エーテルの時代の幕開け6:エーテル・ドレインの魔女
地下闘技場の空気は、鉄と汗と、そして熱狂した観客が吐き出す安酒の匂いでむせ返っていた。アシェルは、円形のリングの中央へと、静かな足取りで進み出た。彼女は「新人二十七番」という記号ではなく、受付で告げられた「シエル」という出場名を背負っていた。空のように捉えどころがないように、という願いを込めて自ら選んだ名だった。周囲から降り注ぐのは、野獣のような怒号と、侮蔑に満ちた野次だった。
「なんだ、あのチビは!」
「仮面なんかつけやがって、顔を見せられねえのか!」
「ゴードン!さっさと潰しちまえ!1分以内に終わらせたらチップを弾んでやるぜ!」
彼女の素性は、謎に包まれていた。ゆったりとした旅人のマントが体つきを曖昧にし、顔の大部分は精巧な銀の仮面で覆われている。観客たちがかろうじて判別できるのは、その小柄な背丈と、時折フードの隙間から覗く髪や顎の線から推測できる「少女」という性別、ただそれだけであった。
対戦相手、「鉄槌のゴードン」は、その異名の通り、巨大な戦鎚を軽々と肩に担ぐ、身長2メートルはあろうかという巨漢だった。腕には、この街を牛耳る犯罪組織「黒蛇団」の刺青が醜く彫られ、その顔には幾多の裏稼業で刻まれたであろう古い傷跡が、残忍な笑みと共に浮かんでいる。彼は、闘技場で既に十連勝を飾っている、新人殺しとして悪名高い男だった。
「へっ、嬢ちゃん。お遊びは終わりだぜ」
ゴードンは、下卑た笑みを浮かべながらハンマーを構えた。「今ならまだ間に合う。泣いてママのところに帰りな」
シエルは答えない。彼女の腰には、剣一本差されていない。まるで無手だった。仮面の下で、彼女は深く、そしてゆっくりと呼吸を整えていた。道中で蓄えた、生きたエーテルの温かい流れが、全身を駆け巡るのを感じる。それは、試験塔の無機的なマナとは全く違う、脈打つ力だった。
ゴングの代わりに、錆びついた鐘がけたたましく鳴り響く。試合開始の合図だ。
理解不能な舞踏
ゴードンは、まるで象が突進するかのように、大地を揺るがしてシエルに襲いかかった。巨大なハンマーが、風を唸らせながら横薙ぎに振るわれる。まともに受ければ、シエルの華奢な体など一撃で砕け散るだろう。
観客席から、期待に満ちた歓声が上がる。しかし、その歓声はすぐに驚愕のどよめきに変わった。
シエルは、その圧倒的な攻撃を、まるで柳が風を受け流すかのように、最小限の動きでひらりとかわしたのだ。彼女の動きは、訓練された戦士のそれというより、森を駆け抜ける小動物のように、予測不可能で、そして自然だった。エルダンから教わった体捌きは、生き残るためだけに特化した、無駄のない動きの結晶だった。
「な、なんだぁ……!?」
ゴードンもまた、己の一撃が空を切ったことに戸惑っていた。そして、彼は奇妙な感覚に襲われた。ほんの一瞬、シエルが身をかわした瞬間、全身から力が抜けるような、微かな倦怠感を感じたのだ。
(……なんだ、この感じは。少し、息が上がる……?)
シエルは、かわす瞬間に、ゴードンの肉体から放たれる闘争のエーテルを、ごく微量だが吸収していた。それは、彼女が森で獣と対峙する際に編み出した、生存のための技術だった。敵の生命力を少しずつ奪い、自らの力へと変える。
「ちょこまかと逃げ回りやがって!」
ゴードンは苛立ち、再びハンマーを振り下ろす。だが、結果は同じだった。シエルは彼の攻撃範囲の、ほんの僅か外側を、まるで舞うように動き続け、その度に、ゴードンの体からは微量の生命エネルギーが奪われていった。
観客たちは、最初はシエルがただ幸運に恵まれているだけだと思った。しかし、試合が二分、三分と続くうちに、玄人筋の観客たちは異常に気づき始めた。
貴賓席でワイングラスを傾けていた、**闇金業者の元締め「金狐」**と異名をとる男が、細い目でリングを見つめていた。
「……おかしい。ゴードンの奴、どうしたんだ?」
彼の隣に座る、**暗殺者ギルドの女頭領「夜百合」**が、扇子で口元を隠しながら囁いた。
「息が上がっているわ……。まだ五分も経っていないのに。それに、ハンマーの振りが、先程より明らかに鈍くなっている……」
ゴードンの額には、滝のような汗が流れ、その呼吸は荒く、苦しげになっていた。彼は、まるで目に見えない重りを身体中に巻き付けられているかのように、動きが鈍重になっていた。
「くそっ……!なんでだ……!体が……体が、重い……!」
彼は、自分が徐々に弱体化している原因を、全く理解できなかった。
無尽蔵のマナの奔流
そして、シエルは反撃に転じた。
(……今だ)
彼女は、吸収したエーテルを体内で瞬時にマナへと変換し、エルダンから教わった基礎的な攻撃魔法を放った。彼女にとって剣術は、あくまで精神とエーテルを制御するための手段であり、実質的に無尽蔵に使えるマナがある今、物理的な武器を振るう意味はなかった。
彼女が放つ魔法の威力は、「基礎的」という言葉からは、およそかけ離れていた。
「ライト・アロー!」
シエルの指先から放たれた光の矢は、ロウ・ティアの生徒が放つそれとは比較にならないほど眩しく、そして強大だった。まるで小さな太陽が炸裂したかのような光が、ゴードンの目を眩ませる。
