エーテルの時代の幕開け36:内部からの裏切り――良心の目覚め
偽りの平穏――鉄壁の支配体制
学園は、表向きは平穏を取り戻していた。
生徒たちは、通常通りの生活を送っていた。
授業に出席し、訓練を行い、友人たちと談笑していた。
まるで、何事もなかったかのように。
「危険思想を持つテロリスト」アシェルは捕縛され、反逆者たちの企ては未然に防がれた。
学園中に、そう伝えられていた。
そして、多くの生徒たちは、それを信じていた。
学園長オルティウスの名声は、「学園の秩序を守った偉大な教育者」として、以前にも増して高まっていた。
生徒たちは、学園長を称賛していた。
「学園長閣下のおかげで、学園は安全だ」
「あの危険なテロリストを捕まえてくれた」
「素晴らしい指導者だ」
その支配体制は、鉄壁のように見えた。
誰も、学園長に逆らえなかった。
誰も、疑問を持たなかった。
すべてが、学園長の思い通りだった。
しかし――
その堅固な城壁の、最も内側で、一つの小さな石が、静かに、しかし確実に、その位置をずらし始めていた。
## マルクスの苦悩――成功の代償
ファウンデーション・ティアの苦学生、マルクス。
学費免除の見返りに学園長の傀儡となった彼は、今や「忠実な情報提供者」として、オルティウスから高い評価を得ていた。
彼は、アシェルたちの動向を密告していた。
解放戦線の計画を、学園長に報告していた。
結果として、エーテル解放戦線を壊滅へと追いやった、陰の功労者の一人だった。
そして――
褒賞として、彼はファウンデーション・ティアからアデプト・ティアへの特別昇格を果たした。
それは、異例のことだった。
通常、ティアを上がるには、厳しい試験に合格しなければならない。
しかし、マルクスは――
試験なしで、昇格した。
学園長の、特別な計らいだった。
新しい個室寮が、与えられた。
広々とした、快適な部屋。
以前のような、相部屋ではなかった。
そして、十分な学費も与えられた。
もう、金銭的な心配をする必要はなかった。
誰もが羨む、成功物語の主人公。
他の生徒たちは、マルクスを羨んでいた。
「マルクスは、運がいいな」
「学園長に気に入られたんだって」
「羨ましい」
しかし――
彼の心は、成功とは程遠い、深い闇に沈んでいた。
夜。
真新しい寮の、広々とした部屋で、マルクスは一人、眠れずにいた。
ベッドに横になっていた。
しかし、眠れなかった。
目を閉じても、眠れなかった。
窓の外に見える、煌びやかな学園の夜景が、まるで彼自身の罪を照らし出すかのように、彼の心を苛んでいた。
街灯の光。
建物の窓から漏れる光。
それらが、美しく輝いていた。
しかし、マルクスには――
その光が、罪悪感を照らす光に見えた。
(……本当に、これで良かったのか……?)
マルクスは、心の中で問いかけた。
自分自身に。
しかし、答えは出なかった。
目を閉じれば、あの日の光景が蘇った。
捕縛され、絶望の表情で連行されていくアシェル。
血を流し、倒れていった仲間たち。
そして何より――
彼を「仲間だ」と信じて、無邪気に作戦を語ってくれた、リアンのあの優しい笑顔。
リアンは、マルクスを信じていた。
彼が、アシェルたちを守ってくれると。
彼が、味方だと。
しかし――
マルクスは、その信頼を裏切った。
リアンの情報を、学園長に報告した。
そして、解放戦線を壊滅させた。
『君は、学園の秩序を守る、正義の側にいるのだ』
学園長の、あの慈愛に満ちた声が、悪魔の囁きのように耳元で木霊していた。
学園長は、そう言った。
マルクスは、正義のためだと信じていた。
しかし――
本当に、そうなのか。
彼は、正義のために仲間を売ったのか?
それとも、己の欲望のために、友を地獄に突き落としたのか?
