エーテルの時代の幕開け35:残党たちの誓い
絶望の拠点――失われた熱気
アシェルが奈落の底へと囚われてから、一週間が過ぎていた。
エーテル解放戦線のアジトであった古い植物園の管理棟は、もはや革命の拠点としての熱気を失っていた。
ただ、冷たい絶望と、重い沈黙に支配されていた。
壁に貼られた学園の地図は、破れていた。
風に吹かれて、端がめくれていた。
作戦盤は、無造作にひっくり返されていた。
その上に散らばった駒が、床に転がっていた。
テーブルの上には、埃が積もっていた。
もう、誰も掃除をしていなかった。
誰も、そんなことを気にする余裕がなかった。
あの夜の惨劇と敗走の記憶が、悪夢のように、生き残った者たちの心に深く刻み込まれていた。
仲間たちの悲鳴。
血の匂い。
カインの死。
そして――
アシェルの捕縛。
すべてが、鮮明に記憶に残っていた。
そして、その記憶が――
彼らを、苦しめ続けていた。
## タケルの自責――砕けた拳
「……くそっ……!」
タケルは、壁に拳を何度も叩きつけていた。
ドンッ、ドンッ、ドンッ。
激しい音が響いていた。
その指の関節は、砕けていた。
血が、滲んでいた。
拳から、血が流れ落ちていた。
しかし――
彼自身は、痛みなど感じていないようだった。
彼の心は、アシェルを守りきれなかった自責の念と、どうすることもできない無力感によって、それ以上に深く傷ついていた。
「俺たちが、もっと強ければ……!」
タケルの声は、震えていた。
悔しさで、震えていた。
あの夜、アシェルを背負って逃げることしかできなかった。
自分の非力さが――
タケルのプライドを、ズタズタに引き裂いていた。
SATUMAの戦士として。
男として。
自分は、何もできなかった。
ただ、逃げることしか。
「俺は……弱い……」
タケルは、壁に額を押し付けた。
そして、静かに泣いていた。
## ケンシンの屈辱――折れた木刀
ケンシンは、道場の隅で、折れた木刀をただじっと見つめていた。
その木刀は、二つに折れていた。
あの夜の戦いで、折れたのだ。
ケンシンの右腕は、まだ包帯で吊るされたままだった。
骨が折れていた。
治るまで、まだ時間がかかる。
だが、彼が感じている痛みは、骨折の痛みなどではなかった。
仲間を、そして自らが指導してきた弟子とも言うべきアシェルを、見殺しにしてしまったという、武人としての最大の屈辱が、彼の魂を蝕んでいた。
(……わいの教えは、間違っちょったんか……?)
ケンシンは、自問していた。
アシェルに「魂の道」を説いた。
「チェスト」の精神を教えた。
しかし――
結局、自分は彼女を死地へと追いやっただけではないのか。
その疑念が、彼の剣を、そして心を、鈍らせていた。
ケンシンは、折れた木刀を握りしめた。
しかし、力が入らなかった。
心が、折れていた。
## 壊滅した組織――死んだ目
他の生き残ったメンバーたちもまた、深い絶望の中にいた。
ある者は、自分の部屋に閉じこもっていた。
悪夢にうなされて、夜中に叫んでいた。
「やめろ!」
「助けてくれ!」
その叫び声が、管理棟に響いていた。
ある者は、談話室で無言で虚空を見つめていた。
何も見ていない目。
死んだような目。
ただ、ぼんやりと、前を見ているだけ。
またある者は、故郷に帰ることを考え始めていた。
「もう、無理だ……」
「こんな戦い、勝てるわけがない……」
「俺は、帰る……」
希望が、失われていた。
エーテル解放戦線は、リーダーを失い、事実上、壊滅状態にあった。
もう、組織としての体を成していなかった。
ただ、生き残った者たちが集まっているだけ。
それが、今の解放戦線だった。
## リアンの決意――静寂を破る声
その、死んだような静寂を、破った者がいた。
