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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
アシェルの章

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エーテルの時代の幕開け7:魔女の噂

地下水脈のように――噂の浸透


地下闘技場の狂騒が、どれほど厳重に隠蔽されようとも、その熱気と噂は、まるで地下水脈のように、じわりと学園の日常へと染み出してくる。


それは、最初、ほんの小さな囁きだった。


学園の規則を破ることに快感を覚える不良生徒たちの間の、武勇伝のような囁き。


彼らは、夜な夜な、学園の塀を越え、王都の裏通りへと繰り出していた。


そこで彼らが目にするのは、学園の秩序とは正反対の、混沌とした世界だった。


酒と、博打と、暴力と、欲望が渦巻く世界。


そして、その中心にある、地下闘技場。


「おい、聞いたか?」


ある夜、学園の中庭で、数人の不良生徒たちが集まっていた。


彼らは、煙草を吸いながら、小声で話し合っていた。


「地下にとんでもない新人が現れたらしいぜ」


一人の生徒――短く刈り込んだ金髪に、鋭い目つきの少年――が言った。


「ああ、俺も聞いた」


別の生徒――背の高い、痩せた少年――が頷いた。


「『シエル』とかいう仮面の奴だろ?」


「そうそう、それだ」


金髪の少年は、興奮した様子で続けた。


「ゴードンを秒殺したって話だ」


「ゴードン?あの鉄槌のゴードンか?」


「ああ」


「まさか……あのゴードンを?」


「本当だって。俺の知り合いが、実際に見たんだ」


金髪の少年は、周囲を見回し、声を潜めた。


「最初は、皆、笑ってたらしい。だって、相手は小さな少女だぜ?しかも仮面をつけてる」


「武器も持ってなかったって話だ」


「それで、どうなったんだ?」


「それがな……」


金髪の少年の目が、興奮で輝いた。


「ゴードンが、完敗したんだ」


「嘘だろ……」


「本当だって!しかも、その少女、ほとんど傷一つ負ってなかったらしい」


「一体、どうやって……」


「それが分からないんだよ」


金髪の少年は、首を振った。


「ゴードンは、試合中に急に弱くなったらしい」


「急に?」


「ああ。最初は普通だったのに、徐々に動きが鈍くなって、息も上がって……最後には、まともに戦えなくなったんだって」


「おかしいな……」


「だろ?だから、皆、不思議がってるんだ」


その会話を、遠くから聞いている者がいた。


木の陰に隠れ、じっと耳を傾けている少女――アシェルだった。


彼女は、自分の噂が学園に広まっていることを知り、心臓が激しく鼓動するのを感じた。


(まずい……このままでは、いつか正体がばれる……)


