エーテルの時代の幕開け38:チェスト、壁を壊せ!
新月の夜――希望の炎
新月の夜が、再び学園を深い闇に包んでいた。
空には、月が見えなかった。
星も、ほとんど見えなかった。
すべてが、闇に沈んでいた。
しかし――
今夜の闇は、絶望の色だけではなかった。
エーテル解放戦線の残党たちの胸には、奪還という、一点の揺るぎない希望の炎が燃えていた。
今夜――
アシェルを、救い出す。
それが、彼らの目的だった。
「……情報通りだ」
学園の地下、複雑に入り組んだ動力施設の通路の影で、カインが小さな声で囁いた。
カインの手には、地図があった。
マルクスが、命がけでリークした地図。
地下牢獄『奈落』へと続く、最新の潜入経路図。
「警備兵の交代は、午前二時十五分」
カインは、時計を確認した。
「その後、三分間だけ、この区画の魔力センサーがリセットされる」
その三分間が――
唯一の、チャンスだった。
カインの顔には、数日前の絶望の色はなかった。
代わりに――
明確な決意があった。
アシェルを救うという、明確な目的が、彼に参謀としての冷静さを取り戻させていた。
「リアン、エルザ。準備はいいな?」
カインの合図に、二人の少女が頷いた。
リアンは、後方で全体の連絡とエーテル感知の補助を担当する。
弓の名手エルザは、万が一の際の援護射撃を担当する。
そして、先頭に立つのは――
二人の武人。
島津ケンシンと西郷タケルだった。
「……行くぞ」
ケンシンの短い一言を合図に、一行は再び、あの悪夢の地下迷宮へと、その身を投じた。
## SATUMAの真価――洗練された力
地下通路は、以前にも増して厳重な警備体制が敷かれていた。
新しい警備ゴーレムが、配備されていた。
それらは、以前よりも強力だった。
より高性能で、より致命的だった。
通路の構造も、より複雑に変化していた。
罠が、増えていた。
センサーも、増えていた。
しかし――
今の解放戦線は、以前とは違っていた。
「右に三体!」
カインが、小声で叫んだ。
「左に二体!」
カインは、マルクスから得た情報に基づき、敵の位置を正確に予測していた。
ゴーレムがどこに配置されているか。
警備兵がどこを巡回しているか。
すべてが、分かっていた。
「おう、任せろ!」
タケルが、待ち構えていたかのように飛び出した。
そして、ゴーレムの一体に向かった。
木刀を、振り下ろした。
ガシャァァァン!
ゴーレムが、粉砕された。
金属の破片が、四方に飛び散った。
だが、タケルの動きは、以前のような力任せのそれではなかった。
ケンシンとの厳しい訓練を経て、その一撃は、気と力の流れを完璧に制御した、洗練されたものへと進化していた。
無駄な動きが、なかった。
最小限の力で、敵の核を正確に破壊していった。
以前のタケルなら――
ゴーレムを破壊するのに、数回の打撃が必要だった。
しかし、今は――
一撃で、仕留めることができた。
「遅れるな、タケル!」
ケンシンは、折れた腕を固定したまま、片手一本で木刀を操っていた。
右腕は、まだ使えなかった。
包帯で、吊るされたままだった。
しかし、その剣捌きは、むしろ以前よりも鋭さを増していた。
逆境が、彼の武人としての魂を、さらに研ぎ澄ませていたのだ。
片手でも――
ケンシンは、強かった。
いや、以前よりも強かった。
木刀が、風を切った。
その動きは、見えないほど速かった。
ゴーレムの頭部を、正確に捉えた。
そして――
ガシャン!
ゴーレムが、倒れた。
二人のSATUMAは、まるで風神雷神のように、次々と現れる障害を打ち破っていった。
それは、単なる戦闘能力の高さではなかった。
カインの頭脳。
リアンとエルザの支援。
そして何よりも――
アシェルを救うという、全員の固い意志が、彼らの力を、何倍にも増幅させていた。
「前方、警備兵が二人!」
カインが、警告した。
「距離、五十メートル!」
「エルザ、頼む!」
ケンシンが、命令した。
「了解!」
エルザが、弓を構えた。
そして、矢を放った。
シュッ!
矢が、闇を切り裂いた。
そして――
ドスッ!
警備兵の一人が、倒れた。
もう一本の矢が、放たれた。
シュッ!
ドスッ!
