エーテルの時代の幕開け20:リアンに伸びる影
偽りの平穏――静かに迫る危機
チーム「リヴォルト」の準決勝進出が決まってから数日間。
レメディアル寮は、かつてないほどの穏やかさと希望に満ちていた。
寮の廊下には、仲間たちの笑い声が響いていた。
談話室では、次の試合についての議論が活発に行われていた。
食堂では、皆が一緒に食事をし、将来の夢を語り合っていた。
それは、平和な日々だった。
いや――
平和に見える日々だった。
カインは、次の対戦相手の分析に没頭していた。
彼は、図書館に籠もり、過去の試合記録を徹底的に調べていた。
ノートには、無数のデータと戦術が書き込まれていた。
「相手の弱点は……ここか」
カインは、グラフを見つめながら呟いた。
「この戦術なら、勝てるかもしれない」
彼の目は、輝いていた。
それは、希望の光だった。
他の仲間たちも、それぞれの役割を果たすべく自主訓練に励んでいた。
ガレスは、訓練場で筋力トレーニングをしていた。
彼は、木製の人形を相手に、何度も何度も拳を打ち込んでいた。
汗が、額から滴り落ちる。
しかし、彼は止まらなかった。
「もっと、強くならないと」
ガレスは、自分に言い聞かせた。
「アシェルを、守らないと」
エルザは、魔法の訓練をしていた。
彼女は、火の魔法を得意としていた。
手のひらから、小さな炎を生み出す。
それを、徐々に大きくしていく。
「まだまだ……もっと強力な炎を……」
彼女もまた、必死だった。
アシェル自身もまた、ケンシンから教わった「気」の鍛錬に集中していた。
彼女は、毎朝早く起き、中庭で瞑想をしていた。
目を閉じ、呼吸を整える。
そして、自分の内なる「気」を感じ取ろうとする。
ケンシンは、こう言っていた。
「気を制御できれば、力の暴走を防げる」
「そうすれば、記憶を失うこともなくなる」
アシェルは、それを信じて、毎日訓練を続けていた。
力の代償を克服しようと努めていた。
しかし――
だが、その偽りの平穏の水面下で、バルトール侵爵が仕掛けた非情な毒は、最も弱い場所から、静かに、そして確実に効き始めていた。
## 最初の兆候――リアンの異変
「……なんだか、最近また息が苦しくなってきたような……」
ある日の午後。
談話室の窓辺で、リアンが小さな胸をそっと押さえながら呟いた。
外は、美しい秋晴れだった。
空は、澄み渡った青色。
白い雲が、ゆっくりと流れている。
木々の葉は、赤や黄色に色づいていた。
それは、美しい景色だった。
しかし、リアンの目には、その美しさが映っていなかった。
彼女の顔色は、この数日で明らかに青白さを増していた。
唇も、青ざめていた。
目の下には、深いクマができていた。
彼女の手は、胸を押さえたまま、震えていた。
「気のせいだよ、リアン」
アシェルは、心配を悟られまいと、努めて明るく言った。
彼女は、リアンの隣に座った。
そして、リアンの肩を優しく抱いた。
「きっと、大会の緊張で疲れてるんだよ」
「ゆっくり休めば、また元気になる」
アシェルの声は、明るかった。
しかし、その目は、心配に満ちていた。
リアンの状態が、悪化していることは、明らかだった。
しかし、アシェルは、それを認めたくなかった。
認めてしまえば、現実になってしまう。
だから、彼女は必死に、明るく振る舞った。
アシェルは、ドクター・エリアーデから定期的に届けられる薬を信じきっていた。
高価な薬だ。
最高の専門家が作っている。
効果がないはずがない。
そう、自分に言い聞かせた。
「うん……そうだよね」
リアンは、弱々しく微笑んだ。
「ちょっと、疲れてるだけだよね」
しかし、彼女の声は、確信がなかった。
彼女自身、自分の身体の異変に気づいていた。
息苦しさ。
胸の痛み。
めまい。
それらの症状は、以前よりも悪化していた。
しかし――
しかし、数日が経っても、リアンの症状は改善するどころか、日に日に悪化していった。
夜中に、激しく咳き込む声が、再び寮の静寂を破るようになった。
ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ。
その咳は、痛々しかった。
まるで、肺を引き裂くような。
アシェルは、夜中にその咳を聞くたびに、目を覚ました。
そして、リアンの部屋へ駆けつけた。
リアンは、ベッドの上で身を丸め、激しく咳き込んでいた。
