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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
クラルの章

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え、鍛冶屋を立ち上げ雇用主でもある私は用済みですか?

グランベルクの農業省、大臣執務室。西の窓から差し込む夕日が、重厚な机に広がる書類を、ひとつひとつ金色に染めていた。クラル・ヴァイスは、三年のあいだ座り続けたこの椅子で、最後の時を過ごしていた。


机の上には、事業の最終報告書が、整然と積まれている。三百四十七枚に及ぶその束は、三年の成果と教訓のすべてを収めた、まさに彼の血と汗の結晶だった。指でその厚みをなぞりながら、クラルは、長く息を吐いた。


「すべて、終わりましたね」


呟いて、窓の外へ目をやる。かつて見渡すかぎりの焼け野原だった土地は、いまや、黄金色の麦の海となって、夕風に波打っていた。穂のひとつひとつが光を弾き、まるで、彼の三年を静かに労っているかのようだった。あの黒い焼け跡を初めて見たときの胸の重さを、彼は、忘れていなかった。守るために焼き、救うために灰にした土地。その上に、いま、麦が実っている。


目を凝らせば、黄金の海のあちこちに、見覚えのある人影が動いているのが、見える気がした。痩せた故郷の畑にしがみついていた者たちが、いまや、四十町歩もの責を担う差配役となって、胸を張って立っている。初めての刈り入れの朝、見込みを遥かに超える穂の重みに、老農夫たちが、子供のように歓声を上げたこと。その実りを、誰よりも己の手柄にしようとはせず、皆で分かち合ったこと。それらの一齣が、麦の波の向こうに、ひとつひとつ、よみがえってくる。


壁に掛けられた大きな地図には、色とりどりの留め針が、びっしりと刺さっていた。赤は穀物の地区、青は野菜、緑は果樹、黄は畜産。その一本一本が、三年の労苦の跡を、無言で物語っている。


「指南も、ひと区切りです。もう、私がいなくとも、立ち行くでしょう」


それは、感傷ではなく、確信だった。各地区の長は十分に育ち、難局を解く力も申し分ない。銭の面でも、とうに自立していた。とりわけ、故郷から連れてきた者たちの成長は、目覚ましかった。バルドスは、生まれながらの差配役のような貫禄を身につけ、トーマスの土づくりは王国でも指折り、マリアの種は隣国からも教えを請われ、ハンスの虫と病への手当ては、もはやクラル自身を超えていた。


己を必要としなくなった者たちを思うとき、胸に去来するのは、寂しさよりも、誇らしさのほうだった。優れた指南役の証とは——その者がいなくとも、すべてが回ることなのだ。


数日後、クラルはグランベルクをあとにし、馬車で王都へと向かった。


退任の儀は、王宮の謁見の間で、執り行われた。先の祝典のような華やかさはなく、質素な、しかし心のこもった儀式だった。


「ご苦労であった。そなたのおかげで、王国は、大きく変わった」


王の言葉は、ただの儀礼ではなかった。その目の縁に、わずかに光るものが滲んでいるのを、クラルは見逃さなかった。


謁見の間には、事業の関わりの者や貴族が居並んでいたが、その面に浮かぶのは、いずれも、敬意と感謝だった。ほんの数年前まで、一介の冒険者にすぎなかった若者が、いまや、王国の中枢から、これほどまでに重んじられている。


「クラル・ヴァイス」王は、あらたまった口調で続けた。「そなたの功は、王国の年代記に、永く刻まれるであろう。農業復旧担当大臣としての任は、本日をもって解く。だが王国は、そなたを、永遠の友と認める」


王より手渡された退任の証は、金糸で縁取られた、美しい羊皮紙だった。そこには、彼の三年が、格調高い文で記されている。クラルは深く頭を垂れ、それを両手で受けた。大臣としての務めは、こうして静かに、しかし栄誉ある形で、幕を閉じた。


