エーテルの時代の幕開け18:侯爵への密命
月光すら届かぬ深い夜、バルトール侯爵は、かつての栄華の面影を失った自邸の書斎で、一人、苦い酒を呷っていた。秋季カップでの告発劇以来、彼の権勢は地に墜ちた。貴族としての体面はかろうじて保たれたものの、学園内での影響力は無に等しく、地下闘技場の利権の大部分も、学園長オルティウスの手によって巧みに召し上げられていた。かつて彼に媚びへつらっていた者たちは手のひらを返し、今や陰で彼を「過去の男」と嘲笑する日々。誇り高いバルトールにとって、それは死ぬよりも辛い屈辱だった。
「あの小娘……!アシェル・ヴァーミリオン……!そして、私を見捨てた学園長め……!」
彼は、高価なクリスタルのグラスを暖炉の石壁に叩きつけた。ガシャン、というけたたましい音と共に、部屋に芳醇なブランデーの香りが立ち込める。壁に飾られた、勇猛な先祖代々の肖像画が、彼の惨めな姿を冷ややかに見下ろしているようだった。彼のプライドはズタズタに引き裂かれ、残されたのはアシェルへの憎悪と、自分を見捨てた学園長への、行き場のない憤りだけだった。
その時、書斎の影が、まるで生き物のように揺らめいた。
「……まだ、酒に溺れておいでですかな、侯爵閣下」
現れたのは、学園長が差し向けた、情報統括官であった。
「……何をしに来た!私を嘲笑いに来たのか!」
バルトールは、荒々しく吠えた。
「滅相もございません」統括官は、感情のない声で続けた。「学園長閣下から、閣下へ、名誉回復の機会を授けるようにとの、有難きお言葉がございました」
「名誉回復……だと?」
バルトールの濁った目が、かすかな、しかし浅ましい希望の光に揺れた。
二重の罠、甘美なる脚本
統括官は、学園長の署名が入った密書を、バルトールに手渡した。そこには、彼の心を巧みに操る、甘美な毒薬のような言葉が綴られていた。
『親愛なるバルトール侯爵へ。
此度の君の処分、私も断腸の思いであった。だが、学園の秩序を守るためには、ああするしかなかったのだ。許せ。
しかし、私は君の忠誠心と実力を決して忘れてはいない。君が失った名誉を回復するための、絶好の機会を用意した。
アシェル・ヴァーミリオンという娘。彼女の力は、君も知る通り、危険極まりない。このままでは、彼女が信奉する甘ったるい『共有』の理念が、学園の厳格なティア制度、ひいては王国の秩序そのものを破壊しかねん。
そこで、君に頼みがある。教育者として、そして人生の先輩として、あの未熟な娘に、真の試練を与えてやってはくれまいか。『若い才能には、それを乗り越えるべき試練が必要だ』。これは、君と私の共通の教育理念であったはずだ。
君の辣腕を以て、彼女を精神的に徹底的に追い詰め、その理想がいかに脆いものであるかを、その身に刻み込んでやってほしい。
この『教育的指導』が成功した暁には、君が失った闘技場の利権の一部返還を、私が評議会に強く進言しよう。そして何より、君の失われた名誉は、完全に回復されるであろう。これは、懲罰ではない。君への、信頼の証だ。
学園長オルティウス・フォン・クローゼンより』
「……学園長閣下は……私のことを、信じてくださっているのか……!」
バルトールは、密書を握りしめ、震えていた。その目には、屈辱に濡れた涙ではなく、復讐の炎と、再び権力の中枢に戻れるという、浅ましい喜悦が燃え上がっていた。
彼は、自分が学園長の壮大な計画――アシェルの力を限界まで引き出しデータ化するという真の目的――を達成するための、単なる駒に過ぎないことに、全く気づいていなかった。
脚本の裏側、本当の役割
だが、学園長の陰謀は、それだけに留まらなかった。統括官は、バルトールに口頭で、さらなる「密命」を伝えた。その声は、蛇のように冷たく、静かだった。
「……そして侯爵閣下。今回の作戦には、もう一つの、より重要な裏の目的がございます」
「裏の、目的だと?」
統括官は、声をさらに潜めた。
「学園長閣下は、最近の龍人族の台頭を、深く憂慮されております。特に、アーコン・ティアのドラゴ・シルヴァリオンとその一派が、アシェルの快進撃に刺激され、『下位ティアでも力があれば認められる』という、危険な平等思想に傾きつつある、と」