その問いが、彼の心を夜な夜な責め立て、安らかな眠りを奪っていた。
彼は、巨大な悪意に加担してしまった、人間的な葛藤の只中にいたのだ。
マルクスは、ベッドから起き上がった。
窓の外を見た。
美しい夜景。
しかし、その美しさが――
今は、苦痛だった。
## 良心への問いかけ――リアンの訪問
その、マルクスの揺れ動く心を、見抜いていた者がいた。
リアンである。
彼女は、解放戦線が壊滅した後も、決して諦めてはいなかった。
アシェルを救い出し、学園の真実を暴くため、水面下で静かに、しかし粘り強く活動を続けていた。
彼女の武器は、魔法でも武力でもなかった。
ただ、ひたむきな誠実さと、人の心の善性を信じる、揺るぎない心だけだった。
リアンは、マルクスを観察していた。
彼の表情を。
彼の行動を。
そして、気づいた。
マルクスは、苦しんでいる、と。
数日後。
リアンは、意を決した。
マルクスに、話しかけよう、と。
昼食の時間。
食堂は、賑わっていた。
多くの生徒たちが、食事をしていた。
談笑する声が、響いていた。
マルクスは、一人で昼食を摂っていた。
窓際のテーブルに座っていた。
昇格した彼を、遠巻きに眺める生徒たちがいた。
好奇と嫉妬の視線。
それらが、マルクスに向けられていた。
しかし、マルクスは――
誰とも話さなかった。
ただ、一人で食事をしていた。
「……マルクス君」
その時、声をかけられた。
マルクスは、顔を上げた。
「少し、いいかな?」
そこに立っていたのは――
リアンだった。
以前よりも少し痩せていた。
しかし、その瞳に強い意志の光を宿していた。
マルクスは、驚いた。
そして――
罪悪感から、反射的に目を逸らそうとした。
「……何の用だ、リアンさん」
マルクスの声は、冷たかった。
「俺はもう、君たちとは……」
マルクスは、リアンと関わりたくなかった。
彼女を見ると、罪悪感が蘇ってくる。
しかし――
「うん、分かってる」
リアンは、彼の言葉を遮った。
その声は、責めるような響きではなかった。
ただ、悲しいほどに優しかった。
「ただ、一つだけ、聞きたくて」
リアンは、彼の向かいの椅子に静かに座った。
そして、真っ直ぐに、彼の瞳を見つめて言った。
「学園長の正義は、本当に本物だと思う?」
その、あまりにも単刀直接な問いに、マルクスの心臓が、大きく音を立てて跳ねた。
ドクン。
激しい鼓動。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
マルクスは、狼狽した。
「閣下は、この学園の秩序を、守っておられるんだ!」
彼は、学園長から与えられた「正義」の言葉を、オウムのように繰り返した。
しかし――
その声は、震えていた。
自分でも、信じきれていなかった。
だが、リアンは、静かに首を振った。
「本当に、そうかな?」
リアンの瞳は、マルクスの心の最も深い場所を、見透かしているようだった。
「仲間を犠牲にして守られる秩序って、本当に正しい秩序なのかな?」
「アシェルが目指した『みんなで幸せになる世界』は、そんなに間違ったことだったのかな?」
リアンの言葉には、アシェルの魂が宿っていた。
それは、彼女がアシェルから受け取った、最も大切な贈り物だった。
「私は……信じたい」
リアンは、涙を堪えながら、続けた。
その目には、涙が浮かんでいた。
しかし、それでも――
真っ直ぐに、マルクスを見つめていた。
「マルクス君が、本当は、こんなことを望んでいたわけじゃないって」
「あなたも、私たちと同じように、ただ、みんなと笑い合える、温かい場所が欲しかっただけなんだって」
その言葉が――
マルクスの心に、深く突き刺さった。
マルクスの心の最後の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。
そうだ。
自分は――
ただ、温かい場所が欲しかっただけだった。
仲間が欲しかっただけだった。
しかし――
その方法を、間違えてしまった。
マルクスの目から、涙が流れ落ちた。
## 最初の亀裂――匿名の手紙
その夜。
マルクスは、自分の部屋にいた。
ベッドに座り、頭を抱えていた。
リアンの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
『本当に正しい秩序なのかな?』
その問いが――
マルクスを、苦しめていた。
コンコン。
その時、部屋のドアが、静かにノックされた。
マルクスは、顔を上げた。
誰だろう。
こんな夜遅くに。
マルクスは、ドアへと向かった。
そして、ドアを開けた。
しかし――
そこには、誰もいなかった。
廊下は、静かだった。
誰の姿も、見えなかった。
マルクスは、不思議に思った。
そして――
足元を見た。
床に、一通の手紙が置かれていた。
封もされていない手紙。
マルクスは、それを拾い上げた。
そして、開いた。
そこには――
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もし、まだ、あなたの心に、僅かでも良心が残っているのなら。
明日、深夜二時、北塔の裏にある古い倉庫へ。
---
差出人の名前は、なかった。
しかし、マルクスには、それが誰からのものか、分かっていた。
リアンからだ。
あるいは――
解放戦線からだ。
マルクスは、一晩中、悩み続けた。
この手紙に応じるべきか。
それとも、無視すべきか。
この手紙に応じることは、学園長への、そして自らが手に入れた地位への、完全な裏切りを意味する。
見つかれば、待っているのは破滅だけだ。
昇格も、個室寮も、すべてを失う。
そして、おそらく――
投獄されるか、処刑される。
(……だが)
マルクスの脳裏に、アシェルの姿が蘇った。
仲間を守るために戦っていた、あの必死な姿。
リアンの、自分を信じてくれた、あの真っ直ぐな瞳。
(……俺は、このまま、自分の魂に嘘をつき続けて、生きていくのか……?)