王宮を辞し、馬車が王都の城門をくぐったとき、クラルの胸には、複雑な思いが渦巻いていた。


「久しぶりの、王都だ」


街並みは、見たところ、昔と変わらない。石畳の大通りには、商人の荷馬車が行き交い、軒を連ねる店からは、活気ある声が響いてくる。日の暮れた街角では、仕事を終えた職人や商人が寄り集まり、一日の疲れを酒で癒している。その眺めは、彼の記憶のままだった。


変わったのは——彼自身のほうだった。


王都を出ていった頃の彼は、まだどこか、頼りない若者だった。確かな技は持っていたが、人を率いる自信もなく、大勢の前で堂々と語ることも、できなかった。


いまの彼は、違う。背筋はまっすぐに伸び、歩みには、揺るぎない落ち着きがある。すれ違う人々が、なんとはなしに振り返るのも、無理はなかった。貴族でもない、騎士でもない。だが確かに、ただ者ではない気配を纏った、二十八の男。三千を超える人々を率いた歳月が、彼の物の見方を、根こそぎ変えていた。事を高みから俯瞰し、幾筋もの角度から解きほぐし、最も良い一手を探り当てる——その術は、三年で骨身に刻まれた、得がたい財産だった。そして何より、農夫、職人、商人、貴族、官吏。あらゆる立場の者と対等に渡り合い、それぞれの理を汲み、同じ目当てへと束ねる術を、彼は身につけていた。


工房街へ向かう道すがら、クラルは、己の心の移ろいを、はっきりと感じていた。


幾年か前の彼であれば、『風見鶏』へ帰ることは、ただ純粋な喜びだったろう。慣れ親しんだ場所、仲間たちとの再会、安んじて身を置ける日々への、帰還。だが、いまの彼にとって、それは、いくぶん込み入った感情を伴う出来事だった。


「はたして、私の居場所は、まだあるのだろうか」


それは、ただの不安ではなかった。むしろ、大きく変わってしまった者が、避けては通れぬ問いだった。過ぎ去った日の自分には、もう戻れない。では、新しい自分は、どこに己の場所を見出せばよいのか。


工房街の石畳を踏みしめながら、彼は、かつての日々を辿っていた。毎日この道を通い、仲間と技を論じ合い、客の望みに応えようと頭を悩ませた。素朴で、満ち足りた日々だった。だが、あの日々には、もう戻れない。それが、成長というものの、宿命なのだった。


『風見鶏』の前に立ったとき、クラルは、己の目を疑った。


「これは……『風見鶏』なのか」


建物の外まわりは、確かに、昔のままだった。木造の二階建て、質素な造り、看板に刻まれた風見鶏の絵。一階が工房、二階が住まいという間取りも、記憶のとおりだ。


だが、その佇まいは、すっかり様変わりしていた。


まず目を惹いたのは、入口まわりの設えだった。かつての『風見鶏』は、機能ひとすじの、無骨な構えだった。それがいまは、まるで別の家のようだ。扉の両脇には、丹精された花壇がある。ラベンダー、ローズマリー、小ぶりの薔薇、そして名も知らぬ可憐な花々が、緑の葉と見事に調和して、工房に、家庭の温もりを添えていた。窓辺には、繊細な模様のレースの窓掛けが揺れ、夕暮れの光を、やわらかく漉している。昔は、実用一点張りの、厚ぼったい布だったはずだ。


そして何より、工房から漏れる光が、違った。かつての、作業のための白々とした光ではない。人を迎え入れる、居間のような、ほの温かい光だった。


鼻をかすめる匂いも、変わっていた。かつてこの工房に満ちていた、石炭の煙と、灼けた鉄の、あの鋭い匂い。それがいまは、焼きたての菓子と、淹れたての茶、そして窓辺の花の香りに、取って代わられている。職人の城の匂いではなく、人の暮らす家の、匂いだった。


