暗黒時代の突入95:怨念たちの饗宴
天の法則が狂い、大地が沈黙し、世界が緩やかな死へと向かう中、拡大した魔郷から、ついに、無数の魔物たちが世界中へと解き放たれた。それらは、「紫の帳の娘」が五十年の歳月をかけて自らの内に凝縮してきた、数多の無念の死の顕現であった。グランベルクのかつての国民、ギルドの勇敢なる冒険者、そして誰よりも深く世界を呪ったサイラスの幻影。彼らはもはや、単一の怨念の集合体ではなかった。一体一体が、生前の苦悶と憎しみを糧とする、明確な個性と意志を持った、独立した魔物と化していた。
彼らは、かつて自分が生きていた、あるいは無念の死を遂げた場所へと、まるで血の匂いを嗅ぎつけたハイエナのように、引き寄せられていった。そして、各地で人間たちを弄び、精神的に追い詰めてから魂を喰らうという、悪辣な狩りの饗宴を開始する。
饗宴の始まり:それぞれの復讐劇
かつての英雄、今の破壊者
アルテミス王国の国境の町、エッジウォーター。広場に現れたのは、英雄「不動」のバルガスの幻影だった。彼はかつて守ったはずの民衆に、『……俺は、お前たちを見捨てた……』と絶望を囁き、彼らの心に「見捨てられる恐怖」を植え付けた。英雄への信頼が深かった分、その裏切りによる絶望もまた深く、衛兵たちは互いを敵とみなし殺し合いを始めた。バルガスの幻影は、その地獄絵図を虚ろな瞳で見つめながら、彼らの恐怖に染まった魂を、ゆっくりと啜っていった。
歪んだ知性の復讐劇
学問都市ライブラリアでは、サイラスの幻影が暗躍していた。彼は才能がありながらも評価されなかった孤独な学者たちに近づき、『……私なら、君に、無限の知識と永遠の研究時間を与えられる』と甘言を弄した。知的好奇心という純粋な欲求を悪用され、学者たちは自ら進んで彼の眷属と化し、図書館は狂気の数式と禁断の呪詛を呟き続ける生ける屍の巣窟と化した。
繰り返される日常の悪夢
ある小さな農村では、病で亡くしたはずの妻の幻影が、夫を森の奥深くへと誘い、その魂を喰らった。また別の家では、流行り病で死んだ長男の幻影が、『……お母さん、ずっと独りで寒かったんだ……』と母親に抱きつき、その生命エーテルを啜りながら、生前決して見せることのなかった歪んだ笑みを浮かべていた。彼らは、最も純粋であるべき愛と記憶を、最も効率的な捕食の道具として悪用していた。
社会の裏側に溜まった怨念の噴出
饗宴は、ありふれた悲劇だけでは終わらなかった。魔郷は、社会の裏側で積もり積もっていた、より暗く、より根深い不満や恨みをも、新たな魔物として解き放ったのだ。
宮廷の陰謀、蘇る亡霊
王都カストラムの王宮の、薄暗い廊下。一人の大臣が、深夜、機密文書を片手に自室へ戻ろうとしていた。彼の名は、エドワード・フォン・ハインリッヒ。現国王の側近として権勢を誇っていたが、その地位は、十数年前に政敵であった前宰相アルフレッドを、陰謀によって失脚させたことで手に入れたものだった。アルフレッドは失意のうちに病死したとされている。
「……誰だ?」
廊下の闇の中から、人影が現れた。それは、アルフレッドその人の姿だった。ただし、その顔は憎悪に歪み、その手には、彼を陥れた偽の証拠書類の幻影が握られている。
『エドワード……貴様だけは、許さん……!』
アルフレッドの怨念は、物理的な攻撃は行わない。ただ、彼が生前知り得た、エドワードの数々の不正や裏切りの秘密を、宮廷中に響き渡る大声で暴露し始めたのだ。
『お前は!南方の貿易利権を独占するために、国王陛下を欺いていた!』
『五年前の飢饉の際、お前は救済用の穀物を横流しして私腹を肥やしていた!』
大臣は恐怖に顔を引きつらせた。「や、やめろ……!」。だが、怨念の声は止まらない。翌朝、全てを暴露され、味方も信頼も失った彼は、自室で自らの命を絶っているのが発見された。その魂は、言うまでもなくアルフレッドの怨念によって喰われていた。表舞台には決して上がらない、権力闘争の裏側で生まれた恨みつらみが、今、死者の口を借りて復讐を始めたのだ。
虐げられた者たちの逆襲
工業都市の、労働者たちが暮らすスラム街。ここでは、かつて工場の過酷な労働で命を落とした、無数の労働者たちの怨念が、一つの巨大な集合体となって現れた。それは、煤と油にまみれた、何百もの腕を持つ、巨大な異形の魔物だった。
『働け……働け……死ぬまで働け……!』
魔物は、かつて自分たちを酷使した工場の経営者や監督官たちを、一人、また一人と襲い始めた。彼らを殺すのではない。ただ、その巨大な腕で捕らえ、工場の炉の中に放り込み、自分たちが味わったのと同じ、終わりのない労働の地獄を、永遠に体験させるのだ。炉の中で、彼らの魂は燃え尽きることも許されず、ただひたすらに、幻のハンマーを振り下ろし続ける。その苦痛と絶望のエーテルが、魔物の力の源泉となっていた。
ランク制度の闇、嫉妬の炎
冒険者ギルドの支部。ここでは、高ランクの冒険者であったが故に、仲間からの嫉妬や裏切りによって命を落とした者たちの怨念が、饗宴を繰り広げていた。
