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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
アシェルの章

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エーテルの時代の幕開け8:希望の光と、静かなる崩壊

双葉の芽吹き――灰色の中の緑


地下闘技場の冷たい石床に流れた血と、アシェル自身が生命を削って放ったマナの光。


それらは、灰色の絶望に沈んでいたレメディアル寮に、ささやかだが確かな変化をもたらし始めていた。


その変化は、まるで陽光の届かない地下室で、石の隙間から懸命に芽吹く小さな双葉のように、儚くも力強い希望の兆しだった。


ある朝のこと。


レメディアル寮の談話室には、珍しく、明るい空気が流れていた。


古びたソファに座ったリアンが、窓の外を眺めながら、深く息を吸い込んでいた。


その呼吸は、以前のように浅く、弱々しいものではなかった。


深く、ゆっくりと、肺の奥まで空気を取り込む、健康な人間の呼吸だった。


「リアン、今日の顔色、すごくいいわ」


カインが、珍しく自分からリアンに声をかけた。


彼は、ソファの反対側に座り、いつものように壁を見つめていた。


しかし、その声には、わずかだが、温かみが感じられた。


「頬に赤みが戻ってる」


カインの顔には、事故で負った火傷の痕が、依然として痛々しく残っていた。


額から頬にかけて、赤く、そして白く変色した皮膚。


それは、彼が背負った罪の証であり、同時に、彼が魔法に対して抱く恐怖の源でもあった。


しかし、その瞳に宿っていた絶望の色は、以前よりも少しだけ薄れているように見えた。


リアンの回復を見て、彼の心にも、わずかな希望が芽生え始めていたのかもしれない。


「うん」


リアンは、柔らかく微笑んだ。


その笑顔は、以前よりも遥かに明るく、生気に満ちていた。


「アシェルのおかげ。本当に、ありがとう……」


リアンは、部屋の隅で本を読んでいるアシェルの方を見た。


アシェルは、薬学の専門書を読みながら、ノートに何かを書き込んでいた。


その姿は、相変わらず真剣で、集中していた。


しかし、その目の下のクマは、日に日に深くなっているように見えた。


週に一度、アシェルが持ち帰るずっしりと重い銀貨の袋は、街の薬局ではなく、今やドクター・エリアーデの研究室から直接届けられる特別な薬瓶へと姿を変えていた。


リアンの部屋の小さな薬棚には、琥珀色の液体が満たされた美しいガラス瓶が並んでいた。


その瓶は、精巧に作られており、蓋には銀の装飾が施されていた。


中の液体は、光を受けると、まるで宝石のように輝いた。


そして、その一つ一つが、リアンの命を繋ぐ希望の雫だった。


リアンの苦しげな咳は、夜ごと静かになっていった。


以前は、一晩に何十回も咳き込み、そのたびに部屋の仲間たちを起こしていた。


しかし今は、せいぜい数回、それも軽い咳で済んでいた。


呼吸も、楽になった。


以前はすぐに息が上がってしまった短い廊下の移動も、今では仲間と談笑しながら歩けるほどに回復していた。


食堂への階段も、一人で上れるようになった。


授業中に、咳き込むこともなくなった。


彼女は、再び、普通の学生として、学園生活を送ることができるようになっていた。


そして、彼女の存在は、この希望を失った寮の、小さな灯火となっていた。


リアンは、いつも明るく、優しく、誰に対しても笑顔で接した。


彼女の笑顔は、この暗い寮に、一筋の光をもたらしていた。


「リアンさんが元気だと、寮全体が明るくなるね」


別の女子生徒が、嬉しそうに言った。


「本当に。あの笑顔を見ると、私も頑張ろうって思えるわ」


リアンの回復は、寮の仲間たち全員に、希望を与えていた。


## 生活の改善――小さな贅沢、大きな幸福


変化はリアンだけにとどまらなかった。


アシェルがもたらす「フェイトマネー」は、寮全体の生活水準をも、確実に底上げしていた。


これまで、レメディアル寮の食事は、悲惨なものだった。


朝食は、カビ臭い、固く冷たいパンと、水で薄めた薄い野菜スープだけ。


昼食も、夕食も、大差なかった。


肉など、滅多に出ない。


出ても、それは骨と脂ばかりの、安物の切れ端だった。


