エーテルの時代の全盛期60:加速する研究
# 第六十章:狂気の加速――最後のピース
## 成功の熱狂――倫理観の麻痺
成功報告は、秘密研究所「プロメテウス」の天才たちを、熱狂の渦へと巻き込んだ。
「アシェルの能力を科学的に再現し、人類全てにその恩恵をもたらす」という、彼らの掲げた崇高な(と彼らが信じていた)目標が、ついに達成されたのだ。
研究室は――
興奮に、満ちていた。
「やった……!」
リーダーのレグルスが、叫んだ。
「やったぞ、みんな!」
レグルスは、普段の皮肉っぽい冷静さを完全に失っていた。
子供のように、はしゃいでいた。
そして、仲間たちと抱き合った。
「これで証明された!」
レグルスの声が、響いた。
「知性こそが、先天的な才能に勝るのだと!」
彼らは、祝杯を挙げた。
ワインが、注がれた。
グラスが、ぶつかり合った。
カチン、カチン。
自らの偉業を、夜通し語り合った。
その瞳には、もはや当初抱いていた倫理的な懸念や、禁断の知識に触れることへの恐怖など、微塵も残ってはいなかった。
偽りの成功は、彼らの倫理観を完全に麻痺させてしまったのだ。
「次は、どうする?」
マナ気象学の天才エリアナが、興奮気味に提案した。
「この理論を、もっと発展させられるはずだ!」
「エーテルの流れを、局所的にではなく、地域全体で制御できれば、天候そのものを操作できるかもしれない!」
エリアナの目は――
輝いていた。
野心で、輝いていた。
最初の成功に興奮した研究者たちは、一度道を踏み外すと歯止めが利かなくなる恐ろしさを、身をもって体現していった。
彼らは、サイラスにさらなる研究予算と実験材料を要求した。
より大規模で、より危険な実験を、次々と繰り返していくようになった。
地下の実験室の様相は、数週間で一変した。
以前の知的な探究の場という雰囲気は、消え失せた。
代わりに、狂信的な熱気と、非人道的な光景が支配するようになっていた。
捕獲されてきた魔獣の檻は、数を増した。
その中では、エーテルを過剰に注入されたり、逆に完全に抜き取られたりした生物たちが、苦悶の呻き声を上げていた。
ガルルル……
ギャアアアア……
悲鳴が、響いていた。
しかし、研究者たちは――
気にしなかった。
失敗した実験体は、研究室の隅に無造作に積み上げられていた。
生命への畏敬の念など、どこにも感じられなかった。
彼らの目的は、もはや「人類への貢献」などではなかった。
ただ、目の前にある、知的好奇心という名の麻薬に溺れ、自らの才能を誇示することだけに、その全ての情熱を注いでいた。
サイラスは、その狂気の加速を、満足げに、そして冷ややかに、見守っていた。
## 最後のピースを求めて――足りないデータ
研究が加速する一方で――
サイラスは一人、自らの真の目的である**『逆転の書』**の完成に向けて、最後の、そして最も重要な準備に取り掛かっていた。
サイラスの私室では――
毎晩、作業が続いていた。
(……順調だ)
サイラスは、心の中で呟いた。
(奴らの狂気が、最高の部品を作り上げてくれている)
レグルスたちが開発した、より精密なエーテル循環制御回路。
エリアナが生み出した、広範囲のエーテルを強制的に収束させる結界術。
ルキウスが発見した、時間の歪みを安定させるための数式。
それら、一つ一つの「光」の成果を、サイラスは着々と、自らの「闇」の兵器へと組み込んでいった。
しかし――
最後の仕上げには、どうしても欠けているピースがあった。
(……足りない)
サイラスは、思った。
(アシェルの、最新の、そして最も詳細なエーテル波形データが……)
『逆転の書』を完璧にアシェル専用の呪いの器とするためには、彼女の魂の「鍵穴」にぴったりと合う「鍵」――すなわち、彼女固有のエーテル波形の、精密なデータが必要不可欠だった。
彼が持っているのは、秋季カップ以前の古いデータだけ。
覚醒し、さらに成長を続けているであろう、現在の彼女のデータが必要だった。
## 内部協力者への接触――悪魔の囁き
そのデータがどこにあるか、サイラスは知っていた。
学園の北塔最上階「観測室」。
そして、そのデータにアクセスできるのは、かつては学園長オルティウスと、その直属の部下たちだけだった場所。
