暗黒時代の突入105:魂喰らいとの戯れ
アスモデウスによる「狩り」の号令から数日後。彼の軍勢は、滅びたグランベルク王国の旧首都、カストラムの廃墟で、怨念の魔物たちとの最初の本格的な戦闘に突入した。しかし、その光景は、およそ「戦闘」という言葉が持つ、勇壮さや悲壮感とは、全く無縁のものであった。
それは、殲滅を目的とした戦いではなかった。
「全隊、散開!対象との適切な距離を保ち、決して致命傷は与えるな!我々の目的は、観察とデータ収集である!」
軍団の指揮を執るマルファスが、崩れかけた王宮のバルコニーから、配下の悪魔たちに檄を飛ばす。彼の目は、敵を打ち破ることへの闘争心ではなく、未知の生物の生態を観察する研究者のような、冷たい好奇心に満ちていた。
肉体で学ぶ精神汚染
マルファス自身が、その奇妙な戦いの先陣を切った。彼は、かつてギルドの英雄「不動」のバルガスであった怨念の魔物の前に、あえて無防備に立ちはだかった。
『……お前は、見捨てた……』
バルガスの怨念が、マルファスの魂に直接、罪悪感を植え付けようと囁きかける。
「ほう……面白い」
マルファスは、その精神汚染攻撃を、あえてその身に受け続けた。彼は、自らの強靭な精神力を盾に、怨念がどのように魂に作用し、どのような幻覚を見せ、いかにして精神を崩壊させていくのか、そのプロセスを身をもって体験し、データを収集していたのだ。
「……なるほど。まず罪悪感を刺激し、次に孤立感を煽り、最終的に自己肯定感を完全に破壊する、三段階の精神攻撃か。実に合理的だ」
彼は、頭の中に流れ込んでくる、自分が仲間を見殺しにする幻覚を、まるで他人事のように分析しながら、手にした魔導クリスタルに、その効果と持続時間、そして精神抵抗力との相関関係を、詳細に記録していく。
「……報告!精神汚染の基本パターン、記録完了!次!別の個体で、恐怖誘発パターンのデータを取る!」
彼は、血を流すこともなく、ただ精神的なダメージだけを受けながら、次の「実験対象」へと、悠然と歩を進めていった。
記憶を弄ぶ知性
一方、学術都市ライブラリアの廃墟では、ベリアルが、また別の、より悪趣味な実験を行っていた。彼の標的は、かつてその都市で無念の死を遂げた、学者たちの怨念の集合体だった。
『……なぜだ……なぜ、誰も俺を認めない……』
サイラスの怨念から生まれたその魔物は、ベリアルの前に、彼が最も軽蔑していた老教授の幻影を映し出した。
「ふむ。実に興味深いメカニズムだ」
ベリアルは、魔物が人間の記憶を悪用するメカニズムを解析しようと試みていた。彼は、自らの膨大な知識を駆使し、魔物が作り出す幻影に対し、心理学的な質問を投げかけ、その反応を分析していたのだ。
「君が映し出すこの『教授』の姿は、対象者の記憶データベースから、どの感情タグに基づいて抽出されたものかね?『屈辱』か?あるいは『嫉妬』か?」
「その幻影の音声パターンは、記憶内のどの部分をサンプリングしている?単純な再生か、あるいは、怨念というフィルターを通して、何らかの変調が加えられているのか?」
ベリアルの問いかけに、魔物はただ憎しみを返すだけだったが、ベリアルは、その反応パターンから、怨念が記憶にアクセスし、それを攻撃に転用するための、驚くほど高度なアルゴリズムが存在することを、見抜きつつあった。
「……素晴らしい。これは、魂と記憶のインターフェースに関する、画期的なサンプルデータだ。このメカニズムを解明できれば、我々は、他者の記憶を自在に読み取り、書き換えることさえ可能になるかもしれん」
魂の解剖
そして、パンデモニウムの地下深くにある、パイモンの巨大な実験室。そこでは、最もおぞましい「フィールドワーク」が行われていた。
パイモンは、マルファスたちが捕獲してきた魔物の怨念の構造を、「治療」と称して、メス一本で分解・分析していたのだ。
手術台の上に魔法の力で拘束されているのは、かつてアーサー王国の騎士であった者の怨念だった。
『……誇りが……私の、騎士としての誇りが……!』
魔物は、声なき声で叫び続けている。
「はいはい、静かになさいな」
パイモンは、まるで気難しい患者をなだめるように、優しく語りかけた。「大丈夫ですよ。すぐに、楽にして差し上げますからね」
彼女の、外科医のように正確な手つきで、怨念の核が切り開かれていく。
「……なるほど。怨念の核は、生前の『最も強い執着』が結晶化したものなのね。この騎士の場合は、『誇り』、か。そして、その周囲を、死の瞬間の『恐怖』と『絶望』が、幾重にも層を成して覆っている……」
彼女は、その層を一枚一枚、丁寧に剥がし、それぞれの感情がどのような性質を持ち、どのように相互作用しているのかを、顕微鏡レベルで観察し、記録していった。それは、もはや治療ではなく、魂の、冷徹な解剖であった。
「……実に美しい構造だわ。人間の負の感情というものは、これほどまでに、複雑で、精緻な芸術品となり得るのね」
観客席の魔王
彼らは、戦闘というよりは、危険極まりない「フィールドワーク」を行っていた。
そして、アスモデウスは、その全てを高みから見下ろし、パンデモニウムの玉座の間にある巨大なマナ・スクリーンに映し出される光景を、最高の席で観劇する観客のように、楽しんでいた。
「はっはっは!見ろ、ベリアル!マルファスの奴、完全に精神攻撃を楽しんでおるわ!」
「おお、パイモンの手際は、相変わらず見事だな。魂をあそこまで美しく分解できるとは」
新たな発見があるたびに、彼は子供のように歓喜の声を上げていた。
「なんと!怨念は、特定の音楽に共鳴して、その形態を変化させるのか!面白い!実に面白い!」
「ほうほう、嫉KO心から生まれた怨念は、他の怨念を捕食して成長する性質がある、と?まるで生物ではないか!」
怨念の魔物が持つ「悲劇性」が、悪魔たちにとっては最高の「研究対象」でしかないという、非情な対比が、ここに際立っていた。人間が流した血と涙は、彼らにとっては、ただ知的好奇心を満たすための、極上の娯楽に過ぎなかったのだ。
物語が、予測不可能な方向へと進み始める。それはもはや、世界の存亡を賭けた戦いですらない。それは、滅びた世界を舞台に、気まぐれな神(悪魔)が繰り広げる、壮大で、悪趣味で、そしてどこまでも終わりのない、遊戯の始まりだったのである。




