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狭い密室で若い男女。何も起こらないはずもなく!?

新工房設立開始から半年が過ぎた頃の晩秋、クラルは工房の最上階にある私室で、静かに自分の人生を振り返っていた。窓から見えるグランベルクの街並みは、夕暮れの金色の光に包まれており、3年前の焼け跡からは想像もできないほど美しく発展していた。


石造りの家々が整然と並び、大通りには商人や職人たちが行き交っている。街角の酒場からは陽気な笑い声が聞こえ、子供たちの遊ぶ声が夕暮れの空気に溶けている。まさに理想的な都市の風景だった。


しかし、その美しい光景を眺めながらも、クラルの心は複雑な感情に支配されていた。


「20歳で村を出てから、もう5年が経っている」


羊皮紙に向かい、ペンを手に取りながら呟いた。時の流れの早さと、自分の変化の大きさに改めて驚いていた。


王都での暮らし1年半、長期依頼6ヶ月、そして商業都市復旧作業3年。気がつけば25歳になっていた。数字として見れば短い期間だが、その密度は一般的な人生の何倍にも相当するものだった。


「もうそんな年齢になったのか...」


鏡に映る自分の顔を見つめながら、クラルは変化を確認していた。20歳の頃の幼さは影を潜め、25歳の男性としての風格が備わっていた。しかし、体格は相変わらず華奢で、どこか中性的な魅力を保っていた。


数日前に『風見鶏』を訪れた時の光景が、クラルの心に微妙だが確実な変化をもたらしていた。その記憶は鮮明で、思い出すたびに胸の奥が暖かくなった。


「ヴェラさんとダンさんの幸せそうな家庭」


二人が作り上げた家庭的な雰囲気は、以前のクラルには理解できなかった価値観だった。効率性や技術的完璧さを追求していた頃の彼にとって、家庭的な温かさは二次的なものでしかなかった。


「子供を抱く二人の表情」


特に印象深かったのは、エミリーを抱くヴェラの母親としての表情だった。職人としての厳格さとは全く異なる、慈愛に満ちた柔らかな笑顔。そして、その妻と子を見つめるダンの愛情深い眼差し。


「家族的な温かい雰囲気」


工房全体を包んでいたその雰囲気は、単なる作業場を超えた何かだった。生活の場であり、愛の場であり、未来への希望の場でもあった。


それらすべてが、クラルに新たな憧れを抱かせていた。今まで考えたこともなかった人生の可能性が、突然目の前に現れたのである。


「自分も、そろそろ結婚を考える年齢なのではないだろうか」


この思いは、25歳という年齢だけでなく、社会的地位の変化も関係していた。500名の工房を経営し、王国の産業発展に貢献する立場になった今、個人的な幸福についても考える余裕ができていた。


しかし、その考えと同時に、深い不安も募ってきた。


「でも、今まで恋愛らしい恋愛をしたことがない」


これは、クラルにとって重大な悩みだった。冒険者として危険な任務に没頭し、鍛冶屋として技術向上に専念し、そして農業大臣として国家事業に献身してきた。常に仕事が人生の中心にあり、恋愛は縁遠いものだった。


王都での1年半も、『風見鶏』での日々も、グランベルクでの3年間も、すべて職業的な成功に向けた期間だった。その間に出会った女性たちも、同僚や部下、あるいは顧客という関係性の中でしか接触がなかった。


「このまま一人でいるのも...」


一人で過ごす夜の時間が、以前よりも長く感じられるようになっていた。仕事が終わって私室に戻った時の静寂が、時として寂しさを運んでくることがあった。


『風見鶏』での出会いの場としての機能を見た時、中年になってから慌てて婚活する人々の姿も目に浮かんだ。50代の男女が、お互いの趣味や価値観を探り合いながら、人生のパートナーを求めている光景。それは決して否定すべきものではないが、クラルにとっては避けたい未来でもあった。


「かといって、現状好みの人もいない」


これが最も具体的な問題だった。500名のメンバーを抱える新工房でも、恋愛対象として意識できる相手はいなかった。


女性メンバーは80名いたが、彼らは部下であり、同僚であり、指導対象だった。その関係性の中で恋愛感情を抱くことは、組織運営上も倫理的にも複雑な問題を生じさせる可能性があった。


「仕事関係者との恋愛は複雑になりそうだし...」


農業大臣時代の経験から、組織内恋愛の難しさを理解していた。権力関係、利害関係、そして周囲の目。すべてが恋愛感情を複雑にしてしまう。


「街で出会う人たちとも、なかなか接点がない」


グランベルクの街は発展していたが、クラルの社会的地位を考えると、自然な出会いの機会は限られていた。500名を雇用する工房経営者、元農業大臣、ドラゴンブレイカー。これらの肩書きが、むしろ自然な人間関係の障壁になることもあった。


忙しい日々の中で、プライベートな時間も限られており、新しい人間関係を築く機会がほとんどなかった。朝は早くから工房で作業に従事し、夜は遅くまで事務作業や将来計画の策定に時間を費やしている。


成功への階段を着実に上ってきたクラルだったが、その過程で失ったものの存在に気づき始めていた。それは、人間的な温かさであり、親密な人間関係であり、そして何より、愛する人と愛される関係だった。


夜一人で食事を取りながら、ヴェラとダンが子供を囲んで楽しそうに話している光景を思い出す。その対比が、自分の人生の何かが欠けていることを教えてくれた。


「成功したからといって、それで人生が完結するわけではない」


この気づきは、25歳のクラルにとって重要な転換点となった。今まで追求してきた職業的成功に加えて、人間的な幸福も求めるようになったのである。


そんな内省的な日々を送っていたある日の午後、突然の知らせが工房に届いた。クラルが品質管理部門での作業を監督していた時、受付係が慌てたように駆け寄ってきた。


「クラル様、緊急のお知らせです!」


息を切らした受付係の表情は、明らかに只事ではない重要性を示していた。


「王族による抜き打ち視察を実施いたします」


王国の使節団が工房の正面玄関に到着し、金の装飾が施された正式な通知書を持参していた。使節の筆頭は王室儀典官で、その威厳のある態度から事の重大性が伝わってきた。


「明日、王子殿下がお見えになります」


「抜き打ち...明日ですか?」


クラルは内心で慌てた。通常、王族の視察は少なくとも1週間前には通知があるものだ。準備する時間がほとんどないということは、これが真の意味での「抜き打ち」視察であることを意味していた。