しかし、彼女は止まるわけにはいかなかった。


リアンのために。


仲間のために。


彼女は、戦い続けなければならない。


やがて、その噂は、ティアを問わず、刺激に飢えた生徒たちの間で、尾ひれをつけて広がっていった。


実力主義を掲げる学園において、「ティアに関係なく強い謎の存在」という物語は、格好の娯楽であり、同時に抑圧された者たちの小さな希望でもあった。


特に、その戦い方が尋常ではないという点が、人々の想像力を掻き立てた。


食堂では、様々なティアの生徒たちが、その噂について話し合っていた。


「対戦相手が、なぜか試合中に急激に弱るんだと」


ファウンデーション・ティアの生徒が、興味津々といった様子で言った。


「まるで生命力を吸い取られるように……」


「そんなことが可能なのか?」


アデプト・ティアの生徒が、懐疑的な表情で尋ねた。


「分からない。でも、実際に見た人たちは、皆そう言ってる」


「『エーテル・ドレインの魔女』って呼ばれてるらしいな」


別の生徒が付け加えた。


「恐ろしいが、一度見てみたいもんだ」


その言葉に、周囲の生徒たちが頷いた。


しかし、その中には、懐疑的な視線を向ける者もいた。


エリート・ティアの生徒たちだ。


彼らは、学園の理論を完璧に学んでいた。


そして、その理論に基づけば、「エーテル・ドレイン」などという能力は、存在するはずがなかった。


「馬鹿げてる」


一人のエリート生徒――眼鏡をかけた、知的な顔立ちの少年――が、鼻で笑った。


「そんな能力が存在するなら、学術論文に記載されているはずだ」


「しかし、そんな記録は一切ない」


「つまり、それは嘘だ」


「ただの噂に過ぎない」


その言葉に、周囲の生徒たちは沈黙した。


確かに、エリート・ティアの生徒の言うことは、理論的には正しかった。


しかし――


それでも、噂は消えなかった。


むしろ、禁止されればされるほど、人々の興味は高まっていった。


## 教官たちの冷笑――学術的な否定


噂は、やがて教官たちの耳にも届き始めた。


しかし、彼らの反応は、冷ややかだった。


職員室では、数人の教官たちが、その噂について話し合っていた。


「馬鹿馬鹿しい」


マスター・オーガスタスが、鼻で笑った。


彼は、魔法実技を担当する教官で、学園の理論を誰よりも信奉していた。


「所詮は地下の無法者どもの与太話だ」


オーガスタスは、机の上に積まれた書類を整理しながら続けた。


「『エーテル・ドレイン』など、学術的にあり得ん」


「五百年にわたる魔術研究の歴史において、そのような能力が観測されたことは一度もない」


「つまり、それは存在しない」


「ただの集団ヒステリーだろう」


周囲の教官たちも、その意見に同意した。


「確かに」


別の教官――老齢の、白髪の男性――が頷いた。


「生徒たちは、刺激的な物語を求めているだけだ」


「地下闘技場など、野蛮な場所の話を、面白おかしく脚色しているに過ぎない」


「そのうち、飽きて忘れるだろう」


しかし――


その会話の隅で、一人だけ、沈黙している教官がいた。


ヘイスタック教官だった。


彼は、窓の外を見つめながら、何かを考え込んでいた。


(エーテル・ドレイン……)


(まさか……)


彼の脳裏に、ある光景が浮かんだ。


地下講義室で、アシェルが鉢植えの植物に触れていた時のこと。


あの時、簡易計測器が示した、異常な波形。


それは、通常のマナ放出とは全く異なる、穏やかで、しかし確実な「何か」だった。


(もし……もし、あの現象が……)


ヘイスタックは、頭を振った。


(いや、考えすぎだ)


(あの子は、ただのレメディアル・ティアの生徒だ)


(地下闘技場に行くような子ではない)