「まるで、家庭のような……」


呟きながら、クラルは戸惑っていた。これは確かに、彼の知る『風見鶏』ではない。だが、それが良い変化なのか、そうでないのか、彼には、まだ判じかねた。


工房の扉を開けた、その刹那。さらに驚くべき光景が、彼を待っていた。


「クラルさん!」


高い女の声が響いた。ヴェラの声だ。だが、その声の主を見て、クラルは一瞬、誰だか分からなかった。


駆け寄ってきたヴェラの姿は、昔とは、まるで違っていた。


かつてのヴェラは、いつも作業着をまとい、髪は無造作に束ね、面差しはどこか硬かった。職人としての誇りと、勝気さを、前面に押し出した女だった。たくましく、独り立ちの気概に満ち、ときに、刺々しくさえあった。


ところが、いま目の前にいるヴェラは——やわらかな前掛けのついた衣をまとい、髪は女らしく結い上げられている。そして何より、その面差しが、すっかり変わっていた。優しい母の顔。目元には、慈しみに満ちた微笑みが、浮かんでいる。


そして、その腕には、小さな子が抱かれていた。


生まれて一年ばかりと思しきその子は、クラルを見上げて、人懐っこく笑っている。ふっくらとした頬、好奇に満ちた大きな瞳、そして、母にそっくりの笑顔。間違いなく、ヴェラの子だった。


「ヴェラさん……その子は」


クラルは、混乱しながら尋ねた。何が起きているのか、呑み込めなかった。


「私と、ダンの子です」


ヴェラは、幸せそうに微笑んだ。その笑みは、昔の彼女からは、想像もつかぬほど、やわらかく、母の情に満ちていた。


「この子は、エミリーといいます」


「結婚……したのですか」


クラルは、言葉を失った。ヴェラとダンが、夫婦に。可能性として、考えられなくはなかった。だが、かつての二人の間柄を知る彼には、にわかには信じがたい話だった。あの頃の二人は、確かに良い相棒だったが、恋仲というより、仕事仲間という色が濃かった。ダンはヴェラの技を敬い、ヴェラはダンの実直さを買っていた。だが、それが恋に転じるとは——。


それでも、ヴェラの面差しには、昔の勝気さの芯が、まだ確かに残っていた。母になっても、芯の強さまでは、消えてはいなかった。


「事情が、変わりましたからね」


奥から現れたダンの声に、クラルは、われに返った。


ダンもまた、大きく変わっていた。かつては、生真面目で勤勉だが、どこか頼りない印象の男だった。それがいまは、父親らしい落ち着きを、全身に纏っている。肩幅はひとまわり広くなり、面には、自信と責任の色が宿る。手に残る作業の跡も、もはや見習いのそれではなく、一人前の職人のものだった。何より、家族を守る者としての強さが、その立ち居から、滲み出ていた。


「クラルさんが長らく留守でしたので、私たちで、工房を回すことになりまして」


ダンが、説明を始めた。その声は、昔より深く、安定していた。


「初めは、難儀しました。客からは『クラルはいつ戻る』と毎日のように問われ、技の難題は山積みで、商いの先行きも、不安だらけで」


「けれど、やるしかなかった」ヴェラが、後を継いだ。「工房を潰すわけにはいかないし、客に迷惑をかけるわけにも、いかない」


「だから、死に物狂いで励みました」ダンが、目を細めた。「技を学び直し、客との縁をつなぎ、商いを一から勉強して」


「その間に、互いの大切さに、気づいたんです」ヴェラが、付け加えた。その声には、深い情がこもっていた。「苦労を分かち合ううちに、いつの間にか……」


二人の面差しを見れば、それ以上の言葉は、要らなかった。苦労を共にし、支え合い、そして、愛し合うようになった。それは、自然で、美しい成り行きだった。


のちにヴェラが、ぽつりと語ったところによれば——きっかけは、ある大口の注文を、二人がかりで徹夜で仕上げた、その朝のことだったという。窓が白みはじめる頃、ようやく最後の一本を打ち終え、二人して、煤だらけの顔で、へたり込んだ。どちらからともなく、笑いがこぼれた。疲れ果てて、それでいて、満ち足りていた。その瞬間に、互いの隣にいることの、当たり前の心地よさに、二人は同時に気づいたのだ、と。派手な睦言があったわけではない。ただ、来る日も来る日も、同じ炉の前で汗を流すうちに、いつしか、離れがたくなっていた。


