エーテルの時代の幕開け32:罠、そして壊滅
決行の夜――希望を胸に抱いて
作戦決行の夜。
月は、雲に隠れていた。
二つの月が、どちらも見えなかった。
空は、真っ暗だった。
星も、ほとんど見えなかった。
まるで、世界全体が――
闇に包まれているかのように。
学園の地下深くへと続く古い水路は、漆黒の闇に包まれていた。
その水路の中を――
エーテル解放戦線の精鋭メンバー十数名が、息を殺して進んでいた。
足音を、できるだけ小さくして。
話し声も、最小限に抑えて。
見つかってはいけない。
誰にも、気づかれてはいけない。
彼らの胸には、数時間後に訪れるであろう「夜明け」への、熱い希望が燃えていた。
今夜、すべてが変わる。
今夜、カプセルの中の人々を救う。
今夜、学園長の悪を暴く。
そう、信じていた。
誰もが、信じていた。
「……ルートは間違いないな?」
先頭を進むケンシンが、背後を歩くサイラスに小声で尋ねた。
ケンシンの声は、慎重だった。
彼は、まだサイラスを完全には信用していなかった。
しかし、今は――
サイラスの情報に頼るしかなかった。
「ああ、間違いない」
サイラスの声は、闇の中でも奇妙なほど落ち着いていた。
その声には、迷いがなかった。
まるで、すべてを知っているかのように。
「この先の第3排水口を抜ければ、中央マナ炉の最下層、メンテナンス用通路に直接出られる」
サイラスは、淡々と説明した。
「警備用の魔力センサーも、俺が渡した解除コードで一時的に無力化できるはずだ」
その言葉に、仲間たちは頷いた。
サイラスが提供した『完璧な潜入ルート』の情報は、解放戦線にとってまさに天啓だった。
カインが、その情報を何度も確認していた。
カインの持つ古い設計図と照合しても、矛盾はなかった。
エリアーデが知る警備システムの穴とも、一致していた。
すべてが、完璧だった。
あまりにも、完璧すぎた。
しかし、誰もそれを疑わなかった。
誰もが、これを千載一遇の好機だと信じて疑わなかった。
ケンシンが抱いていた微かな疑念も、作戦の緻密さとサイラスの自信に満ちた態度の前で、鳴りを潜めていた。
アシェルは、隊列の中ほどで、全神経を集中させていた。
彼女の役割は、明確だった。
内部に侵入した後、囚われたレメディアルの先輩たちのエーテルを感知する。
彼らがいる正確な場所を突き止める。
そして、仲間と共に彼らを解放する。
それが、アシェルの役割だった。
(待っていてください、先輩たち……)
アシェルは、心の中で祈った。
(今、助けに行きますから……)
(もう少しだけ、耐えて……)
その純粋な祈りが、やがて地獄の扉を開くことになる鍵だとは――
彼女自身、夢にも思っていなかった。
## 罠の発動――眩い光の中で
「……ここだ。この先だ」
サイラスの声が、闇の中で響いた。
長い水路を抜け、一行は錆びついた鉄の扉の前にたどり着いた。
その扉は、古かった。
表面は、錆に覆われていた。
しかし、それは――
中央マナ炉への、入り口だった。
サイラスが、手にした魔導端末を取り出した。
その端末は、小さかった。
しかし、その中には――
重要な解除コードが入っていた。
サイラスは、手際よく解除コードを打ち込んだ。
その指の動きは、迷いがなかった。
まるで、何度も練習してきたかのように。
カチリ。
軽い音がした。
そして――
重厚なロックが、外れた。
「成功したぞ……」
誰かが、小さく呟いた。
希望の声だった。
ケンシンが、慎重に扉を押し開けた。
ギィィィ……
軋む音が響いた。
その向こうには――
仄暗い、しかし広大な空間が広がっていた。
壁や床は、滑らかな金属で覆われていた。
磨き上げられた金属。
それが、わずかな光を反射していた。
中央には、巨大なマナ凝縮装置があった。
その装置は、不気味な低い唸りを上げて稼働していた。
ウゥゥゥゥ……
規則正しい音。
まるで、心臓の鼓動のように。
まさに、彼らが目指していた中央マナ炉の心臓部だった。
「よし……!」
タケルが、喜びの声を上げかけた。
「計画通りだ!」
その時――
「……罠だッ!!」
ケンシンの、雷鳴のような叫びが響いた。
その瞬間――
部屋全体が、眩い光に包まれた。
天井、壁、床――
至る所に隠されていた無数のマナ灯が、一斉に点灯した。
それまで闇に隠れていた空間の全貌を、無慈悲に照らし出した。
一行は、目が眩んだ。
あまりの明るさに、一瞬、何も見えなくなった。
そして――
目が慣れてきた時、彼らが見たものは――
## 絶望の光景――完璧な包囲網
そこは、制御室などではなかった。
そこは――
巨大な円形の闘技場だった。
直径百メートル以上はある、広大な闘技場。
床は、滑らかな石でできていた。
天井は、高かった。
そして、その周囲――