「……顔を上げて、みんな」
声の主は、リアンだった。
彼女は、談話室の入り口に立っていた。
病み上がりで、まだ顔色は青白かった。
身体も、痩せていた。
しかし――
だが、その声には、以前の彼女にはなかった、芯の通った、驚くほどの力強さが宿っていた。
リアンは、ゆっくりと談話室の中央に歩み出た。
その足取りは、しっかりしていた。
もう、ふらつくことはなかった。
そして、絶望に打ちひしがれる仲間たち一人一人の顔を見回した。
「アシェルは、死んだの……?」
リアンの声が、静かな部屋に響き渡った。
「違うでしょ!」
その言葉に、仲間たちが顔を上げた。
リアンを見た。
彼女の目は――
強かった。
決意に満ちていた。
「彼女は、私たちを生き延びさせるために、たった一人で戦った!」
「その彼女の想いを、私たちがこんなところで腐らせて、どうするの!」
リアンの声は、激しかった。
怒りすら、込められていた。
仲間たちへの、怒り。
自分たちへの、怒り。
「……だが、俺たちに、何ができるって言うんだ……」
タケルが、血の滲む拳を見つめながら、力なく呟いた。
「相手は、学園そのものだぞ……」
「俺たちだけじゃ……」
タケルの声は、諦めに満ちていた。
しかし――
「一人じゃないわ!」
リアンは、きっぱりと言い放った。
その声は、迷いがなかった。
「アシェルは、私たちに教えてくれたじゃない」
リアンは、仲間たちを見回した。
「『一人一人が弱くても、みんなで力を合わせれば、奇跡を起こせる』って!」
「私たちは、もうただの落ちこぼれじゃない」
「私たちは、チーム『リヴォルト』」
「エーテル解放戦線の一員よ!」
その言葉が――
仲間たちの心を、揺さぶった。
そうだ。
自分たちは――
一人じゃない。
## 優しさの力――荒野の花
リアンは、持ち前の優しさで、絶望する仲間たちを励まし始めた。
まず、負傷したメンバーの手当をした。
包帯を巻き直した。
傷口を消毒した。
痛がる仲間に、優しく声をかけた。
「大丈夫、すぐに治るから」
「もう少しだけ、我慢してね」
次に、食事を作れずにいる者のために、パンを焼いた。
小麦粉をこねた。
オーブンで焼いた。
焼きたてのパンの香りが、管理棟に広がった。
その香りは、温かかった。
久しぶりの、温かさだった。
「はい、食べて」
リアンは、パンを仲間たちに配った。
「食べないと、力が出ないよ」
そして、悪夢にうなされる者の側で、夜通し手を握り続けた。
「大丈夫……」
「私が、ここにいるから……」
リアンの手は、温かかった。
その温もりが――
悪夢にうなされる者を、落ち着かせた。
彼女の献身的な姿は、まるで荒野に咲く一輪の花のように、仲間たちの凍てついた心に、少しずつ温かさを取り戻させていった。
(アシェル……)
リアンは、心の中で呼びかけた。
(あなたが戻ってくるまで、私が、みんなを支えるから……)
リアンの心の中には、親友への、そしてリーダーへの、絶対的な信頼と愛情があった。
それこそが、彼女を、ただ守られるだけのか弱い少女から、仲間を導く強い女性へと、変貌させていた。
## 頭脳の再起――カインの復活
リアンの行動に、最初に呼応したのは、カインだった。
彼は、あの夜、目の前で仲間たちが倒れていく光景を見て以来、自室に閉じこもっていた。
誰とも、口を利かずにいた。
部屋から、出なかった。
食事も、ほとんど取らなかった。
彼を苛んでいたのは、自分の作戦ミスが仲間を死に追いやったという、参謀としての罪悪感だった。
自分の計算が、間違っていた。
自分の判断が、仲間を死なせた。
その思いが――
カインを、苦しめ続けていた。
コンコン。
部屋の扉が、ノックされた。
「……カイン」
リアンの声が、扉の向こうから聞こえた。
