暗黒時代の突入94:歪む太陽、狂う星々 病める光、蝕まれた天蓋
「静かなる津波」が大陸の三分の一を死の大地へと変え、生き残った人々が地上での希望を失いかけていた頃、災厄は、もはや人間の矮小な営みなど意にも介さぬかのように、より根源的で、より広大な領域へと、その侵食を開始した。魔郷の影響は、ついに天象にまで及び始めたのだ。それは、大地という盤面の上で繰り広げられていた悲劇が、盤そのものを支える宇宙の法則すらも歪め始めた、決定的な兆候であった。
異変に最初に気づいたのは、夜明けと共に天に祈りを捧げる、辺境の修道士たちだった。
「……太陽が……おかしい。あの光は、我らの知る太陽の光ではない……」
東の地平線から昇る朝日は、もはや生命を祝福し、大地を暖める黄金色の慈愛に満ちた輝きを放ではいなかった。世界の太陽は、まるで癒えることのない重い病に罹ったかのように、その輝きそのものの生命力を失い、常に不吉な赤紫色を帯びるようになったのだ。その光は、かつてのように力強く大地を照らすのではなく、まるで薄い血の膜を通して見るかのように弱々しく、見る者の心に、理由のわからない不安と、魂の奥底から湧き上がるような深い倦怠感を植え付けた。世界は、永遠に続く黄昏、あるいは治癒不能な病に侵された患者の顔色のような、不健康で、陰鬱な光に包まれた。
天の法則の崩壊
夜が訪れると、その異常はさらに顕著で、そして悪夢のような様相を呈した。
「星が……!星が、落ちてくる!神々の涙が……!」
王都の天文台の頂上で、生涯を星々の運行の研究に捧げてきた王立占星術師が、髪を振り乱し、狂ったように叫び声を上げた。
夜空の星々は、神が定めたはずの、厳格で美しい天体の法則を完全に外れて彷徨い始め、まるで泥酔した蛍のように、頼りなく、そして予測不可能な動きで、漆黒のキャンバスを乱雑に、狂ったように飛び交っていた。
それは、宇宙の秩序の、完全な崩壊だった。恒星は、本来あるべき位置から滑り落ち、互いに引き寄せられ、衝突し、刹那の、しかし痛々しいほどの閃光を放っては、永遠の闇へと消滅していく。惑星は、母なる太陽の引力の鎖を断ち切られ、涙の軌跡のような、悲しい光の尾を引きながら、あてどなく、無人の冷たい宇宙空間へと、孤独に放り出されていく。夜空は、かつての、神々の叡智と調和を映し出す静謐な庭園から、混沌と破壊が支配する、狂気の舞踏会へと、その姿を変貌させていた。
星々が描く、幻覚的な光の軌跡。それは、美的でありながら恐ろしい世界の崩壊を、壮大なスケールで映し出していた。ある夜は、空全体が巨大な万華鏡のように、絶えず変化する無数の幾何学模様で覆われ、人々は天から降り注ぐその冒涜的な美しさに、恐怖と魅了の狭間で立ち尽くした。またある夜は、巨大な龍の姿をした星雲や、苦悶に顔を歪める巨人の顔をした暗黒星雲が、都市の上空を、まるで死の行進のように、ゆっくりと、そして威圧的に横切っていった。
狂気の預言者たちと大地の沈黙
この、宇宙的な異常現象は、世界の知的階級と、その生活の基盤に、致命的な打撃を与えた。
占星術師たちは、自分たちが生涯をかけて信じてきた宇宙の調和と法則が、目の前で破壊されていく光景に耐えきれず、次々と発狂した。
「予言はもはや不可能だ!星々は嘘をついている!神は死んだ!秩序は滅びたのだ!」
彼らは、自らが何十年もかけて書き溜めた精密な星図や観測記録を狂ったように焼き払い、「空から七色の蛇が降ってくる」「海が血に染まる」といった、狂気の預言を叫びながら、街を裸足で彷徨うようになった。
科学者たちもまた、自らの無力さに絶望した。物理法則そのものが、日によって、あるいは場所によって、気まぐれに変化する。昨日まで絶対の真理だったはずの数式が、今日には何の価値も持たない戯言と化す。知性の探求は、その羅針盤を完全に失い、全ての学問は、意味のない言葉遊びへと堕してしまった。
そして、天の狂いは、即座に、そして無慈悲に、地上の営みを蝕んでいった。病んだ太陽の光の下で、農作物も育たず、世界中が原因不明の飢饉に見舞われ始めたのだ。種を蒔いても芽は出ず、実っても、その果実は内側から黒く腐り落ちていった。大地そのものが、生命を生み出す力を、失いかけていた。
その原因は、太陽だけではなかった。魔郷から漏れ出す「死のエーテル」は、もはや大気中を漂う微粒子となって大陸全土に降り注いでいた。距離が離れていても、その致命的な余波が届くほどに、魔郷は強大になっていたのである。死のエーテルは、土壌に宿る生命力を根こそぎ奪い去り、大地そのものを、不妊の荒野へと変えていったのだ。川は流れを止め、井戸はことごとく涸れた。気候は極端から極端へと振れ、ある日は灼熱の熱波が大地を焼き、次の日には真冬のような吹雪が全てを凍らせた。
量子の悲鳴と世界の終わり
魔郷の呪いは、もはやマクロな物理現象に留まらなかった。世界の法則そのものが壊れ始め、その影響は量子的で微細な現象にまで及んでいた。
子供が、愛情を込めて積み上げた積み木が、何の前触れもなく、その存在確率の波が収束に失敗したかのように、原子レベルで崩壊し、ただの砂の山と化す。母親が、家族のために編んでいた毛糸が、突然、その構成原子が再配列を起こし、全く別の色の、あるいは別の材質の、見知らぬ糸へと「確率的に変化」してしまう。恋人たちが交わす愛の言葉が、音の波形レベルで干渉され、歪み、憎悪の響きを伴って相手に届いてしまう。
存在の、耐えがたいほどの不確かさ。世界の、あまりにも脆い現実。世界中の人々は、これらの理解不能な現象を前に、抗うことのできない、絶対的な、世界の終わりを確信した。
災厄が物理的な領域だけでなく、宇宙的な法則、人々の信仰や生活の根幹までを蝕み始めたことを、これらの現象はっきりと示していた。これはもはや、一つの地域の災厄ではない。世界そのものが罹患した、死に至る病だった。
終末的な雰囲気と、どうしようもない混乱とカオスが、世界を完全に覆い尽くした。希望という言葉は、もはや誰も口にしなくなった。人々はただ、狂い始めた星空を見上げ、明日にも訪れるであろう、絶対的な無を待つだけだった。そして、その世界の終わりを告げる光景の、冒涜的なまでの美しさだけが、皮肉にも、神々しいまでの輝きを放っていた。