観覧席のような場所には、武装した学園の警備部隊が、既に完全な包囲網を敷いて待ち構えていたのだ。
その数は――
百を超えていた。
いや、もっといるかもしれない。
彼らは皆、武器を構えていた。
剣、槍、弓。
そして、魔法を準備していた。
炎、氷、雷。
すべてが、解放戦線に向けられていた。
「なっ……!?」
一行は、あまりの光景に言葉を失った。
これは――
罠だった。
完璧な、罠だった。
最初から、すべてが――
仕組まれていたのだ。
そして、退路であるはずの背後の扉が――
ゴウッという重い音を立てて閉ざされた。
自動的に、ロックされた。
もう、逃げられない。
完全に、袋のネズミだった。
「……な、なんだってんだ……こりゃあ……」
タケルの声が、震えていた。
彼は、周囲を見回した。
しかし、どこにも――
逃げ道はなかった。
その闘技場の、最も高い場所――
玉座のような椅子が、そこにあった。
そして、その椅子から、一人の男がゆっくりと立ち上がった。
アーコン・ティア、ドラゴ・シルヴァリオン。
彼の顔には、獲物を追い詰めた捕食者のような、残酷な笑みが浮かんでいた。
その笑みは――
心底、楽しんでいるようだった。
「ようこそ、解放戦線の諸君」
ドラゴの声が、闘技場に響き渡った。
その声は、力強く、そして――冷酷だった。
「君たちの到着を、心待ちにしていたぞ」
彼の周りには、同じく学園長に買収されたドラゴ率いる龍人族のエリート部隊が、武器を構えてずらりと並んでいた。
その数は、五十を超えていた。
彼らは皆、精鋭だった。
アーコン・ティアとエリート・ティアから選りすぐられた、最強の戦士たち。
解放戦線とは――
比較にならない実力を持つ者たち。
## 裏切りの宣告――冷酷な真実
「……サイラス……」
タケルが、隣を見た。
そこに、サイラスが立っていた。
しかし――
サイラスの表情は、変わっていなかった。
驚いてもいない。
慌ててもいない。
まるで、これを――
最初から、知っていたかのように。
「てめえ……!」
タケルが、怒りに満ちた目で、サイラスを睨みつけた。
その目には――
激しい怒りと、深い悲しみがあった。
信じていた仲間に、裏切られた。
その痛みが、タケルの心を引き裂いていた。
だが、サイラスは悪びれる様子もなかった。
ただ、肩をすくめてみせただけだった。
「悪いな、みんな」
サイラスの口調は、これまでの親しげなそれとは全く異なっていた。
氷のように、冷たかった。
感情が、まったく感じられなかった。
「最初から、こういう筋書きだったのさ」
サイラスは、ゆっくりと解放戦線の輪から離れた。
そして、ドラゴたちが待つ階段へと向かった。
悠然と。
まるで、すべてが――
自分の計画通りだと言わんばかりに。
「なぜ……!」
アシェルが、信じられないといった表情で叫んだ。
その声は、震えていた。
涙が、目に浮かんでいた。
「私たち、仲間じゃなかったの……!?」
その叫びは――
魂からの、叫びだった。
アシェルは、サイラスを信じていた。
彼も、レメディアルの仲間だと。
彼も、同じ理想を持っていると。
しかし――
「仲間?」
サイラスは、階段の途中で足を止めた。
そして、振り返った。
その顔には――
完全な侮蔑と嘲笑が浮かんでいた。
まるで、愚か者を見るかのような目で。
「勘違いするなよ、アシェル」
サイラスの声は、冷たかった。
「俺がお前たちに近づいたのは、ただ一つ」
「お前という『規格外』の力を、最も高く評価してくれる買い手に、最高の状態で売り渡すためだ」
その言葉が――
アシェルの心を、深く傷つけた。
すべてが、嘘だったのか。
あの優しさも。
あの協力も。
すべてが――
演技だったのか。
サイラスの視線が、闘技場のさらに上、ガラス張りの特別観覧室へと向けられた。
その暗がりの向こう側で、学園長オルティウスが、満足そうにワイングラスを傾けているシルエットが見えた。
学園長は――
すべてを見ていた。
すべてを、楽しんでいた。
「残念だったな、アシェル」
サイラスは、最後の宣告を下した。
「お前の掲げた偽善の正義は、ここで終わりだ」
「お前は、これから学園の発展のための、貴重な『実験動物』として、その一生を終えることになる」
その言葉が――
解放戦線のメンバーたちに、絶望をもたらした。
味方だと信じていたサイラスの裏切り。
それは、解放戦線にとって、物理的な包囲よりも、遥かに深く、致命的な一撃だった。
## 絶望的な戦い、そして壊滅――一方的な殺戮
「……殺せ」
ドラゴの、冷たい命令が響き渡った。
その声は、感情がなかった。
まるで、虫を潰すかのように。
次の瞬間――
龍人族のエリート部隊が、一斉に攻撃を開始した。
アーコン・ティアとエリート・ティアから選りすぐられた彼らの実力は、解放戦線のメンバーとは比較にならなかった。