あらためて工房の中を見回すと、そこには、家族の営む店の、温かな空気が満ちていた。作業台の隅には、子供の玩具が転がっている。木彫りの小さな馬、布で縫った人形、積み木の一揃い。壁には、家族の絵姿が飾られていた。二人の祝言の絵、エミリーの誕生を祝う絵、工房での何気ない日々の一齣。かつての、効率ひとすじの、そっけない空気は、もうどこにもない。


作業台の据え方さえ、変わっていた。昔は、仕事の能率を第一に並べられていた。それがいまは、家族の暮らしとの兼ね合いを考えた配置になっている。ヴェラが手を動かしながらエミリーを見守れるように、ダンが客をもてなしながら家族に目を配れるように——すべてが、考え抜かれていた。


作業台の上には、研ぎかけの鑿が一本、置かれていた。クラルの目が、ひとりでに、そこへ吸い寄せられる。気づけば、手が伸びていた。手に取り、刃の角度を、灯にかざして検める。指の腹で、そっと刃先をなぞった。——研ぎが、甘い。あと少し、角度を寝かせて研げば、切れ味は見違えるだろう。そう見て取った刹那、大臣の三年が、すっと遠のいた。書類でも、地図の留め針でもない。鉄の冷たさと、刃の理。それが、彼の手のひらに、懐かしく馴染んだ。


そして、一角には、小さな炊事の場まで設けられていた。ささやかなものだが、茶を淹れ、軽い食事を整えるには、十分だ。


「お客さんに、お茶をお出しできるように、と」ヴェラが言った。「常連の方は、長居なさることが多いので」


ダンがそう言い添えたとき、ちょうど、一人の客が入ってきた。五十がらみの、髭を蓄えた、職人風の男だ。男は入るなり、エミリーに向かって手を振り、二人に親しげに挨拶した。


「いつもの、手斧の手入れを頼むよ」


「ええ、お任せを、ガロ親方」


ダンが、慣れた様子で応じる。家族ぐるみの付き合いであることが、ひと目で知れた。


「それにしても……客の顔ぶれが、変わりましたね」


クラルは、店内を見渡した。確かに常連は多いが、年かさの者が増えている。二十代、三十代の若い冒険者が中心だった昔とは違い、いまは四十、五十の男女ばかり。実を求める、熟練の気配が、濃かった。


「ええ。皆さん、本物の職人や、経験を積んだ冒険者ばかりです」ヴェラが言った。「確かな道具を求める方々で。技についての問いも奥が深く、応えがいがあります」


なるほど、店にいる客の佇まいは、昔とは大きく違っていた。若い冒険者の、あの勢いや華やぎはない。代わりにあるのは、深い経験に裏打ちされた落ち着きと、本物を求める真剣さだった。


だが、クラルを最も驚かせたのは、別の眺めだった。店の一隅で、年配の男女が、親しげに語らっている。一人は鍛冶職人らしき男、もう一人は、仕立屋らしき女。どちらも五十がらみで、互いの仕事について、熱心に語り合っていた。


「あのお二人……良い感じですね」


クラルが水を向けると、ヴェラとダンは、顔を見合わせて、微笑んだ。


「ええ。先月も、一組、縁が結ばれました」


「え?」クラルは、耳を疑った。「工房が……縁結びの場に?」


「狙ったわけでは、ないのですが」ダンが、苦笑した。「結句、そうなってしまって」


ヴェラが、詳しく語ってくれた。「常連のお客さんは、皆さん、似た値打ちを大事にしておられるんです。確かな道具への眼、職人への敬い、仕事への真摯さ。そういう同じ世代の方々が、ここで自然に知り合うようになって」最初は互いの仕事の話から始まり、やがて、暮らしの話になり、そして——その先は、語るまでもなかった。