しかし、彼の心の奥底には、小さな疑念が残っていた。


## 敏感な者たち――二つの視線


だが、その噂に、静かに、そして鋭く眉をひそめる者たちがいた。


レメディアル寮の生徒たちと、そしてSATUMAの一団である。


### サイラスの疑念――パズルのピース


「……妙だな」


レメディアル寮の談話室で、サイラスは腕を組み、壁に寄りかかりながら呟いていた。


談話室は、寮の一階にある、共用の部屋だった。


古びたソファがいくつか置かれ、壁際には本棚があり、そこには生徒たちが寄付した古い本が並んでいた。


窓は小さく、そこから差し込む光は薄暗かった。


マナ灯も、ここでは出力が低く、部屋全体がどこか陰鬱な雰囲気に包まれていた。


サイラスは、その談話室の隅に立ち、部屋の反対側にいるアシェルを、じっと観察していた。


アシェルは、ソファに座り、黙々と本を読んでいた。


その本は、薬学に関する専門書だった。


彼女は、リアンの病気について、より深く理解しようとしていた。


彼女の表情は、真剣で、集中していた。


しかし、その目の下には、深いクマができていた。


顔色も、以前より悪くなっている。


明らかに、睡眠不足だった。


そして、疲労が蓄積していた。


サイラスの鋭い瞳は、そのすべてを見逃さなかった。


「何が妙なんだ?」


ソファに座っていたリアンが、不思議そうに尋ねた。


リアンの顔色は、以前とは比べ物にならないほど良くなっていた。


頬には健康的な赤みが戻り、目には生気が宿っていた。


彼女は、もう咳き込むこともなくなっていた。


エリアーデが処方した薬が、驚異的な効果を発揮していたのだ。


「いや……なんでもねえよ」


サイラスは言葉を濁した。


しかし、その頭の中では、パズルのピースが繋がりつつあった。


彼は、この数週間、注意深くアシェルを観察していた。


そして、いくつかの奇妙な事実に気づいていた。


第一に、アシェルが定期的に寮から姿を消すこと。


それは、決まって週に二回、夜だった。


彼女は、夜遅く、誰にも気づかれないように寮を抜け出し、そして早朝、疲れ果てた様子で戻ってくる。


第二に、その期間と、街で囁かれる「エーテル・ドレインの魔女」が闘技場に現れる日が、完璧に一致していること。


サイラスは、地下闘技場の情報網を通じて、「シエル」の試合日程を把握していた。


そして、その日程と、アシェルの不在の日が、寸分違わず重なっていた。


第三に、リアンの急速な回復。


リアンの病気は、通常の薬では治らないはずだった。


しかし、彼女は明らかに回復している。


それは、高価な特効薬を使っているとしか考えられない。


しかし、レメディアル・ティアの生徒が、そんな高価な薬を買える金など、あるはずがない。


奨学金は、生活するだけで精一杯だ。


では、その金は、どこから来たのか?


地下闘技場の賞金――それしか考えられなかった。


そして、第四に、アシェルの持つ力の異常性。


サイラスは、アシェルがリアンに触れた夜のことを、鮮明に覚えていた。


部屋に満ちた、尋常ならざるエーテルの奔流。


それは、常人には決して扱えない、圧倒的な力だった。


(まさか……な)


サイラスは、心の中で呟いた。


(あのビビりで、世間知らずの小娘が、あの血生臭い地下闘技場に?)


(いや、しかし……)


彼は、アシェルをもう一度見た。


彼女は、相変わらず本を読んでいた。


その姿は、か弱く、無害に見えた。


しかし、サイラスは知っていた。


最も危険な者は、最も無害に見える者だと。


(もし、あの力が本物なら……)


(闘技場で勝つのも、不可能じゃない)


(だとしたら、あいつは俺が思っている以上に……)


(タチの悪い化け物かもしれねえな)


サイラスの心に、アシェルに対する警戒心と、そして何よりも強い興味が芽生えていた。


彼は、このパズルの答えを、どうしても知りたかった。


しかし、今は確証がない。


もう少し、観察を続ける必要があった。


サイラスは、壁から離れ、談話室を出ようとした。


その時――


アシェルが、ふと顔を上げ、サイラスと目が合った。


一瞬だけ。


しかし、その一瞬で、サイラスは確信した。


この少女は、何かを隠している、と。


そして、アシェルもまた、サイラスが自分を疑っていることを、本能的に感じ取っていた。


二人の視線が交錯し、そして離れた。


サイラスは、何も言わずに部屋を出た。


アシェルは、再び本に視線を戻した。


しかし、その心臓は、激しく鼓動していた。


(サイラスは……気づいている……?)


(いや、まだ確証はないはず)


(でも、もし気づかれたら……)


