エーテルの時代の全盛期75:消失する申し子
時間は、もはや逆巻くだけではなかった。それは、一つの存在を、歴史そのものから消し去るための、巨大な消しゴムと化していた。
アシェルの意識は、過去へと猛烈な速度で引きずり戻されていた。その旅路は、走馬灯のように駆け巡った彼女の短い生涯の、最後の逆再生だった。記念式典の輝かしい光景、革命の炎、仲間たちと交わした誓い、地下闘A技場の血と砂、リアンを救った夜の決意、ケンシンとの訓練の日々、エルダンと出会った焚き火の温もり、そして村での孤独な日々。その一つ一つの光景が、まるで色褪せた古い写真のように、次々と彼女の意識から剥がれ落ちていく。
(……いや……。忘れたくない……!)
魂が、声にならない悲鳴を上げる。ケンシンの、あの不器用な優しさを。リアンの、あの壊れそうなほど美しい笑顔を。仲間たちの、温かい手のぬくもりを。それら全てが、彼女という人間を形作っていた、かけがえのない宝物だった。失いたくない。何と引き換えにしてでも。
だが、無慈悲な時の奔流は、彼女の願いなど意にも介さず、さらに過去へと、その源流へと、彼女の存在を押し戻していく。
時間の逆流という現象を、主人公の主観視点で、エモーショナルに、そして絶望的に描写する。アシェルは、もはやその奔流に抗うことなどできない、ただの観測者だった。
(いや……!いやだ……!返して……!私の……私たちの時間を……!)
だが、彼女にはもう、叫ぶ声もなかった。彼女の魂は、あまりにも多くのものを失いすぎた。最後に彼女に残っていたのは、ただ、自らが築き上げてきた全ての美しいものが、目の前で失われていくのを、涙も流せずに見つめることしかできない、絶対的な無力感だけだった。
やがて、時間の逆流は、彼女がこの学園にやってきた、あの最初の日にまで達した。試験塔で「レメディアル」の烙印を押された、あの絶望の瞬間。
(……ああ。ここから……全ては、ここから、始まったんだ……)
だが、逆流は、そこで止まらなかった。
エルダンと出会った、あの廃墟の宿場町。彼から初めて「名前」を与えられた、あの温かい瞬間。
村で「疫病神」と呼ばれ、石を投げられた、あの孤独な日々。
そして――。
逆流は、ついに、彼女がこの世に生を受けた、あの雨の夜の、小さな産室へと到達した。
目の前には、息も絶え絶えな、若き日の母の姿があった。
(お母……さん……)
彼女の意識が、最後に形作った言葉。
だが、その言葉が音になる前に、彼女の魂は、完全に過去へと引き戻され、そして――。
世界は、白く、染まった。
ついに、時間の逆流は止まらず、彼女自身の意識が、この世界に生まれ落ちる、その直前の、絶対的な無へと到達した。
それは、光も、音も、温もりも、何一つ存在しない、完全な虚無だった。母の胎内にいる記憶すらない、存在以前の闇。彼女の意識は、最後の、か細い糸を手繰り寄せるように、自分が「アシェル」であったはずの、最後の記憶の断片を、握りしめようとした。
だが、それもまた、ぶつりと、音もなく、断ち切られた。
世界から消えるということ