「……おい、見てみろよ。あいつ、また一人でSランク依頼を成功させやがった」
「ちっ、気に食わねえ。俺たちだって、運が良ければ……」
Aランク冒険者、ロキ・シャドウブレイドは、ダンジョンの最深部で、信頼していたはずのパーティーメンバーに背中から刺されて死んだ。彼の得た希少な魔道具を奪うために。
そのロキの怨念が今、ギルドに戻ってきた。彼は、かつての仲間たちの前に現れ、彼らの心の最も醜い部分――嫉妬心――を増幅させる。
『お前は、いつまでBランクで燻っているつもりだ?本当は、Sランクになる力があるのに』
『あのAランクの新人、気に食わないだろう?奴がいなければ、お前がギルドのスターになれたはずだ』
囁かれた者たちは、やがて我を失い、自分より格上の冒険者に、嫉öt に駆られた刃を向け始める。ギルドは、内部からの崩壊を始めた。
繰り返される日常の悪夢
最も陰湿な狩りは、ごくありふれた日常の中で行われた。
ある小さな農村。魔郷から生まれた、かつてその村の住民だった者たちの怨念が、里帰りするようにして戻ってきた。
夜、一人の農夫が家路についていると、道の向こうから、数年前に病で亡くしたはずの妻の姿が見えた。
「……マリア……?お前、なのか……?」
妻の幻影は、生前と変わらぬ優しい笑顔で、彼に手招きをする。
『あなた……会いたかった……。さあ、こちらへ……』
農夫は、理性が警告するのも聞かず、亡き妻の幻影に引き寄せられるように、森の奥深くへと消えていった。二度と、戻ることはなかった。
彼らはただ無差別に殺戮を行う、思考のない怪物ではなかった。それこそが、この災厄の最も恐ろしく、そして最も悲しい部分であった。
とある商業都市の外れ、貧しいながらも肩を寄せ合って生きてきた一家があった。父親と母親、そして七歳になる娘の三人家族。その穏やかな夜の食卓を、一本の細い影が、音もなく訪れた。
「……ただいま」
扉を開けて入ってきたのは、数年前に流行り病で亡くしたはずの、長男の姿だった。生前と変わらぬ、はにかんだような優しい笑顔。だが、その身体は半ば透け、足元はおぼつかない。
「……ケンタ……?まさか、お前なのか……?」
母親が、信じられないといった表情で立ち上がり、息子へと歩み寄る。
『お母さん……寒かったんだ……ずっと独りで……』
長男の幻影は、そう言うと、母親にそっと抱きついた。母親は、涙を流して我が子を抱きしめた。冷たい。氷のように冷たい身体だった。
『……でも、もう寂しくないよ。お母さんも、お父さんも、妹も……ずっと、ずっと、一緒だからね』
次の瞬間、母親の顔から血の気が引き、その身体は急速に萎びていった。長男の幻影は、母親の生命エーテルを啜りながら、生前決して見せることのなかった、恍惚とした、歪んだ笑みを浮かべていた。それは、生前の愛情という記憶と、見捨てられて死んだという執着に基づき、最も残酷で、最も相手の心を傷つける形で魂を弄び、刈り取っていく、悪魔の所業であった。彼ら魔物は、元人間であることの知識を、最も効率的な捕食方法として悪用していたのだ。その底知れぬ恐ろしさに、父親と娘は、叫び声を上げることさえできなかった。
息子を失った両親の絶望は、新たな死のエーテルとなり、魔郷の力をさらに増大させる。そして、その絶望の中から、また新しい怨念の魔物が生まれるかもしれない。魔物たちは、自分たちがそうされたように、他者の魂に絶...望を植え付け、新たな怨念を生み出し続けるのだ。
魔郷は、もはや物理的な領域を拡大するだけでなく、世界中の人々の心の中に、その分身となる「子株」を、着実に植え付け始めていた。愛する者を失った悲しみ、守れなかった後悔、見捨てられた孤独。そうした普遍的な人間の負の感情全てが、今や、怨念の魔物が芽吹くための、肥沃な土壌と化していた。
一体一体の魔物が持つ、個人的な怨念と、人間的である様。彼らはただ無差別に殺戮するのではなく、生前の記憶と執着に基づき、最も残酷で、最も相手の心を傷つける方法で、その魂を弄び、刈り取っていくのだ。それは、単なる怪物ではなく、元人間であることの、底知れぬ恐ろしさだった。
この悲劇の連鎖は、怨念の核たるアシェルの魂が救済されない限り、永遠に続く。
魔物たちは、自分たちがそうされたように、他者の魂に絶望を植え付け、新たな怨念を生み出し続ける。魔郷は、もはや物理的な領域を拡大するだけでなく、世界中の人々の心の中に、その分身となる「子株」を、着実に植え付け始めていた。
物語の脅威の「質」は、この上なく悪辣なものへと変化した。倒すべき敵は、もはや単一の巨大な悪ではない。それは、社会のあらゆる階層に潜む、かつて隣人であり、家族であり、愛する者であった者たちの記憶を悪用し、無数に増殖し、人々の最も弱い部分に付け入る、愛と記憶を武器とした、悪夢そのものであった。世界は、外側から物理的に破壊されると同時に、内側から精神的に、静かに、そして確実に、喰い尽くされようとしていた。