「私よ、リアン」
返事は、なかった。
カインは、何も答えなかった。
だが、リアンは諦めなかった。
毎日、毎日、彼女はカインの部屋の前に食事を置いた。
そして、静かに語りかけ続けた。
「カイン、あなたのせいじゃない」
リアンの声は、優しかった。
「私たちは、みんなで決めたことよ」
「あなたの分析がなければ、私たちは地下の真実を知ることさえできなかった」
「……アシェルも、きっと、あなたを責めたりしないわ」
「むしろ、感謝してるはずよ」
リアンの言葉は、扉の向こうのカインに届いていた。
そして――
三日目の夜。
カインの部屋の扉が、僅かに開いた。
ギィィ……
軋む音が響いた。
扉の隙間から、カインの顔が見えた。
フードの奥から現れた彼の顔は、憔悴しきっていた。
頬は、こけていた。
目の下には、深いクマができていた。
しかし――
だが、その瞳の奥に、ほんの少しだけ、生気が戻っていた。
「……計画がある」
カインは、かすれた声で呟いた。
彼の目の下には深い隈が刻まれていたが、その脳は、この数日間、休むことなく、一つの目的のために稼働し続けていたのだ。
カインは、部屋から出てきた。
そして、談話室へと向かった。
仲間たちが、驚いて彼を見た。
カインは、震える手でテーブルの上に、何枚もの羊皮紙を広げた。
それは、詳細な設計図だった。
計算式が、びっしりと書かれていた。
それが、アシェルを救出するための、新たな、そしてあまりにも大胆な作戦計画だった。
「学園の地下監獄『奈落』」
カインは、設計図を指差しながら説明した。
「そこは、エーテルを完全に遮断する鉱石で作られている」
「物理的な破壊は、ほぼ不可能だ」
その言葉に、仲間たちの顔が曇った。
しかし――
カインは、独房の構造図を指し示した。
「だが、一つだけ、外部から干渉できる可能性がある」
「それは……」
カインは、施設の設計図の一点を指差した。
「……この、換気システムだ」
換気システム――
それは、非常に小さな通路だった。
しかし――
「非常に小さいが、エーテルを通す可能性がある」
カインの目が、輝いていた。
「ここから、アシェルの魂の核に直接、我々のエーテルを送り込むことができれば……」
それは、あまりにも博打に近い計画だった。
成功する保証は、ない。
しかし――
しかし、彼の顔には、もはや以前のような恐怖の色はなかった。
代わりに――
仲間の命を救おうとする、参謀としての強い決意が宿っていた。
仲間たちの心が、彼の頭脳を再び蘇らせたのだ。
## 毒を以て毒を制す――エリアーデの復讐
同時刻。
学園の薬学研究棟の、地下深くにある秘密の研究室で、もう一人の人物が、孤独な戦いを始めていた。
ドクター・エリアーデである。
研究室は、暗かった。
蝋燭の光だけが、部屋を照らしていた。
その光の中で――
エリアーデは、一人、実験を続けていた。
「……許せない」
エリアーデの声が、静かに響いた。
「許せないわ、オルティウス……!」
彼女の目の前には、無数の薬瓶が並んでいた。
様々な色の液体が入った瓶。
そして、複雑な化学式が書き込まれた羊皮紙が、散乱していた。
エリアーデは、バルトールに脅迫された自らの弱さと、その結果アシェルたちを地獄に突き落としてしまった罪を、深く悔いていた。
そして、その悔恨は、学園長オルティウスへの、燃えるような復讐心へと変わっていた。
「あなたがシステムを信奉するのなら、私は、そのシステムそのものを、内側から破壊する毒薬を、作って見せる……!」
エリアーデは、自らの罪を償うため、学園のエネルギーシステム「中央マナ炉」の機能を完全に破壊する、究極の「毒」を、密かに開発し始めていたのだ。
それは、「エーテル中和剤」と呼ばれる、禁断の錬金術だった。