彼女は、唇を噛んだ。


しかし、今は立ち止まるわけにはいかなかった。


リアンは、まだ完全には回復していない。


薬を続ける必要がある。


そのためには、金が必要だ。


そして、金を稼ぐためには、闘技場で戦い続けなければならない。


アシェルは、本を閉じ、立ち上がった。


そして、自分の部屋へと戻っていった。


その背中を、リアンが心配そうに見つめていた。


「アシェル……大丈夫かしら……」


リアンは、小さく呟いた。


「最近、すごく疲れているみたい……」


カインは、相変わらず壁を見つめたまま、何も言わなかった。


しかし、その目には、わずかな心配の色が浮かんでいた。


### ケンシンの沈黙――武人の直感


一方、SATUMAの寮では、ケンシンが一人、木刀の手入れをしながら沈黙していた。


SATUMAの寮は、学園の東側にある、比較的新しい建物だった。


大和国の文化に配慮して、内装は和風に作られており、畳の部屋や、障子の扉があった。


ケンシンは、自分の部屋で、床に座り、木刀を磨いていた。


彼の部屋は、簡素だった。


家具はほとんどなく、壁には刀掛けがあり、そこに木刀が何本か並んでいた。


床の間には、小さな掛け軸が飾られており、そこには「武」という文字が力強く書かれていた。


ケンシンは、木刀を布で丁寧に磨きながら、何かを考え込んでいた。


その表情は、いつもよりも険しかった。


「ケンシンさぁ」


障子が開き、西郷タケルが顔を出した。


彼は、手に大盛りの白飯を持っており、それを豪快にかき込みながら部屋に入ってきた。


「近頃、アシェルの嬢ちゃんば見かけもはんが、どっか行っちょるとけ?」


タケルは、独特の訛りで尋ねた。


ケンシンは、木刀を磨く手を止めず、短く答えた。


「……知らん」


その返事は、短く、そして重かった。


タケルは、ケンシンの様子に気づいた。


「ケンシンさぁ、何ぞ心配しちょるとけ?」


「……別に」


しかし、ケンシンの表情は、明らかに何かを気にかけていた。


彼もまた、アシェルの周期的な不在に気づいていた。


そして、街で囁かれる「魔女」の噂も、耳にしていた。


彼は、その二つの事実を、まだ結びつけてはいない。


証拠がないからだ。


しかし、彼の武人としての直感が、アシェルが何らかの危険な領域に足を踏み入れていることを、強く警告していた。


ケンシンは、初めてアシェルと出会った時のことを思い出していた。


あの時、彼は感じた。


この少女は、尋常ではない、と。


その周囲に渦巻く、強大なエーテル。


それは、まだ制御されていない、荒々しい力だった。


しかし、その力は、確かに本物だった。


そして、あれから数ヶ月が経った今――


アシェルの様子は、明らかに変わっていた。


以前よりも、疲れている。


以前よりも、痩せている。


そして、以前よりも――どこか、危険な雰囲気を纏っている。


まるで、何か大きな決断をし、それに全てを賭けているかのような。


(あやつ……まさか、無茶をしちょるんじゃ……)


ケンシンの心に、不安が広がった。


しかし、証拠はない。


ティアが違う生徒の行動に、公然と干渉することもできない。


学園には、厳格な規則がある。


上位ティアの生徒が、下位ティアの生徒に関わることは、基本的に禁止されていた。


それは、いじめや搾取を防ぐための規則だった。


しかし、その規則が、今、ケンシンの手を縛っていた。


彼は、ただ見守ることしかできなかった。


ケンシンは、歯がゆい思いを抱えながら、木刀を磨き続けた。


その無骨な手の動きの中に、言葉にできない心配の色が、確かに滲んでいた。


タケルは、ケンシンの様子を見て、何も言わずに部屋を出た。


彼もまた、ケンシンが何かを心配していることを理解していた。


しかし、それが何なのかは、分からなかった。


ケンシンは、一人残され、再び木刀に向き合った。


彼は、木刀を鞘に収めると、窓の外を見た。


月が、静かに空に浮かんでいた。


その月明かりの下で、どこかで、アシェルが戦っているのかもしれない。


(もし、わいの力が必要な時が来たら……)


(その時は、ティアの規則など、糞くらえじゃ)


(わいは、あやつば守る)