野菜も、傷んでいたり、虫食いだったりした。


果物など、夢のまた夢だった。


生徒たちは、常に空腹を抱えていた。


成長期の若者たちにとって、その食事は、明らかに不十分だった。


しかし、アシェルが闘技場で稼いだ金の一部を、寮の食費に寄付し始めてから、状況は劇的に改善した。


食堂の食卓には、週に二度、温かいシチューが並ぶようになった。


それは、肉も野菜もたっぷり入った、栄養豊富なシチューだった。


ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、そして――本物の肉。


牛肉の角切りが、ゴロゴロと入っていた。


その香りは、食堂全体に広がり、生徒たちの食欲を刺激した。


「うわ、今日はシチューだ!」


「肉が入ってる!本物の肉だ!」


生徒たちは、目を輝かせながら、シチューを口に運んだ。


その味は、彼らがこれまで食べてきたどんな食事よりも、美味しかった。


温かく、濃厚で、満足感がある。


「美味い……」


「こんな美味しいもの、何ヶ月ぶりだろう……」


生徒たちは、幸せそうに、シチューを食べた。


そして、時には、季節の果物まで並ぶようになった。


秋には、リンゴやブドウ。


冬には、柑橘類。


それらは、生徒たちにとって、信じられないほどの贅沢だった。


「果物だ!本物の果物だ!」


「信じられない……」


生徒たちは、まるで宝石を見るかのように、果物を見つめた。


そして、大切に、ゆっくりと、一口一口を味わいながら食べた。


その甘さ、瑞々しさは、彼らの心を、深く満たした。


また、破れて冷たい風を通していた毛布も、市場で売られている中でも一番厚手の、温かい新品に交換された。


以前の毛布は、薄く、そして穴だらけだった。


夜になると、その穴から冷たい風が入り込み、生徒たちは震えながら眠らなければならなかった。


しかし、新しい毛布は、厚く、柔らかく、そして温かかった。


羊毛でできており、その手触りは心地よかった。


「すごい……こんな温かい毛布、初めてだ……」


「これなら、冬も乗り切れそう……」


生徒たちは、新しい毛布に包まれながら、安心して眠ることができるようになった。


これらの変化は、決して派手なものではなかった。


しかし、毎日を生きるのに精一杯だった生徒たちにとって、それは計り知れないほど大きな意味を持っていた。


温かい食事。


柔らかい毛布。


そして、何よりも――希望。


明日も、また美味しい食事が食べられる。


今夜も、温かい毛布で眠れる。


そんな、小さな希望が、彼らの心を支えていた。


## 感謝の言葉――誰かのために生きる喜び


「すごいよ、アシェル……」


ある夜、談話室に集まった生徒たちが、口々にアシェルに感謝を伝えた。


「君は本当に、私たちの希望の星だ」


カインが、珍しく感情を込めて言った。


「ありがとう……本当にありがとう」


リアンは、涙ぐみながらアシェルの手を握った。


「君のおかげで、私は生きていられる」


「君のおかげで、私たちは、こんなに幸せになれた」


他の生徒たちも、次々とアシェルに感謝の言葉を伝えた。


アシェルは、その言葉を聞きながら、胸が熱くなるのを感じた。


仲間たちからの感謝の言葉が、アシェルの心を、焚き火のように温かく灯した。


誰かのために力を使うことの喜び。


守るべき者がいることの幸福。


それは、七年間を森で獣のように独り生きてきた彼女が、生まれて初めて知る感情だった。


村では、彼女は忌み嫌われていた。


「疫病神の子」と呼ばれ、誰も近づこうとしなかった。


森では、彼女は孤独だった。


獣たちは彼女を恐れ、逃げていった。


エルダンとの三年間は、温かかった。


しかし、それも束の間の幸せだった。


彼は去り、アシェルは再び孤独になった。


学園に来てからも、彼女は孤立していた。


試験塔での判定、レメディアル・ティアへの配属、そして周囲からの避けられ方。


しかし――


今は違った。


自分の存在が、誰かの笑顔に繋がっている。


リアンの穏やかな寝息が、彼女が生きている証だ。


カインの微かな笑みが、彼女が希望を取り戻し始めている証だ。


仲間たちの「美味い」という声が、彼女が幸せを感じている証だ。


それらすべてが、アシェルの疲弊した心と身体を支える、何よりの力となっていた。


(私は……独りじゃない)