考えてみれば、理にかなっていた。確かな工房に通う年配の男女は、めいめいに仕事への真心と、それなりの暮らし向きを持っている。値打ち観も近く、人生の経験も豊かだ。情が芽生える土壌は、十分にあった。


「良い相手を見つけるのは、難しいものでね」手入れを待っていた常連の一人が、世間話のついでに、クラルへ話しかけてきた。「だが、ここに集う連中は、皆、真面目で、信の置ける者ばかりだ」「仕事ぶりを見れば、人柄は、おのずと知れる」別の客が、口を挟んだ。「確かな道具を欲しがる者は、生き方も、真っ直ぐなものさ」なるほど、とクラルは得心した。確かに、理にかなっていた。


「工房が、縁結びの場に……」


クラルは、ただ呆然とするほかなかった。これは、彼の思い描いていた『風見鶏』の変わりようとは、まるで違っていた。


確かに、工房は存続していた。いや、むしろ、繁盛していた。だがそれは、彼の知る『風見鶏』とは、まったく別の場所になっていた。


幾年か前に彼が去ったときの『風見鶏』は、能率を重んじる、技ひとすじの工房だった。一人で切り盛りしていた頃の、静謐で張り詰めた気配。技の議論が飛び交う、知に満ちた場。何より、職人としての純粋な探究の場——それが、彼の記憶する『風見鶏』だった。だがいまここにあるのは、家族のような、人の集う場だった。子の笑い声が響き、客同士が親しげに語らう、いわば、人の寄り合いどころのような場所。


どちらが良い、悪いという話ではない。ただ、あまりに違いすぎて、彼は、己の置き場所を、見つけられずにいた。


ふと、彼の目は、作業場の奥の一角に、留まった。かつて、彼の仕事場だった場所だ。炉のすぐ脇、最も火の熱が届く、一等地。そこには昔、彼の鎚や鏨が、きちんと壁に掛けられていた。だがいまは、その同じ場所に、エミリーの玩具を入れた籠と、茶を淹れるための小さな棚が、据えられている。誰かが、悪意で彼の席を奪ったわけではない。ただ、暮らしが、ごく自然に、そこを満たしていったのだ。三年という歳月の重みが、その一角の佇まいに、何より雄弁に、表れていた。


(時は……止まってはくれぬのだな)


クラルは、胸の内で呟いた。己が遠い土地で三年を費やすあいだ、『風見鶏』もまた、それ独自の歩みを、進めていたのだ。


「ボルトさんと、ガースさんは?」


クラルは、残る二人の仲間について、尋ねた。


「二人とも、達者です」ヴェラが答えた。「独り立ちして、それぞれ、工房を開きました」


「独立……」


その言葉もまた、クラルには、衝撃だった。


「クラルさんがいない間に、十分な技と経験を、積んだんです」ダンが続けた。「初めは案じていましたが、客の信も得て、いまでは立派に、一人前の職人として、やっています。ボルトは武器に的を絞った工房を、ガースは農具に的を絞った工房を、構えています」


ボルト・アイアンアームと、ガース・ボーンクラッシャー。幾年か前は、まだクラルの指南を要する若い職人だった二人が、いまや、己の工房を構える主となっている。それは、『風見鶏』で受け継がれた技が、確かに根づいた証だった。指南役として、これ以上の誉れはない。だが同時に——彼らがもう、自分を必要としていないことの、証でもあった。


「それで……私は」


己の置き場所について、クラルが問うたとき、ひととき、沈黙が流れた。ヴェラとダンは、顔を見合わせた。その面差しから、二人もまた、同じことを考えていたのだと、知れた。


