで抱えているのかい?」
彼の声は、クラルがかつて仲間たちに向けたはずの、慈愛に満ちた響きを、完璧に模倣していた。
「独りで奏でる悲劇は、もう聞き飽きただろう? その音色は美しいが、あまりにも単調で、そして……あまりにも寂しすぎる」
アスモデウスは、アシェルの魂の、最も根源的な「孤独」に、その指先でそっと触れた。
「ならば、私と、その絶望を『共有』し、二人で一つの、壮大な交響曲を奏でようじゃないか」
不協和音のシンフォニー
アスモデウスは、ゆっくりと立ち上がり、この狂った劇場の指揮者のように、両腕を広げた。
「想像してみたまえ。お前の、この世界で最も純粋で、最も美しい『絶望』の旋律。それに、**私の、この世の全ての理を知り尽くし、全ての調和を嘲笑う『不協和音』**が、重なるところを」
彼の言葉は、もはや単なる説得ではなかった。それは、魂を直接誘惑する、悪魔の詩だった。
「その二つが一つになった時、それは……そう、それは神という名の退屈な観客さえも舞台から引きずり下ろし、この陳腐で救いのない演劇そのものを、永遠に終わらせる力となるのだ!」
かつての希望の理念であった**「共有」が、今、憎悪と絶望を増幅させ、世界を終わらせるための、究極の呪いの言葉として使われる**。その、あまりにも強烈な皮肉。
最後の共演者
「独りは、もう終わりだ」
アスモデウスは、アシェルの傍らに再び膝をつくと、彼女が抱くひび割れた人形に、そっと、自らの手を重ねた。それは、単なる支配者の行為ではない。同じ絶望を知り、同じ孤独を抱える、この世界の、ただ一人の共演者としての仕草だった。
人形の、ひび割れた顔。その亀裂が、アスモデウスの手が触れた瞬間、微かな紫色の光で繋ぎ合わされるように見えた。
『――共に、終わらせよう。この、くだらない世界を』
アスモデウスの声と、アシェルの魂の叫びが、初めて、一つの響きとなって、この歪んだ劇場に木霊した。
彼女は、ゆっくりと、アスモデウスの手に、自らの冷たい手を重ねた。それは、契約の儀式。破滅のデュエットの、始まりを告げる合図だった。