この短期間で工房を王族視察に相応しい状態に整えるのは、容易なことではなかった。


「全員、工房の清掃を!」


クラルの号令で、500名の全メンバーが一斉に動き出した。普段から清潔に保たれている工房だったが、王族の視察となると基準が全く異なる。


「床を磨き上げてください」


「窓ガラスは一枚一枚丁寧に清拭を」


「作業台上の整理整頓を徹底的に」


各部門長が具体的な指示を出し、まるで軍隊のような組織的な清掃活動が開始された。


「最高品質の作品を展示用に準備してください」


展示室には、工房の技術力を示す代表作品を並べる必要があった。農具の改良版、精密工具、そして何点かの芸術的な装飾品。それぞれが工房の異なる技術面を代表するものだった。


「服装も正装に変更を」


普段は実用的な作業着で働いているメンバーたちも、この日ばかりは正装が必要だった。500名分の正装を一夜で準備するのは困難だったが、各自が持つ最良の服装で対応することになった。


一夜にして、工房全体が視察対応モードになった。深夜まで続いた準備作業により、翌朝の工房は普段以上に美しく整えられていた。


翌日午前10時、秋晴れの空の下で豪華な馬車列が工房前の石畳大通りに到着した。その光景は、グランベルクの街にとっても滅多に見られない壮観なものだった。


先頭を行くのは王室近衛騎士12名の騎馬隊。続いて、金と深紅の装飾が施された豪華な王室専用馬車が3台。最後尾には荷物運搬用の馬車2台と、さらに8名の護衛騎士が続いていた。


馬車から降りる人々の服装も、王族らしい豪華さだった。絹の服地、金糸の刺繍、宝石の装飾。すべてが王国最高級の工芸品だった。


「ご苦労様です」


最初に降りてきたのは、30代の品のある男性だった。身長は中背で、威厳のある顔立ちをしている。服装は深い青色のビロードに金の刺繍、腰には装飾的な儀礼用の剣を帯びていた。


「第二王子アルフレッド殿下です」儀典官が紹介した。


「お忙しい中、視察のお時間をいただき恐縮です」


アルフレッド王子の声は落ち着いており、王族らしい教養と品格が感じられた。クラルを含む工房の幹部たちは、深々と頭を下げて敬意を表した。


しかし、クラルの注意は次に馬車から降りてきた人物に向いていた。


王子の後から優雅に降りてきたのは、20代前半と思われる美しい女性だった。その美しさは、一目見ただけで周囲の空気が変わるほどの力を持っていた。


髪は栗色で、朝の陽光の中で金色の輝きを見せている。巧みに結い上げられた髪型は、上品でありながら若々しさも表現していた。瞳は深い青色で、知性と好奇心に満ちている。


服装は薄いピンク色のシルクドレスで、袖と裾には細かな銀糸の刺繍が施されている。首元には小さなサファイアのネックレス、耳には同色のイヤリング。控えめでありながら、確実に王族としての高貴さを示す装いだった。


「こちらは妹のエリザベス王女です」


王子の紹介に、工房の全員がさらに深く頭を下げた。


「興味本位でついてきてしまいました」


エリザベス王女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。その笑顔は、純粋で上品な魅力に満ちており、見る者の心を自然と和ませる力があった。計算されたものではない、心からの微笑みだった。


声も美しく、清らかな鈴の音のような響きがあった。話し方は丁寧でありながら親しみやすく、王族でありながら気取りがない印象を与えた。


「実は、私、ドラゴンブレイカーの大ファンなんです」


エリザベス王女は目を輝かせて言った。その瞳の輝きは、純粋な憧憬と興奮を表していた。


「ぜひとも、クラル・ヴァイス様とお会いして、お話を伺いたいと思っていました」


この言葉に、クラル自身が最も驚いた。まさか王女が自分のことを知っているとは思わなかったし、ましてや「ファン」だと言われるとは夢にも思わなかった。


王女の中では、クラルは憧れの英雄だった。彼女が抱いていたイメージは、様々な情報源から構築されたものだった。


「ドラゴンを撃ち倒した勇敢な冒険者」


この情報は、冒険者ギルドからの公式報告や、目撃者たちの証言から得られたものだった。王女の想像の中では、巨大なドラゴンと真正面から戦い、剣の腕一つで勝利した英雄的な戦士の姿があった。


「優秀な鍛冶屋として工房を切り盛りする実業家」


『風見鶏』時代の評判や、現在の500名工房の成功談も、宮中の情報網を通じて王女の耳に入っていた。技術者としての卓越した能力と、経営者としての手腕を兼ね備えた人物として認識していた。


「そして農業大臣として王国発展に貢献する政治家」


これは最も確実な情報源からのものだった。3年間の農業復旧プロジェクトの成功は、王室内でも高く評価されており、王女も詳細な報告書を読んでいた。


これらの経歴から、王女はクラルを想像していた。


「きっと大柄でガタイが良く、強そうな男性に違いない」


「威厳があって、頼もしい人物だろう」


「まさに理想的な騎士のような風貌の持ち主に違いない」


そんなイメージを抱いて、この日の出会いを楽しみにしていた。寝る前にも、どのような会話をしようかと考えていたほどだった。


「クラル・ヴァイスです」


クラルが深々と頭を下げて挨拶した瞬間、エリザベス王女は息を呑んだ。


「え...」


目の前にいたのは、予想とは正反対の人物だった。王女の頭の中で、理想像と現実が激しく衝突した。


「小柄で...中性的で...」


クラルの身長は王女とさほど変わらず、むしろ若干低いくらいだった。体格も華奢で、鎧を着た逞しい戦士というよりは、宮廷の学者や芸術家のような印象を与えた。


顔立ちは確かに整っていたが、男性的な力強さよりも、むしろ美しさが際立っている。まつ毛は長く、唇は形が良く、全体的に女性的な美しさすら感じさせる繊細な造形だった。


「まるで美少年のような...」


王女は心の中で呟いた。これまで出会った男性たちとは全く異なるタイプの美しさだった。


「こんな可愛らしい方だったなんて...」


この瞬間、エリザベス王女の心臓が激しく鼓動し始めた。予想していた逞しい英雄像とは全く違う、守ってあげたくなるような、可愛らしい青年。そのギャップが、王女の心を一瞬で奪ってしまった。