「もちろん、クラルさんのお帰りを、待っていました」ダンが、言葉を選びながら答えた。


「でも……正直に申せば」ヴェラが、後を継いだ。「いまの体制でも、十分に回っているので……以前のような役割は、もう、要らないかもしれません」


その率直な言葉は、クラルの胸に、深く沁みた。


二人は、嘘をついていない。事実、工房は、彼なしでも成り立つことを、この歳月で証してみせた。それは寂しくもあり、同時に、誇らしくもあった。己の育てた者が、己なしでも、立派にやっていける。指南役として、これに勝る成功はない。だが、一人の人間としてのクラルにとって、それは、新しい現実と向き合わねばならぬということでもあった。


彼は、静かに、その現実を受け入れはじめていた。


「そうですね……皆さんが、うまくやってくださっているなら」


その声には、諦めではなく、受容が、こもっていた。己の築いた礎の上に、仲間たちが、さらに見事なものを建て上げていた。それで、いいではないか。


「でも、クラルさんには、新しい役割が、あるかもしれません」ヴェラが、申し出た。その面には、クラルへの敬いと、友愛とが、にじんでいた。


「どのような」


「相談役として、折々に、顔を出していただく」ダンが、具体に踏み込んだ。「そして、よほど特別な誂えがあったときだけ、腕を振るっていただく」


「それなら……良いかもしれませんね」


クラルは、微笑んだ。その笑みには、諦めではなく、新しい道への、ささやかな期待が、宿っていた。すっかり元どおりの間柄に戻ることは、できない。だが、新たな形での関わりようは、ある。三年で得た知と力を活かし、入用なときだけ、力を貸す。それも、悪くない選び方だった。


「皆さん、本当に、立派になられました」


クラルは、心の底から感じ入っていた。この言葉に、嘘も飾りも、微塵もなかった。ヴェラとダンの結婚は、ただ恋仲が成就したという話ではない。二人が共に困難をくぐり、支え合い、新しい命を育んでいる。それは、人として最も美しい育ちの形だった。工房を、ただの作業場から、人の集う場へと変えたことも、見事だった。それは、技を超えた、もう一つの成功だった。


ふと、彼の脳裏を、己の歩んできた道がよぎった。かつて彼は、たった一人で、すべてを解こうとしていた。だが、旅の果てに思い知ったのだ——一人で解ける問いには、際がある、と。人は、独りでは、どこまでも強くはなれない。仲間がいて初めて、越えられる壁がある。その学びを、ヴェラとダンは、この工房で、まさに体現してみせていた。彼が痛みとともに気づいたことを、二人は、温もりとともに、形にしていたのだ。


「幾年か前のあの頃も、懐かしい。ですが、いまの皆さんのほうが、ずっと輝いています」


それは、偽らざる本心だった。昔の『風見鶏』は、確かに優れていた。だがそれは、一人の優れた職人に、寄りかかった仕組みだった。いまの『風見鶏』は、違う。めいめいが独り立ちし、互いを支え、それぞれの強みを活かしながら、全体として生き生きと回る——血の通った、有機的な仕組みへと、育っていた。


エミリーが、母の膝の上で、無邪気に笑っている。その姿を見て、クラルは、特別な感慨を覚えた。この子は、『風見鶏』の、次の世代の象徴だった。


夜も更け、常連客が帰ったあと、クラルは、ヴェラ、ダンと三人で、ゆっくりと語らう時を持った。エミリーは疲れて寝入り、工房には、静かな時が流れていた。


「三年間、本当に、ご苦労さまでした」クラルは、あらためて、二人に礼を述べた。


「初めは、不安でした」ヴェラが、正直に打ち明けた。「クラルさんの腕に追いつけるか、客に満足してもらえるか」


「けれど、やってみると、新しい発見が、たくさんあった」ダンが続けた。「クラルさんとは違うやり方で、同じ高みに届けると、分かったんです」


「違うやり方?」


「ええ。クラルさんは、ご自分一人の腕で、工房を支えていた。見事なことです」ヴェラが言った。「でも私たちは、皆の和と、客との縁で、工房を支えることにしたんです」


「一人ひとりの腕では、クラルさんには、及びますまい」ダンが、謙遜した。「ですが、皆を合わせた力、客の輪としての力でなら、新しい値打ちを、生み出せたかと」


なるほど、とクラルは、深く得心した。二人は、ただ『風見鶏』を守ったのではない。時の流れに合わせて、それを進化させたのだ。一人の腕に頼る仕組みから、皆で支え合う、末永く続く仕組みへと。それは、ある意味で、クラル一人では、成し得なかった歩みだった。