「なんと……!龍人族が、平民風情に感化されていると申すか!」
貴族至上主義者であるバルトールは、眉をひそめた。
「左様でございます。そこで、閣下には**『汚れ役』**を演じていただきたい」
「汚れ役?」
「はい。閣下がアシェルを卑劣な手段で追い詰めることで、アシェルを『悲劇のヒロイン』に仕立て上げるのです。そして、それに憤慨したドラゴたち龍人族が、『正義の騎士』としてアシェルを守るために立ち上がる……そういう脚本でございます」
統括官は、一枚の図を示した。そこには、バルトールの妨害によってアシェルが危機に陥り、そこへドラゴたちが颯爽と現れて彼女を救う、という英雄譚のような筋書きが描かれていた。
「馬鹿な!それでは、私がただの悪役で、奴らが英雄ではないか!私の名誉はどうなるのだ!」
バルトールが激昂する。
「ご安心を」統括官は、学園長の用意した次の言葉を紡いだ。「最終的に、アシェルを救ったのはドラゴたちではなく、『全てを見通していた学園長閣下の英断であった』という結末を用意しております。閣下は、『若き才能を試すため、あえて厳しい試練を与えた、深謀遠慮の教育者』として、最終的には名誉を回復されるのです。ドラゴたちは、閣下の手の上で踊らされていたに過ぎない、ということになります」
「……なるほど」
バルトールは、その複雑な筋書きに感心した。自分が悪役を演じれば演じるほど、最終的にそれを覆す学園長の手腕が際立ち、結果として自分の評価も上がる、という巧妙な罠だった。そして、この騒動を利用して、アシェルに恩を売り、龍人族たちの行動を制御下に置く。一石三鳥の計画だった。
しかし、これもまた嘘だった。学園長の真の目的は、バルトールを**「龍人族がアシェルを公然と攻撃するための大義名分」**として利用することだった。龍人族に「アシェルを守る」という名目で介入させた後、頃合いを見てバルトールを切り捨て、今度は「バルトールに与した者」として龍人族をも断罪し、アシェルを完全に孤立させる。それが、この陰謀の本当の恐ろしさだった。
バルトールは、自らが幾重にも張り巡らされた陰謀の中心で、ただ都合よく踊らされるだけの、哀れな駒に過ぎないことに、最後まで気づくことはなかった。
「……承知した、と閣下にお伝えしろ」
バルトールの声には、かつての尊大さが戻っていた。
「あの小娘に、真の絶望とは何かを、骨の髄まで教えてやろう。全ては、閣下のご期待に応えるため……そして、私の『教育』のためにな」
動き出す駒たち
その日の夜から、バルトールの陰湿な妨害工作が始まった。彼は失った人脈と残された権力を総動員し、アシェルとリヴォルトのメンバーを、じわじわと追い詰めていった。
まず、チームメンバーのアルバイト先が、次々と不可解な理由で解雇された。
「申し訳ないがね、君。学園の上層部から、少し『圧力』があってね……」
店の主人は、申し訳なさそうに、しかし逆らえないといった表情で、彼らに解雇を告げた。
次に、レメディアル寮への食料供給が、質・量ともに、著しく低下した。温かいシチューは再び薄いスープに戻り、新鮮な果物は姿を消した。
そして、最も効果的だったのは、学園内での孤立を煽る、巧みな噂の流布だった。
「リヴォルトの快進撃は、バルトール侯爵を失脚させるための、学園長の陰謀だったらしいぞ」
「アシェルとかいう娘は、学園長の隠し子だという噂だ」
これらの悪意に満ちた噂は、これまでリヴォルトを応援していた生徒たちの心に、疑念と嫉妬の種を蒔いた。英雄への賞賛は、一夜にして、不信と陰口へと変わっていった。
だが、アシェルたちにとって、それらはまだ耐えられる試練だった。彼らの絆は、そんな逆風ごときで揺らぐほど、脆くはなかったからだ。
しかし、バルトールの、そして学園長の真の狙いは、もっと深く、もっと致命的な一点に向けられていた。それは、アシェルの心の最も柔らかく、そして最も脆い場所――リアンという、かけがえのない親友の存在であった。
物語は、個人的な復讐心と国家レベルの陰謀が交錯する、より卑劣で、救いのない段階へと、静かに移行していく。好々爺の仮面を被った悪魔が描く脚本の上で、道化と英雄が、破滅へと向かって踊らされる、悲劇の舞台の幕が上がろうとしていた。