その小さな身体が、咳のたびに震えていた。
「リアン……大丈夫?」
アシェルは、リアンの背中を優しく撫でた。
「うん……大丈夫……」
リアンは、涙目で答えた。
しかし、その声は、苦しそうだった。
昼間も、症状は悪化していった。
歩けば、すぐに肩で息をするようになった。
階段を上るだけで、息切れする。
時には、めまいを起こして倒れそうになることもあった。
「リアン!」
アシェルは、倒れそうになったリアンを、慌てて支えた。
「ごめん……ちょっと、めまいが……」
リアンの顔は、土気色だった。
額には、冷たい汗が浮いていた。
「……おかしい」
ある夜、アシェルは一人、部屋で空になった薬瓶を見つめていた。
その薬瓶は、琥珀色のガラスでできていた。
中には、かつて薬が入っていた。
しかし、今は空だった。
「薬の量は、増えているはずなのに……」
アシェルは、言いようのない不安に駆られた。
エリアーデからの薬は、定期的に届いていた。
しかも、リアンの症状に合わせて、量も増やしていた。
それなのに、なぜリアンの症状は悪化しているのか。
理解できなかった。
彼女は知らなかった。
その琥珀色の液体の中身が、バルトールの指示によって、有効成分を徐々に減らされた偽薬へと、すり替えられていることを。
リアンが飲んでいるのは、もはや薬ではなかった。
それは、ただの甘い水に過ぎなかった。
## 薬学者エリアーデの葛藤――罪悪感の重み
その頃、薬学研究棟の最上階。
ドクター・エリアーデの研究室。
エリアーデは、罪悪感と自己嫌悪に苛まれていた。
彼女は、机の前に座り、頭を抱えていた。
机の上には、二種類の薬瓶が並んでいた。
一つは、本物の特効薬。
それは、透明なガラス瓶に入っており、中には琥珀色の液体が入っていた。
その液体は、わずかに光を放っていた。
それは、魔法の薬だった。
リアンの命を救うための、特効薬。
エリアーデが、何年もかけて開発した、傑作。
そして、もう一つは――
偽薬。
それも、同じ琥珀色のガラス瓶に入っていた。
中身も、同じように琥珀色だった。
しかし、それはただの甘い水に過ぎなかった。
バルトールに強要されて調合した、偽物。
見た目は同じ。
しかし、効果はまったく違う。
本物は、命を救う。
偽物は、何もしない。
ただ、死へのカウントダウンを進めるだけ。
(私は……なんてことをしてしまったんだ……)
エリアーデは、自分を責めた。
彼女は、医者だった。
薬学者だった。
人々を救うことが、彼女の使命だった。
しかし、今――
彼女は、人を殺そうとしている。
いや、殺している。
リアンという、罪のない少女を。
十年前の「不正」の証拠を盾に脅迫された彼女には、バルトールに逆らうという選択肢はなかった。
あの夜、バルトールが持ってきた証拠。
それは、事実だった。
エリアーデは、十年前、学園の機材を横流ししていた。
それは、研究資金を得るためだった。
学園からの予算は少なく、必要な薬品を買うこともできなかった。
だから、彼女は、機材を売却した。
それは、不正だった。
犯罪だった。
しかし、彼女には選択肢がなかった。
そして、その秘密は、誰にも知られていないはずだった。
しかし――
バルトールは、それを知っていた。
そして、それを脅迫の材料にした。
「私の指示に従うか、この記録を公表するか」
バルトールの言葉が、エリアーデの耳に蘇る。
侵爵の権力と、学園長の影。
その二つの巨大な力の前で、彼女のちっぽけな良心など、いとも容易く踏みにじられた。
「先生、次の薬はまだですか!」
その時、研究室の扉を叩く音が響いた。
「リアンさんが、また苦しんでいます!」
それは、レメディアルの生徒の声だった。
その声は、必死だった。
焦っていた。
エリアーデの心を、抉るような声だった。
「……今、準備している!」
エリアーデは、震える声で答えた。
「もう少し、待ちなさい!」
彼女は、立ち上がった。
そして、机の上の二つの薬瓶を見つめた。
本物と、偽物。
どちらを渡すべきか。
答えは、明らかだった。
しかし――
彼女には、勇気がなかった。
バルトールに逆らう勇気が。
自分のキャリアを犠牲にする勇気が。
彼女は、震える手で偽薬の瓶を掴んだ。
そして、扉に向かった。
扉を開けると、そこに一人の生徒が立っていた。
それは、カインだった。