「私もまた、この三年で、大きく変わりました」クラルは、己の変化を、語りはじめた。「三千を超える人々の事業を率いた経験は、私の視野を、根こそぎ変えました。昔の私は、己の腕を磨くことばかりに、心を奪われていた。より良い道具を、より無駄のない仕事を、より高い品を。それ自体は、悪いことではない。ですが、視野が、狭かった」


「いまは、どうお考えなのですか」ヴェラが、尋ねた。


「技は、手立てであって、目当てではない、ということです」クラルは、はっきりと答えた。「本当の目当ては、人を幸せにすること。世に役立つこと。そして、末永く続く値打ちを、生み出すこと。その眼で見れば、皆さんが築き上げたいまの『風見鶏』は、私が一人で回していた頃より、はるかに、値打ちのある場になっています」


これは、クラルの、心からの評価だった。


「相談役の役、喜んで、お受けします」クラルは、あらためて告げた。「ですが、指南するというより、共に学び続ける仲間として、関わらせてください」


「それは、心強い」ダンが、安堵の面を見せた。


「とりわけ、大きな事業を回した経験は、私たちに足りぬところです」ヴェラが、付け加えた。「実は——支店を、出そうかと、考えているんです」


「支店?」


「隣街のハートウェルで、『風見鶏』の支店を開かないか、という話が来ていて」ヴェラが説明した。「あちらの商工の寄り合いから、正式な申し出がありました」


「迷っているのは、どうやって『風見鶏』の品と、この人の和を、よそでも保つか、ということでして」ダンが続けた。


確かに、難しい問いだった。支店を出すのは、商いが大きくなる自然な流れだ。だが、いまの『風見鶏』の値打ちは、技だけでなく、人の集う場としての働きにある。それを、別の土地で再び生み出すのは、容易ではない。


「なるほど、それは……面白い挑みですね」


クラルの目が、輝いた。大きな事業を切り回すなかで培った、組織を広げる知恵が、ここで活きるかもしれなかった。


夜は、さらに更けていった。エミリーの寝息だけが、かすかに聞こえる静かな工房で、クラルは一人、考えを巡らせていた。


幾年か前にここを発ったとき、彼の頭にあったのは、己の技を、より高めることだけだった。だが、大臣としての歳月を経て、彼は、技というものの、本当の意味を解するようになっていた。


技は、人を幸せにするための、もの。組織は、一人ひとりの育ちを支えるための、もの。そして、指南役とは——己の跡を継ぐ者を、育てるための、もの。


その理を、今宵の『風見鶏』で、あらためて、骨身に感じることができた。窓の外には、王都の夜空が広がっている。彼は、長いあいだ、机の上で書類と格闘し、地図の留め針を動かし、人を差配してきた。それは、確かに大きな仕事だった。だが、ふと、己の両の手のひらに目を落とすと、そこには、まだ、槌を握り続けた者の、固い胼胝が残っていた。指は、いまも、鉄の熱と、鎚の重みを、覚えている。


(私は……つまるところ、作る者なのだ)


その思いが、胸の奥で、静かに灯った。大臣の椅子も、印綬も、彼に、誇るべき達成をもたらした。だが、彼の核にあるものは、変わっていなかった。炉の前に立ち、己の手で、確かな一本を打ち上げる——その喜びこそが、彼の根だった。