炎の槍が、放たれた。
氷の刃が、飛んできた。
雷の矢が、降り注いだ。
様々な属性の上級魔法が、嵐のように一行に降り注いだ。
「ぐわあああっ!」
解放戦線の数名が、最初の攻撃でなすすべもなく倒れた。
血が、飛び散った。
悲鳴が、響き渡った。
それは――
地獄だった。
「陣形を組め!」
ケンシンが、絶望的な状況の中で叫んだ。
「諦めるな!」
ケンシンは、木刀を構えて突進した。
その動きは、速かった。
まるで、風のように。
タケルもまた、「チェストォ!」の雄叫びと共に、その後に続いた。
二人の実力は、確かにエリート・ティアにも通用した。
ケンシンの木刀が、一人のエリートを倒した。
タケルの拳が、別のエリートを吹き飛ばした。
しかし――
相手は、数が多すぎた。
一人倒しても、すぐに次が来る。
二人倒しても、まだ次が来る。
そして、地の利も、全てが敵側にあった。
アシェルは、倒れた仲間を癒そうと、必死に「譲渡」の力を解放した。
彼女の身体から、エーテルが溢れ出した。
しかし――
「くっ……!」
アシェルは、異変に気づいた。
「力が……届かない……!」
彼女の周囲には、ドラゴが率いる精神攻撃専門の魔術師たちが、彼女のエーテルを乱すための特殊な結界を張っていた。
その結界が――
アシェルの力を、封じていた。
「無駄だ、エーテル・ドレインの魔女よ」
ドラゴが、高みから嘲笑した。
「お前の能力は、全て分析済みだ」
「この『精神擾乱結界』の中では、お前はただの無力な小娘に過ぎん!」
その言葉通り――
アシェルは、何もできなかった。
仲間が、次々と倒れていく。
血が、流れていく。
しかし、何もできない。
戦闘は、もはや戦いとは呼べなかった。
それは――
一方的な殺戮だった。
解放戦線のメンバーは、一人、また一人と、エリートたちの容赦ない攻撃の前に倒れていった。
「やめろ……!」
アシェルは、叫んだ。
「やめてええええっ!!」
しかし、攻撃は止まらなかった。
エリートたちは、容赦なく攻撃を続けた。
その時――
彼女を守るようにして前に立っていたカインが、背後から放たれた氷の槍に、胸を貫かれた。
ザシュッ!
鈍い音が響いた。
「……カイン……!」
アシェルは、叫んだ。
カインの身体が、倒れた。
血が、大量に流れ出した。
「……アシェル……」
カインは、か細い声で呼びかけた。
「逃げ……ろ……」
それが、彼の最後の言葉だった。
カインの目が、閉じた。
もう、動かなかった。
## 撤退、そして残されたもの――壊滅した希望
「……撤退じゃッ!!」
ケンシンが、血を吐きながら叫んだ。
彼の全身には、無数の傷が刻まれていた。
その片腕は、ありえない方向に折れ曲がっていた。
骨が、折れていた。
「このままでは、犬死じゃ!」
「生き延びて、必ず、この借りは返す!」
ケンシンは、木刀を振るい、敵を薙ぎ払った。
そして、血路を開いた。
「タケル!アシェルを連れて行け!」
「はい!」
タケルが、負傷したアシェルを背負った。
そして、ケンシンが切り開いた血路を、必死に突き進んだ。
数名の生き残りが、その後に続いた。
特別観覧室で、学園長は、その光景を静かに見つめていた。
ワイングラスを傾けながら。
まるで、演劇を楽しむかのように。
「……少し、逃してやれ」
学園長は、魔法通信でドラゴに指示を送った。
「生かしておけば、また面白いデータが取れるやもしれん」
ドラゴは、頷いた。
そして、追撃部隊に命令した。
「深追いするな」
「逃がしてやれ」
彼らにとって、この日の出来事は――
実験の一環に過ぎなかったのだ。
古い地下水路を抜け、アジトへと命からがら逃げ帰った時――
エーテル解放戦線は、もはやその名の影もなかった。
生き残ったのは――
アシェル、ケンシン、タケル。
そして、数名の深手を負ったメンバーだけ。
カインを始めとする、半数以上の仲間が、あの絶望の闘技場に、その命を散らしていた。
解放戦線は、物理的にも、精神的にも、最大の危機に、そして壊滅寸前の打撃を受けていた。
アシェルは、アジトの冷たい床の上で、意識を失っていた。
彼女の最後の記憶は――
仲間たちの血と、サイラスの、あの冷酷な笑みだった。
信じていたもの全てに裏切られ、築き上げてきたもの全てを失った絶望。
それが、アシェルの心を――
完全に、壊していた。
物語は、希望の光が完全に消え去った、最も深い闇の底へと、突き落とされた。
ここから、彼らは、そしてアシェルは、再び立ち上がることができるのだろうか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。
しかし――
運命の歯車は、まだ回り続けていた。
そして、その歯車が止まる時――
すべてが、決まる。




