三つ巴のハルマゲドン127:幕間の観劇
歪んだ劇場の中心で、絶望のループが、また一つ、終わった。仲間たちの祝福の幻聴が断末魔の絶叫へと変わり、色を取り戻したはずの世界が、再び色褪せたモノクロの世界へと沈殿していく。漆黒のドレスに身を包んだアシェルは、顔にひびの入った人形を、胸にさらに強く抱きしめた。
その、幕間ともいえる静寂の中で、一つの拍手の音が、唐突に、しかし穏やかに響き渡った。パチ、パチ、パチ……。
アスモデウスは、アシェルの数歩手前で、まるで最高の悲劇を観劇し終えた観客のように、静かに手を叩いていた。彼は、繰り返されるアシェルの悪夢に、舞台監督のように、しかし威圧感なく、静かに介入した。
「――素晴らしい絶望だ」
彼の声は、蜂蜜のように甘く、魂の最も深い場所に染み渡るようだった。彼は恐怖を与えるのではなく、まるで親切で博識な案内人のように、彼女が見る悪夢の一つ一つに、新しい解釈という名の毒を、囁きかける。
「君の演じる悲劇は、実に美しい。だが……」
アスモデウスは、アシェルの傍らに音もなく歩み寄り、その虚ろな瞳を覗き込んだ。
「……この悲劇の本当の『意味』を、君はまだ知らないようだね」
新たな視点という名の呪詛
アシェルの意識は、まだ悪夢のループに囚われたままだった。だが、アスモデウスの言葉は、その壊れた映写機の歯車に、ほんの少しだけ、異なる回転を与えた。
「君は、自分がなぜこれほど苦しんでいるのか、その本当の原因を知っているかね?」
アスモデウスは、彼女の心の傷を、まるで熟練の外科医のように、正確に、そして冷徹に、指し示した。
「君の憎しみの根源――それは、母に拒絶され、父に恐れられ、世界に殺されたという、あの**『世界に拒絶された悲劇』**。そうだね?」
アスモデウスは、アシェルの魂の奥底に刻まれた、原初の記憶を的確に見抜いていた。
「だが、私は問いたい」
彼の声が、優しく、しかし抗いがたい力で、アシェルの意識に食い込んでいく。
「なぜ、誰も君を救えなかったのか?」
映像の奔流
その問いかけと同時に、アスモデウスの指先から、周囲の黒い蝶たちが集まって形成されたかのような、スクリーンショットのような映像が、空間に次々と投影され始めた。
映像は、鮮烈で、暴力的で、しかしどこかスタイリッシュだった。極端なアングルで切り取られ、高速で切り替わり、見る者の不安を、芸術的なまでに煽っていく。
――最初の映像。それは、地上で戦う天使たちが、冷徹に怨念の魔物を浄化する様だった。クローズアップされるのは、感情の欠片もない天使の瞳。スローモーションで描かれる、光の槍に貫かれ消滅していく、かつて人間だった魔物の、声なき絶叫。
<center>【**無慈悲なる正義**】</center>
画面に、ゴシック体の巨大なタイポグラフィが、フラッシュバックのように一瞬だけ挿入される。
――次の映像。それは、神が沈黙を続ける、天界の、空っぽの玉座だった。下界の地獄絵図が、玉座の足元の水晶に、小さな風景画のように映り込んでいる。だが、その玉座には誰も座っておらず、ただ、冷たい宇宙の風が、吹き抜けているだけ。
<center>【**不在の創造主**】</center>
――映像が切り替わる。今度は、アスモデウス自身とサタンが戯れる、混沌の戦場。彼らが世界を破壊し、愉しんでいる光景。
<center>【**気まぐれな破壊者**】</center>
――そして最後の映像。それは、アシェル自身が、仲間たちのために自らを犠牲にした、あの英雄的な瞬間の、全く別の角度からの映像だった。彼女が黄金のオーラを放つその背後、遥か高みの「観測室」で、学園長オルティウスが、ワイングラスを片手に、その光景を「素晴らしいデータだ」と賞賛している。
<center>【**高みの見物人**】</center>
憎悪の矛先の誘導
映像の奔流が止んだ後、アスモデウスは、再びアシェルの耳元で囁いた。
「どうだね、アシェル。分かったかね?」
彼の声は、もはや単なる案内人ではなかった。それは、真実を告げる預言者の響きを帯びていた。
「君の悲劇は、君だけのせいではない。仲間が弱かったからでもない。君が喰らった全ての悲劇、君が今体験しているこの絶望。その全ては、予め用意されていたものなのだよ」
アシェルの、虚ろだった瞳に、初めて、憎悪以外の、明確な「思考」の光が宿った。
「君という悲劇のヒロインが、いかに美しく苦しみ、そしていかに壮絶に滅びるか。それを、**ただ高みから見物しているだけの、無慈悲な『観客』**が存在するのだ」
アスモデウスは、天を指差した。いや、天界よりも、さらにその上の、概念的な存在を。
<center>【**観客 = 神**】</center>
「君の人生、そしてこの世界の全ては、彼らが描いた救いのない脚本の上で踊っているに過ぎない」
<center>【**脚本 = 運命**】</center>
「そして、この世界そのものが、彼らのための、壮大な悲劇の舞台なのだとしたら?」
<center>【**舞台 = 世界**】</center>
アスモデウスは、ひび割れた人形を抱きしめるアシェルの手に、自らの手をそっと重ねた。
「真に呪うべきは、君を傷つけた個々の人間などではない。仲間でも、村人でも、学園長でさえない。真に呪うべきは、このような不完全で、残酷で、救いのない脚本を書き、ただそれを愉しんでいる、我々の、そして君の、遥か上に存在する、絶対的な『作者』――すなわち、『天』そのものではないのかね?」
新たな敵の誕生
アスモデウスの狡猾な人心掌握術は、ここにその頂点を極めた。彼は、アシェルの憎悪の矛先を、具体的な人間社会から、より抽象的で、より強大な存在である「天界」、そして「神」や「運命」といった概念そのものへと、巧妙に誘導したのだ。
アシェルの、赤黒く燃えていた瞳。その色が、ゆっくりと、しかし確実に、変化していった。それは、憎しみという赤い炎と、絶望という青い氷が混じり合った、宇宙の深淵のような、深い、深い、紫色へと。
彼女は、ゆっくりと、顔を上げた。
そして、アスモデウスに、初めて、自らの意志で、問いかけた。
『……どうすれば……いい……?』
『どうすれば、その『観客』に、この痛みを、届かせることが……できる……?』
「簡単だよ」
アスモデウスは、微笑んだ。その笑みは、もはや悪魔のものではなく、愛しい弟子に秘儀を授ける、師の笑みであった。
「舞台を、壊せばいい。脚本を、破り捨てればいい。そして、観客席にまで、この地獄の炎を、届かせてやればいいのだ」




