エーテルの時代の終焉76:穢れた誕生
時間は、もはや逆巻くことをやめていた。だが、それは正常な流れに戻ったわけではない。『逆転の書』が最後に引き起こした因果の嵐は、この世界の、ある一点の時空を、修復不可能なほどに歪めてしまったのだ。
その特異点――グランベルク王国の片隅、名もなき村。雨が叩きつける、あの夜。古い家の、薄暗い産室で、女が一人、最後の力を振り絞っていた。母ヒルダ。その腹の中には、新しい命が宿っている。しかし、因果が歪んだこの世界では、その命がどのような形で生まれ落ちるのか、もはや神々でさえ予測できなかった。
アシェルは、再び赤子として生を受ける。だが、それは祝福されるべき誕生ではなかった。仲間たちとの絆の記憶も、エルダンから教わった力の制御法も、全ては因果の渦の彼方に消え去っている。
代わりに、その無垢な魂には、『逆転の書』の呪詛が、まるで生まれつきの痣のように、深く、そして禍々しく刻み込まれていた。「逆転」の呪い。それは、彼女の持つ力の性質を、光から闇へ、生から死へと、完全に反転させてしまっていた。
最初の咆哮、最初の破壊
「う……うあああああああっ!!」
女の絶叫と共に、赤子は産声を上げた。しかし、それは生命の誕生を喜ぶ声ではなかった。それは、この世の全てに対する、憎悪と渇望に満ちた、呪詛の咆哮だった。
生まれた瞬間、生存本能ではなく、純粋な破壊衝動として覚醒した「吸収」能力が、制御不能なまま暴走した。赤子の小さな身体が、にわかに薄紫色の、不吉な光を放ち始める。
「ああ……やっと会えたわね、私の……」
母ヒルダが、疲れ果てた表情で、しかし愛おしそうに、我が子へと手を伸ばした、まさにその刹那。
赤子の力が、牙を剥いた。最も近くにいた、最も豊かなエーテルの源――母ヒルダの生命エーテルを、一瞬にして、一滴残らず、根こそぎ吸い尽くしたのだ。
ヒルダの身体が、まるで急速に干からびていく花のように、その潤いと血の色を失っていく。彼女の瞳からは、我が子への愛情が驚愕と恐怖へと変わり、そして最期に、何も映さない虚無へと落ちていく。悲鳴を上げる間もなかった。彼女の魂は、我が子によって、完全に捕食された。
数秒後、ヒルダの身体は、まるで数百年を経たミイラのように、乾ききった骸となって、シーツの上に崩れ落ちた。彼女を即死させてしまったのだ。
反復と悪化、決定的な烙印
最初の世界の悲劇の「反復」と「悪化」。かつての世界線では、アシェルは母の命を緩やかに奪ってしまった。だが、この歪んだ世界では、彼女は母を瞬時に、かつ攻撃的に殺害してしまったのだ。
産婆を務めていた老婆マーサは、そのおぞましい光景を前に、腰を抜かして悲鳴を上げた。
「ひぃ……!あ、悪魔の子だ……!」
赤子は、母の生命を吸い尽くしたことで、さらに禍々しい光を増していた。その小さな瞳には、赤子らしい無垢さなど欠片もなく、ただ、飢えと破壊衝動だけが、飢えた獣のようにぎらついていた。
「この子は……この子は、ヒルダを殺した……!」
「疫病神どころじゃない!こいつは、真の災厄だ!」
駆けつけた村人たちは、乾ききったヒルダの亡骸と、不吉な光を放つ赤子を見て、恐怖に戦慄した。アシェルの存在は、この世界に生まれ落ちたその瞬間から、救いようのない、決定的に**「穢れた」**ものであるという、絶対的な烙"印を押されてしまったのだ。
破滅への序曲
赤子は、なおも満たされぬ渇望のままに、周囲のエーテルを無差別に吸い込み続けていた。部屋の蝋燭の炎が揺らぎ、駆けつけた村人たちの顔からも、生気が失われていくのが分かった。
(……もっと……もっと、喰わせろ……!)
言葉にならぬ、魂の叫び。それは、サイラスが『逆転の書』に込めた、純粋な破壊衝動そのものであった。