それは恋愛感情の始まりだった。理想と現実のギャップが生み出した、予想外の魅力への発見。王女にとって、これまで経験したことのない感情の動きだった。


「それでは、工房をご見学いただきましょう」


クラルが案内を始めると、王女は彼の一挙手一投足に注目していた。普通の見学者なら工房の設備や製品に関心を向けるところだが、王女の視線は常にクラルに向けられていた。


「丁寧で優雅な所作」


クラルの動きには無駄がなく、すべてが計算されたような美しさがあった。扉を開ける仕草、説明をする時の手の動き、設備を指し示す際の身のこなし。どれも自然でありながら品格があった。


25歳という年齢にしては若々しく、しかし子供っぽさはない。大人の男性としての落ち着きと、青年らしい爽やかさが絶妙に調和していた。


「知識豊富な説明」


技術的な内容について語る時のクラルは、普段とは異なる魅力を放っていた。専門知識の深さはもちろん、複雑な内容を分かりやすく説明する能力、そして何より、自分の仕事に対する情熱が言葉の端々から伝わってきた。


「こちらの溶鉱炉は、従来のものより30%効率が改善されています」


「この合金は軽量でありながら、強度は従来の鉄の2倍を実現しています」


「品質管理では、0.1ミリ単位での精度を保っています」


一つ一つの説明に、技術者としての誇りと責任感が込められていた。


「部下に対する思いやりのある態度」


見学の途中で、様々な部下たちがクラルに質問や報告をしてきた。その度に、クラルは相手の目線に合わせて丁寧に対応していた。


新人職人の不安そうな質問には励ましの言葉を添えて答え、ベテラン職人の提案には真剣に耳を傾け、女性職人たちには特に配慮のある言葉をかけていた。


すべてが王女の心を捉えていた。外見の可愛らしさと、内面の優しさと強さ。そのギャップがさらに魅力を増していた。


「こちらが最新の溶鉱炉です」


クラルが工房の中核である溶鉱炉の前で立ち止まった時、その表情は一変した。技術的な説明を始めると、その知識の深さと情熱が溢れ出してきた。


「従来の石炭燃焼式と異なり、魔法石を使用することで温度制御が格段に向上しました」


「最高温度は1800度まで到達可能で、しかも±5度の精密な制御ができます」


「これにより、これまで不可能だった合金の製造も可能になりました」


説明する時のクラルの瞳は輝いており、まるで少年のような純粋な興奮を見せていた。その姿は、王女にとって新鮮な魅力だった。


「外見は可愛らしいのに、こんなに専門的で...」


王女は興味深そうに聞き入っていた。実際の技術内容よりも、説明するクラルの表情に見とれていた。知識豊富な男性の魅力と、少年のような純粋さが同居している不思議な人物に、どんどん心を奪われていった。


「皆さん、王女殿下にご挨拶を」


クラルの呼びかけに、500名のメンバーが作業場の各所から集まってきた。整然と整列した彼らの表情は、誇らしげで満足そうだった。


「クラル様のおかげで、充実した仕事ができています」


農村出身の職人の一人が代表して言った。


「以前は将来に不安を感じていましたが、今では技術を学ぶ喜びを知りました」


「優しく指導してくださる素晴らしい指導者です」


元職人の女性が続けた。


「厳しい時もありますが、それは私たちのためを思ってのこと。本当に感謝しています」


「私たち女性にも平等に機会を与えてくださいます」


部下たちの証言を聞きながら、王女はクラルの人柄に深く感動していた。王族として多くの男性と接してきたが、これほど部下から心からの敬愛を受けている人物を見たことがなかった。


権力で従わせるのではなく、人間性で人々を導く真のリーダーシップ。それがクラルという人物の本質だった。


見学が進むにつれて、王女の質問は止まらなくなった。


「ドラゴン討伐の時は、怖くありませんでしたか?」


王女の最初の質問は、やはりドラゴンブレイカーとしての経歴についてだった。瞳を輝かせながら尋ねる姿は、まるで冒険談を聞きたがる少女のようだった。


「正直に申し上げますと、非常に恐ろしかったです」


クラルは率直に答えた。


「しかし、その恐怖を上回る責任感がありました。多くの人々を守らなければならないという使命感が、恐怖に勝ったのです」


この正直で謙虚な答えに、王女はさらに感動した。虚勢を張ったり、自分を大きく見せようとしたりしない誠実さが、クラルの魅力をより一層引き立たせていた。


「鍛冶屋の技術はどのように学ばれたのですか?」


「故郷の村で基礎を学び、王都の『風見鶏』という工房で本格的な技術を身につけました」


「そこでも多くの仲間に恵まれ、切磋琢磨することができました」


「農業大臣としてのご苦労はいかがでしたか?」


「3000名を超える人々の生活に責任を持つのは、想像以上に重い責任でした」


「しかし、その分だけ大きな達成感もありました。多くの方々の幸せに貢献できたことは、人生最大の喜びです」


王女の質問は止まらなかった。クラルのことをもっと知りたいという気持ちが溢れ出ていた。


「王女殿下、ご質問が多すぎて...」


クラル自身は王女の興味の深さに困惑していた。まさか自分がこれほど注目されているとは思っていなかった。


王族との接触経験が少ないクラルにとって、王女の積極的な質問攻めは予想外の出来事だった。農業大臣時代には王族との公式な面談もあったが、それは業務的な内容が中心で、個人的な質問をされることはなかった。


「すみません、つい夢中になってしまって」


エリザベス王女は恥ずかしそうに微笑んだ。その表情には、純粋な好奇心と、少し自分の行動を恥じる気持ちが混在していた。


王女らしい上品さを保ちながらも、興味のあることには積極的に向かっていく性格。その自然体の魅力が、クラルの心にも何かを残していた。


「妹が随分と興味を示しているようですね」


アルフレッド王子は、妹の様子を興味深く観察していた。妹の性格を熟知している兄として、今回の反応が通常とは明らかに異なることを察知していた。


「エリザベスがあそこまで一人の男性に関心を示すのは初めて見ます」


王子には、妹の気持ちの変化が手に取るように分かった。20年以上一緒に過ごしてきた兄妹として、彼女の感情の動きを読み取ることは難しくなかった。


これまで多くの男性貴族との出会いがあったが、エリザベスがここまで積極的に質問し、相手に関心を示したことは一度もなかった。むしろ、お見合いや社交界では控えめで、相手との距離を保とうとする傾向があった。