「先生、お願いします」
カインは、必死に頼んだ。
「リアンが、本当に苦しんでいるんです」
「どうか、薬を……」
エリアーデは、カインに偽薬の瓶を手渡した。
その瞬間、彼女の心は、激しい痛みに襲われた。
罪の重さに、立っていることさえ困難だった。
「……これを、リアンに飲ませてあげて」
エリアーデの声は、震えていた。
「ありがとうございます!」
カインは、薬瓶を受け取り、走り去っていった。
その背中を見送りながら、エリアーデは崩れ落ちた。
膝をつき、両手で顔を覆った。
(許してくれ、アシェル君……)
エリアーデは、心の中で謝った。
(私には、君たちを裏切ることしかできなかった……)
(私は、弱い人間なんだ……)
エリアーデは、机に突っ伏して、声を殺して泣いた。
その涙は、止まらなかった。
しかし、だが、その涙が、彼女の犯した罪を洗い流してくれることはなかった。
罪は、そこにあった。
消えることのない、罪。
そして、その罪の代償を払うのは――
エリアーデではなく、リアンだった。
## バルトールの卑劣な囁き――最後の一撃
リアンの容態が悪化の一途を辿っているという報せは、計画通り、バルトール侵爵の耳にも届いていた。
バルトールは、自邸の書斎で、その報告を受けた。
「リアン・エルフィリアの容態、さらに悪化」
情報提供者からの報告書を読みながら、バルトールは満足そうに微笑んだ。
「順調だな」
彼の声には、喜びが含まれていた。
それは、他人の不幸を喜ぶ、卑劣な喜びだった。
「そろそろ、最後の仕上げに取り掛かるとしよう」
バルトールは、椅子から立ち上がった。
彼は、ついに最後の仕上げに取り掛かることにした。
それは、リアンに直接接触すること。
そして、彼女の心に、決定的な毒を注入すること。
その日の夕暮れ。
太陽が、西の空に沈もうとしていた。
空は、オレンジ色に染まっていた。
学園の建物が、夕日に照らされ、長い影を作っていた。
リアンは、一人で図書館から寮へ戻る途中だった。
彼女は、ゆっくりと歩いていた。
息が苦しくて、早く歩けなかった。
時々、立ち止まって、深呼吸をする。
胸を押さえ、痛みに耐える。
そして、また歩き出す。
彼女は、人影のない中庭を通っていた。
その中庭は、普段は生徒たちで賑わっている。
しかし、夕暮れ時のこの時間は、誰もいなかった。
静かで、そして――少し不気味だった。
その時――
「……久しぶりだな、リアン君」
突然、声が響いた。
リアンは、驚いて振り返った。
そこに、バルトール侵爵が立っていた。
彼は、黒いマントを着ており、その姿は夕日に照らされて、まるで悪魔のようだった。
「……侵爵、閣下……」
リアンは、恐怖でその場に凍りついた。
彼女の全身が、震え始めた。
バルトール――
その名前を聞くだけで、リアンの心は恐怖で満たされた。
彼は、秋季カップで不正をしていた男。
アシェルたちを苦しめた男。
そして、今も――
何か、悪いことを企んでいる男。
彼の瞳には、秋季カップでの屈辱的な記憶と、彼女に対するあからさまな敵意が、冷たく渦巻いていた。
バルトールは、ゆっくりとリアンに近づいた。
彼の足音が、石畳に響く。
カツン、カツン、カツン。
その音が、リアンの恐怖を増幅させた。
「体調が、あまり優れないようだね」
バルトールの声は、蜂蜜のように甘ったるかった。
しかし、その奥には、蛇のような冷酷さが潜んでいた。
「実に、気の毒だ」
その言葉は、同情のように聞こえた。
しかし、その目は――
まったく同情していなかった。
むしろ、楽しんでいるようだった。
リアンの苦しみを、楽しんでいる。
「……何の、ご用でしょうか」
リアンは、震える声で尋ねるのが精一杯だった。
彼女は、バルトールから逃げたかった。
しかし、身体が動かなかった。
恐怖で、金縛りにあったように。
「用?」
バルトールは、首を傾げた。
「いやいや、君のような美しい娘の、健康を案じて来ただけだよ」
バルトールは、さらに近づいた。
そして、リアンの目の前に立った。
リアンは、バルトールを見上げた。
彼は、背が高かった。
そして、その姿は、威圧的だった。
バルトールは、リアンの耳元に顔を近づけた。
そして、悪魔のように囁いた。
「……原因は、分かっているのだろう?」
「え……?」
リアンは、その言葉の意味が分からなかった。
原因?
