エーテルの時代の幕開け34:地下牢の闇と内なる声
失われた時間――完全なる孤独
時間は、その意味を失っていた。
一日が経ったのか。
あるいは、一週間が過ぎ去ったのか。
もう、分からなかった。
光も、音も、そして生命の温もりさえも完全に遮断された、学園の地下最深部「奈落」。
その独房の中で、アシェルはただ、冷たい石の床に膝を抱えて座り続けていた。
独房は、狭かった。
三メートル四方ほどの、小さな空間。
壁は、黒かった。
まるで、深淵のように。
ここは、エーテルを完全に遮断する特殊な素材で作られた牢獄だった。
壁も、床も、天井も、全てがエーテルの流れを吸収し、無力化する、黒曜石にも似た滑らかな鉱物で覆われていた。
その表面は、光を反射しなかった。
すべての光を、吸収していた。
だから――
独房は、完全な闇に包まれていた。
彼女がこれまで無意識のうちに頼りにしてきた、外界との繋がりが、完全に断ち切られていた。
体内のエーテルは、日に日に枯渇していった。
まるで、血液を抜き取られていくかのような、緩やかな死にも似た感覚が、彼女の全身を支配していた。
無力感。
生まれて初めて、彼女は自分の力が完全に無に帰すという経験をしていた。
身体が、重かった。
動かすのが、困難だった。
呼吸をするのも、苦しかった。
しかし――
だが、肉体的な苦痛よりも、彼女の心を蝕んでいたのは、耐えがたいほどの絶望と罪悪感だった。
## 絶望と罪悪感――繰り返される悪夢
(……私のせいだ)
アシェルは、心の中で呟き続けていた。
目を閉じれば、あの夜の光景が、鮮明に蘇った。
仲間の血。
ケンシンの折れた腕。
カインの最期。
そして何よりも――
自分を罠に嵌めたサイラスの、あの嘲笑うような目。
それらの光景が、何度も何度も、頭の中で繰り返された。
まるで、悪夢のように。
(私が、未熟だったから……)
(私が、みんなを信じすぎたから……)
自責の念が、アシェルを苦しめていた。
もっと、慎重であるべきだった。
もっと、疑うべきだった。
ケンシンの警告を、もっと真剣に受け止めるべきだった。
しかし――
もう、遅かった。
すべてが、終わってしまった。
リアンは、どうしているだろうか。
薬がなければ、彼女の命は……。
その考えが、アシェルの心を引き裂いた。
リアンは、自分のせいで苦しんでいる。
自分が、リアンを危険に晒した。
カインの最期の言葉が、耳の奥で木霊していた。
『……アシェル……逃げ……ろ……』
その声が、何度も聞こえてきた。
カインは、自分を庇って死んだのだ。
自分のために、命を落とした。
(私が、みんなを危険に晒した……)
(私がいなければ、みんなは……)
後悔と自責の念が、巨大な波となって彼女の心を打ち砕いた。
彼女は、もはや涙を流すことさえできなかった。
涙が、出なかった。
魂が、完全に乾ききってしまったかのようだった。
このまま、この冷たい闇の中で、静かに朽ち果てていく。
それが、自分の犯した罪に対する、当然の罰なのだと、彼女は思い始めていた。
死ねば――
すべてが、終わる。
もう、苦しまなくていい。
もう、誰かを傷つけなくていい。
アシェルの意識は、徐々に薄れていった。
もう、生きる理由が見つからなかった。
## 最初の声――魂の奥底から
どれほどの時間が、その絶望の底で過ぎ去っただろうか。
彼女の意識が、永遠の眠りへと沈み込もうとしていた、その時だった。
『……それで、終わりか?』
不意に、声が聞こえた。
アシェルは、はっとした。
誰か、いるのか。
しかし――
それは、外から聞こえる音ではなかった。
それは――
彼女自身の、魂の奥底から直接響いてくる、厳しい、しかしどこか懐かしい声だった。
(……誰……?)
アシェルは、心の中で問いかけた。
『忘れたのか』
その声は、低く、そして力強かった。
『俺は、お前に生きる術を教えた男だ』
その瞬間――
アシェルは、はっと目を見開いた。
この声は――
間違いない。
その声は、別れて久しい育ての親、旅の剣士エルダンのそれに、酷似していた。
(エルダン……?)
