エーテルの時代の終焉86:サツマの最期
黄金時代の黄昏
魔郷の拡大は、もはやどの国の国境線も、いかなる城壁も、意味をなさなかった。怨念の瘴気は、物理的な障害を無視して、ただ純粋な悪意のままに、東へ、東へと、その領域を広げていった。そして、ついにその紫の帳は、大陸の東端で、かつてないほどの平和と繁栄を謳歌していた理想国家――大和国の空をも覆い尽くそうとしていた。
この世界線の大和国は、クラル王の来訪という奇跡を経て、あの深刻な内部分裂と世代間対立を完全に克服していた。「三道合議制」の下、桜井義信の理想主義、武田信玄の伝統主義、そして影山無名の現実主義は完璧な調和を生み出し、国力は飛躍的に増大。民衆は「血筋ではない、心意気だ」という共通の理念の下で固く結ばれ、誰もが未来への希望を信じて疑わなかった。SATUMAたちもまた、ケンシンを次代の侍騎士団長候補として、国の防衛と若者の育成に、その情熱を注いでいた。
彼らは、幸福だった。そして、それ故に、あまりにも無防備だった。
理解不能な侵略
「報告!西の国境を、正体不明の紫色の霧が覆い尽くしました!接触した斥候部隊との通信が、完全に途絶!」
「北からも同様の報告が!農村数個が、地図の上から消えました!」
桜京の三道会議所に、絶望的な報告が次々と舞い込んでくる。影山無名の、大陸一と謳われた諜報網でさえ、この侵略者の正体を掴むことはできなかった。敵は軍隊ではない。国家でもない。それは、ただ静かに、全てを飲み込み、沈黙させる、自然現象のような、抗いがたい厄災だった。
「物理攻撃、魔法攻撃、共に効果なし!敵には実体がありません!」
前線からの報告は、武田信玄の眉間に深い皺を刻んだ。彼が誇る侍の騎士団も、空を切る剣を振るうことしかできなかった。
「外交ルートも完全に沈黙!これは……対話の通じる相手ではない……!」
桜井義信は、自らが築き上げてきた平和外交の無力さに、唇を噛み締めた。
蹂躙、魂の弄び
「紫の帳の娘」は、大和国が誇る文化や理念を、まるで子供が玩具を壊すかのように、弄び、そして踏みにじった。
美しく整備された桜京の街並みに、瘴気が蛇のように侵入していく。人々が恐怖に逃げ惑う中、「娘」は、歌舞伎座の舞台に、ふわりと舞い降りた。そして、観客席で震える人々を指差し、彼らが最も恐れる者の幻影を見せつけた。ある者には、戦場で死んだはずの息子の亡霊を。ある者には、病で失った妻の苦悶の表情を。彼女は、人々が恐怖と絶望の底で発する、質の高い負のエーテルを、まるで美食家がワインを味わうかのように、ゆっくりと、愉悦と共に啜っていた。
「希望の家」――戦争孤児たちが未来への夢を育んでいたあの場所は、最初の標的となった。子供たちの純粋な希望のエーテルは、彼女にとって極上のデザートに過ぎなかった。子供たちは、泣き叫ぶ暇もなく、自らが夢見た英雄や美しい未来の悪夢を見せられながら、魂を吸い尽くされていった。
SATUMAの若者たちは、最後まで抵抗した。
「化け物めが!民草に手を出すな!」
若きSATUMAの剣士、小次郎が、「娘」に向かって突撃する。彼の剣には、仲間を守るという純粋な正義の炎が宿っていた。
だが、彼の剣は、瘴気のドレスを、空しくすり抜けた。
「……なぜだ……」
「……あなたは、『人間』だから」
娘の、声にならない声が、小次郎の魂に直接響いた。次の瞬間、小次郎の脳裏に、彼が最も信頼していた師範が、彼を裏切り、見殺しにするという、あり得ない幻覚が叩きつけられた。
「師範……!なぜ……!?」
信じていたもの全てに裏切られるという絶望の淵で、彼の魂は、最も甘美な糧食となって、魔物に喰われた。