しかし今日は全く違った。まるで少女のような無邪気さで、相手に近づこうとしている。この変化は、明らかに特別な感情の表れだった。


視察は昼食を挟んで続くことになっていた。クラルは王族をもてなすため、工房の最上階にある迎賓室を昼食会場として準備していた。


迎賓室は工房建設時に、重要な顧客や政府関係者との会合のために特別に設計された豪華な空間だった。天井は高く、壁には美しいタペストリーが掛けられ、大きな窓からはグランベルクの街並みが見渡せる。まさに王族の昼食に相応しい格調高い部屋だった。


「料理はどうしましょうか?」


給仕長が心配そうに尋ねた。王族の食事となると、宮廷料理人並みの技術が要求される。


「グランベルク最高のレストランから料理人を呼びましょう」


クラルは迅速に決断した。『黄金の麦穂亭』から、宮廷経験のあるシェフと給仕スタッフ6名を緊急招集した。


昼食のメニューは、地元グランベルクの特産品を活かした上品な料理が選ばれた。


前菜

- グランベルク産燻製サーモンのカナッペ

- 地元野菜のテリーヌ、ハーブソース添え

- 王国産白ワインのアペリティフ


主菜

- グランベルク産黒毛牛のロースト、赤ワインソース

- 季節野菜のグラタン

- 地元産パンの盛り合わせ


デザート

- 地元果実のタルト

- 王室御用達茶葉のティーセット


すべてが地元の誇りを表現しながら、王族にふさわしい品格を保つ内容だった。


昼食が始まると、テーブルには独特な雰囲気が流れていた。正式な四人掛けの円卓で、アルフレッド王子とクラルが向かい合い、エリザベス王女がクラルの隣に座るという配置になった。


「地元のお料理はいかがですか?」


クラルが礼儀正しく尋ねると、王女は明るく答えた。


「とても美味しいです。特にこのサーモンは絶品ですね」


「ありがとうございます。グランベルク川で取れる天然物です」


王女は料理を褒めながらも、視線は常にクラルに向けられていた。話題が料理や地域の話題に及んでも、彼女の関心はクラル自身に集中していた。


「クラル様は普段、どのようなお食事を?」


「仕事が忙しいので、簡素な食事が多いのですが...」


「それは体に良くありませんね。もっと栄養のあるものを召し上がってください」


王女の言葉には、明らかに心配する気持ちが込められていた。まるで親しい友人や恋人に対するような、個人的な関心の表れだった。


アルフレッド王子は、この微妙な空気を感じ取りながらも、黙って見守っていた。時折、兄らしい微笑みを浮かべながら、妹の変化を観察していた。


昼食も終盤に差し掛かった頃、エリザベス王女は突然、場の空気を一変させる質問をした。


「クラル様は、ご結婚はされていないのですか?」


この質問に、室内の空気が凍りついた。給仕スタッフたちも、手を止めて聞き耳を立てている。アルフレッド王子も、フォークを止めて妹を見つめた。


「はい...まだ独身です」


クラルは戸惑いながら答えた。なぜ王女がこのような個人的な質問をするのか、理解できなかった。


「そうですか...」


エリザベス王女は安堵の表情を浮かべた。その表情は、誰の目にも明らかに「良かった」という気持ちを表していた。


この瞬間、クラル自身も、王女の質問の意図に気づき始めた。これは単なる社交的な質問ではない。もっと個人的で、感情的な理由があるのではないか。


「王女殿下は...いかがでしょうか?」


クラルも思わず聞き返してしまった。


「私もまだです」王女は少し頬を染めて答えた。「良い方にお会いできなくて...」


この言葉の後、二人の間に微妙な沈黙が流れた。お互いを意識し始めている証拠だった。


昼食後、午後の視察が再開される前に、アルフレッド王子が素晴らしい提案をした。


「もしよろしければ、お二人だけでお話しする時間を設けてはいかがでしょうか?」


「兄上...」王女は驚いた表情を見せた。


「エリザベスは技術的なことに興味があるようですし、私は政治的な側面に関心があります」王子は巧妙に理由をつけた。「それぞれが興味のある分野について、詳しくお話を伺えば効率的でしょう」


これは明らかに、妹のために時間を作ってあげる兄の配慮だった。エリザベス王女の気持ちを理解した上での、優しい計らいだった。


「では、クラル様、王女殿下をお願いします」


「承知いたしました」


こうして、二人だけの時間が実現した。


クラルは王女を工房の中庭に案内した。そこは小さいながらも美しく整備された庭園で、四季折々の花々が植えられ、中央には小さな噴水があった。秋の午後の陽射しが優しく二人を照らしていた。