サイラスは、かつて自分が駒として使っていた男に、再び接触することにした。
ファウンデーション・ティアの苦学生、マルクスである。
アシェルの革命の後、マルクスは協力者として一時的に評価されたが、結局は日陰者のままであった。
才能ある者たちが次々と要職に就く中、彼は下級職員として燻っていた。
不満が――
溜まっていた。
なぜ、自分は評価されないのか。
なぜ、自分は報われないのか。
深夜――
サイラスは、マルクスが入り浸っている、街の安酒場を訪れた。
酒場は――
薄暗かった。
酒の匂いが、充満していた。
マルクスは、カウンターで一人、酒を飲んでいた。
「……サイラス……!?」
マルクスは、突然現れた過去の亡霊に、驚きと恐怖で目を見開いた。
「久しぶりだな、マルクス君」
サイラスの笑みは、以前と変わらなかった。
しかし、どこか虚無的な響きを帯びていた。
「君に、一つ儲け話がある」
サイラスは、金貨が詰まった重い袋を、テーブルの上に音を立てて置いた。
ドサッ。
重い音がした。
「ここに金貨百枚ある」
サイラスは、言った。
「簡単な仕事を手伝ってくれれば、これは君のものだ」
金貨百枚――
それは、下級職員であるマルクスの年収の十年分に相当する額だった。
マルクスの目が、欲にぎらついた。
「……どんな仕事だ?」
マルクスの声は、震えていた。
期待で、震えていた。
「簡単なことだ」
サイラスは、声を潜めた。
「北塔の観測室」
「あそこにある、今はもう誰も使っていない、学園長オルティウスの古い個人データベース」
「そこに接続するためのパスワードを、君は知っているはずだ」
「かつて、私の下で働いていたのだからな」
マルクスは、一瞬ためらった。
それは、明確な違法行為だ。
しかし――
「……だが」
サイラスは、続けた。
「もはやオルティウスはこの世にいない」
「誰も管理していない、忘れ去られたデータだ」
「それを少しばかり覗き見たところで、誰が困る?」
「罪の意識など感じる必要はない」
「むしろ、こんな大金が手に入ってラッキーとしか思えないだろう?」
サイラスの悪魔の囁きは、マルクスのちっぽけな良心を、いとも容易く粉砕した。
(……そうだ)
マルクスは、思った。
(死んだ人間のデータだ)
(誰も困らない)
(それに、この金があれば……俺だってもっといい暮らしができる……!)
「……わかった」
マルクスは、言った。
「やろう」
## 手に入れたデータ――復讐の刃の完成
数日後――
マルクスは、サイラスに、一本のデータクリスタルを、震える手で手渡した。
「……これが、観測室にあった、アシェルに関する全ての記録だ……」
マルクスの声は、小さかった。
罪悪感が、あった。
しかし、金貨の袋を見ると――
その罪悪感は、消えた。
「ご苦労だった」
サイラスは、金貨の袋をマルクスに押し付けた。
そして、そのクリスタルを手に、闇の中へと消えていった。
陰謀が、着々と進行していく。
マルクスは、手にした金貨の重みに笑みを浮かべながら、その金が何に使われるのか、そしてそのデータがどのような悲劇を引き起こすのかなど、全く考えようともしていなかった。
ただ、目の前の欲望に忠実だっただけだ。
地下研究所に戻ったサイラスは、手に入れたデータを解析した。
そして、戦慄した。
「……すごい」
サイラスは、呟いた。
「これが、今の彼女のエーテル波形……」
データに記録されていたのは、もはや人間のものではない、神の領域に達した、あまりにも強大で、そして複雑なエーテルのパターンだった。
波形が、画面に表示されていた。
それは――
美しかった。
しかし、同時に――
恐ろしかった。
「……だが、これでいい」
サイラスは、微笑んだ。
「鍵穴が複雑であればあるほど、それを開けるための鍵を作る価値があるというものだ……」
サイラスは、その膨大なデータを、『逆転の書』の最後の回路へと、恍惚とした表情で組み込み始めた。
作業は――
続いた。
何日も、何週間も。
そして――
ついに、完成した。
復讐の刃は、ついに最終的な形を成した。
そして、その引き金を引いたのが、英雄たちの輝かしい世界の片隅で、ただ己の欲望を満たしたかっただけの、一人の凡庸な青年であったことを、歴史は記録しないだろう。