ケンシンは、静かに、しかし強く、そう心に誓った。


## 薬学者との密約――血の金で紡ぐ命


アシェルは、周囲の疑念など知る由もなく、ただ一つの目的のために行動していた。


稼いだ賞金――血と、己の生命を削って手に入れた「フェイトマネー(運命の金)」を手に、彼女はリアンを救うための、より確実な方法を探していた。


安価な薬草では、根本的な治療にはならなかった。


それは、アシェルが何度も試して、理解していた。


心臓草のお茶は、一時的に症状を和らげるだけで、病気そのものを治すことはできない。


リアンには、もっと強力な、専門的な治療が必要だった。


アシェルは、学園の図書館に籠り、薬学に関する専門書を読み漁った。


図書館の三階、医学・薬学の専門書が並ぶ棚。


そこで、アシェルは何時間も、何日も、本を読み続けた。


『心臓疾患の魔法医学的アプローチ』


『マナ循環不全症の臨床研究』


『希少疾病とその治療法』


難解な専門用語が並ぶページを、アシェルは辞書を片手に、一つ一つ理解していった。


そして、一つの結論に達した。


リアンの病を治療できる可能性があるのは、この学園でも最高権威とされる、薬学の専門家だけだと。


その人物の名は、ドクター・エリアーデ。


エリート・ティアの生徒にのみ、高度な薬学理論を教える講師であり、彼女の研究室は、学園の最も警備が厳重な研究棟の最上階にあった。


レメディアル・ティアの生徒が、面会を許されるような相手ではない。


しかし、アシェルには、他に選択肢がなかった。


彼女は、授業が終わった深夜、人目を忍んで研究棟へと向かった。


研究棟は、学園の中心部にある、五階建ての白い建物だった。


最新式の魔導機器が設置され、王国でも最先端の研究が行われている場所。


その入り口には、常に衛兵が立っており、許可証を持たない者は入ることができなかった。


しかし、深夜になれば、衛兵の数も減る。


アシェルは、衛兵の目を盗んで、建物の裏口から侵入した。


彼女は、エルダンに教わった忍び足で、静かに階段を上っていった。


一階。


二階。


三階。


四階。


そして、五階。


最上階の廊下は、静まり返っていた。


両側に、いくつかの研究室の扉が並んでいる。


その一番奥に、「エリアーデ研究室」と書かれたプレートがある扉があった。


扉の隙間から、微かに光が漏れていた。


まだ、中に人がいるようだ。


アシェルは、その扉の前で、何時間も、ただひたすらに待ち続けた。


廊下の隅に座り込み、膝を抱えて、じっと扉を見つめていた。


時折、他の研究室から人が出てくることがあったが、アシェルは影に隠れて、見つからないようにしていた。


午前零時を過ぎた。


午前一時を過ぎた。


そして――


午前二時。


エリアーデの研究室の扉が、ようやく開いた。


中から、疲れ切った表情の女性が出てきた。


ドクター・エリアーデだった。


彼女は、四十代半ばの、理知的だがどこか厭世的な雰囲気を持つ女性だった。


長い黒髪を後ろで一つに束ね、眼鏡をかけている。


白い研究衣は皺だらけで、所々に薬品のシミがついていた。


その瞳は、長年の研究による疲労で、赤く充血している。


顔色も悪く、目の下には深いクマができていた。


明らかに、睡眠不足だった。


エリアーデは、扉に鍵をかけながら、小さくため息をついた。


「今日も、進展なし……」


彼女は、自分の研究に行き詰まっているようだった。


そして、廊下を歩き始めた。


その時――


「……先生」


影から、小さな声が聞こえた。


エリアーデは、驚いて立ち止まった。


そして、声のした方を見た。


そこには、フードを深くかぶった、小さな少女が立っていた。


「……君は、誰だね?」


エリアーデの声には、警戒心が滲んでいた。


「こんな時間に、ここで何をしている」


「私の名前は、言えません」


アシェルは、フードで顔を隠したまま答えた。


「でも、先生に、お願いがあります」


「お願い?」


エリアーデは、眉をひそめた。


「レメディアルの生徒かね?こんな時間に、研究棟に侵入するとは……退学になりたいのか?」


「……先生。助けてほしい人が、います」


アシェルは、深々と頭を下げた。


その声は、必死だった。


エリアーデは、その必死さに、わずかに心を動かされた。


「……話してみなさい」


アシェルは、リアンの症状について、詳しく説明した。


そして、自分が闘技場で稼いだ金――銀貨でずっしりと重い革袋を、エリアーデの前に差し出した。


「これで、足りますか?」


エリアーデは、その袋を手に取り、中を確認した。


銀貨が、百枚以上入っていた。


彼女の目が、わずかに見開かれた。


「……レメディアルの生徒が、これほどの大金を?」


