エーテルの時代の終焉79:忘れられた罪
アシェルが殺されてから、七年の歳月が流れた。村人たちの記憶の中で、あの雨の夜の惨劇は、忌まわしい過去として、分厚い忘却の蓋の下に沈められていた。父親だったヨハンは、事件の翌年に村を去り、その行方は誰も知らない。村人たちは、口に出さずとも、互いに暗黙の了解があった。「あの井戸には、近づくな」「あの赤子の話は、するな」。彼らは、自分たちが犯した罪を、日常の忙しさの中に埋没させることで、心の平穏を保とうとしていた。
村は、表向きは元の平和を取り戻したかに見えた。季節は巡り、子供たちは生まれ、畑は例年通りの、可もなく不可もない収穫をもたらした。
だが、その平穏は、薄氷の上にあった。村の片隅、忘れ去られた古い森の奥深く。あの井戸の底で、世界を蝕む呪いが、静かに、そして着実に、その力を増していることを、誰一人として知る者はいなかった。
最初の兆候
異変は、ごく些細なことから始まった。まず、原因不明の家畜の死が相次いだのだ。
「またか……。今度はワシのところの牛だ……」
農夫のトーマスが、村の集会で青ざめた顔で報告した。「昨日の夜までは元気に草を食んでいたのに、今朝見たら、冷たくなっていた。外傷も、病気の兆候も、何もない。ただ、まるで……魂だけが、すっぽり抜き取られたかのように……」
最初は誰もが、偶然か、あるいは何かの奇病だろうと、軽く考えていた。だが、同じような不可解な死は、一頭、また一頭と、村中に広がっていった。獣医を呼んで調べさせても、原因は全く分からなかった。
次に、異変は人間に及んだ。井戸の水を飲んだ者――正確には、あの古い井戸から流れ出る地下水脈の水を、知らずに汲み上げてしまった農家の家族――が、原因不明の病に倒れたのだ。
「……身体が、だるい……。力が、入らない……」
患者たちは、一様に、生命力そのものが衰えていくような、奇妙な倦怠感を訴えた。高熱が出るわけでも、どこかが痛むわけでもない。ただ、日に日に痩せ衰え、生きる気力そのものを失っていく。その様は、まるでゆっくりと乾いていく植物のようだった。
呪われた場所
村人たちは、ようやく事の異常さに気づき始めた。そして、彼らの記憶の奥底に封印されていた、あの夜の恐怖が、じわりと蘇ってきた。家畜が死んだ農場、病人が出た家。それらは全て、あの古い森の、井戸に近い場所に位置していた。
「……まさか……あの赤子の……呪いか……?」
誰かが、震える声で呟いた。その一言は、村全体をパニックに陥れるには、十分すぎた。
「井戸だ!あの井戸が原因だ!」
人々は、あの井戸を「呪われた場所」として完全に封鎖し、忌避するようになった。屈強な男たちが、巨大な岩で井戸の口を塞ぎ、周囲には注連縄のような、魔除けの儀式を施した縄が張り巡らされた。森へと続く道は閉ざされ、子供たちには「あの森には、決して近づいてはならない」と、厳しく言い含められた。
怨念の胎動
だが、物理的な封鎖など、魂の渇望の前では、何の意味もなさなかった。
井戸の底では、アシェルの怨念が、死んだ家畜や、病んだ人々の魂から漏れ出す、負のエーテルを養分として吸収し、静かに力を蓄え始めていた。死の恐怖、病の苦しみ、そして村人たちの「呪い」への畏れ。それら全てが、彼女の怨念を、より強く、より濃密なものへと育て上げていた。
彼女は、もはや単なる無念の魂ではなかった。それは、周囲の負の感情を糧とし、自らの存在を維持し、そして増殖させていく、新たな生態系の頂点に立つ、捕食者と化していたのだ。
そして、呪いの兆候は、さらに不気味な形で、村人たちの日常を侵食し始めた。
夜。満月の光が、封鎖された森を青白く照らす頃。井戸の近くを通りかかる者は、水の底から聞こえる、赤子の泣き声のような、不気味なささやきを耳にするという噂が立ち始めたのだ。
『……寒い……』
『……痛い……』
『……お母さん……どこ……?』
それは、風の音か、獣の鳴き声か。だが、聞いた者は皆、口を揃えて言う。それは間違いなく、赤子の、助けを求める声だったと。そして、その声を聞いてしまった者は、必ず数日以内に、原因不明の病に倒れるのだと。




