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エーテルの時代の幕開け9:SATUMAの教え

深夜、学園の広大な敷地の中でも特に人目につかない、北側の古い森。そこは、レメディアル寮の生徒たちでさえ滅多に足を踏み入れない、忘れられた場所だった。二つの月が冷たい光を投げかける中、一つの小さな影が、まるで幽鬼のように舞っていた。


「ハッ……!フッ……!」


荒い息遣いと共に、アシェルは独り、エルダンから教わった剣術の型を繰り返していた。いや、手に剣はない。しかし彼女の動きは、見えない剣を振るっているかのように鋭く、正確だった。地下闘技場での戦いを重ねるにつれ、彼女は、単にエーテルを操作するだけでは生き残れないことを痛感していた。敵の攻撃をかわす体捌き、間合いの取り方、そして何よりも、力の代償に蝕まれる身体を支えるための、強靭な肉体と精神。それら全てが、今の彼女には決定的に不足していた。


闘技場の連勝は、彼女に銀貨と仲間たちの笑顔をもたらした。だがその裏で、代償は雪のように降り積もっていた。試合の翌朝は、まるで鉛の塊を全身に纏ったかのような倦怠感に襲われる。時には、自分の名前さえ思い出せなくなるほどの、短い記憶の断絶。指先の感覚が麻痺し、食事の匙さえうまく持てない日もあった。


(このままじゃ、ダメだ……。リアンの薬代を稼ぎ続ける前に、私が壊れてしまう……)


彼女は、焦燥感に駆られるように、何度も、何度も、型を繰り返す。だが、その動きは精彩を欠き、時折よろけては、膝に手をついて喘いだ。闇雲な訓練が、ただ彼女の生命力を無駄に削っていくだけだった。


その様子を、森の最も深い闇の中から、一対の鋭い瞳が静かに見つめていた。


規格外の介入


「……そげんことでは、ただの空騒ぎじゃ」


不意に、背後から低く、しかし芯の通った声がかけられた。アシェルは驚いて飛びずさった。そこに立っていたのは、SATUMAのリーダー、島津ケンシンだった。彼は学園の制服ではなく、故郷の武人たちが着るという黒い道着に身を包み、腕を組んで静かに佇んでいた。月光が、その精悍な横顔を銀色に縁取っている。


「な、なんで……ここに……?」

アシェルの声は、驚きと警戒心で震えていた。


「おはんの周りには、いつも弱々しいエーテルの匂いがしちょった」ケンシンは、アシェルの内心を見透かすように、静かに言った。「じゃっどん、こん数週間、夜中になると、その匂いが必死に燃えカスを撒き散らしちょる。見過ごせんかっただけじゃ」


ケンシンの武人としての鋭敏な感覚は、アシェルのエーテルの「質」の変化を、正確に捉えていた。闘技場での力の酷使と、その代償による生命力の消耗。そのアンバランスな揺らぎを、彼は危険な兆候として感じ取っていたのだ。


「あんたには、関係ない……!」

アシェルは、自分の弱さを見られたくない一心で、反射的に棘のある言葉を返した。


ケンシンは、その言葉に気を悪くした様子もなく、ただ静かに一歩、彼女に近づいた。

「関係ある」彼の声は、有無を言わさぬ響きを持っていた。「おはんも、わいらと同じ『規格外』じゃからの。それに……」

彼は少しだけ視線を逸らし、ぽつりと呟いた。

「わいらの仲間が、最近よく美味そうな飯が食えるち、喜んじょった。それも、おはんのおかげなんじゃろ?」


どうやらSATUMAの西郷タケルが、レメディアル寮の食事改善の噂を聞きつけ、アシェルに礼を言うため、故郷の黒糖菓子を届けに来ていたらしい。ケンシンは、その時にアシェルの英雄譚と、彼女が寮の仲間たちのために一人で戦っていることを知ったのだ。


「……」

アシェルは言葉に詰まった。この男は、全てを知った上で、ここにいるのだ。


サツマの教え「気」の理


「おはんは、自分の力を『外から借りて、外に出す』ことしか考えちょらん」

ケンシンは、アシェルの目の前に立つと、ゆっくりと腰を落とし、独特の構えを取った。「じゃっどん、大事なのは、その間にあるもんじゃ。借りた力を、いかに自分の内で練り上げ、己が『器』をどうやって強くするかじゃ」


「器……?」


「そうだ。SATUMAでは、それを『気』と呼ぶ」

ケンシンは、自らの腹の辺りを、指で示した。

「全ての力の源は、ここにある。息を吸い、大地から力を貰い、腹に溜める。そして、息を吐きながら、その力を全身に巡らせる。やってみい」


アシェルは、戸惑いながらも、ケンシンの言う通りに、ゆっくりと深い呼吸を始めた。


「違う。もっと腹を意識せえ」ケンシンの声が飛ぶ。「息を吸う時、腹が風船のように膨らむのを、息を吐く時、それが地球の中心に沈んでいくのを、感じるんじゃ」


それは、学園で教えられる、マナを論理的に操作する理論とは、全く異質の、身体感覚に基づいた教えだった。アシェルは、必死に彼の言葉に従った。


何度も繰り返すうちに、彼女は、これまで感じたことのない、体内の温かい力の流れを感じ始めた。エーテルを吸収する時の、外部からの侵食のような感覚ではない。譲渡する時の、内部からの流出のような感覚でもない。それは、自分自身の身体の中心から、静かに湧き上がり、四肢の末端までを満たしていく、穏やかで、しかし力強い循環の感覚だった。