エリアーデの声には、驚きと、そして疑念が混じっていた。


「馬鹿げている。どこで盗んできたのかね?」


「盗んでいません」


アシェルは、はっきりと答えた。


「私が、稼いだお金です」


「稼いだ?」


エリアーデは、懐疑的な目でアシェルを見た。


「どうやって?」


「……それは、言えません」


アシェルは、視線を逸らした。


エリアーデは、しばらくアシェルを見つめていた。


この少女は、嘘をついているようには見えなかった。


その目は、真剣で、必死だった。


そして、この金の重みは、これが冗談ではないことを物語っていた。


エリアーデは、ため息をついた。


「……まあ、いい」


彼女は、袋をアシェルに返した。


「金の出所など、私には関係ない」


「それより、その患者の症状を、もっと詳しく聞かせてもらおう」


アシェルは、リアンの症状を、さらに詳細に説明した。


彼女は、この数週間、リアンの様子を注意深く観察していた。


いつ咳が出るか。


どんな時に息が苦しくなるか。


食事は何が食べられるか。


睡眠はどれくらい取れているか。


そのすべてを、記憶していた。


そして、それを、医学用語を使って、正確に説明した。


エリアーデは、その説明を聞きながら、驚きを隠せなかった。


「……君、本当にレメディアルかね?」


エリアーデの声には、明らかな驚きが含まれていた。


「その観察眼は、並のヒーラー以上だ」


「専門的な訓練を受けたことがあるのか?」


「いいえ」


アシェルは首を振った。


「ただ、友達を助けたくて……本を読んで、勉強しただけです」


「……なるほど」


エリアーデは、感心したように頷いた。


そして、しばらく考え込んだ後、一つの可能性を示唆した。


「……なるほど。『マナ循環不全症』の、極めて稀なケースかもしれんな」


「マナ循環不全症……?」


「ああ」


エリアーデは、腕を組んだ。


「心臓が、体内のマナを十分に循環させることができない病気だ」


「通常の薬では、効果がないはずだ」


「特別な、調合薬が必要になる」


アシェルの目が、希望で輝いた。


「作れますか!?」


彼女は、思わず声を上げた。


エリアーデは、アシェルを見て、わずかに笑みを浮かべた。


「可能だ」


「本当ですか!」


「ああ。しかし……」


エリアーデの表情が、急に真面目になった。


「材料費も、研究費も、馬鹿にならんぞ」


彼女は、値踏みするような視線でアシェルを見た。


「私の研究は、学園から潤沢な資金で賄われている」


「しかし、給料はしれている」


「個人的な研究に回す金には、常に困っていてね」


彼女の言葉には、あからさまに俗物的な響きがあった。


エリアーデは、研究者としては優秀だったが、金銭に対する執着も強かった。


彼女は、より良い研究設備、より高価な試薬、より快適な生活――それらすべてを望んでいた。


しかし、学園からの給料だけでは、それらを手に入れることはできなかった。


だから、彼女は常に、副収入の機会を探していた。


そして、今、その機会が、目の前にあった。


「お金なら、あります」


アシェルは、決意を込めて言った。


「毎週、これだけのお金を用意できます」


彼女は、革袋を再びエリアーデに差し出した。


「毎週?」


エリアーデの目が、興味深そうに輝いた。


「本当に?」


「はい」


「……よろしい」


エリアーデは、満足そうに頷いた。


彼女は、革袋を受け取り、その重さを確かめた。


「金を提供し続けてくれる限り、その子のための薬の研究と処方を続けてやろう」


「ただし」


エリアーデは、アシェルをまっすぐに見た。


「金がどこから来たかなど、野暮なことは聞かん」


「それでいいね?」


「……はい」


アシェルは、頷いた。


こうして、落ちこぼれの少女と、俗物的な天才薬学者の間に、奇妙な密約が結ばれた。


アシェルは、毎週、命がけで稼いだ金をエリアーデに渡す。


エリアーデは、その金で自らの個人的な欲求を満たしながら、リアンのための特効薬を開発する。


それは、倫理的には問題のある取引だった。


しかし、アシェルには、他に選択肢がなかった。


そして、エリアーデもまた、この機会を逃すつもりはなかった。


「では、一週間後に、また来なさい」


エリアーデは、アシェルに言った。


「その時には、最初の試作薬を渡そう」


「ありがとうございます!」


アシェルは、深く頭を下げた。


「礼など不要だ」


エリアーデは、冷たく言った。


「これは、ビジネスだ」


「君が金を払い、私が薬を作る」


「それだけのことだ」


そう言うと、エリアーデは、革袋を懐にしまい、廊下を歩いていった。


その背中を、アシェルは、複雑な思いで見送った。


エリアーデは、決して良い人ではなかった。