何の原因?
「君の病が悪化しているのは、薬のせいではない」
バルトールは、ゆっくりと言葉を続けた。
「君の、大切な『友人』のせいだよ」
その瞬間、バルトールは、ある名前を口にした。
「アシェル・ヴァーミリオンが、大会で目立てば目立つほど、君の命は短くなる」
「そういう『仕組み』になっているのだよ」
「そん、な……」
リアンの目が、見開かれた。
それは、信じられないという表情だった。
しかし、同時に――
どこか、納得しているような表情でもあった。
「学園長閣下はね、秩序を乱す者を、ひどくお嫌いになる」
バルトールは、巧妙に嘘と真実を織り交ぜた。
「レメディアルの分際で英雄気取りのあの娘は、閣下のご不興を買っている」
「そして、その『罰』が、友人である君に下されているのだ」
バルトールの声は、説得力があった。
それは、真実のように聞こえた。
「アシェルが勝利を重ねるたびに、君の薬の供給は、一本、また一本と、減らされていく」
「だから、君の病は悪化しているのだよ」
それは、完全な虚構だった。
真実は――
バルトールが、エリアーデを脅迫して、薬を偽物にすり替えさせていた。
それだけだった。
学園長は、直接的には関与していなかった。
しかし、バルトールの言葉は、病で心身ともに弱っていたリアンにとって、あまりにも説得力を持って響いた。
(私のせいで……)
リアンの心に、罪悪感が広がった。
(私がここにいるせいで、アシェルが……)
(ううん、違う)
(アシェルが戦うから、私の命が……)
リアンの思考は、混乱していた。
何が正しくて、何が間違っているのか。
もう、分からなかった。
「どうすれば……」
リアンは、懇願するように尋ねた。
「どうすれば、薬を……?」
その声は、必死だった。
彼女は、生きたかった。
死にたくなかった。
まだ、やりたいことがたくさんあった。
アシェルと、もっと一緒にいたかった。
仲間たちと、もっと笑いたかった。
「簡単なことだ」
バルトールは、勝利を確信した笑みを浮かべた。
それは、獲物を捕らえた捕食者の笑みだった。
「アシェルに、大会を棄権させるのだよ」
その言葉に、リアンは息を呑んだ。
「彼女が、これ以上目立つことなく、再びレメディアルの『分相応』な生徒に戻れば、学園長閣下のお怒りも収まるだろう」
「そうすれば、君への薬も、また元通り供給されるようになるかもしれない」
バルトールの言葉は、甘い誘惑だった。
しかし、それは毒だった。
致命的な毒。
バルトールは、最後に念を押した。
「いいかね」
彼の声は、低く、そして重かった。
「これは、君の命がかかっているのだ」
「そして、その命の鍵を握っているのは、アシェル、ただ一人なのだよ」
その言葉が、リアンの心に深く突き刺さった。
バルトールは、そう言うと、満足そうに闇の中へと消えていった。
彼のマントが、風になびいた。
そして、その姿は、夕闇に溶けていった。
## 心の鎖――解けない呪い
後に残されたリアンは、その場に崩れ落ちた。
膝をつき、両手を地面についた。
石畳の冷たさが、手のひらに伝わってきた。
しかし、リアンには、それを感じる余裕がなかった。
バルトールの言葉が、彼女の心に、決して解くことのできない呪いの鎖となって絡みついていた。
アシェルの行動が、自分の命を蝕んでいる。
自分の存在が、アシェルの未来を縛っている。
その二つの思いが、リアンの心を支配した。
(どうしよう……)
リアンは、涙を流しながら考えた。
(アシェルは、私たちのために、あんなに頑張ってくれているのに……)
アシェルの顔が、脳裏に浮かんだ。
いつも笑顔で、いつも前向きで、いつも仲間を守ろうとしているアシェル。
彼女は、どれだけ苦しくても、決して弱音を吐かなかった。
どれだけ辛くても、決して諦めなかった。
そんなアシェルが、リアンは大好きだった。
尊敬していた。
憧れていた。
(私が、その足を引っ張っているなんて……)
罪悪感と、死への恐怖。
二つの巨大な感情が、彼女の心を押し潰した。
リアンは、しばらくその場に座り込んでいた。
太陽は、完全に沈んでいた。
空は、暗くなっていた。
星が、いくつか見え始めていた。
しかし、リアンには、その美しさが見えなかった。
彼女の心は、暗闇に包まれていた。
