暗黒時代の突入107:ゲヘナゲート
アスモデウスが放った、冒涜的な召喚の詠唱は、単に空間の扉を開くだけのものではなかった。それは、傷つき、疲弊しきったこの世界の法則そのものに突き立てられた、最後の一撃であった。
召喚に応じ、まず、天が裂けた。 狂ったように彷徨っていた星々が、その動きをぴたりと止め、まるで巨大な蜘蛛の巣のように、空全体に無数の黒い亀裂が走った。星々の死骸が、砕けたガラスのように、音もなく地上へと降り注ぎ始めた。
次に、大地が呻いた。 パンデモニウムが立つ高山の山頂から、同心円状に、巨大な地割れが大陸全体へと広がっていく。紫の瘴気に覆われた死の大地が、まるで生き物のように convulsing(痙攣)し、その裂け目からは、地球の核から噴き出したかのような、マグマの赤い光が不気味に漏れ出した。
そして、世界の頂点。魔郷の赤黒い空の中心に、一つの、巨大な傷口が開いた。それはもはや、単なる亀裂などではない。それは、世界という生命体の肉体に開けられた、決して塞がることのない、深淵なる傷であった。
憤怒の降臨
亀裂から現れたのは、純粋な憤怒の化身、魔王サタンだった。
それは、アスモデウスのような、知的で洗練された姿などではなかった。それは、怒りという感情そのものが、物理的な形を得た、混沌の塊だった。身長は数百メートルに及び、その身体は燃え盛る溶岩と、鋭利な黒曜石で形成されている。六本の腕は、それぞれ異なる破壊の概念――戦争、憎悪、復讐、苦痛、絶望、そして無――を象徴する武器を握りしめ、その顔があるべき場所には、ただ、銀河の中心にあるブラックホールのように、全てを吸い込む、絶対的な怒りの渦だけが、存在していた。
「……ウオオオオオオオオオオオオオッッ!!!!」
サタンの最初の咆哮。それは、音ではなかった。それは、宇宙の始まりにあったとされるビッグバンの破壊的な側面だけを抽出したかのような、純粋な衝撃波だった。その降臨の余波だけで、パンデモニウムを取り囲んでいた周辺の山々が、まるで砂の城のように、跡形もなく粉砕された。
修復不可能な傷口
「……はっはっは!素晴らしい!これこそ、私が望んでいた混沌だ!」
アスモデウスは、自らが呼び出してしまった、あまりにも巨大すぎる力の奔流を前に、恐怖ではなく、純粋な歓喜に打ち震えていた。
だが、彼でさえ、その計算を一つだけ、誤っていた。
サタンの、そのあまりにも強大すぎる力は、アスモデウスが僅かに開いた次元の傷口を、もはや誰にもコントロールできない、修復不可能なレベルにまで引き裂いてしまったのだ。
アスモデウスが意図していたのは、サタンという「個」を召喚することだった。しかし、結果として呼び出されてしまったのは、サタンが君臨する**「魔界」そのもの**であった。
裂け目は、みるみるうちに広がり、やがて空全体を覆うほどの、巨大な穴と化した。魔界とこの世界を直接繋ぐ、巨大な「ゲヘナゲート」が、完全に開門してしまったのだ。
魔界の法則
ゲートからは、血と硫黄の匂いが混じった地獄の風が、絶え間なく吹き荒れ始めた。
その風は、この世界の物理法則を、根底から書き換えていった。
重力は意味を失い、粉砕された山々の岩石が、ゆっくりと空へと舞い上がる。
時間は歪み、ある場所では急速に、ある場所では永遠のように引き伸ばされ、世界は悪夢のようなモザイク模様と化した。
生命と死の境界線は曖-昧になり、怨念の魔物たちは、より濃密で実体に近い身体を得て歓喜の声を上げ、一方で、かろうじて生き残っていた自然の植物は、その瞬間に腐り落ちていった。
世界の法則そのものが、徐々に、しかし確実に、より過酷で、より混沌とした魔界のそれに、上書きされ始めていたのだ。
新たな脅威の質
世界の崩壊が、新たな、そして決定的な段階に入った。
これまでは、アシェルの個人的な悲劇に端を発した、怨念による静かな侵食だった。だが、今、それは魔界の軍勢による、直接的で、暴力的な侵略へと、その脅威の質を完全に変化させた。
ゲヘナゲートの向こう側、燃え盛る地平線の彼方から、無数の、おぞましい影たちが、この新しい「狩り場」を目指して、進軍してくるのが見えた。角を生やした悪魔の軍団、骨でできた巨大な怪物、そして、言葉では形容することのできない、混沌の権化たち。
「……さて、と」
アスモデウスは、玉座に座り直し、これから始まる、本当の地獄絵図を前に、満足そうに言った。「役者は、揃いすぎたようだ。……ここからは、脚本なしの、即興劇と行こうではないか」
サタンという、アスモデウスとは異なる性質の、純粋な破壊を司る絶対悪の登場。それは、この物語が、もはやいかなる救いの可能性も残されていない、完全な終末へと向かうことを、高らかに宣言する、絶望のファンファーレであった。