「素敵なお庭ですね」


王女は純粋に感動していた。宮殿の庭園とは規模は比べ物にならないが、心のこもった美しさがあった。


「職人たちの憩いの場として作りました」


クラルは説明した。


「仕事の合間に、ここで休憩を取ったり、考え事をしたりしています」


二人はゆっくりと庭園を歩きながら話した。公式な場では言えない、もっと個人的な話題に自然と移っていった。


「実は、今日お会いできて本当に嬉しかったです」


王女は石のベンチに座りながら、心からの気持ちを表現した。


「想像していた以上に素敵な方でした」


「王女殿下...」


「いえ、本当のことです」王女は続けた。「これまで多くの男性とお会いしましたが、クラル様のような方は初めてです」


王女の言葉には、明らかに特別な感情が込められていた。単なる社交辞令ではない、心からの想いだった。


「強くて、優しくて、そして何より、お仕事に対する情熱が素晴らしい」


「皆様から慕われているのも、よく分かります」


王女の視線は、クラルの顔をじっと見つめていた。その瞳には、憧憬と親愛の情が混在していた。


「また...お会いできる機会はありますでしょうか?」


この質問には、明らかに恋愛感情が込められていた。王女として、女性として、再会への強い願いを表現していた。


「王女殿下...それは」


クラルは完全に動揺していた。まさか王女から好意を示されるとは、夢にも思っていなかった。


自分の人生を振り返っても、これほど直接的に好意を示された経験はなかった。しかも相手は王女。社会的地位も、美しさも、すべてが自分には不釣り合いに思えた。


「お忙しいとは思いますが...」


王女は上目遣いでクラルを見つめた。その表情は、王族としての威厳を忘れた、純粋な一人の女性のものだった。


「時々、こうしてお話しできる機会があれば嬉しいです」


クラルの心臓は激しく鼓動していた。これは現実なのだろうか。王女が自分に好意を示しているということが、まだ信じられなかった。


「私も...お会いできれば光栄です」


クラルは慎重に答えた。社交辞令なのか、本心なのか、自分でも判断がつかなかった。


夕方、秋の陽が西に傾く頃、王族一行は工房を後にすることになった。石畳の前庭で行われた別れの挨拶は、朝の緊張感とは全く異なる、温かい雰囲気に包まれていた。


「本日は貴重なお時間をありがとうございました」


アルフレッド王子が公式な感謝の言葉を述べた。


「工房の素晴らしい発展ぶりを拝見でき、王国の未来に大きな希望を感じました」


「恐縮です。王子殿下」


クラルは深々と頭を下げた。


しかし、全員の注目はエリザベス王女に集まっていた。彼女の表情には、明らかに別れを惜しむ気持ちが現れていた。


「ぜひまた、お邪魔させていただきたいと思います」


王女の言葉には、明確な再会への期待が込められていた。それは社交辞令ではなく、心からの願いだった。


「いつでもお待ちしております」


クラルも自然に答えていた。自分でも驚くほど、素直な気持ちだった。


馬車に乗り込む前、王女は振り返ってもう一度クラルを見つめた。その視線には、まだ言い足りないことがあるという気持ちが込められていた。


豪華な馬車列が工房の前から去っていく光景を、クラルは複雑な気持ちで見送った。


「王女殿下が...まさか」


一人になったクラルは、今日の出来事を振り返っていた。すべてが夢のような出来事だった。


朝の時点では、単なる公式な視察だと思っていた。しかし、実際には全く予想外の展開になった。王女の積極的な関心、個人的な質問、そして最後の再会への期待。


「結婚への不安を抱いていた矢先に、こんなことが」


数日前まで、一人で過ごす将来への不安を感じていた。恋愛経験の乏しさ、出会いの機会の少なさ、そして年齢への焦り。それらすべてが、突然の出来事によって一変した。


運命とは不思議なものだと思わずにはいられなかった。人生で最も必要な時に、最も予想外の形で現れる。


しかし同時に、新たな不安も生まれていた。王女との関係をどう発展させるべきなのか。社会的地位の違い、結婚となった場合の複雑さ、そして何より、自分の気持ちの整理。


「本当に王女を愛することができるのだろうか?」


この問いに、クラルはまだ答えを見つけられずにいた。


一方、王城に戻ったエリザベス王女は、自分の部屋で一人考え込んでいた。薄紫色のシルクドレスから普段着に着替えても、心の高揚は収まらなかった。


「あんなに素敵な人がいたなんて...」


鏡台の前に座り、髪を解きながら今日の出来事を振り返っていた。クラルの一つ一つの表情、言葉、仕草。すべてが鮮明に記憶に残っていた。


「強くて優しくて、そして可愛らしくて」


これまで出会った男性たちとは全く異なるタイプの魅力だった。貴族の男性たちは威厳があり、騎士たちは勇敢で、学者たちは知識豊富だった。しかし、クラルのように複数の要素を自然に兼ね備えた人物は初めてだった。


「絶対にもう一度会いたい」


王女の心は、完全にクラルに奪われていた。恋愛感情というものを、これほど強く感じたのは生まれて初めてだった。


しかし、王女にも不安があった。相手は平民出身であり、自分は王族。この身分の違いが、将来の関係にどのような影響を与えるのか。


「でも、真の愛に身分は関係ないはず」


王女は自分に言い聞かせた。両親も、真の愛を基盤とした結婚だったと聞いている。愛があれば、すべての障害は乗り越えられるはずだ。


王族視察から1年の歳月を経て、ついに念願の新工房が完成した。完成した建物は、関係者すべての予想を上回る素晴らしさだった。


「これは...まるで宮殿のようですね」


完成披露式に訪れた関係者たちは、その豪華さに驚嘆していた。確かに、これまでに見たことのない規模と美しさを誇る建物だった。


外観は白い大理石と赤いレンガの調和が美しく、高い尖塔と大きなステンドグラスの窓が印象的だった。正面玄関は重厚な木製の扉で、その両側には美しい彫刻が施された石柱が立っていた。


内部はさらに豪華だった。高い天井、磨き上げられた大理石の床、壁に掛けられた美しいタペストリー。むしろ貴族たちが住まうお屋敷のような優雅さがあった。


「これ以上の鍛冶工房は存在しないでしょう」


視察に来た王国の建築技師も太鼓判を押した。技術的な設備と芸術的な美しさが完璧に調和した、理想的な建築物だった。


「ただし、これは国の管理物です」


完成式典で改めて説明された通り、クラルには建物の所有権はなかった。しかし、その代わりに大きなメリットがあった。


「常に潤沢な資金が供給されます」


年間の運営費、設備更新費、人件費。すべてが国家予算から支出されるため、経営的な心配は一切不要だった。


「増築や修繕も、他の施設よりもずっと優先的に行えます」


国家的に重要な施設として位置づけられているため、何か問題が生じた場合の対応も迅速だった。


実質的には、クラルが自由に使える最高級の工房だった。経営の責任は国が負い、技術的な運営はクラルが全権を握る。理想的な役割分担だった。


全てにおいてひと段落がついたことで、ついに本格的な武器製造を再開する目処が立った。


「まずはオーソドックスな武器から始めましょう」


新工房での最初の商品ラインナップが決定された。農具製造で培った大量生産技術を、武器製造に応用する計画だった。


「剣、槍、斧、弓...基本的な武器を高品質で提供」


500名のメンバーを活用した量産体制により、従来とは比較にならない生産能力があった。品質は手作り品と同等でありながら、価格は大量生産による低コスト化を実現できる。