アシェルは、心の中で呟いた。


(私には、守るべき人たちがいる)


(私の力は、彼らのために使われている)


(だから――私は、戦い続けられる)


その夜、アシェルは、仲間たちと一緒に、温かいシチューを食べた。


そして、新しい毛布に包まれて、安心して眠った。


夢の中で、彼女は笑っていた。


それは、長い間、忘れていた、本当の笑顔だった。


## 栄光の代償――静かなる崩壊の始まり


しかし、その輝かしい成果の裏側で、アシェルの心と身体は、静かに、しかし確実に蝕まれていた。


彼女が支払う代償は、銀貨や銅貨などという、目に見えるものではなかった。


それは、もっと根源的な、取り返しのつかないものだった。


「……また、だ」


ある朝、目を覚ましたアシェルは、奇妙な違和感に襲われた。


彼女は、ベッドの上で身体を起こし、周囲を見回した。


自分の部屋。


リアンのベッド。


カインのベッド。


窓から差し込む朝日。


すべてが、いつもと同じだった。


しかし――


何かが、欠けている。


アシェルは、自分の記憶の一部が、まるで霧の中に溶けて消えたかのように曖昧になっていることに気づいた。


昨夜のこと。


彼女は、地下闘技場に行ったはずだ。


そして、試合をしたはずだ。


しかし――


相手は、誰だったか?


アシェルは、必死に思い出そうとした。


屈強な斧使いだった気がする。


いや、違う。


俊敏な短剣使いだった気もする。


それとも、魔法使いだったか?


どうやって勝ったのか?


断片的な映像が、脳裏に浮かぶ。


激しい光。


衝撃。


観客の歓声。


しかし、その詳細な経緯を、まるで他人の記憶であるかのように、思い出すことができないのだ。


(激しい光……大きな斧の影……そして、全身を襲う、凍えるような冷たい感覚……)


アシェルは、頭を抱えた。


なぜ、思い出せないのか?


ほんの数時間前のことなのに。


彼女は、ベッドから降り、窓辺に立った。


そして、外の景色を見た。


学園の中庭。


遠くに見える塔。


空を飛ぶ鳥。


それらは、すべて鮮明に見えた。


しかし、昨夜の記憶は、霧の中にある。


アシェルは、不安に襲われた。


これは、何を意味するのか?


自分の身体に、何が起こっているのか?