完成すれば、生体電池からエーテルを抽出するプロセスを化学的に阻害し、マナ炉全体を機能不全に陥らせることができる。
しかし――
その開発は、困難を極めていた。
必要な材料は、希少だった。
入手するのが、難しかった。
そして、その調合には、高度な技術と、何よりも危険が伴った。
一度でも配合を間違えれば――
研究室ごと、吹き飛びかねない。
エリアーデの手は、震えていた。
しかし、それでも――
彼女は、実験を続けた。
(……それでも、やるしかない)
エリアーデは、心の中で呟いた。
(これが、私がアシェル君と、犠牲になった者たちにできる、唯一の償いなのだから……)
エリアーデの瞳に、科学者としての狂気と、贖罪への悲壮な決意が、混じり合って燃えていた。
## 戦士たちの誓い――再び立ち上がる者
管理棟のアジト。
夜。
リアンが淹れた温かいスープを、ケンシンとタケルはすすっていた。
そのスープは、温かかった。
身体を、温めてくれた。
心も、少しずつ温まっていった。
二人は、静かに、しかし力強く、再起を誓っていた。
「……すまんかった」
ケンシンが、深く頭を下げた。
「わいが、もっと強ければ、アシェルば守れたはずじゃ……」
その声は、悔しさに満ちていた。
しかし――
「違う!」
タケルが、珍しく真剣な顔で反論した。
「俺が、俺がもっと前に出て、敵ば蹴散らしておけば……!」
「ケンシンさぁの腕の怪我も、アシェルが捕まることもなかった……!」
二人は、互いを責め合っていた。
しかし――
「やめて」
リアンの声が、二人を制した。
静かに、しかし毅然とした態度で。
「アシェルは、そんなことを望んでいないわ」
リアンは、二人を見つめた。
「彼女が望んでいるのは、私たちが、下を向くことじゃない」
「前を向いて、再び立ち上がることよ」
その言葉に、二人は顔を上げた。
リアンの目を見た。
その目は――
強かった。
「カインが、アシェルを助け出す計画を立ててくれている」
リアンは、続けた。
「エリアーデ先生も、力を貸してくれると言っている」
「そして、私にも、できることがある」
「アシェルのいない今、この解放戦線を、私が守る」
「仲間たちの心を、私が繋ぎとめる」
リアンの、そのあまりの成長ぶりに、ケンシンとタケルは、息を呑んだ。
もはや、彼女はただ守られるだけのか弱い少女ではなかった。
アシェルの意志を継ぐ、立派なリーダーの一人として、そこに立っていた。
「……分かった」
ケンシンが、ついに折れた腕で、木刀を握りしめた。
痛みが走った。
しかし、もう気にしなかった。
「わいはもう、迷わん」
「アシェルば、必ず、この手で助け出す」
「そして……」
ケンシンの目に、SATUMAの武人としての、燃えるような闘志が蘇った。
「学園長ちゅう、すべての元凶を、断ち切る!」
「おう!」
タケルもまた、拳を固めた。
血が滲んでいたが、もう気にしなかった。
「次は、絶対ぇに負けん!」
「チェストの一声で、全部まとめてぶっ飛ばしてやるごわす!」
アシェルが不在の中、残された仲間たちは、それぞれの役割を果たし、諦めずに戦い続けることを誓った。
リアンの心が、仲間を繋ぐ。
カインの頭脳が、道を切り開く。
エリアーデの知識が、毒を作る。
そして、ケンシンとタケルの力が、剣となる。
彼らの、決して折れることのない絆の強さ。
それこそが、奈落の底にいるアシェルにとって、唯一無二の希望の光であり、やがて来る反撃の狼煙となるのであった。
希望は、まだ失われていなかった。
仲間たちは、立ち上がり始めていた。
そして、その先に――
アシェルとの再会が、待っていた。
物語は、新たな局面へと進んでいく。
絶望から、希望へ。
そして――
革命の完成へ。




