エーテルの時代の終焉90:龍人族の選択
グランベルク王国の首都カストラムは、死の淵にあった。冒険者ギルドは壊滅し、その墓標のように静まり返ったギルドホールには、ただ風が吹き抜けるだけ。サイラスの幻影が放つ偽情報によって通信網は麻痺し、人々は疑心暗鬼に陥り、都市機能は完全に崩壊していた。紫の瘴気は、もはや王都の外壁にまで達し、人々は終わりのない夜の中に閉じ込められていた。
この、絶対的な絶望の中で、王国に残された最後の希望として、ついに彼らが動いた。龍人族の精鋭部隊である。
アレクサンダー王の勅命の下、ドラゴ・シルヴァリオン(息子ではなく、かつてのアレクセイの政敵であったシルヴァリオン公爵の孫世代にあたる指導者)が率いる、百名の龍人族戦士たちが、王宮の前に集結した。彼らは、人間が持ちうる最高の身体能力と、龍族が持つ高いエーテル感受性、そして飛行能力を兼ね備えた、王国最強の戦力だった。
「我ら龍人族の誇りに懸けて、必ずやこの災厄を祓ってみせる!」
ドラゴは、集まった民衆の前で力強く宣誓した。彼の背中からは、決意の証として、美しい白銀の翼が広げられている。その神々しい姿に、絶望に沈んでいた人々は、最後の希望の光を見た。
初志の奮闘
龍人族部隊は、魔郷へと進軍した。彼らの戦い方は、人間のそれとは全く異なっていた。
「全隊、龍化して飛翔せよ!上空から敵の位置を探る!」
百体の龍が、一斉に天へと舞い上がった。その光景は、伝説の龍戦争の再現のようであった。
彼らの高いエーテル感受性は、当初、怨念の魔物に対しても一定の効果を見せるかと思われた。
「……いるぞ!あそこの廃墟だ!夥しい数の、負のエーテル反応!」
偵察役の龍人族が、人間の目には見えぬ魔物の群れの位置を、正確に特定する。
「炎のブレスで、一帯を浄化する!」
ドラゴの号令一下、数十の龍の口から、灼熱の炎が放射された。炎は、物理的な効果は持たないはずの魔物の瘴気を、一瞬だけ焼き払い、その勢いを削いだ。怨念の集合体である魔物にとって、生命の根源たる龍の炎は、天敵とも言える浄化の力を持っていたのだ。
「行ける……!これなら、勝てるかもしれん!」
龍人族の戦士たちの間に、希望が生まれた。
共鳴する衝動
だが、その希望は、あまりにも脆く、儚かった。
戦いが続くにつれて、龍人族の戦士たちは、奇妙な精神的変調をきたし始めた。魔物の根源的な憎悪に触れ続けた彼らの魂は、無意識のうちに、その負の波動に共鳴し始めたのだ。
「……殺せ……」
「……破壊しろ……」
「……全てを、燃やし尽くせ……」
アシェルの純粋な憎悪から生まれた魔物の怨念は、彼らの内に眠る、龍本来の、野生の破壊衝動を、内側から激しく揺さぶった。龍族は元来、誇り高くも、その力の根底には、全てを焼き尽くす混沌の炎を宿している。人間との共存の中で理性によって抑え込まれていたその本能が、魔物の怨念に共鳴し、再び目覚めようとしていたのだ。
「う……おおおおおおっ!!」
若い龍人族の一人が、突然、味方であるはずの集落に向かって、炎のブレスを吐きかけた。
「何をするか、貴様!」
ドラゴが慌ててそれを制止する。
「……すみません……!我を……忘れて……!」
若者は、恐怖に震えていた。自らの意志とは無関係に、破壊の衝動が内から湧き上がってくる。暴走しかける危険に、戦士たちは直面していた。
届かぬ刃、無力な翼
さらに、戦闘が長期化するにつれて、より絶望的な事実が明らかになった。龍の炎は確かに魔物の瘴気を一時的に払うことはできる。しかし、それは表面的なものに過ぎなかった。
彼らの攻撃は、実体を持たない魔物の本体に、決定打を与えることができず、瘴気を払っても、数分後には再び元の姿に戻ってしまう。それはまるで、霧を剣で斬りつけるような、虚しい戦いだった。
「くそっ……!キリがない……!」
ドラゴは、歯ぎしりした。最強の力を誇る自分たちが、実体のない亡霊を相手に、消耗戦を強いられている。その屈辱は、彼らのプライドを深く傷つけた。
その時、一人の斥候が、驚くべき発見をした。
「隊長!不思議なことが……!」
「何だ!?」
「龍の姿でいる限り、奴らは、我々を狙ってこないようです!」
それは、信じがたい、しかし唯一の活路だった。魔物は、その怨念の根源にある生前の記憶から、「人間のみ」を憎悪の対象としていた。龍という、人間とは異なる生命形態に対しては、敵意を向けないのだ。
唯一、龍の形態になると怨念の標的から外れることを発見した龍人族部隊。彼らは、過酷な選択を迫られた。
人間の仮面を脱ぎ捨てて
「……全隊に告ぐ」
ドラゴの、苦渋に満ちた声が、仲間たちの魂に響いた。
「……これより、我々は、人間であることを捨てる」
王国最強戦力である龍人族でさえも魔物に無力であり、生存のためには『人間』であることを捨て、完全な龍として生きるしかない。その、あまりにも過酷な選択を、彼らは突きつけられたのだ。
人間の姿に戻れば、魔物に狩られる。龍の姿でいれば、見逃される。
「……だが、それでは、民を……王国を守ることはできないではないか……!」
若い戦士の一人が、悲痛な叫びを上げた。
「……もう、手遅れだ」ドラゴは、赤黒い空を見上げた。「この災厄は、もはや人間の手でどうこうできるものではない。……我々は、生き延びねばならん。我々龍族の血を、未来へと繋ぐために」
共存の理想が、音を立てて崩れ始める瞬間だった。クラル王が築き上げ、アレクサンダー王が守り育んできた、人間と龍人族の幸福な共存の時代。それが今、一つの怨念によって、完全に終わりを告げようとしていた。
龍人族の戦士たちは、一人、また一人と、人間の姿に戻ることをやめた。彼らは、魔郷から離れた、人里離れた山脈へと、その行き先を変えた。それは、敗走ではなかった。種族として生き残るための、あまりにも悲しい、選択だった。
ドラゴは、去り際に、一度だけ、滅びゆくカストラムの街を振り返った。
(……すまぬ、陛下……。我々は、無力だった……)
その瞳からは、龍族としての、熱い涙が、一筋流れ落ちていた。