力の「譲渡」と、戦闘での「吸収」。


その両極端なエーテルの操作は、彼女の魂そのものを激しく摩耗させていた。


リアンに生命力を譲渡する時、アシェルは自分の生命エネルギーの一部を、文字通り、相手に与えていた。


それは、単にマナを消費するのとは、全く異なる行為だった。


マナは、回復すれば元に戻る。


しかし、生命エネルギーは――


それは、魂の一部だった。


記憶の一部だった。


自分という存在の、根幹を成すものだった。


それを失うということは、自分自身を、少しずつ削っていくということだった。


そして、闘技場での吸収もまた、彼女の身体に負担をかけていた。


他者のエーテルを吸収するということは、他者の生命の一部を、自分の中に取り込むということだった。


それは、異物を体内に入れることに等しかった。


身体は、それを拒絶しようとする。


しかし、アシェルの力は、その拒絶反応を抑え込み、無理やりエーテルを取り込んでいた。


その結果、彼女の身体は、常に微細な炎症を起こしているような状態になっていた。


そして、その炎症が、彼女の神経系を、徐々に蝕んでいた。


十三歳の少女の、まだ成熟しきっていない肉体と精神が耐えられる限界を、彼女の戦いはとうに超えていた。


試合に勝つたびに、彼女の記憶には小さな欠落が生まれた。


最初は、些細なことだった。


昨日の夕食のメニューが思い出せない。


一昨日の授業の内容が曖昧になる。


しかし、徐々に、その欠落は大きくなっていった。


先週の試合の相手が思い出せない。


先月、誰と何を話したか、曖昧になる。


そして今――


昨夜のことさえ、思い出せなくなっていた。


また、身体にも、異変が現れ始めていた。


原因不明の冷え。


アシェルは、常に寒さを感じるようになっていた。


夏でも、冬でも、関係なく。


彼女の手足は、常に冷たかった。


まるで、氷に触れたかのように。


立ち眩みに似ためまい。


突然、視界が暗くなり、平衡感覚を失う。


それは、一日に何度も起こった。


歩いている時。


階段を上っている時。


授業を受けている時。


そのたびに、アシェルは壁や机に手をついて、倒れないように必死に耐えた。


そして、慢性的な疲労。


どれだけ寝ても、疲れが取れない。


朝起きた時から、既に疲れている。


まるで、一晩中走り続けたかのように。


これらの症状は、慢性的なものとして、彼女の身体に蓄積されていった。


そして、それは日に日に悪化していった。


## 心配する声――崩れゆく仮面


「アシェル、顔色が悪いよ」


ある日の午後、談話室の暖炉の前で本を読んでいたリアンが、薬のおかげで以前よりずっとはっきりとした声で、心配そうに声をかけた。


アシェルは、ソファに座り、ぼんやりと暖炉の火を見つめていた。


その顔は、以前よりも遥かに青白く、痩せていた。


頬は、こけている。


目の下のクマは、深く、黒い。


唇は、血の気を失い、紫がかっている。


「ちゃんと寝てる?」


リアンは、アシェルの隣に座り、その手を取った。


アシェルの手は、驚くほど冷たかった。


まるで、死人の手のように。


「……うん、大丈夫」


アシェルは、笑顔で答えようとした。


「少し、寝不足なだけだから」


しかし、その笑顔は、以前のような自然なものではなかった。


無理に作った、仮面のような笑顔だった。


リアンは、その笑顔を見て、胸が痛んだ。


アシェルは、明らかに無理をしている。


自分のために。


仲間のために。


そして、それが彼女を、徐々に壊していっている。


「アシェル……」


リアンは、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。


何と言えばいいのか、分からなかった。


「やめて」と言えば、アシェルは傷つくだろう。


しかし、このままでは、アシェルが壊れてしまう。


リアンは、ただアシェルの手を握りしめることしかできなかった。


アシェルは、その温かさに、わずかに心が和らぐのを感じた。


しかし、その心の奥底では、言いようのない恐怖と戦っていた。


## 消えゆく記憶――自己を失う恐怖


その夜、アシェルは一人、自分の部屋で、ベッドに座っていた。


窓の外には、月が浮かんでいた。


その月明かりが、部屋をわずかに照らしていた。


アシェルは、自分の両手を見つめた。


この手で、彼女は多くの人を救ってきた。


リアンを。


仲間たちを。


しかし、この手は、同時に、彼女自身を壊していっていた。


(このまま力を使い続ければ、いつか自分自身の記憶の全てを失ってしまうのではないか)


アシェルは、その恐怖に震えた。


エルダンと過ごした日々の温もり。


朝の剣の訓練。


夜の焚き火を囲んでの会話。


エルダンの不器用だが優しい笑顔。


あの、「お前は独りじゃない」という言葉。


それらすべてが、いつか消えてしまうのではないか。


リアンと交わした「一緒に卒業しようね」という約束。


カインの、わずかな笑顔。


仲間たちとの、温かい食事の時間。


それらすべてが、霧の彼方へと消え去ってしまうのではないか。


そして――


自分自身が、誰なのかも、分からなくなってしまうのではないか。


名前も、過去も、目的も、すべてを忘れ、ただ空虚な器として、この世界を彷徨うことになるのではないか。


その恐怖は、アシェルの心を、激しく締め付けた。


彼女は、ベッドの上で、膝を抱えた。


そして、小さく震えた。


涙が、頬を伝って落ちた。


(怖い……)


(記憶を失うのが、怖い……)


(自分が誰だか分からなくなるのが、怖い……)


しかし――


(それでも……)


アシェルは、唇を噛んだ。


(それでも、私は戦わなければならない)