サツマの最期、断末魔のチェスト
「……退がるわけには、いかんごわすな」
桜京の中央、大和神社の鳥居の前で、最後の防衛線として立ちはだかったのは、ケンシンとタケル、そして生き残った数十名のSATUMAたちだった。彼らの背後には、かろうじて生き延びた数千の民衆が、恐怖に震えながら身を寄せ合っている。
「ケンシンさぁ」タケルが、血の気の引いた顔で、しかし不敵な笑みを浮かべて言った。「どうやら、こん戦、わいらの出番のごつあるな。あの世でアシェルに会ったら、『ちったあ頑張ったぞ』ち、自慢でくっかもしれん」
ケンシンもまた、静かに木刀を抜いた。
「……ああ。実体のなか相手に、わいらの『気』が、どこまで通じるか。試してみる価値は、ある。……たとえ、それで魂が燃え尽きようともな」
「紫の帳の娘」が、まるで死の女王のように、瘴気の中から、ふわりと姿を現した。その赤黒い瞳が、最後まで抵抗を続けるSATUMAたちを、最高のデザートとして、捉える。
「……行くぞ、おはんら!」
ケンシンが、叫んだ。
「わいらの魂ば、見せつけっ時じゃ!大和国の武士の、最後の意地じゃ!」
SATUMAの武人たちは、一斉に、それぞれの木刀や愛刀を構えた。そして、腹の底から、この世界に生きた証を刻みつけるかのように、最後の気合を迸らせた。
「「「チェストォォォォォォォォォォォッッ!!!!」」」
その、魂の咆哮が、死にゆく桜京の空に響き渡った。それは、単なる掛け声ではなかった。それは、自らの生命エネルギーの全てを燃焼させ、一瞬だけ、魂そのものを物理的な力へと変換する、SATUMAに伝わる最後の奥義。
彼らの身体が、青白いオーラに包まれた。その光は、紫の瘴気を一瞬だけ押し返すほどの輝きを放った。彼らは、実体のない魔物に対し、唯一対抗しうる手段――魂による攻撃を、敢行したのだ。
だが、相手は、五十年の歳月をかけて蓄積された、数十万の魂の怨念の集合体だった。
最初に突撃したタケルは、魔物の瘴気に触れた瞬間、愛する故郷が目の前で燃え落ちる幻覚を見せられた。
「故郷が……!俺の……薩摩が……!」
その絶望の隙を突かれ、彼の魂は一瞬にして吸い尽くされた。彼が最後に叫んだ「チェストォッ!」という声は、もはや気合ではなく、ただの断末魔の叫びだった。
ケンシンは、最後まで抵抗した。 彼は、自らの魂が燃え尽きていくのを感じながら、かつてアシェルに教えたはずの「気」の流れを、死の淵で思い出していた。
(……アシェル……。おはんに教えたかったのは、こんな結末じゃ……なか……)
彼の脳裏に、一度も会うことのなかった少女の幻影が浮かんだ。その幻影に向かって、彼は最後の力を振り絞り、木刀を振るった。
彼らの**「チェスト!」と叫び立ち向かう光景が、そのまま壮絶な断末魔となった**。一人、また一人と、SATUMAの武人たちは、自らの魂を燃やし尽くし、その場に崩れ落ちていった。彼らは、民を守るため、壮絶な最期を遂げたのだ。しかし、その英雄的な死を、記憶し、語り継ぐ者は、もはやこの国には残っていなかった。
武田信玄も、桜井義信も、影山無名も、それぞれの場所で、最後まで国のために戦ったが、彼らの武力も、理想も、策略も、実体を持たない絶対的な災厄の前では、何の意味もなさなかった。大和国は、建国から数年というあまりにも短い栄光の時代の後、その歴史の幕を、静かに、そして完全に閉じた。
魔郷は、着実に世界を飲み込んでいく。一つの文明が、また一つ、怨念の渦の中へと消え去った。後に残されたのは、廃墟と化した桜京と、そこに漂う、桜の花びらに似た、無数の魂の残滓だけだった。物語は、救いのない終焉へと、さらに一歩、その歩みを進めていた。