マルクスは、自問した。
そして――
答えが、出た。
## 決断の夜――倉庫での密会
翌日、深夜二時。
マルクスは、寮を抜け出した。
誰にも見られないように。
音を立てないように。
北塔の裏にある、古い倉庫へと向かった。
その倉庫は、今は使われていなかった。
扉は、錆びついていた。
窓は、割れていた。
マルクスは、震える足で、倉庫の扉を開けた。
ギィィ……
軋む音が響いた。
中は、暗かった。
しかし――
わずかな月光が、差し込んでいた。
そして、その光の中に――
数人の人影が、見えた。
古い倉庫の中には、ケンシンと、解放戦線の生き残りである数名のメンバーが、息を殺して彼を待っていた。
「……よく来てくれたな」
ケンシンの声が、響いた。
その声は、硬かった。
まだ、マルクスを完全に信用しているわけではなかった。
「……何が、知りたい」
マルクスは、俯いたまま、小さな声で言った。
その声は、震えていた。
「全てだ」
ケンシンは、答えた。
「学園長の計画」
「地下施設の真実」
「そして……アシェルが、今、どこにいるのか」
その言葉を聞いて――
マルクスは、顔を上げた。
ケンシンの目を見た。
その目は、真剣だった。
そして――
信頼を求めていた。
マルクスは、深く息を吸った。
そして、話し始めた。
「……分かった」
「話す」
「全部、話す」
その日を境に、マルクスは、解放戦線に、学園の内部情報を、密かにリークするようになった。
## 小さな良心の価値――希望の光
彼が持ち出す情報は、断片的だった。
一度に多くの情報を持ち出せば、疑われる。
だから、少しずつ。
慎重に。
しかし、その情報は――
危険を伴うものだった。
見つかれば、マルクスは破滅する。
しかし、それでも――
マルクスは、情報を提供し続けた。
それは、鉄壁と思われた学園長の支配体制に穿たれた、最初の、そして最も重要な亀裂となった。
マルクスが最初に提供した情報は、地下監獄「奈落」の詳細な構造図と、警備兵の交代時間に関する機密情報だった。
「……これは……!」
カインは、その情報を見て、目を見開いた。
彼の手が、震えていた。
興奮で、震えていた。
「これがあれば……」
「アシェルを救出できるかもしれない……!」
カインの声は、希望に満ちていた。
マルクスの、たった一つの小さな個人の良心。
それが、絶望的な状況にあった解放戦線に、再び一条の希望の光をもたらしたのだ。
それは、巨大なシステムを崩すきっかけとなり得る、あまりにも小さく、しかし何よりも尊い、人間性の輝きだった。
ケンシンは、マルクスが去った後の倉庫で、静かに呟いた。
「……人間ちゅうもんは、面白かな」
ケンシンの声は、優しかった。
「どんな闇の中にも、光は、必ず宿っちょるもんじゃ」
物語は、敵側にもまた、救われるべき魂があることを示唆していた。
単純な善悪二元論ではない、より深く、より複雑な人間ドラマが、今、始まろうとしていた。
マルクスの裏切りは、やがて来る反撃の狼煙の、最初の火種となるのであった。
希望は、思わぬところから生まれた。
敵の中に、味方がいた。
そして、その味方が――
革命の鍵を握っていた。
物語は、いよいよ最終局面へと向かっていく。
アシェルの救出作戦が、始まろうとしていた。
そして、その先に――
学園長との、最終決戦が待っていた。
運命の歯車は、最後の回転を続けていた。