彼女は、窓の外を見た。


この学園のどこかで、リアンが眠っている。


薬のおかげで、穏やかに、安心して眠っている。


仲間たちも、温かい毛布に包まれて、眠っている。


それらは、すべて、アシェルの犠牲の上に成り立っている。


もし、アシェルが戦うのをやめれば――


リアンの薬は買えなくなる。


仲間たちの食事も、元の悲惨な状態に戻る。


毛布も、古いものに戻る。


そして――


リアンは、再び病に苦しむことになる。


最悪の場合、死ぬかもしれない。


(それは……嫌だ)


アシェルは、強く頷いた。


(たとえ、自分の記憶を失っても)


(たとえ、自分が誰だか分からなくなっても)


(リアンが生きていてくれるなら、それでいい)


彼女は、その決意を、心の奥深くに刻み込んだ。


リアンの高価な薬代。


仲間たちのための温かい食事。


全てが、彼女のその細い肩に、重く、しかし愛おしい責任としてのしかかっているのだから。


力の行使がもたらすプラスの側面――仲間を救う喜び。


力の行使がもたらすマイナスの側面――自己を失う恐怖。


この二つの感情の狭間で、アシェルの心は激しく揺れ動いていた。


しかし、彼女の決意は、揺るがなかった。


たとえ、自分が壊れても。


たとえ、記憶を失っても。


彼女は、戦い続ける。


守るべき者のために。


月が、その決意を抱いた少女を、静かに照らしていた。


物語は、彼女の戦いがもたらすサスペンスを、静かに、しかし着実に高めていく。


## 二つの視線、二つの陰謀――捕食者たちの網


アシェルの、痛々しいまでの献身と、その裏で進行する不可解な消耗。


その変化に、二人の――いや、二つの勢力が、それぞれ異なる角度から、鋭い視線を注いでいた。


### 学園上層部の監視――冷徹な観察者たち


グランベルク王立学園の最も高く、そして最も陽の当たらない場所。


北塔の最上階。


そこは「観測室」と呼ばれ、学園長直轄の情報分析官たちが、学園内外のあらゆるマナの動きを監視する、学園の神経中枢であった。


観測室は、円形の部屋だった。


壁一面に、無数の魔導計器が設置されている。


それらは、学園の至る所に設置されたセンサーからのデータを、リアルタイムで受信し、分析していた。


部屋の中央には、巨大な水晶球が浮かんでおり、その中には、複雑な魔法陣が常に回転していた。


その周りを、数人の分析官が取り囲み、手元の記録紙に何かを書き込んでいた。


彼らは皆、白い研究衣を着て、表情を消していた。


まるで、感情を持たない機械のように。


「対象『シエル』、昨夜も活動を確認」


分析官の一人――痩せた、眼鏡をかけた若い男性――が、淡々と、しかし微かな興奮を声に滲ませて報告した。


「マナ波形パターン、記録済み」


彼は、手元の記録紙を見ながら続けた。


「対戦相手の生命エーテル波形の急激な減衰と、対象からの未知の波形の放出を確認」


彼の声には、科学者特有の、冷たい好奇心が滲んでいた。


「興味深いことに、譲渡と吸収の波形は、完全に反転した鏡像関係にあるようだ」


彼は、記録紙を、部屋の奥に座る人物に差し出した。


その人物は、観測室の主。


学園の影の権力者である、情報統括官だった。


その男は、五十代と思われる年齢で、完全に白髪になった髪を短く刈り込んでいた。


顔は、まるで彫刻のように整っていたが、その目には、一切の感情が宿っていなかった。


彼は、人間というより、精巧に作られた人形のようだった。


情報統括官は、記録紙を受け取り、じっと見つめた。


そこには、複雑な波形のグラフが描かれていた。


一つは、激しく上下に揺れる、不規則な波形。


それは、「吸収」の波形だった。


もう一つは、滑らかで、穏やかな波形。


それは、「譲渡」の波形だった。


そして、その二つは、まるで鏡に映したかのように、完全に反転していた。


情報統括官の目が、わずかに輝いた。


それは、彼が感情を示す、数少ない瞬間だった。


彼らの目の前には、巨大な水晶球に投影された、闘技場の試合のマナ波形が、リアルタイムで表示されていた。


それは、刻一刻と変化し、複雑な模様を描いていた。


学園長を始めとする上層部は、既にあらゆる情報を掴んでいた。


