暗黒時代の突入97:壊れた人形
静寂の玉座
滅びゆく世界の中心、かつてグランベルク王国の首都カストラムがあった場所。今や紫色の結晶と化した大地の、その中央に立つ、巨大な黒水晶の玉座に、「紫の帳の娘」は、静かに腰かけていた。世界を終わらせるほどの絶大な力を持ちながら、その姿は、あまりにも小さく、あまりにも孤独だった。
世界中を破壊し尽くす「紫の帳の娘」自身もまた、決して安寧の中にいるわけではなかった。 彼女の周りには、彼女が生み出した無数の怨念の魔物たちが、忠実な僕のように控えているが、誰一人として、彼女の真の苦しみを理解する者はいない。彼女は、自らが創造した地獄の、絶対的な支配者であり、同時に、永遠の囚人でもあった。
終わりのない悪夢
彼女の意識は、常に、二つの異なる時間の地獄を、同時に彷徨っていた。
一つは、五十年前、この世に生まれ落ちた、あの瞬間の絶望。母から向けられた憎悪の眼差し。父から向けられた恐怖の視線。そして、村人たちの、自分を「モノ」として扱う冷たい手。井戸の底の、冷たく、暗く、息のできない水の感触。その全てが、今もなお、彼女の魂の最も深い場所で、終わりのない悪夢として、無限に再生され続けていた。
(痛い……寒い……誰も助けてくれない……なぜ、私だけ……)
そしてもう一つは、彼女が喰らった、数百万の死者たちの、最後の苦悶。ギルドの冒険者たちが仲間同士で殺し合った時の絶望。アーサー王国の騎士たちが、自らの誇りを砕かれて発狂した時の屈辱。家族の幻影に魂を喰われた者たちの悲鳴。それら、数多の死の記憶が混じり合った濁流が、彼女の意識を絶え間なく打ち叩いていた。
彼女は、自分が殺した全ての人間たちの、最後の人生を、永遠に追体験させられているのだ。
僅かに残る光の記憶
だが、その二つの地獄よりも、彼女を最も苦しめているものがあった。それは、ほんの僅かに、うっすらと残ってしまった、時間逆転前の、幸福だった記憶の断片だった。
――『アシェル、おめでとう!君は、俺たちの誇りだ!』
カインの、あの照れくさそうな、しかし誇らしげな笑顔。
――『アシェルが、私たちの希望の星よ!』
リアンの、涙に濡れた、美しい微笑み。
――『チェストォ!嬢ちゃん、日本一たい!』
タケルの、太陽のように明るい、屈託のない笑い声。
――『……よう、頑張ったな』
ケンシンの、不器用だが、誰よりも温かい、労りの眼差し。
これらの幸福な記憶の断片は、彼女の魂の中で、呪いのようによみがえり、彼女を激しい混乱と自己矛盾の渦へと突き落とした。
逆転前の「光」の記憶と、現在の「闇」の現実。そのあまりのギャップに、彼女の精神は、もはや耐えきれずにいた。自分は一体、何者なのか。仲間を愛し、世界を救おうとした英雄なのか。それとも、世界を憎み、全てを破壊する魔物なのか。
(……助けて……誰か……)
壊れた人形の慟哭
美しい少女の姿を保ちながらも、彼女は時折、その矛盾に耐えきれず、赤子のように甲高く泣き叫び、そして、発作的に自らを傷つけようとするのだ。
「ああ……あああああっ……!」
彼女は、自らの身体(瘴気)を、その半透明な爪で、激しく引き裂こうとする。しかし、実体を持たない彼女の身体は、何度引き裂いてもすぐに元の姿に戻ってしまう。それは、自らの苦しみからさえも、決して逃れることのできない、永遠の拷問だった。
彼女の周囲に侍る怨念の魔物たちは、主のその唐突な狂乱に、ただ困惑し、怯えることしかできない。
彼女自身もまた、自らが世界に振りまく憎悪と苦しみに、永遠に囚われているのだ。 彼女が人間を狩れば狩るほど、新たな死者の苦悶が彼女の中に流れ込み、その悪夢はさらに深くなる。それは、決して満たされることのない渇きと、決して終わることのない苦痛の、無限ループであった。
最強の敵である「紫の帳の娘」の、その内面的な苦しみ。彼女が、単なる絶対的な悪ではなく、この物語における究極の悲劇の被害者でもあること。その事実が、この救いのない物語に、唯一の、そしてあまりにも深い哀れみと複雑さを加えていた。
彼女は、世界を滅ぼす災厄でありながら、同時に、誰よりも救済を求めている、壊れてしまった人形に過ぎなかった。しかし、その人形の糸を断ち切れる者は、もはやこの滅びゆく世界には、存在しないかに見えた。




