エーテルの時代の終焉77:母の呪詛、父の恐怖
時間は、拷問のように引き伸ばされていた。母ヒルダの意識が、生命と共に我が子へと吸い上げられていく、その断末魔の数秒間。彼女の瞳に最初に映ったのは、信じられない、という純粋な驚愕だった。自らの腹を痛めて産んだ、愛しいはずの我が子が、自分を喰らっている。その、あまりにも不条理で、悪夢のような現実を、彼女の心は受け入れることができなかった。
(……なんで……?どうして、あなたが……私を……?)
だが、驚愕はすぐに、激しい肉体的な苦痛と、魂が根こそぎ引き抜かれる霊的な恐怖へと変わった。そして、その苦痛と恐怖の最も深い場所から、一つの、最も原始的で、最も強力な感情が、最後の生命の炎となって燃え上がった。
愛ではなかった。それは、純粋な憎悪だった。
我が子に命を奪われた母ヒルダは、断末魔の瞬間に、愛ではなく純粋な憎悪の眼差しを、その元凶である赤子に向けた。その目は、もはや母親のそれではない。裏切られ、食い物にされた獲物が、捕食者に向ける、呪詛と怨嗟に満ちた目だった。
(……化け物……!)
彼女の、声にならない最後の思念が、赤子の無垢な(と見える)魂に、最初の、そして最も深い傷として刻み込まれた。「お前さえ、生まれなければ」。その呪いの言葉は、物理的なエーテル吸収よりも、遥かに深く、アシェルの存在の根幹を汚染した。
父親の絶望
その、あまりにも恐ろしい光景を目撃した父ヨハンは、その場に崩れ落ちた。彼は、地元の森で働く、実直で心優しい木こりだった。病弱な妻の出産を、祈るような気持ちで待ちわびていた。しかし、彼の目の前で繰り広げられたのは、祝福されるべき生命の誕生ではなく、妻が、自らの子供によって惨殺されるという、地獄そのものの光景だった。
「……あ……ああ……ヒルダ……!」
彼の震える指先が、変わり果てた妻の骸へと伸ばされるが、その途中で止まった。彼の視線は、母の生命を吸い尽くし、今や不吉な薄紫色のオーラを放つ赤子へと、釘付けになった。
その瞳。赤子の、開かれたばかりの瞳には、天真爛漫な無垢さなど、どこにもなかった。代わりに宿っていたのは、人間のものではない、飢えと渇望に満ちた、捕食者の冷たい光だった。
恐怖が、彼の心を完全に支配した。あれは、自分の子ではない。妻の腹を借りてこの世に現れた、何か別の、邪悪な存在だ。
「……悪魔の子……だ……」
ヨハンの唇から、呪いの言葉が漏れた。それは、父が子に与えるべき祝福の言葉とは、正反対の、絶対的な拒絶の言葉だった。
村人たちの戦慄
産婆のマーサの絶叫を聞きつけ、村人たちが次々と産室になだれ込んできた。そして、彼らもまた、同じ地獄絵図を目撃することになる。ミイラのように乾ききったヒルダの亡骸。その傍らで、不吉な光を放つ赤子。そして、恐怖に顔を引きつらせ、壁際に後ずさる父親の姿。
「……なんてことだ……」
「ヒルダが……喰われた……?」
「あの子が……やったのか……?」
村人たちは、祝福されるべき新生児を、「真の疫є神」「悪魔の子」と呼び、恐怖におののいた。最初の世界線で、アシェルが時間をかけて背負わされた汚名は、この歪んだ世界では、生まれ落ちたその瞬間に、決定的な烙印として押されてしまったのだ。
淀み始めるエーテル
さらに、村人たちを恐怖させたのは、その物理的な現象だった。
赤子の周囲には、早くも不吉な死のエーテルが、まるで黒い霧のように澱み始めていた。それは、ヒルダの魂が非自然に絶たれたことで生まれた、魂の残滓。その冷たく、重い気配は、生きている者全ての生命力を、僅かずつだが確実に削り取っていく。部屋の蝋燭の炎が揺らめき、屈強な男たちでさえ、悪寒を感じて身震いした。
「……こいつを、このままにしてはおけん……!」
村の長老が、震える声で言った。「この子は、この村に、いや、この世界に、災いをもたらす……!」
最初の世界では存在しなかった、実の親からの強烈な「憎悪」。父から向けられた絶対的な**「恐怖」。そして、村全体からの、疑いのない「拒絶」**。
アシェルの魂は、生まれながらにして、愛ではなく呪いによって完全に包まれてしまった。彼女の物語は、もはや希望を探す物語ではない。ただひたすらに、与えられた呪いを、世界へと撒き散らしていく、絶望の年代記として、その最初の、そして最も暗い一ページを、記し始めたのである。その存在そのものが、罪であり、穢れであるという、救いのない状況が、ここに完全に確立された。