「……これが……」


「そうだ。それがおはん自身の『気』の流れじゃ」

ケンシンは、アシェルの上達の早さに、内心で驚いていた。

「その流れを自在に操れるようになれば、おはんはもう、力の代償に怯える必要はなくなる。借りたエーテルは、おはんの身体をただ通り過ぎるだけじゃない。おはんの『器』そのものを、より強く、よりしなやかに、鍛え上げてくれるはずじゃ」


体術という名の対話


次の日から、二人の秘密の訓練が始まった。それは、言葉よりも、身体で語り合う、奇妙な師弟関係の始まりだった。


ケンシンは、SATUMA流の体術の基礎を、一からアシェルに教え込んだ。

「魔法を使う前に、まず自分の足で大地を掴め!」

「詠唱する前に、まず相手の呼吸を読め!」

「マナを放つ前に、まず自分の中心を定めろ!」


彼の教える体術は、無駄な動きを極限まで削ぎ落とした、実践的なものだった。相手の攻撃を最小限の動きでかわし、その力を利用して反撃に転じる。アシェルの、森で培われた野性的な勘と、ケンシンの洗練された武術理論が組み合わさることで、彼女の動きは、日ごとに、見違えるように鋭敏になっていった。


「ちがう!腰の回転が甘か!」

ケンシンの木刀が、アシェルの脇腹を寸止めで捉える。

「ぐっ……!」

「攻撃は腕先で振るうもんじゃなか。足で大地を踏み締め、腰で力を生み出し、それが身体を伝わって、最終的に拳や杖先に行き着くんじゃ」


それは、アシェルにとって初めての、痛みと厳しさを伴う訓練だった。だが同時に、彼女は、この対話の中に、エルダンとはまた違う種類の、不器用だが確かな温かさがあることを感じていた。


ある夜、訓練を終えて二人で焚き火を囲んでいると、ケンシンがぽつりと尋ねた。

「……おはんは、なんでそこまでして戦うんか」

アシェルは、揺れる炎を見つめながら、静かに答えた。

「……仲間がいるから。守りたい人たちが、いるから」

「……そうか」

ケンシンは、それ以上何も聞かなかった。ただ、黙って、火の中に新しい薪をくべた。彼の心の中にも、故郷の大和国で待つ、守るべき仲間たちの姿が、浮かんでいたのかもしれない。


小さな成長と深まる絆


ケンシンとの訓練の成果は、すぐに現れた。地下闘技場でのアシェルの戦い方は、以前にも増して洗練されていた。無駄な動きが減り、相手の動きを読む精度が上がったことで、より少ない力で、より効率的に勝利を収めることができるようになった。


そして何より、力の代償が、明らかに軽減されていた。「気」の制御法を学んだことで、彼女は、エーテルの奔流に飲み込まれるのではなく、それを乗りこなす術を、少しずつ身につけ始めていたのだ。試合後の記憶の欠落も、以前よりずっと軽くなっていた。


「アシェル、最近、なんだかすごく強くなったね」

リアンが、談話室で感心したように言った。

「それに、前みたいに辛そうな顔、しなくなった」

「……そう、かな」

アシェルは、少し照れくさそうに微笑んだ。


彼女の成長は、レメディアル寮の仲間たちにも、SATUMAの一団にも、良い影響を与えていた。アシェルのひたむきな姿に感化され、諦めかけていた寮生たちの中にも、再び前を向こうとする者が現れ始めた。SATUMAの若者たちも、ティアや生まれに関係なく強さを求めるアシェルの姿に、純粋な敬意を抱くようになっていた。


その全てを、サイラスは、苦々しい表情で見ていた。

(……ちっ、あのSATUMAどもが、余計なことを……)

彼にとって、アシェルは利用すべき駒であり、彼女が精神的に自立することは、彼の計画にとって邪魔でしかなかった。


そして、学園の上層部もまた、この予期せぬ変化を、警戒心をもって監視していた。

「……報告を。対象シエル、最近のマナ波形に安定化の傾向が見られる。また、戦闘パターンに、大和国留学生の武術的特徴が確認された。両者の間に、何らかの接触があったものと推測される」

「……厄介だな。我々の『研究』に、あの野蛮な武人たちが介入してくるのは望ましくない。計画を少し、早める必要があるかもしれんな……」


アシェルがSATUMAとの絆を深め、人間として、戦士として成長していくその裏側で、二つの異なる陰謀の網が、彼女を絡め取るべく、より狭く、より確実に、絞られようとしていた。彼女はまだ、その先に待ち受ける、より大きな試練の存在を知らない。ただ、ケンシンから学んだ新しい力と、仲間との絆を胸に、彼女は今日もまた、地下のリングへと向かうのだった。

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