「ぐわっ!目が……!」
さらに、彼女は立て続けに魔法を詠唱した。
「ウィンド・カッター!」
「ファイア・ボール!」
本来、レメディアル・ティアの生徒では考えられない、連続での魔法行使。そして、そのどれもが、ファウンデーション・ティアの上位者に匹敵するほどの高出力。彼女は、ゴードンから吸収したエーテルを燃料とすることで、実質的に無尽蔵のマナを手に入れていたのだ。
「な……なんだあの魔力量は……!?」貴賓席で見ていた没落貴族のバルトール侯爵が、驚愕の声を上げた。「あれはエリート・ティアでも稀に見るレベルだぞ!」
魔法の連撃に怯んだゴードンが体勢を崩した、その隙を見逃さず、シエルは一気に距離を詰めた。そして、剣の代わりに、彼女の手のひらに凝縮されたマナの衝撃波を放った。
「インパクト!」
至近距離から放たれた衝撃波は、ゴードンの重い鎧を貫通し、その巨体をリングの壁まで吹き飛ばした。
静かなる勝利とアンダーグラウンドの評価
試合開始から、十分が経過していた。ゴードンは、既に満身創痍だった。息は完全に上がり、その巨体は小刻みに震えている。対照的に、シエルは試合開始時と全く変わらない、静かな佇まいを保っていた。
「お、お前……一体、何者なんだ……」
ゴードンが、恐怖と困惑に満ちた声で呟いた。
シエルは答えなかった。ただ、仮面の下で、最後の攻撃に備えていた。彼女は、ゴードンの前にゆっくりと歩み寄り、その額に指先を向けた。
「……私の、勝ちですね」
仮面の下から漏れた、少女のものとは思えぬ、冷たく、そして静かな声。それが、ゴードンが聞いた、最後の言葉だった。彼は、戦意を完全に喪失し、自らハンマーを手放し、ゆっくりと膝をついた。「……参った」
観客席は、水を打ったように静まり返っていた。そして、審判が震える声で勝敗を告げた瞬間、爆発的な歓声が沸い起こった。
「すげええええええええ!」
「あのゴードンが、新人の、しかも武器も持たない嬢ちゃんに負けやがった!」
「あいつは一体何者なんだ!?」
試合後、敗れたゴードンは、控室で呆然と呟いていた。
「……おかしい。今日は、どうも調子が悪かった。全く、実力を出しきれなかった……」
他の戦士たちも、彼の言葉に頷いた。
「ああ、見てて分かったぜ。いつものお前さんじゃなかった」
「あの嬢ちゃんが強かったんじゃねえ。お前さんが、ただ弱かっただけだ」
彼らの誰一人として、シエルがゴードンの力を「吸い取った」などとは、夢にも思わなかった。ただ、絶対王者であったゴードンの、信じがたいほどの不調としか、理解できなかったのだ。
アシェルは、賞金である銀貨三十枚を受け取ると、誰とも言葉を交わすことなく、再び闇の中へと消えていった。しかし、彼女の存在は、アンダーグラウンドの住人たちの心に、強烈な印象を焼き付けていた。
**「金狐」**の経営する闇賭博場では、早くも次の試合の賭けが始まっていた。
「次のあの仮面の小娘の試合、どう張る?」
「相手の力を吸うなんて噂もある。相手次第だが……面白い賭けになるかもしれん」
**「夜百合」**が支配する情報屋の間では、彼女の正体を探る動きが活発化していた。
「あの子、一体どこから来たのかしらね。学園の生徒らしいけど、レメディアル・ティアという話は本当なの?」
そして、バルトール侯爵のサロンでは、彼女の力が新たな金儲けの種として議論されていた。
「あの娘の力は本物だ。うまく使えば、我が派閥の大きな武器になる」侯爵は側に控える執事に命じた。「あの娘の身元を徹底的に洗い出し、我が陣営に引き入れるのだ。金はいくらかかっても構わん」
「エーテル・ドレインの魔女」と記録された異常
その日から、「シエル」は連戦連勝を続けた。その戦闘スタイルは常に同じだった。最初は相手の攻撃をひたすらかわし続け、相手が不可解な消耗を見せ始めたところで、無尽蔵のマナによる魔法と、鋭い体術で一気に勝負を決める。
闘技場の運営本部の、薄暗い一室。壁に設置された録音用の魔導クリスタルと、最新式のマナ波形記録計が、この地下で行われる全ての試合を記録していた。運営責任者である、顔に大きな傷跡を持つ男が、技術スタッフを怒鳴りつけていた。
「どういうことだ!また記録計が異常を示しているぞ!」
「は、はあ……。『シエル』の試合になると、必ず、対戦相手のマナ波形が、試合中に急激に低下していくんです。それと同時に、シエルの周囲から、これまで観測されたことのない、特異な『吸収』としか思えない波形が記録されまして……」
この、通常の魔術理論では説明のつかない「異常」なログ。それが、やがて彼女の異名の由来となる。アンダーグラウンドの住人たちは、敬意と恐怖、そして何よりも大きな興味を込めて、仮面の少女をこう呼び始めた。
「エーテル・ドレインの魔女」、と。
その噂は、地下の闇を通じて、急速に広まっていった。金を動かす者、情報を操る者、力を求める者。アンダーグラウンドに巣食う全ての者たちが、この謎めいた新星の動向に、固唾を飲んで注目し始めたのだ。