「そして、オーダーメイドも再開します」


これがクラルの真骨頂だった。個人の体格や戦闘スタイルに合わせた、完全オリジナルの武器製作。『風見鶏』時代に培った技術と経験が、ここで花開くことになる。


「久しぶりの本格的な個人製作ですね」


新工房には、オーダーメイド専用の特別な作業室も設けられていた。防音設備、温度調節、最高級の工具。すべてが完璧に整えられた環境で、芸術品レベルの武器を製作できる。


新工房での営業開始から1週間後の午後、予想もしない来客があった。


「エリザベス王女殿下がお見えです」


受付係が慌てて報告した時、クラルの心臓は激しく鼓動した。


「王女殿下が?」


1年前の視察以来、公式な接触はなかった。しかし、クラルの心の奥底では、いつかまた会えるのではないかという期待があった。


急いで正装に着替え、迎賓室に向かった。そこに待っていたのは、1年前と変わらず美しい王女だった。しかし、以前よりも大人っぽく、上品さが増しているように感じられた。


「クラル様、お久しぶりです」


王女は以前と変わらず美しく、そして少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。その表情に、1年間の思いが込められているように感じられた。


「王女殿下、お久しぶりでございます」


クラルも心から嬉しかった。この1年間、時々王女のことを思い出していたのは事実だった。


「本日はどのようなご用件で?」


「実は...オーダーメイドをお願いしたくて」


王女の言葉に、クラルは興味と同時に緊張を感じた。1年前から計画していた依頼なのか、それとも偶然なのか。


「どのような武器をご希望でしょうか?」


「細剣をお願いしたいのです」


王女は真剣な表情で説明した。その表情には、単なる装飾品ではなく、実用的な武器を求めている意志が感じられた。


「護身用として、私の体格に合ったものを」


確かに、王女の華奢な体格には、通常の剣は重すぎるだろう。細剣なら、女性でも扱いやすく、護身用としては理想的だった。


「承知いたしました。詳細を打ち合わせさせていただきましょう」


クラルは専門家として、興味深いプロジェクトだと感じていた。


「それと...もう一つお願いがあります」


王女は少し躊躇いがちに続けた。何か言いにくいことがあるような表情だった。


「細剣に合わせて、装備品一式もお願いできますでしょうか?」


「装備品一式...ですか?」


これは予想外の依頼だった。単一の武器製作ではなく、総合的な装備の提供となる。


「はい。鞘、ベルト、手袋、そして...軽装の鎧も」


これは予想以上に大がかりな注文だった。完全な戦闘装備一式の製作を意味している。


「とても本格的なご依頼ですね」


クラルは驚きを隠せなかった。王女がここまで実戦的な装備を求める理由が気になった。


「最近、物騒な世の中になってきましたから」王女は説明した。「女性でも自分の身は自分で守らなければなりません」


「装備品を製作するには、正確な採寸が必要になります」


クラルは専門的な説明を始めた。これは避けて通れない工程だった。


「特に鎧については、体のラインに完全にフィットさせる必要があります」


「少しでもサイズが合わないと、動きが制限されたり、防御力が低下したりします」


「そうなのですね...」


王女は少し頬を染めた。その表情から、採寸という行為の意味を理解していることが窺えた。


「それでは、採寸をさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「はい...お願いします」


王女の声は少し上ずっていた。


採寸は、工房の奥にある専用の個室で行われることになった。この部屋は、VIP顧客のオーダーメイド専用に設計された特別な空間だった。


「こちらでお願いします」


クラルが案内したのは、防音設備の整った完全な密室だった。オーダーメイドの秘密を守るため、外部から完全に遮断された空間だった。


部屋の内装は落ち着いた茶色と金色を基調とし、高級感がありながら威圧感のない雰囲気を作り出していた。大きな鏡、採寸用の台、そして必要な道具がすべて完璧に整えられていた。


壁には美しいタペストリーが掛けられ、天井からは柔らかな光を放つ魔法のランプが下がっている。まさに王族にふさわしい、プライベートな空間だった。


「では、失礼いたします」


扉が閉まり、密室に二人きりになった瞬間、空気が変わった。外界から完全に遮断された空間で、二人だけの特別な時間が始まった。


「あの...どのように進めれば...」


王女は明らかに緊張していた。これまで男性に身体の寸法を測られた経験はなく、どのような流れになるのか分からなかった。


「まず、基本的な寸法から測らせていただきます」


クラル自身も、王女という相手に動揺していた。これまで多くの採寸を行ってきたが、王族、しかも美しい女性が相手となると、全く異なる緊張感があった。


「最初に身長を確認いたします」


採寸台の前に立った王女の美しさが、改めてクラルの目に飛び込んできた。薄いブルーのドレスが王女の美しい体型を際立たせ、栗色の髪が肩にかかって揺れている。


「次に、腕の長さを測らせていただきます」


クラルは巻尺を手に、慎重に王女の腕に近づいた。プロとしての責任感と、一人の男性としての意識が複雑に交錯していた。


「失礼します」


軽く王女の腕に触れた瞬間、二人とも軽い電流のようなものを感じた。皮膚と皮膚の接触が生み出した、説明のつかない感覚だった。


「あ...」


王女は小さく声を漏らした。その声には驚きと、何か別の感情が混在していた。


クラルも同様に、予想外の感覚に動揺していた。単なる業務的な接触のはずが、なぜこれほど意識してしまうのか。


「次に、肩幅を...」


採寸を続けるうち、二人の距離はどんどん近くなっていった。必要な測定のためとはいえ、これほど近い距離で王女と接することになるとは思わなかった。


王女の髪からは上品な香水の香りが漂い、その美しい肌は間近で見ると更に魅力的だった。


「こちらに手を置いてください」


「は、はい...」


王女の声が上ずっていた。クラルも同様に緊張で手が震えそうになっていた。


「胸囲を測らせていただきます」


この言葉を発した瞬間、王女の頬が真っ赤になった。


「あの...それは...」


「大丈夫です。失礼のないよう、細心の注意を払います」


クラルも顔を赤らめながら、プロとしての責任感で採寸を続けた。しかし、心臓の鼓動は激しく、手の震えを抑えるのに必死だった。


巻尺を王女の身体に回す時、お互いの息遣いが聞こえるほど近くなった。その瞬間、時間が止まったような感覚に陥った。


「ウエストの寸法を...」


クラルが王女の腰に手を伸ばした時、二人の顔が非常に近くなった。


「...」


「...」


お互いの息遣いが聞こえるほどの距離で、二人は一瞬見つめ合った。王女の美しい瞳と、クラルの誠実な眼差しが交差した瞬間だった。


その瞬間、二人とも同じことを感じていた。これは単なる業務ではない。もっと特別な、運命的な出会いの瞬間なのではないか。


「あ、あの...」


王女が慌てて一歩後ずさった。頬は真っ赤に染まり、心臓は激しく鼓動していた。


「すみません、失礼いたしました」


クラルも慌てて距離を取った。二人とも顔が真っ赤になっている。プロとしての冷静さを失いそうになった自分に動揺していた。


「あ、あの...」


王女が慌てて一歩後ずさった。頬は真っ赤に染まり、心臓は激しく鼓動していた。先ほどまでの優雅で上品な王女らしい態度は影を潜め、まるで初心な少女のような恥じらいを見せていた。


