エーテルの時代の幕開け7:魔女の噂
地下闘技場の狂騒が、どれほど厳重に隠蔽されようとも、その熱気と噂は、まるで地下水脈のように、じわりと学園の日常へと染み出してくる。初めは、学園の規則を破ることに快感を覚える不良生徒たちの間の、武勇伝のような囁きだった。
「おい、聞いたか?地下にとんでもない新人が現れたらしいぜ」
「ああ、『シエル』とかいう仮面の奴だろ?ゴードンを秒殺したって話だ」
やがてその噂は、ティアを問わず、刺激に飢えた生徒たちの間で尾ひれをつけて広がっていった。実力主義を掲げる学園において、「ティアに関係なく強い謎の存在」という物語は、格好の娯楽であり、同時に抑圧された者たちの小さな希望でもあった。特に、その戦い方が尋常ではないという点が、人々の想像力を掻き立てた。
「対戦相手が、なぜか試合中に急激に弱るんだと」
「まるで生命力を吸い取られるように……」
「『エーテル・ドレインの魔女』って呼ばれてるらしい。恐ろしいが、一度見てみたいもんだ」
噂は、やがて教官たちの耳にも届き始めた。しかし、彼らの反応は冷ややかだった。
「馬鹿馬鹿しい。所詮は地下の無法者どもの与太話だ」
マスター・オーガスタスは、職員室で鼻で笑った。「『エーテル・ドレイン』など、学術的にあり得ん。ただの集団ヒステリーだろう」
だが、その噂に、静かに、そして鋭く眉をひそめる者たちがいた。レメディアル寮の生徒たちと、そしてSATUMAの一団である。
サイラスの疑念、ケンシンの沈黙
「……妙だな」
レメディアル寮の談話室で、サイラスは腕を組み、壁に寄りかかりながら呟いていた。彼の鋭い瞳は、部屋の隅で黙々と本を読むアシェルに向けられている。
「何が妙なんだ?」
最近少し元気を取り戻したリアンが、不思議そうに尋ねた。
「いや……なんでもねえよ」
サイラスは言葉を濁したが、その頭の中では、パズルのピースが繋がりつつあった。街で囁かれる「エーテル・ドレインの魔女」の噂。その謎の選手「シエル」が連勝を重ねている期間と、アシェルが決まって寮から姿を消し、疲弊しきった様子で戻ってくる夜が、奇妙なほど一致しているのだ。
(まさか……な。あのビビりで、世間知らずの小娘が、あの血生臭い地下闘技場に?いや、しかし……)
サイラスは、アシェルの持つ力の異常性を誰よりも早くから見抜いていた。彼女がリアンに触れた夜、部屋に満ちた尋常ならざるエーテルの奔流を、彼は肌で感じていたのだ。
(もし、あの力が本物なら……闘技場で勝つのも不可能じゃない。だとしたら、あいつは俺が思っている以上に……タチの悪い化け物かもしれねえな)
サイラスの心に、アシェルに対する警戒心と、そして何よりも強い興味が芽生えていた。
一方、SATUMAの寮では、ケンシンが一人、木刀の手入れをしながら沈黙していた。
「ケンシンさぁ、近頃アシェルの嬢ちゃんば見かけもはんが、どっか行っちょるとけ?」
西郷タケルが、大盛りの白飯をかき込みながら尋ねる。
「……知らん」
ケンシンの返事は、短く、そして重かった。
彼もまた、アシェルの周期的な不在に気づいていた。そして、街で囁かれる「魔女」の噂も。彼は、その二つの事実を、まだ結びつけてはいない。しかし、彼の武人としての直感が、アシェルが何らかの危険な領域に足を踏み入れていることを、強く警告していた。
(あやつ……まさか、無茶をしちょるんじゃ……)
だが、証拠はない。ティアが違う生徒の行動に、公然と干渉することもできない。ケンシンはただ、歯がゆい思いを抱えながら、木刀を磨き続けることしかできなかった。その無骨な手の動きの中に、言葉にできない心配の色が、確かに滲んでいた。
薬学者との密約
アシェルは、周囲の疑念など知る由もなく、ただ一つの目的のために行動していた。稼いだ賞金――血と、己の生命を削って手に入れた「フェイトマネー(運命の金)」を手に、彼女はリアンを救うための、より確実な方法を探していた。
安価な薬草では、根本的な治療にはならない。彼女は学園の図書館に籠り、薬学に関する専門書を読み漁った。そして、一つの結論に達する。リアンの病を治療できる可能性があるのは、この学園でも最高権威とされる、薬学の専門家だけだと。
その人物の名は、ドクター・エリアーデ。エリート・ティアの生徒にのみ、高度な薬学理論を教える講師であり、彼女の研究室は、学園の最も警備が厳重な研究棟の最上階にあった。レメディアル・ティアの生徒が、面会を許されるような相手ではない。