もう一人の警備兵も、倒れた。
エルザの射撃は、完璧だった。
一発も、外さなかった。
「よし、行くぞ!」
ケンシンが、先頭を走った。
一行は、さらに深く、地下へと進んでいった。
## 最後の障壁――絶望的な壁
数時間に及ぶ死闘の末。
一行は、ついに――
地下監獄「奈落」の、最深部にたどり着いた。
「……ここだ」
カインが、地図を指差した。
「この壁の向こうに、アシェルがいる」
カインの声は、震えていた。
興奮で、震えていた。
もう、すぐそこだった。
アシェルが――
もう、すぐそこにいる。
だが――
彼らの目の前に立ちはだかっていたのは、絶望的なまでに分厚く、そして巨大な壁だった。
その壁は――
これまで見てきたどの材質とも違っていた。
エーテルの光さえも完全に吸収してしまう、黒曜石にも似た不気味な鉱物で作られていた。
その表面は、滑らかだった。
光を、反射しなかった。
すべての光を、吸収していた。
まるで、深淵のように。
エーテルを遮断するために特別に錬成された、究極の障壁。
物理攻撃も、魔法も、一切通用しないはずの壁だった。
「……くそっ」
タケルが、壁に近づいた。
そして、木刀を振り上げた。
「叩いても、斬っても、傷一つ付かん!」
タケルは、渾身の力で木刀を叩きつけた。
ドンッ!
鈍い音が響いた。
しかし――
壁は、びくともしなかった。
傷一つ、つかなかった。
タケルは、何度も何度も叩きつけた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
しかし――
無駄だった。
壁は、壊れなかった。
ケンシンも、試した。
鋭い突きを、放った。
その突きは、完璧だった。
しかし――
その黒い表面に、白い跡を残すのが精一杯だった。
すぐに、その跡も消えた。
「ダメだ……」
カインが、青ざめた顔で呟いた。
「この壁は、我々の力では……」
あと一歩のところまで来て、この絶対的な障壁。
それは、一行の心に、再び絶望の影を落とした。
どうすればいい。
どうやって、この壁を壊せばいい。
誰もが、沈黙していた。
答えが、見つからなかった。
## 魂の教え――SATUMAの奥義
「……まだじゃ」
その、重苦しい沈黙を破ったのは、ケンシンだった。
彼は、汗を拭いながら、壁の前に仁王立ちになったタケルに向かって、静かに語りかけた。
「タケル」
ケンシンの声は、静かだった。
しかし、その声には――
力があった。
「おはんに、まだ伝えておらんかった、SATUMAの最後の教えがある」
「……最後の、教え……?」
タケルは、振り返った。
ケンシンを見た。
その目は、真剣だった。
「そうだ」
ケンシンは、自らの胸を、拳で、とん、と叩いた。
「『チェスト』とは、ただの気合の声じゃなか」
「ただ物理的に物を壊すための、叫びでもなか」
ケンシンは、壁の向こう、その奥に囚われているであろう、アシェルの存在を感じるように、目を閉じた。
そして、深く息を吸った。
「真の『チェスト』とはな……」
ケンシンの声が、響いた。
「魂の叫びそのものなんじゃ」
「己の信念、仲間への想い、守りたいと願う心の、全てを、声に乗せ、拳に乗せ、一つの濁りもない奔流として、解き放つこと」
「それこそが、物理法則さえも超える、わいらSATUMAの、真の力じゃ」
ケンシンは、折れていない方の左手で、タケルの肩を、強く掴んだ。
「おはんは、アシェルから何を学んだ?」
ケンシンの問いに、タケルは黙り込んだ。
アシェルから、何を学んだか。
それは――
「力だけか?」
ケンシンが、問いかけた。
「違うじゃろ」
「あの子は、己の身を削ってでも、仲間ば守ろうとした」
「自分の力ば、誰かと**『共有』**しようとした」
「その想い……その尊い魂の輝きを、おはんは、この目で見たはずじゃ」
「……!」
タケルの脳裏に、リアンを救った時の、アシェルの痛々しいほどの献身的な姿が蘇った。
アシェルは、自分の命を削ってでも、リアンを救った。
自分のエーテルを、すべて譲渡した。
それは――
自己犠牲だった。
しかし、同時に――
愛だった。
仲間への、深い愛。
「わいが教えた気の制御と、アシェルから学んだ**『共有』の想い**」
ケンシンの声に、力がこもった。
「その二つを、今こそ一つにするんじゃ」
「ただ壊すんじゃない」
「壁の向こうにおる、仲間の魂に、届かせるんじゃ」
「『お前は一人じゃない』と」
「その、おはんの魂の叫びを、この壁を通して、ぶちかませ!」
## 奇跡の一撃――魂の共鳴
ケンシンの言葉に、タケルの瞳の色が変わった。