アシェルの心が、震えた。
(でも、あなたは、ここにいるはずがない……)
エルダンは、もうこの世にいない。
彼は、数年前に死んだ。
しかし――
『いるさ』
エルダンの声は、優しかった。
『俺はお前の心の中に、ずっといる』
その言葉に、アシェルの目から涙が溢れた。
久しぶりの、涙だった。
エルダンの声は、彼女の心象風景の中に、一つの確かなイメージを形作った。
それは――
かつて共に過ごした、雪の降る夜の焚き火の光景だった。
パチパチと爆ぜる炎の暖かさ。
エルダンの、岩のような横顔。
あの日々が、鮮明に蘇った。
『……思い出せ、アシェル』
エルダンの声が、問いかけた。
『俺が最初に教えたことは、何だった?』
アシェルは、記憶を辿った。
エルダンが、最初に教えてくれたこと。
それは――
「……生きること……」
アシェルは、か細い声で答えた。
『そうだ』
エルダンの声は、力強かった。
『どんな状況でも、最後まで生きることを諦めるな』
『それが、全ての始まりだ』
『お前は今、それを放棄しようとしている』
『俺の教えを、忘れたのか?』
その言葉が、アシェルの心に突き刺さった。
(でも……私は、もう……)
アシェルは、反論しようとした。
しかし――
『剣を握れ、アシェル』
エルダンの声が、遮った。
「剣なんて……ない……」
アシェルは、呟いた。
ここには、何もない。
武器も、希望も。
『心の中に、あるはずだ』
エルダンの声は、優しかった。
『俺が教えた、お前自身の魂の剣が』
魂の、剣。
エルダンが教えてくれた、心の中にある剣。
それは――
エルダンの言葉に導かれるように、アシェルはゆっくりと、精神を集中させた。
すると――
闇に閉ざされた彼女の意識の中に、一本の、微かな光を放つ剣のイメージが、おぼろげに浮かび上がってきた。
それは、美しい剣だった。
銀色に輝く、細身の剣。
柄には、エルダンの紋章が刻まれていた。
『そうだ』
エルダンの声が、優しく響いた。
『その剣は、誰にも奪えん』
『お前の意志そのものだ』
『もう一度、思い出せ』
『剣とは、何のためにある?』
アシェルは、エルダンの教えを思い出した。
「……己を守るためだけじゃない」
アシェルの声は、少しずつ力を取り戻していった。
「……人を、守るための、もの……」
『ならば、お前の戦いは、まだ終わっていないはずだ』
エルダンの言葉が、アシェルの絶望に凍りついた心に、最初の小さな亀裂を入れた。
そうだ――
自分の戦いは、まだ終わっていない。
守るべき人々が、まだいる。
救うべき魂が、まだいる。
## 魂との対話――ケンシンの教え
その日を境に、アシェルは、独房の中で、静かな内なる対話を始めた。
それは、彼女がこれまで意識的に避けてきた、自分自身の「力」そのものとの対話であり、同時に、これまで出会った人々から学んだ教えを、一つ一つ反芻する、長く、そして困難な精神的な旅であった。
次に彼女の心に現れたのは、SATUMAのリーダー、ケンシンの姿だった。
彼は、道場の床に座していた。
背筋を伸ばし、静かに瞑想していた。
そして、鋭い眼光で、ただ静かに彼女を見つめていた。
『……おはんの戦い方は、未熟じゃ』
ケンシンの声は、いつも通り、厳しかった。
その声には、容赦がなかった。
しかし、それは――
愛情から来る厳しさだった。
『力に、振り回されちょるだけじゃ』
『吸収する時も、譲渡する時も、おはんは、ただ感情の波に身を任せている』
『それでは、いずれ必ず、おはん自身の魂が、その奔流に飲み込まれる』
その指摘は、正しかった。
アシェルは、自分の力を制御できていなかった。
感情のままに、力を使っていた。
怒りに任せて、吸収した。
悲しみに任せて、譲渡した。
それでは――
いつか、自分自身を失う。
(じゃあ……どうすればいいの……?)
