暗黒時代の突入96:最後の王国
魔郷の静かなる津波が大陸の東半分を飲み込み、世界の終わりが現実のものとして人々の意識に刻まれた頃。大陸の西端には、まだ人類の希望を掲げる最後の砦が、一つだけ残されていた。白亜の城壁に囲まれた、騎士道国家アーサー王国。
かの国は、魔郷の侵攻に対し、最も組織的で、最も英雄的な抵抗を試みた。アーサー四世国王の名の下、伝説の円卓の騎士の末裔たちが、その全ての誇りと武力を結集し、大陸中から逃れてきた難民たちを受け入れ、最後の防衛線を築いていたのだ。
「恐れるな、民よ!」
城壁の上で、騎士団総長である老将ランスロット二世が、集まった数万の民衆に檄を飛ばした。「我ら円卓の騎士がいる限り、いかなる闇もこのキャメロット城を侵すことはできん!我らの剣と盾、そして揺るぎなき騎士道精神が、必ずや諸君を守り抜く!」
その言葉に、人々は最後の希望を見出した。物理的な強さ、組織的な規律、そして高潔な精神。アーサー王国は、人間が持ちうる、最高の美徳を結集した最後の王国であった。
忍び寄る知的脅威
だが、魔郷の侵略は、彼らが想像するような、剣と魔法が交錯する英雄的な戦いではなかった。最初の攻撃を仕掛けてきたのは、サイラスの幻影だった。彼は、城壁の物理的な防御など意にも介さず、怨念の影として、城内の通信網や人々の心の隙間へと、音もなく侵入していた。
『――緊急伝令!東門の守備隊が、魔郷の瘴気に精神を汚染され、同士討ちを始めた模様!』
『――西の食糧庫に、魔物が潜入!備蓄食糧の全てが、呪いの毒で汚染された!』
サイラスが流す偽情報と心理戦は、鉄壁を誇った騎士団の統制を、内側から、じわじわと蝕んでいった。
「落ち着け!デマに惑わされるな!」
ランスロット総長は必死に秩序を維持しようとしたが、目に見えぬ敵が引き起こす猜疑心と恐怖の連鎖は、もはや彼の指揮権をもってしても、止めることはできなかった。騎士たちは、隣に立つ戦友の顔に、いつ裏切るとも知れぬ敵の影を見るようになっていた。
誇りの崩壊
そして、城内が混乱の極みに達した、まさにその時。
「紫の帳の娘」が率いる、実体のない怨念の軍勢が、白亜の城壁を、まるで霧が立ち込めるかのように、静かに、そして抗いがたい力ですり抜けてきた。
「迎え撃て!」
騎士たちは、勇猛果敢に剣を抜き、魔物の群れへと突撃した。しかし、彼らの誇りである鋼の剣は、怨念の身体を、空しく、何度も、すり抜けるだけだった。
魔物たちの攻撃は、肉体には向かわなかった。彼らは、騎士たちの魂の最も深い場所――彼らが拠り所としてきた、「誇り」と「栄光」の記憶に、直接、その呪いの牙を剥いた。
彼らは、英雄的な最期など許されなかった。
ある高潔な騎士は、かつて自らが竜を討ち果たした、輝かしい武勇伝の記憶を見せられた。しかし、その記憶は悪夢のように歪められ、竜の断末魔の叫びが、彼が見捨てた村人たちの怨嗟の声へと変わり、「英雄よ、なぜ我らを見捨てたのだ」という幻聴が、彼の脳内で無限に繰り返される。
「……違う……私は、民を守るために……!」
またある騎士は、国王への絶対的な忠誠を誓った、叙勲式の光景を見せつけられた。しかし、その記憶の中の国王の顔は、彼を嘲笑うサイラスの顔へと変わり、「お前のような駒は、いつでも捨てられるのだ」と、そのプライドを根底から否定する言葉を囁き続ける。
「……陛下は……私を……信じて……」
彼らは、自らの栄光の記憶を悪夢として見せつけられながら、その誇りを根こそぎ砕かれていった。武勲は罪となり、忠誠は愚行となり、正義は偽善へと反転させられる。精神の鎧を一枚一枚、残酷に剥がされていくその様は、もはや戦闘ではなく、魂の凌辱であった。
無力なる騎士道
「……やめろ……。やめてくれ……」
ランスロット総長は、膝をつき、絶望していた。彼の周りでは、王国最強と謳われたはずの円卓の騎士たちが、次々と正気を失い、発狂し、自らの剣で自らの胸を突いたり、虚空に向かって意味のない絶叫を繰り返したりしていた。
人間の「誇り」や「正義」といった高潔な精神さえも、魔郷の根源的な怨念の前では、あまりにも無力だった。むしろ、誇り高ければ高いほど、その崩壊がもたらす絶望もまた深く、魔物たちにとって、より上質な糧となるのであった。
物理的な強さの象-徴である騎士団が、精神的に最も脆い形で崩壊していく皮肉。それは、この世界の終わりが、もはやいかなる英雄譚によっても覆すことのできない、絶対的なものであることを、残酷なまでに示していた。
狂気に陥った騎士たちは、やがて動かなくなり、その身体から魂が吸い上げられ、紫の帳の娘の原動力(死のマナ)へと変換されていった。そして、その抜け殻となった甲冑の中から、今度は新たに、かつて自らが誇りとした騎士道の記憶を悪用し、生存者を狩る怨念の魔物として再誕生するのだった。
完全なる絶望
数日後。大陸最後の砦であったアーサー王国は、沈黙した。白亜の城壁はそのままに、その内側で、全ての生命の営みが、完全に停止したのだ。
後に残されたのは、かつて自らが守ると誓った王国を、今や怨念の鎧のままに彷徨い歩く、元騎士たちの亡霊だけであった。
完全な絶望が、ついに世界を覆い尽くした。希望の最後の灯火は、最も惨めで、最も屈辱的な形で、吹き消されたのだ。物語は、もはや再生の可能性さえも見いだせない、真の終焉へと、その最後の歩みを進めていた。