これまでのような、ただ猛々しいだけの光ではなかった。
その奥に――
深い、深い覚悟と、仲間への愛情が、静かな炎となって燃え盛っていた。
タケルは、再び木刀を構えた。
だが、その構えは、以前とは全く違っていた。
力みが、消えていた。
全身が、まるで一本の、しなやかな鞭のようになっていた。
自然体。
しかし、その中に――
凄まじい力が、秘められていた。
タケルは、深く、そして長く、息を吸い込んだ。
それは、空気を吸っているのではなかった。
カインやリアン、そしてケンシンから放たれる、仲間たちの「アシェルを助けたい」という、切なる想いそのものを、自らの内に、取り込んでいるかのようだった。
仲間たちの想いが――
タケルの中に、流れ込んでいった。
リアンの、優しさ。
カインの、知恵。
ケンシンの、強さ。
エルザの、勇気。
すべてが、一つになった。
「……アシェル……」
タケルの唇から、か細い、しかし確かな声が漏れた。
「……聞こえるか……?」
「俺たちの声が……」
そして――
タケルは、木刀を振り上げた。
その瞬間――
タケルの身体から、凄まじい「気」が迸った。
それは、これまで見たことのない、純粋な輝きだった。
黄金色の、光。
それは、タケルだけの力ではなかった。
それは――
仲間たち全員の、想いの結晶だった。
「チェストォォォォォォォォォォォォォッッ!!!!」
放たれたのは、もはやただの咆哮ではなかった。
それは、アシェルを救いたいという、その場にいる全員の魂の叫びが、一つになった、想いの結晶だった。
タケルの木刀が、エーテル遮断壁に叩きつけられた。
その瞬間――
ピシッ。
小さな音が響いた。
そして――
小さな、小さな亀裂が、壁の表面に走った。
「……!」
仲間たちは、息を呑んだ。
それは、物理攻撃が効かないはずの壁が、純粋な魂の叫びに共鳴した、奇跡の瞬間だった。
亀裂は、一瞬にして壁全体へと広がった。
ピシッ、ピシッ、ピシッ。
無数の亀裂が、走った。
やがて、蜘蛛の巣のように張り巡らされた。
そして――
ゴゴゴゴゴゴ……
地鳴りのような音が響いた。
壁全体が、震え始めた。
そして――
ガシャァァァァァン!
あの絶望的だった壁が、まるで砂糖菓子のように、内側から砕け散った。
破片が、四方に飛び散った。
粉塵が、舞い上がった。
壁が――
壊れた。
奇跡が、起きた。
## 光の再会――希望の輝き
壁の向こう側は、完全な暗闇だった。
粉塵が、まだ舞っていた。
何も、見えなかった。
だが、その闇の最も深い場所に――
一つの、か細く、しかし決して消えることのない、黄金色の光が、静かに灯っていた。
それは、絶望の底で、仲間との共鳴を感じ取り、最後の希望を繋ぎとめていた、アシェルの魂の輝きだった。
「……みんな……?」
か細い声が、聞こえた。
アシェルの声だった。
壁が崩れる音と、そこから差し込んできた微かな光に、アシェルの、虚ろだった瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。
粉塵の向こうに――
人影が、見えた。
仲間たちの、姿が。
「……来て……くれたんだね……」
アシェルの目から、涙が流れ落ちた。
それは――
歓喜の涙だった。
「……当たり前じゃろが、馬鹿たれ」
粉塵の中から現れたタケルは、涙でぐしゃぐしゃになった顔を隠すように、ぶっきらぼうに言った。
タケルの目からも、涙が流れていた。
「アシェル!」
リアンが、走ってきた。
そして、アシェルを抱きしめた。
「よかった……」
「本当に、よかった……」
リアンは、泣いていた。
嬉し泣きだった。
「すまん、待たせたな」
ケンシンも、近づいてきた。
その顔には、安堵の表情があった。
「計算通りだったな」
カインも、微笑んでいた。
久しぶりの、笑顔だった。
仲間たちが――
来てくれた。
自分を、救いに来てくれた。
アシェルは、泣いていた。
しかし、それは――
幸せの涙だった。
論理を超えた奇跡が、絆によって引き起こされた。
この出来事は、エーテル解放戦線の、そして学園の歴史における、最も重要な伝説の一つとして、永遠に語り継がれることになる。
絶望の壁は、物理的な力ではなく、仲間を想う魂の力によってこそ、打ち破られるのだという、不変の真理の証明として。
物語は、ついに反撃の狼煙を上げる、新たな局面へと突入していた。
アシェルは、救出された。
そして、今――
本当の戦いが、始まる。
学園長との、最終決戦が。
革命の完成へと向かって。
運命の歯車は、最後の回転を続けていた。
夜明けは、もうすぐだった。




