エーテルの時代の幕開け16:観測室のチェス盤
秋季カップ準々決勝の熱狂が、まるで遠い世界の響きのように感じられる、北塔最上階「観測室」。そこは学園長オルティウス・フォン・クローゼンの私的な聖域であり、グランベルク王国という巨大なチェス盤を俯瞰するための場所だった。磨き上げられた黒曜石の床が、天井から吊り下げられた巨大なマナ水晶の冷たい光を反射し、壁一面を埋め尽くすマナ・スクリーンには、無数の情報が静かに明滅している。
「素晴らしい……。実に、素晴らしい結果だ」
学園長は、深紅のワインが注がれたクリスタルのグラスを優雅に揺らしながら、恍惚とした表情で呟いた。彼の目に映っているのは、一人の少女の英雄的な奮闘ではない。それは、計算通りに誘発された、極めて価値の高い**「観測結果」**に過ぎなかった。
彼の視線は、スクリーンに表示されたアシェルのエーテル波形グラフに注がれていた。精神的負荷が頂点に達した瞬間、彼女の波形は理論上の限界値を遥かに超える、異常なスパイクを描いている。
「やはり、我々の仮説は正しかったか」
彼の隣には、情報統括官が、いつもの無表情な仮面のような顔で控えていた。
「はい、閣下。これは『中央マナ炉』計画を最終段階に進めるための、決定的なデータとなるでしょう」
学園長の野望――それはアシェルを核とし、学園、ひいては王国全体のエネルギーを半永久的に供給する「生体マナ炉」を完成させること。壮大にして非人道的な計画だった。
「しかし閣下」統括官は慎重に続けた。「これ以上のデータを引き出すには、さらに強い、質的に異なる『刺激』が必要かと」
「分かっている」学園長はグラスを置いた。「素材は極上だ。だが、これ以上の成長を促すには、より強い『刺激』が必要だな。……バルトール侯爵は、まだ使えるな。あの男の復讐心を利用し、我々のための『道化』を演じさせろ」
歴史という名の武器庫
学園長の真の恐ろしさは、単なる権謀術数にあるのではない。彼が最大の武器とするのは、歴史そのものであった。彼の執務室の壁一面を埋めるのは、武勲を称える絵画ではなく、グランベルク王国の数百年分の古文書や歴史書が収められた巨大な書棚だった。その夜、彼は自らの陰謀をより確実なものとするため、王家直轄の書庫から極秘裏に入手した古史――『クラル王初期統治記録』を読み解いていた。
「実に興味深い歴史だ」
そこには、建国から数十年後に王国を揺るがした社会問題、**「ドラゴンレア症候群」**についての詳細な記録があった。龍人族が自らの鱗を売り、得た金貨への病的な執着を見せ、労働意欲を失い、社会を停滞させた一大スキャンダル。
「当時の不朽の神クラルは、実に巧みな方法でこの問題を解決した」学園長は感心したように呟いた。「金銭や宝石といった『量的価値』から、文化遺産や名誉、知的探求といった、金で買えない『質的価値』へと、彼らの執着の対象をすり替えることで、見事に龍族の本能を昇華させた。……素晴らしい。実に素晴らしい統治術だ。人間賛歌にも等しい」
だが、学園長の表情は、尊敬ではなく、冷たい分析に満ちていた。
「しかし、これは根本的な解決にはなっていない。龍族の財宝への執着という本能そのものを消し去ったわけではないのだ。条件さえ整え、眠っている原始的な欲望を再び刺激すれば、あの狂乱は再現可能ということだ」
彼の計画は、その悪夢の歴史の再現だった。アシェルを追い詰めるための障害として、そして自らの学園内での権力基盤を磐石にするため、彼はこの歴史的弱点を利用することを決意した。
買収される魂
数日後、学園長のサロンで、アーコン・ティア在籍の龍人族の青年、ドラゴ・シルヴァリオンと、その父であるシルヴァリオン公爵を招いた茶会が開かれた。
「公爵閣下。あなたの一族が、古の龍の財宝の収集に並々ならぬ情熱を注いでおられることは、よく存じております」
「……それが何か?」シルヴァリオン公爵は警戒心を隠さなかった。
「実は、学園の地下禁書庫には、まだ誰にも知られていない、古代龍族が隠した**『黄金竜の財宝』**の在り処を示す、本物の地図が眠っておりましてな」