金に汚く、倫理観も薄かった。


しかし、彼女には、確かな技術があった。


そして、その技術が、リアンを救うことができる。


それだけで、十分だった。


アシェルは、研究棟を後にし、寮へと戻った。


その夜、彼女は久しぶりに、少しだけ安心して眠ることができた。


リアンを救う道が、ようやく見えてきた。


後は、そのための金を稼ぎ続けるだけだ。


## 学園に広がる小さな波紋――変化の兆し


この奇妙な協力関係は、学園内部に、小さな、しかし確実な波紋を広げ始めた。


### リアンの回復――奇跡の訪れ


まず、リアンの病状が、目に見えて回復し始めた。


エリアーデが処方した特別な薬は、驚くべき効果を発揮したのだ。


一週間後、アシェルはエリアーデから、小さな瓶に入った薬を受け取った。


その薬は、淡い青色をしており、わずかに甘い香りがした。


「これを、朝晩、一滴ずつ舌の下に垂らして服用させなさい」


エリアーデは、アシェルに指示した。


「効果は、すぐに現れるはずだ」


アシェルは、その薬をリアンに渡した。


「これ、飲んでみて」


「これ、何?」


リアンは、不思議そうに瓶を見た。


「特別な薬。あなたの病気に効くはず」


「でも、こんな高価そうな薬……どこで……」


「気にしないで」


アシェルは、微笑んだ。


「ただ、飲んで」


リアンは、アシェルの真剣な目を見て、それ以上何も聞かなかった。


彼女は、薬を一滴、舌の下に垂らした。


その瞬間――


リアンの身体が、わずかに震えた。


「あ……」


彼女の顔に、驚きの色が浮かんだ。


「何か……温かい……」


薬が、彼女の身体の中で、ゆっくりと広がっていく。


それは、まるで春の日差しのように、温かく、優しい感覚だった。


そして――


リアンの呼吸が、楽になった。


これまで常に感じていた、胸の圧迫感が、消えていった。


「すごい……」


リアンは、深く息を吸い込んだ。


空気が、すんなりと肺に入ってくる。


これは、何ヶ月も感じたことのなかった、爽快な感覚だった。


「本当に……すごい……」


リアンの目から、涙が流れ落ちた。


それは、喜びの涙だった。


「ありがとう、アシェル……」


リアンは、アシェルを抱きしめた。


「本当に、本当に、ありがとう……」


アシェルも、リアンを抱きしめ返した。


そして、静かに涙を流した。


それから数日後――


レメディアル寮の仲間たちは、リアンの変化に気づき始めた。


「すごい……。リアンさんの顔色が、日に日に良くなっていく……」


カインが、珍しく感心したように言った。


「最近は、授業中に咳き込むこともなくなったわ」


別の女子生徒が、喜びを隠せない様子で言った。


「何があったんだろう……」


「分からないけど……奇跡よ、きっと」


彼女たちは、奇跡の訪れに喜びながらも、その裏にあるアシェルの犠牲には、まだ気づいていなかった。


しかし、サイラスだけは、すべてを理解していた。


彼は、リアンの回復と、アシェルの疲労を見て、確信していた。


アシェルが、リアンのために、何か危険なことをしている、と。


そして、その危険なこととは、おそらく地下闘技場だろう、と。


### エリアーデの豹変――金の匂い


一方で、エリアーデの羽振りが良くなったことが、教官たちの間で噂になった。


職員室では、教官たちが、その話題で持ちきりだった。


「エリアーデ先生、最近、様子がおかしくないか?」


一人の教官が、小声で言った。


「ああ、俺も気になってた」


別の教官が頷いた。


「高級なワインばかり飲んでいるらしいぞ」


「それに、新しいドレスも何着か買ったとか」


「研究費がそんなに潤沢だったかな?」


「いや、確か彼女の研究室は、予算削減の対象になっていたはずだ」


「では、その金は、どこから……」


教官たちは、顔を見合わせた。


しかし、誰も答えを知らなかった。


エリアーデは、その噂を聞いても、何も気にしていなかった。


彼女は、自分の研究室で、高級なワインを飲みながら、満足そうに微笑んでいた。


「ふふ……やっと、まともな生活ができるわ……」


彼女の机の上には、アシェルから受け取った金が、きれいに積まれていた。


それは、彼女にとって、長年の夢が叶った瞬間だった。


### 噂の変容――魔女から希望へ


そして、アシェルの噂もまた、形を変えて広まっていた。


「エーテル・ドレインの魔女」は、もはや単なる地下の伝説ではなかった。


学園の上位ティアの生徒たちの中にも、その存在を真剣に調査し始める者が現れ始めた。


エリート・ティアの研究会では、その能力について、活発な議論が交わされていた。


「本当に、エーテルを吸収する能力が存在するのか?」


「理論的には、あり得ない」