「さて……これから、どうしようか」


クラル・ヴァイスは、新しい人生の選び道を、思い描きはじめていた。胸のうちに、静かな決意が、形をなしていく。


翌朝、エミリーの元気な笑い声で目を覚ましたクラルは、朝餉の席で、ヴェラとダンに、己の決断を告げた。


「昨夜、よく考えました」彼は、静かに切り出した。「相談役のお話、ありがたく、お受けします。ですが、それと並んで、私自身も、新しい挑みに踏み出そうと思うのです」


「新しい挑み?」ヴェラが、興を引かれたように尋ねた。


「グランベルクで、大きな工房を、構えるつもりです」クラルは続けた。「ですが、まったく切り離れてしまうわけでは、ありません。技の交わり、人の行き来、そして何より、心のつながりは、保ちたい。『風見鶏』は、私にとって、永遠の故郷ですから」


それは、彼が遠ざかっていた炉の道へ、ふたたび足を向けるという宣言でもあった。大臣として土と人を育てた三年。その経験を携えて、彼は、己の根である、作る者の道へと、還ろうとしていた。


「それは、素晴らしい計らいですね」ヴェラが、心から祝福した。


「私たちも、クラルさんの新しい挑みを、力のかぎり応援します」ダンが続けた。「そして、支店の件も、ぜひ、お知恵を貸してください」


「もちろんです」クラルは、快く頷いた。「むしろ、互いの仕事を結び合わせれば、より大きな値打ちを、生み出せるかもしれません」


こうして、新しい間柄が、結ばれた。クラルは『風見鶏』の相談役として関わりながら、己の工房を築く。『風見鶏』は支店を広げながら、クラルの工房と、技を交わす。互いに独り立ちした者でありながら、同じ値打ちと、同じ目当てを、分かち合う。それこそが、まことに成熟した間柄だった。


「十年も経てば、王国じゅうに、私たちの繋がりが、広がっているかもしれませんね」ヴェラが、夢を語った。


「『風見鶏』の支店と、クラルさんの工房。技と人を分かち合う、新しい形の、工房の網」ダンが、後を継ぐ。


「でも、どれだけ大きくなっても、今日のような温かい間柄は、保ちたいですね」


「もちろんです」三人の声が、ひとつに、揃った。


昼過ぎ、クラルは『風見鶏』を、あとにすることになった。


「また、近いうちに、顔を出します」


「エミリーの成長も、楽しみにしています」そう言って、彼は、母の腕の中の小さな子に、そっと指を差し出した。エミリーは、その指を、力いっぱい握り返してくる。「お二人の、幸せな家庭を見ていると……私も、これからの己のことを、考えるようになりました」


その最後の一言に、ヴェラとダンは、意味ありげな笑みを浮かべた。


「クラルさんにも、きっと、素敵な出会いが、待っていますよ」


「グランベルクでの新しい暮らし、楽しみですね」


『風見鶏』を出て、王都の街を歩きながら、クラルは、清々しい気持ちだった。過去への郷愁ではなく、未来への、期待。失ったものへの嘆きではなく、得たものへの、感謝。そして何より、新しい挑みへの、胸の高鳴り。


通りの角を曲がったとき、どこかの工房から、鎚を打つ音が、響いてきた。鉄を鍛える、あの澄んだ高い音。鋼が鉄床の上で歌う、規則正しい律動。その音を耳にした途端、クラルの足は、ひとりでに止まり、胸の奥が、とくりと高鳴った。それは、彼が遠ざかっていた、けれど決して忘れてはいなかった、未来の音だった。彼は、しばし耳を澄ませ、それから、また歩きだした。今度は、迷いのない足取りで。


(もはや、昔の私では、ない)


クラルは、確信していた。二十で故郷を出たときは、責から逃れる若者だった。だがいまは、責を引き受け、多くの人々を、より良い明日へと導く者になっていた。そして、その手にはなお、鎚を握る職人の胼胝が、確かに残っている。


二十八のクラル・ヴァイスに、これから、どのような明日が待っているだろうか。新しい工房での、技の探究。新しい人材の、育成。そして何より、いつか巡り会うかもしれぬ、愛する人との、出会い。そのすべてが、彼の、新しい冒険の一部となるのだった。

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