やがて、リアンは立ち上がった。
そして、ゆっくりと寮に向かった。
彼女がアシェルの元へ向かう足取りは、まるで死刑台へと向かう罪人のように、重かった。
一歩、一歩。
その足は、鉛のように重かった。
心臓が、激しく鼓動していた。
手が、震えていた。
(これでいいのかな……)
(でも、他に方法はないんだ……)
リアンは、自分に言い聞かせた。
## 絶望の懇願――心臓への致命的な一撃
その夜、アシェルは、準決勝に向けて作戦を練っていた。
彼女は、自分の部屋で、カインが作った作戦ノートを読んでいた。
そのノートには、相手チームの詳細な分析が書かれていた。
弱点、戦術、対策――
すべてが、丁寧に記されていた。
「この作戦なら、勝てるかもしれない」
アシェルは、小さく呟いた。
彼女の目は、希望に輝いていた。
次の試合に勝てば、決勝進出。
そうすれば、レメディアル寮の環境も、もっと改善できる。
仲間たちに、もっと良い生活を提供できる。
リアンにも、もっと良い薬を――
その時、部屋の扉がノックされた。
コンコン。
「入って」
アシェルは、そう言った。
扉が、ゆっくりと開いた。
そして、リアンが入ってきた。
しかし、彼女の表情を見た瞬間、アシェルは全てを察した。
リアンの顔は、絶望に満ちていた。
目は、腫れていた。
泣いていたことが、明らかだった。
顔色は、土気色だった。
そして、その目には――
何か、決意のようなものが宿っていた。
「リアン……?」
アシェルは、立ち上がった。
「どうしたの、顔色が……」
アシェルの言葉を遮るように、リアンは彼女の前にひざまずいた。
ドサッ、という音がした。
「お願い、アシェル……」
リアンの声は、震えていた。
「もう、やめて……」
リアンの目から、大粒の涙が流れ落ちた。
それは、止まることなく、次々と溢れてきた。
涙は、床に落ち、小さな水たまりを作った。
「もう、戦わないで……」
リアンの声は、必死だった。
「お願いだから、大会を……棄権して……!」
その言葉に、アシェルは凍りついた。
時間が、止まったかのようだった。
棄権?
大会を?
なぜ?
アシェルの頭は、混乱していた。
「リアン、何を言って……」
「お願い!」
リアンは、アシェルの服を掴んだ。
そして、さらに大きな声で懇願した。
「もう、戦わないで!」
「あなたが戦うたびに、私の命が削られていくの!」
「学園長が、私の薬を減らしているの!」
「あなたが目立てば目立つほど、私は死に近づいていくの!」
リアンの言葉は、アシェルの心に深く突き刺さった。
それは、鋭い刃のようだった。
「だから、お願い……」
リアンは、泣きながら訴えた。
「棄権して……」
「もう、戦わないで……」
「私を、見殺しにしないで……」
陰謀の矛先は、ついにアシェルの最も大切な仲間、その心臓へと、深く、そして致命的に突き刺さった。
アシェルは、言葉を失った。
ただ、目の前で泣き崩れる親友を、呆然と見つめることしかできなかった。
彼女の心は、激しい痛みに襲われた。
まるで、心臓を握りつぶされるような。
リアン――
彼女の最も大切な友人。
最も守りたい存在。
その彼女が、今――
自分に、戦うことをやめてほしいと懇願している。
(どうすればいいんだ……)
アシェルは、心の中で叫んだ。
(リアンを守るために、戦ってきた)
(仲間を守るために、戦ってきた)
(でも、その戦いが、リアンを苦しめている?)
(そんな……)
アシェルは、リアンを抱きしめた。
「リアン……」
アシェルの声も、震えていた。
「大丈夫だから……」
「私が、なんとかするから……」
しかし、その言葉は、空虚だった。
どうすればいいのか、アシェル自身も分からなかった。
物語は、彼女にとって、最も過酷で、そして最も悲しい選択を迫る、新たな局面へと突入した。
仲間を守るために戦うのか。
それとも、最も大切な友人を守るために、戦いを放棄するのか。
その選択は――
あまりにも残酷だった。
月が、窓から部屋を照らしていた。
その光は、冷たく、そして――無慈悲だった。
二人の少女の影が、壁に映っていた。
一人は、泣き崩れている。
もう一人は、途方に暮れている。
その影は、まるで悲劇の一場面のようだった。
そして、この悲劇は――
まだ、始まったばかりだった。