アシェルは、授業が終わった深夜、人目を忍んで研究棟へと向かった。そして、エリアーデの研究室の前で、何時間も、ただひたすらに待ち続けた。
午前二時。研究に没頭していたエリアーデが、疲れ切った表情で部屋から出てきた。
「……君は、誰だね?こんな時間に、ここで何をしている」
エリアーデは、四十代半ばの、理知的だがどこか厭世的な雰囲気を持つ女性だった。白い研究衣は皺だらけで、その瞳は長年の研究による疲労で赤く充血している。
「……先生。助けてほしい人が、います」
アシェルは、深々と頭を下げた。そして、リアンの症状と、自分が闘技場で稼いだ、銀貨でずっしりと重い袋を、彼女の前に差し出した。
エリアーデは、最初、その申し出を一笑に付そうとした。
「レメディアルの生徒が、これほどの大金を?馬鹿げている。どこで盗んできたのかね?」
しかし、アシェルの、仮面の下から覗く、必死で、そして純粋な瞳を見て、彼女の心に何かが動いた。そして、金貨の入った袋の重みが、これが冗談ではないことを物語っていた。
「……面白い」
エリアーデの目に、研究者特有の、冷たい好奇心の光が宿った。
「よろしい。その患者の症状を、詳しく話してみなさい」
アシェルは、リアンの症状を詳細に説明した。エリアーデは、その的確で冷静な説明に驚いた。
「……君、本当にレメディアルかね?その観察眼は、並のヒーラー以上だ」
リアンの症状を聞いたエリアーデは、しばらく考え込んだ後、一つの可能性を示唆した。
「……なるほど。『マナ循環不全症』の、極めて稀なケースかもしれんな。通常の薬では効果がないはずだ。特別な、調合薬が必要になる」
「作れますか!?」アシェルは思わず声を上げた。
「可能だ。しかし……」エリアーデは値踏みするような視線でアシェルを見た。「材料費も、研究費も、馬鹿にならんぞ。私の研究は潤沢な資金で賄われているが、給料はしれている。個人的な研究に回す金には、常に困っていてね」
彼女の言葉には、あからさまに俗物的な響きがあった。
「お金なら、あります。毎週、これだけのお金を用意できます」
アシェルは、決意を込めて言った。
「……よろしい」エリアーデは、満足そうに頷いた。「金を提供し続けてくれる限り、その子のための薬の研究と処方を続けてやろう。ただし、金がどこから来たかなど、野暮なことは聞かん。それでいいね?」
「……はい」
こうして、落ちこぼれの少女と、俗物的な天才薬学者の間に、奇妙な密約が結ばれた。アシェルは、毎週、命がけで稼いだ金をエリアーデに渡し、エリアーデは、その金で自らの個人的な欲求を満たしながら、リアンのための特効薬を開発する。
アシェルは、この取引に倫理的な疑問を感じなかったわけではない。しかし、友の命を救うためなら、どんな手段をも厭わない覚悟だった。
学園に広がる小さな波紋
この奇妙な協力関係は、学園内部に、小さな、しかし確実な波紋を広げ始めた。
まず、リアンの病状が、目に見えて回復し始めた。エリアーデが処方した特別な薬は、驚くべき効果を発揮したのだ。
「すごい……。リアンさんの顔色が、日に日に良くなっていく……」
「最近は、授業中に咳き込むこともなくなったわ」
レメディアル寮の仲間たちは、奇跡の訪れに喜びながらも、その裏にあるアシェルの犠牲には、まだ気づいていなかった。
一方で、エリアーデの羽振りが良くなったことが、教官たちの間で噂になった。
「エリアーデ先生、最近、高級なワインばかり飲んでいるらしいぞ」
「新しいドレスも買ったとか。研究費がそんなに潤沢だったかな?」
そして、アシェルの噂もまた、形を変えて広まっていた。「エーテル・ドレインの魔女」は、もはや単なる地下の伝説ではなかった。学園の上位ティアの生徒たちの中にも、その存在を真剣に調査し始める者が現れ始めた。
その全ての動きを、理事長室の玉座から、バルトール侯爵が、冷たい笑みを浮かべて見下ろしていた。
「面白い……。実に面白い展開になってきた」
彼は、側近の執事に命じた。「例の『魔女』と、エリアーデの接触を、さらに詳しく調べろ。そして、二人の繋がりを利用して、両方同時に我が手中に収める、最良の策を考えよ」
アシェルが必死で紡いだ、仲間を救うための細い糸。それは、彼女の知らないところで、学園の権力者たちが仕掛ける、より大きく、より邪悪な蜘蛛の巣へと、確実に繋がり始めていた。物語は、小さな希望と、巨大な陰謀が交錯する、新たな局面へと、静かに移行していく。