学園長のその一言に、公爵とドラゴの瞳の奥で、龍族の血に刻まれた本能が疼いた。『黄金竜』――それは伝説中の伝説であり、金銀財宝が山のように眠るとされる、すべての龍族にとっての夢の財宝庫だった。
「……本当かね、それは?」
「ええ。ただし、それは学園の最高機密。閲覧できるのは、学園に多大な貢献をした、ごく一部の者に限られております」
学園長は、そこで言葉を区切り、年代物のワインを一口含んだ。「もちろん、我が派閥の、忠実な協力者であれば、話は別ですがね」
これは、露骨な、しかし抗いがたい買収であった。龍人族の本能的な弱点を突き、親子共々を、自らの支配下に置こうとする、巧妙な罠。知的価値や名誉という薄皮を剥がし、その下にある原始的な物欲を直接刺激する。シルヴァリオン公爵とドラゴは、その甘美な誘惑に抗うことができなかった。
この日を境に、学園の上位ティアの空気は一変した。学園長は、ドラゴ親子を皮切りに、次々とアーコン・ティアとエリート・ティアのメイン人口層である龍人族の学生とその親たちを、金銭と、失われた財宝の情報で買収していった。かつて「質的価値」へと昇華されていたはずの彼らの欲望は、いとも容易く、原始的な金銭欲へと退行していった。彼らは見事にドラゴンレア症候群を発症し、再び金と財宝の虜となった。
伏魔殿と化した学園
学園長の支配の網は、龍人族だけに留まらなかった。
「……君の成績は素晴らしい。だが、学費の工面に苦労していると聞いている」
学園長の執務室で、一人のファウンデーション・ティアの苦学生、マルクスが緊張した面持ちで立っていた。
「ならば、君に一つ、提案がある。学園が特別に、君の学費を全額控除しよう。その代わり、私からの『ささやかな頼み事』を、いくつか聞いてもらいたい」
学園長は「お願い」という形で、彼らにアシェルたちの監視や、反学園長派の動向を報告するよう命じた。恩義と経済的な束縛という二重の鎖で、若く純粋な魂は、彼の忠実な傀儡へと作り変えられていった。
その結果、グランベルク王立学園は、もはや単なる教育機関ではなくなっていた。
学園長は、学園の事実上の独裁者となった。彼に忠誠を誓う苦学生たちが下位ティアで監視の目を光らせ、欲望に駆られた龍人族の上位ティアが生徒会や自治組織を牛耳り、復讐に燃えるバルトールが裏工作を行う。その支配体制は、鉄壁であった。
さらに深刻だったのは、その影響がグランベルク王国の政治中枢にまで及び始めたことだった。買収された龍人族の親たちは、王国の有力貴族や大商人である。彼らは、自らの欲望を満たすため、そして学園長からのさらなる「報酬」を得るため、王宮で公然と学園長を支持する発言を繰り返すようになった。
王国の議会では、シルヴァリオン公爵が声高に演説していた。
「学園長の指導力は素晴らしい。我が国のマギアテックの未来は、彼にかかっている!現王家のご子息、アレクサンダー殿も立派だが、いささか理想主義に過ぎる。今この国に必要なのは、学園長のような強力な指導者だ!」
いつしか、国の統治者であるクラル王の一族よりも、学園長の方が支持を集めるという、異常な事態が発生していた。クラル王が進めてきた文化政策や福祉政策は「甘い理想論」と批判され、学園長が掲げる「富と力の追求」こそが現実的だと見なされるようになった。
新しくできた技術の伝道のための学問の府であったはずの学園は、富と権力が一極集中する、国を内側から蝕む魔窟、伏魔殿へと、完全な変貌を遂げていたのである。授業内容は成績よりも親の貢献度で評価され、優秀な平民の生徒は不当な理由で留年させられ、龍人族の不良生徒は悪行を見逃される。教師たちも学園長の権力に逆らえず、真実を教えることを諦め、ただ保身に走るようになっていた。
この巨大な陰謀の中心で、アシェルという少女の運命が、駒として弄ばれようとしている。そして、そのことに気づいている者は、まだ学園内にはほとんどいなかった。物語は、小さな反逆劇から、国家の存亡を揺るがす、巨大な陰謀が渦巻く、より深刻で、より複雑な段階へと、その舞台を移していく。