暗黒時代の突入113:歪む法則、加速する崩壊
アスモデウスが飽を感じ始めたその頃、世界そのものが、断末魔の悲鳴を上げ始めていた。パンデモニウムの頂に開いたゲヘナゲートは、もはや単なる門ではなかった。それは、この傷ついた世界に、魔界の法則という名の毒を絶え間なく注入し続ける、巨大な注射針と化していたのだ。世界の物理法則が、さらに不安定になっていく。
最初の顕著な変化は、重力だった。
旧アルテミス王国の平原。そこでは、サタン配下の数百のデーモン軍団が、かつてその地の騎士であった者たちの怨念の軍勢と対峙していた。
「……何だ……体が……軽い……?」
デーモンの一人が、訝しげに呟いた、まさにその瞬間。
重力は、何の脈絡もなく、その向きを反転させた。
「ぐわあああああっ!」
怨念の魔物たちが、悲鳴と共に、空へと「落下」していく。彼らは、自らが「落ちて」いる方向さえ理解できぬまま、成すすべなく、赤黒い空の彼方へと吸い込まれていった。
対照的に、魔界の環境で生まれ育ったデーモンたちは、この気まぐれな重力の反転に即座に適応した。彼らは、逆さまになった大地に素早く足をつけ、まるで天井を歩くかのように、混乱する怨念たちを、上から見下ろし、嘲笑った。
「クハハハ!面白い!これが新しい世界の遊び方か!」
魔界の法則による侵食
重力の異常は、始まりに過ぎなかった。魔界の法則が、徐々に、しかし確実に、この世界を侵食し始めたのだ。
次は、空間が、その連続性を失った。
空間は、ランダムにねじ曲がり、遠くに見えていたはずの廃墟が、次の瞬間にはすぐ目の前に現れ、あるいは、すぐ隣にいたはずの仲間が、数キロメートル先の地平線に飛ばされる、といった現象が、各地で頻発し始めた。
そして、時間までもが、その一定の流れを放棄した。
時間は、まるで気まぐれな子供が弄ぶ粘土のように、伸び縮みを繰り返した。怨念の魔物が放った憎悪の波動が、標的に届くまでに数時間かかるかと思えば、悪魔が振り下ろした剣は、振り下ろす前に、既に敵を両断している、といった、因果律さえも無視した光景が、当たり前のように繰り広げられた。
適応する者と、縛られる者
この、世界の根本的な変質は、戦況に決定的な変化をもたらした。
悪魔たちは、この混沌とした新しい環境に、まるで水を得た魚のように、即座に適応した。彼らにとって、物理法則など、そもそもが「脆弱な足枷」に過ぎなかったからだ。重力が反転すれば、翼で舞い、空間が歪めば、次元の狭間を跳躍する。彼らは、この狂った世界を、新しい狩りのルールとして、愉しみさえ始めていた。
しかし、怨念の魔物たちは、違った。
彼らの存在の根幹は、「生前の世界の記憶」にある。彼らは、その魂の最も深い場所で、かつての世界の法則に、固く、固く縛られている。重力は、下に向かって働くもの。時間は、過去から未来へと流れるもの。その、当たり前だったはずの前提が覆された世界で、彼らは混乱し始めたのだ。
『……なぜ……空が、下に……?』
『……今、斬ったはずの敵が……なぜ、目の前に……?』
かつては悪魔たちを恐怖させた精神攻撃もまた、その効果を失っていった。彼らが映し出す「過去の悪夢」は、時間軸が歪んだこの世界では、もはや何の意味も持たない、ノイズの多い映像に過ぎなくなっていた。
戦況の転換点
世界の崩壊が、単なる破壊ではなく、物理法則レベルでの「書き換え」であること。その事実が、この戦いのターニングポイントとなった。戦況は、環境に適応できる悪魔軍に、圧倒的に有利に傾き始めたのだ。
パンデモニウムの玉座で、アスモデウスは、その光景を、極上の愉悦と共に、観戦していた。
「素晴らしい……。実に素晴らしい。単調だった盤面が、ルールそのものの変更によって、一気に複雑になったわ」
彼の隣では、ベリアルが興奮した様子でデータを記録していた。
「閣下!これは、新たな学問の誕生です!『混沌物理学』とでも名付けましょうか!ああ、この歪んだ時空の数式は、なんと美しいのだろう!」
アスモデウスは、ワイングラスを傾けながら、次の手を考えていた。
「さて、と。この新しいルールに最も早く適応し、この混沌を制するのは、果たして、我が軍か、あるいはサタンの、あの野生の勘か……。それとも……」
彼の視線は、戦場の最も深い場所、怨念の魔物たちの中心――「紫の帳の娘」へと向けられた。
「……あの悲劇のヒロインが、この混沌の中から、新たな『理』を生み出すという、筋書きも、また一興かもしれんな」
物語は、単純な勢力争いから、新しい世界の法則に適応できた者だけが生き残る、究極のサバイバルゲームへと、その様相を変え始めた。そして、そのゲームのルールブックは、気まぐれな魔王アスモデウスの、ただその手の中にのみ、存在していた。