講義室で記録された微小な「譲渡」のログ。


ヘイスタック教官が使った簡易計測器に残された、あの異常な波形。


それと完全に一致する波形が、地下闘技場で「吸収」として観測されていること。


そして、その活動期間が、レメディアル寮のアシェル・ヴァーミリオンの周期的な不在と、完全に重なること。


彼らは、すべてを知っていた。


アシェルが、「シエル」であることを。


アシェルが、エーテルを吸収し、譲渡する能力を持つことを。


アシェルが、リアンを救うために、命を賭けて戦っていることを。


しかし、彼らは何も言わなかった。


何も止めなかった。


ただ、観察し続けた。


なぜなら、彼らにとって、アシェルは貴重な研究対象だったからだ。


「間違いない」


情報統括官が、静かに言った。


「この『シエル』こそが、我々が長年探し求めていた『特異体質者』だ」


「特異体質者」――それは、学園が秘密裏に進めている研究プロジェクトのコードネームだった。


通常の人間とは異なる、特殊な能力を持つ者。


彼らは、魔術理論を覆す存在として、極秘に研究されていた。


観測室の主は、満足そうに頷いた。


「素晴らしい逸材だ」


その男の顔には、感情がなかった。


まるで、精巧な仮面のようだった。


「吸収と譲渡、二つの相容れぬ現象を、一つの身体で実現している」


「これは、マギアテックの歴史を根底から覆す、画期的な研究対象となるだろう」


彼は、水晶球を見つめながら続けた。


「かの『中央マナ炉』計画を、最終段階へと進める鍵となるやもしれん」


中央マナ炉計画――それは、王国が極秘に進めている、巨大プロジェクトだった。


無尽蔵のマナを生成する、巨大な魔導炉を建設する計画。


それが完成すれば、王国は、他国を圧倒する軍事力を手に入れることができる。


しかし、その計画には、一つの問題があった。


マナを効率的に吸収し、変換する技術が、確立されていないのだ。


そして、アシェルの能力こそが、その鍵となる可能性があった。


彼らにとって、アシェルはもはや一人の生徒ではなかった。


**「貴重な研究対象」**であり、将来的に軍事技術への転用も可能な、極めて価値の高い「素材」であった。


彼らは、アシェルの活動を静観しながら、その能力の限界と、制御の可能性を、冷徹に分析し続けていた。


「引き続き、監視を続けろ」


情報統括官が、分析官たちに命じた。


「特に、能力の限界点に注意しろ」


「対象が、どの程度まで耐えられるか」


「どの時点で、崩壊するか」


「それらのデータは、極めて貴重だ」


「はい」


分析官たちは、一斉に頭を下げた。


そして、再び、それぞれの計器に向き合った。


彼らは、一人の少女の苦しみを、ただ数値として記録していた。


感情を持たず。


同情することなく。


ただ、冷徹に、科学的に、観察し続けていた。


アシェルの存在は、こうして、学園の上層部という国家レベルの陰謀に、捕捉されていた。


そして、彼女は、それを全く知らなかった。


彼女は、ただ、リアンを救うために、戦い続けるだけだった。


しかし、彼女が必死で紡いだ希望の糸は、いつの間にか、権力者たちが仕掛ける、より大きく、より邪悪な蜘蛛の巣へと、確実に繋がり始めていた。


物語は、小さな希望と、巨大な陰謀が交錯する、新たな局面へと、静かに移行していく。


彼女自身はまだ、その巨大な陰謀の渦の中心にいることなど、知る由もなかった。


ただひたすらに、仲間を救うため、彼女は今夜もまた、仮面をつけて地下の闇へと降りていく。


その先に、光と、そしてより深い影が待ち受けていることも知らずに。


月が、学園の塔を照らしていた。


その光は、美しかった。


しかし、その影は、深く、暗かった。


そして、その影の中で、様々な陰謀が、静かに進行していた。


アシェルは、まだ気づいていない。


自分が、どれほど大きな網に捕らえられようとしているのか。


しかし、いつか、その真実を知る日が来る。


その時、彼女はどうするのか。


それは、まだ誰にも分からない。


ただ一つ確かなのは――


彼女の戦いは、まだ終わっていない、ということだった。

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