「すみません、失礼いたしました」


クラルも慌てて距離を取った。二人とも顔が真っ赤になっている。プロとしての冷静さを失いそうになった自分に動揺していた。


25歳になり、500名の工房を経営し、元農業大臣という重責を担ってきたクラルでさえも、このような状況では一人の青年に戻ってしまう。まして相手は美しい王女。動揺するなという方が無理だった。


王女も同様に混乱していた。これまで多くの男性貴族と社交界で接してきたが、このような胸の高鳴りを感じたことは一度もなかった。まるで少女時代に戻ったような、純粋で激しい感情の波が心を襲っていた。


しばらくの間、室内には重苦しい沈黙が続いた。二人とも相手の目を見ることができず、視線をあちこちに泳がせていた。


採寸室の時計の音だけが、静寂を破るように響いている。カチ、カチ、カチ...その音が、二人の鼓動と重なって聞こえた。


王女は手で髪を整えながら、心を落ち着かせようと努めていた。しかし、クラルの手が触れた部分には、まだ温かい感覚が残っており、それが彼女をさらに意識させてしまう。


クラルは巻尺を握りしめながら、プロとしての責任感を思い出そうとしていた。しかし、王女の美しい姿と、先ほどの親密な瞬間が頭から離れない。


「えーっと...」


「あの...」


二人とも何を言っていいか分からず、同時に口を開いてしまった。その瞬間、お互いを見つめ合い、また赤面してしまう。


「申し訳ありません。続けさせていただきます」


クラルが先に立て直した。心の中では大きく動揺していたが、プロとしての責任感が個人的な動揺を上回った。これまで築き上げてきた信頼と実績を、個人的な感情で台無しにするわけにはいかない。


深呼吸をして、気持ちを仕事モードに切り替えようと努力した。相手が王女であろうと、一般の顧客であろうと、最高の品質の装備を提供するという目標に変わりはない。


「はい...お願いします」


王女も小さく頷いた。彼女もまた、王族としての品格を保とうと努力していた。しかし、心の奥底では、この特別な時間が続いてほしいという気持ちもあった。


クラルの真摯で職人としての誇りに満ちた態度に、改めて敬意を感じていた。個人的な感情に流されることなく、責任を果たそうとする姿勢。それもまた、彼の魅力の一つだった。


その後の採寸は、お互いが過度に意識しすぎて、よりぎこちなくなった。しかし、それはそれで微笑ましい光景でもあった。


「足の長さを...」


クラルが跪いて王女の足の寸法を測る時、王女は恥ずかしさで顔を伏せてしまった。美しいドレスの裾から覗く繊細な足首に、クラルもまた動揺を隠せなかった。


「腰回りの寸法を...」


この部分は最も困難だった。お互いの呼吸が近くなり、王女の体温がクラルに伝わってくる。巻尺を回す手が微かに震えているのを、王女も感じ取っていた。


必要最小限の会話で、慎重に、しかし確実に採寸を進めていく。プロとしての技術と、人間としての感情が複雑に絡み合った、特別な時間だった。


「これで採寸は完了です」


30分ほどの作業を終えて、クラルが宣言すると、二人とも同時に安堵の表情を浮かべた。緊張から解放されたという気持ちと、特別な時間が終わってしまったという寂しさが混在していた。


「お疲れ様でした」


王女の言葉には、単なる社交辞令を超えた感謝の気持ちが込められていた。これほど丁寧で、敬意に満ちた採寸をしてもらったのは初めてだった。


「ありがとうございました」


クラルもまた、特別な体験だったことを実感していた。技術者としての成長だけでなく、人間として新しい感情に触れた貴重な機会だった。


緊張から解放されて、ようやく自然な会話ができるようになった。しかし、お互いを見つめる目には、以前とは異なる特別な感情が宿っていた。


「詳細な設計については、後日改めて打ち合わせをさせていただきます」


クラルは仕事の話に戻ろうとしたが、その声には普段とは異なる温かさがあった。


「どのくらいの期間で完成予定でしょうか?」


王女の質問も、単なる業務的なものではなく、再会の機会を確認したいという気持ちが込められていた。


「細剣と装備一式であれば、約2ヶ月でお渡しできます」


「その間に、数回の確認と調整が必要になります」


この言葉に、王女の表情が明るくなった。複数回の再会の機会があるということに、明らかな喜びを示していた。


「はい、よろしくお願いします」


王女が立ち去る前に、少し躊躇いがちに言った。


「あの...今日は、ありがとうございました」


この言葉には、採寸だけでなく、特別な時間を共有できたことへの感謝が込められていた。


「こちらこそ、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」


クラルも心からの言葉で答えた。


二人は扉の前で、もう一度見つめ合った。今度は慌てることなく、お互いの存在を確認するように。その瞬間、言葉にならない何かが交換された。


「それでは、また」


「はい、お待ちしております」


王女が個室を出る時、クラルは自然と扉まで見送った。その後ろ姿を見つめながら、何か大切なものが始まったような予感を感じていた。


王女が去った後、クラルは一人で採寸室に残っていた。まだ王女の香りが微かに残る室内で、今日起こったことを整理しようとしていた。


「なんだったんだ、あの緊張は...」


自分でも理解できない感情の変化に困惑していた。これまで多くの女性顧客の採寸を行ってきたが、今日のような動揺を経験したことはなかった。


王女の美しさはもちろんだが、それだけでは説明できない何かがあった。彼女の純粋さ、優雅さ、そして何より、自分に向けられた特別な関心。すべてが新鮮で、心を揺さぶる体験だった。


「これは...恋愛感情なのだろうか?」


25歳になるまで、真剣な恋愛を経験してこなかったクラルにとって、この感情を正確に理解するのは困難だった。しかし、確実に言えることは、王女に対する気持ちが特別だということだった。