「しかし、多数の目撃証言がある」


「集団幻覚の可能性は?」


「それにしては、証言が具体的すぎる」


彼らは、学術的な興味から、その謎を解明しようとしていた。


一方、下位ティアの生徒たちにとって、「魔女」は別の意味を持ち始めていた。


それは、希望の象徴だった。


「ティアなんて、関係ない」


「本当に強ければ、誰でも勝てる」


「あの魔女が、それを証明してくれた」


彼らは、自分たちもまた、いつか「魔女」のように、この不公平な階級制度を覆すことができるかもしれない――そんな希望を抱き始めていた。


しかし、その希望が、やがて大きな陰謀に巻き込まれることになるとは、誰も気づいていなかった。


## 権力者の暗躍――蜘蛛の巣を張る者


その全ての動きを、理事長室の玉座から、バルトール侯爵が、冷たい笑みを浮かべて見下ろしていた。


理事長室は、学園の最も高い塔の、最上階にあった。


広大な部屋の中央には、豪華な机と椅子が置かれ、壁には歴代の理事長の肖像画が飾られていた。


窓からは、学園全体を見渡すことができた。


バルトール侯爵は、その窓の前に立ち、学園を見下ろしていた。


「面白い……」


侯爵は、低く笑った。


「実に面白い展開になってきた」


彼の隣には、執事が控えていた。


その執事は、痩せた、中年の男性で、常に無表情だった。


「例の『魔女』の正体は、判明しましたか?」


侯爵が尋ねた。


「はい」


執事は、懐から一枚の書類を取り出した。


「グランベルク王立学園、レメディアル・ティア所属」


「名前は、アシェル」


「出身は、王国北部の小さな村」


「両親はなく、孤児として育てられた」


「特筆すべき能力として、『エーテル吸収』が挙げられます」


侯爵は、その報告を聞いて、満足そうに頷いた。


「なるほど……孤児か」


「身寄りがないということは、脅しやすいということだ」


「それに、エーテル吸収……興味深い能力だ」


侯爵は、執事に向き直った。


「そして、エリアーデとの接触は?」


「確認しました」


執事は、別の書類を見せた。


「アシェルは、毎週、エリアーデに金を渡しています」


「その金額は、銀貨百枚以上」


「エリアーデは、その金でリアンという生徒のための薬を開発しています」


「ふむ……」


侵爵は、顎に手を当てた。


「つまり、アシェルは、友人を救うために、地下闘技場で戦っているわけか」


「美しい友情だ」


侵爵の声には、皮肉が込められていた。


「そして、エリアーデは、その金を受け取り、自分の贅沢のために使っている」


「実に俗物的だ」


侵爵は、冷たく笑った。


「彼女らの繋がりを利用して、両方同時に我が手中に収める、最良の策を考えよ」


侵爵は、執事に命じた。


「はい」


執事は、深く頭を下げた。


「既に、計画は立てております」


「ほう」


侵爵は、興味深そうに執事を見た。


「聞かせてもらおう」


執事は、静かに説明し始めた。


「まず、アシェルを脅します」


「彼女が地下闘技場で戦っていることを、学園に通報すると」


「地下闘技場での戦いは、学園の規則に違反します」


「発覚すれば、即刻退学です」


「なるほど」


「そして、その退学を取り消す代わりに、彼女を我々の陣営に引き入れる」


「彼女の能力を、我々のために使わせる」


「素晴らしい」


侵爵は、満足そうに頷いた。


「そして、エリアーデは?」


「エリアーデには、金を餌にします」


「彼女は、既にアシェルからの金に依存しています」


「その金の流れを止めると脅せば、彼女は我々に従うでしょう」


「完璧だ」


侵爵は、窓の外を見た。


「アシェルが必死で紡いだ、仲間を救うための細い糸」


「それを、我々が利用する」


「実に愉快だ」


侵爵は、冷たく笑った。


その笑い声が、理事長室に響き渡った。


それは、獲物を前にした捕食者の笑いだった。


アシェルは、自分が巨大な陰謀に巻き込まれようとしていることを、まだ知らなかった。


彼女は、ただ、リアンを救うために、戦い続けるだけだった。


しかし、彼女が必死で紡いだ希望の糸は、いつの間にか、権力者たちが仕掛ける、より大きく、より邪悪な蜘蛛の巣へと、確実に繋がり始めていた。


物語は、小さな希望と、巨大な陰謀が交錯する、新たな局面へと、静かに移行していく。


月明かりの下、学園の塔が、静かに佇んでいた。


その塔の最上階では、侵爵が、冷たく笑っていた。


その塔の地下では、アシェルが、仮面をつけて、戦いの準備をしていた。


光と影。


希望と絶望。


それらが、今まさに、交錯しようとしていた。


そして、その結末は、誰にも予測できなかった。

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