アシェルの問いに、ケンシンの幻影が、ゆっくりと立ち上がった。
その動きは、優雅だった。
まるで、舞うように。
『気じゃ』
ケンシンは、自分の腹に手を当てた。
『全ての源は、腹にある』
『おはんはまだ、力の源泉を、外に求めちょる』
『仲間、敵、草木……』
『じゃっどん、本当の力の源は、おはん自身の、内にある』
ケンシンは、座禅の姿勢を組んだ。
背筋を伸ばし、手を膝の上に置いた。
『呼吸を整えろ』
『外界との繋がりを断たれた、この静寂の中だからこそ、聞こえる声があるはずじゃ』
『おはん自身の、魂の呼吸が』
## 覚醒への思想的基盤――内なる核の発見
アシェルは、ケンシンの教えに従い、瞑想を始めた。
外界からのエーテルが遮断されたこの場所は、皮肉にも、自分自身の内面と向き合うには、最適な環境だった。
アシェルは、床に座った。
背筋を伸ばした。
そして、目を閉じた。
呼吸を、整え始めた。
ゆっくりと、息を吸う。
ゆっくりと、息を吐く。
そのリズムを、繰り返した。
彼女は、自分の体内の、微かなエーテルの流れに、意識を集中させた。
それは、枯渇寸前の、か細い流れだった。
まるで、干上がりかけた川のように。
しかし――
その流れの最も深い場所に、これまで気づかなかった、一つの「核」のようなものが存在することに、彼女は初めて気づいた。
それは、小さかった。
しかし、確かにそこにあった。
温かく、そして――力強かった。
それは、彼女が「吸収」したエーテルでもなく、「譲渡」したエーテルでもなかった。
それは――
彼女がこの世に生を受けた瞬間から、ずっと彼女の中に存在し続けてきた、彼女自身の、純粋な生命エーテルの源泉だった。
『……それだ』
エルダンの声が、再び響いた。
『それが、お前という人間の、核だ』
『誰にも奪えず、誰にも汚されぬ、お前だけの光だ』
その「核」に意識を向けた瞬間――
アシェルの心に、これまで感じたことのない、絶対的な安心感が広がった。
外界から力を得られなくとも、自分の中には、決して枯れることのない、小さな泉がある。
その事実に、彼女は気づいたのだ。
これが――
自分の、本当の力の源泉。
誰にも奪えない、自分だけの力。
最後に、彼女の心に現れたのは、意外にも、リアンとカイン、そして、レメディアルの仲間たちの、笑顔だった。
『……アシェル、独りで抱え込まないで』
リアンの、優しい声が聞こえた。
その声は、温かかった。
『……俺たちの頭脳と、お前の力を合わせれば、なんだってできるさ』
カインの、ぶっきらぼうだが、信頼に満ちた声が続いた。
彼女は、これまで自分がしてきたことは、独りよがりの「救済」だったのではないか、と省みた。
仲間を守りたい一心で、彼女は、彼らの力を信じることを、どこかで忘れていたのかもしれない。
自分一人で、すべてを背負おうとしていた。
しかし――
それは、間違いだった。
(……そうか)
アシェルは、理解した。
(私の力は、私だけのものではなかったんだ)
(譲渡も、吸収も、私一人の力じゃない)
(誰かがいて、初めて意味を持つ力なんだ)
アシェルは、ついに、自らの力の根源と、その本当の意味を理解した。
彼女の力は、他者と繋がるための力。
他者から受け取り、他者へと与える、循環の力。
そして、その循環の中心にあるのは、彼女自身の、決して揺らぐことのない、純粋な魂の核なのだ。
## 覚醒の光――新たな始まり
独房の暗闇の中で、アシェルは、ゆっくりと目を開けた。
その灰色の瞳には、もはや絶望の色はなかった。
代わりに宿っていたのは――
嵐が過ぎ去った後の、澄み切った湖面のような、静かで、しかしどこまでも深い、覚醒の光だった。
アシェルは、立ち上がった。
身体は、まだ弱っていた。
しかし――
心は、強かった。
もう、迷いはなかった。
もう、恐れもなかった。
彼女は、自分の力の本質を理解した。
彼女は、自分の戦う理由を理解した。
そして――
彼女は、もう一度、立ち上がることを決意した。
(待っていて、みんな……)
アシェルは、心の中で誓った。
(必ず、戻るから……)
彼女が力の根源と向き合い、次の覚醒への思想的基盤を築いていく。
その内面的な旅は、誰にも知られることなく、この奈落の底で、静かに完了していた。
外の世界では、彼女の仲間たちが、絶望的な状況の中で、必死に彼女の救出計画を練り続けている。
だが、彼らが次に再会するアシェルは、もはや以前の彼女ではない。
絶望の淵で、真の強さの意味を見出した、全く新しい存在として、彼女は、再び立ち上がることになるだろう。
物語の舞台は、再び、アシェルの内面から、激動の外面世界へと戻ろうとしていた。
革命は、まだ終わっていない。
むしろ――
今、本当の革命が、始まろうとしていた。