鏡に映る自分の顔を見つめながら、まだ頬に残る赤みを確認していた。普段の冷静で理性的な自分とは全く異なる、感情的で人間らしい一面を発見した瞬間でもあった。


「細剣の製作...」


今回の依頼は、単なる商業的な取引を超えた意味を持っていた。王女のために、最高の作品を作りたいという気持ちが、これまで以上に強く湧き上がっていた。


技術者としての誇りだけでなく、一人の男性として、愛する人のために尽くしたいという気持ち。それが仕事に新しい動機を与えていた。


「2ヶ月間で、最高傑作を作ろう」


この決意は、これまでのどの仕事よりも強いものだった。王女の美しさと気品に相応しい、芸術品レベルの武器と装備。それを作ることが、今のクラルにとって最も重要な使命となった。


しかし、喜びと期待の一方で、現実的な不安もあった。


「王女と自分...」


身分の違いは歴然としていた。平民出身の職人と、王国の王女。この関係が恋愛に発展した場合、どのような困難が待っているのか。


結婚となれば、王室の承認が必要だろう。政治的な配慮、社会的な反響、そして何より、自分が王女にふさわしい男性なのかという根本的な疑問。


「でも、今日の王女の表情は...」


王女が見せた恥じらいや喜びは、確実に好意の表れだった。身分を超えた、純粋な女性としての感情だったに違いない。


それならば、自分も真摯に向き合うべきだ。困難があっても、真の愛があれば乗り越えられるはずだ。


一方、王城に戻る馬車の中で、エリザベス王女は心の高揚を抑えることができずにいた。


車窓から流れる景色を見つめながら、今日の出来事を何度も思い返していた。クラルの優しい手つき、真剣な表情、そして最後に交わした特別な視線。


「あんなに素敵な時間だったなんて...」


採寸という名目だったが、実際にはもっと深い交流があった。お互いを意識し、尊重し、そして惹かれ合っていることを確認できた貴重な時間だった。


王女の頬には、まだあの時の赤みが残っていた。恥ずかしかったが、同時に幸せでもあった。これほど心が動かされる経験は、生まれて初めてだった。


「王女様、お疲れのようですが...」


付き添いの女官が心配そうに尋ねた。しかし、王女の表情を見れば、それが疲労ではなく、幸福感による高揚だということは明らかだった。


「いえ、とても有意義な時間でした」


王女の答えには、隠しきれない喜びが込められていた。


女官たちは顔を見合わせた。長年王女に仕えている彼女たちには、主人の心境の変化がよく分かった。これは明らかに、恋愛感情の芽生えだった。


「工房の方は、いかがでしたか?」


「とても...素晴らしい方でした」


王女の答えは控えめだったが、その表情と声の調子が、すべてを物語っていた。


自分の部屋に戻った王女は、いつものように髪を解きながら、今日の出来事を振り返っていた。鏡台の前に座り、採寸室でのクラルとの距離を思い出していた。


「あの時の彼の手つき...」


プロフェッショナルでありながら、同時に優しく配慮に満ちていた。王女としてではなく、一人の女性として丁寧に扱ってくれたことが、何より嬉しかった。


「2ヶ月後の完成まで、何回お会いできるのかしら」


確認と調整のために数回の面談があると言われていた。その度に、今日のような特別な時間を過ごせるのだろうか。


期待と不安が入り混じった複雑な気持ちだったが、確実に言えることは、クラルともっと深く知り合いたいということだった。


「この気持ちは...恋なのね」


鏡に映る自分の顔を見つめながら、王女は初めて自分の感情を明確に自覚した。


これまでも多くの男性と出会い、中には魅力的な人もいた。しかし、クラルに対する気持ちは明らかに異質だった。


単なる憧れや興味を超えた、もっと深い感情。彼と一緒にいると心が安らぎ、離れていると会いたくなる。そして、彼の幸せを願う気持ち。


「身分の違いがあっても...」


王女もまた、現実的な困難を理解していた。しかし、真の愛の前には、そうした障害も乗り越えられるはずだという希望を抱いていた。


両親の結婚も、政略結婚ではなく恋愛結婚だったと聞いている。愛があれば、道は開けるはずだ。


この日を境に、クラルとエリザベス王女は、お互いを特別な存在として意識するようになった。


しかし、まだそれが恋愛感情なのか、単なる好意なのか、二人とも明確には理解していなかった。ただ、相手に対する気持ちが特別であることは、確実に感じていた。


クラルにとって、王女は単なる顧客を超えた存在になった。彼女の笑顔を見たい、喜んでもらいたい、そして何より、もっと深く知り合いたいという気持ちが日に日に強くなっていた。


王女にとっても、クラルは特別な人だった。これまで出会った男性たちとは全く異なる魅力を持つ、唯一無二の存在。


翌日から、クラルの工房での日常にも変化があった。王女のための細剣製作が、すべての作業の中心となった。


「最高の材料を使おう」


特別に取り寄せた魔法合金、最高級の宝石、そして何より、クラル自身の技術と情熱。すべてを注ぎ込んだ作品を作ることが決まった。


500名の職人たちも、この特別なプロジェクトに参加することを光栄に思っていた。王女のための武器製作という、歴史に残る仕事に関われることの誇りがあった。


2週間後の設計確認会議まで、二人とも再会を楽しみにしていた。


クラルは設計図を何度も見直し、王女により良い提案ができるよう準備していた。技術的な完璧さだけでなく、彼女の美しさを引き立てるデザインも考慮していた。


王女もまた、次回の面談を心待ちにしていた。今度はどのような話ができるだろうか。もっと個人的な話もできるだろうか。


「王女殿下は美しい方だが...」


「クラル様は素敵な方だけれど...」


どちらも、自分の気持ちを完全には整理できずにいた。しかし、確実に言えることは、お互いに特別な感情を抱いているということだった。


この採寸の日から、二人の関係は新しい段階に入った。職人と顧客という関係を超えた、もっと深い人間関係の始まりだった。


身分の違い、社会的な障害、そして二人の未熟な恋愛経験。様々な困難が待ち受けているが、真の愛があれば、それらを乗り越えることができるはずだ。


予定された設計確認の日が来た。再び工房の迎賓室で行われる面談で、二人は再会することになる。


クラルは完璧に準備した設計図と、試作品の一部を用意していた。技術者としての最高の提案と、一人の男性としての心のこもった贈り物として。


王女もまた、前回とは異なる美しいドレスを着て、工房を訪れた。今度は採寸のような特別な状況ではないが、それでもクラルとの時間を大切にしたいという気持ちは変わらなかった。

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