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冒険者適性Aランク でも俺、鍛冶屋になります  作者: むひ
アシェルの章

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エーテルの時代の幕開け6:エーテル・ドレインの魔女

戦鎚の咆哮――巨人の突進


地下闘技場の空気は、鉄と汗と、そして熱狂した観客が吐き出す安酒の匂いでむせ返っていた。


アシェルは、円形のリングの中央へと、静かな足取りで進み出た。


彼女の足が、血で黒く染まった地面に触れた瞬間、その土の奥深くに染み込んだ、無数の死者たちの残留エーテルが、彼女の感覚に流れ込んできた。


それは、悲鳴だった。


絶望だった。


苦痛だった。


そして――怒りだった。


ここで死んでいった、何百人、何千人もの戦士たちの、最期の感情が、まるで亡霊のように、この地面に刻まれていた。


アシェルは、その感情の奔流に、一瞬だけ心を揺さぶられた。


しかし、すぐに心を鎮めた。


今は、彼らのことを考えている余裕はない。


自分が生き延びることだけを考えなければならない。


彼女は「新人二十七番」という記号ではなく、受付で告げられた「シエル」という出場名を背負っていた。


空のように捉えどころがないように、という願いを込めて自ら選んだ名だった。


周囲から降り注ぐのは、野獣のような怒号と、侮蔑に満ちた野次だった。


「なんだ、あのチビは!」


「仮面なんかつけやがって、顔を見せられねえのか!」


「どうせブサイクを隠してんだろ!」


「ゴードン!さっさと潰しちまえ!」


「1分以内に終わらせたらチップを弾んでやるぜ!」


「血祭りだ!血祭りだ!」


観客たちは、既に酒に酔っていた。


目は血走り、顔は紅潮し、口からは泡を吹いている者さえいた。


彼らは、ただの見世物を見に来たのではない。


彼らは、暴力を見に来たのだ。


血を見に来たのだ。


死を見に来たのだ。


それが、彼らの娯楽だった。


それが、彼らの生きる理由だった。


彼女の素性は、謎に包まれていた。


ゆったりとした旅人のマントが体つきを曖昧にし、顔の大部分は精巧な銀の仮面で覆われている。


観客たちがかろうじて判別できるのは、その小柄な背丈と、時折フードの隙間から覗く、わずかな髪の毛や顎の線から推測できる「少女」という性別、ただそれだけであった。


身長は、百五十センチにも満たない。


体重は、おそらく四十キロ程度だろう。


その華奢な身体は、まるで一陣の風で吹き飛ばされてしまいそうなほど、か弱く見えた。


対戦相手、「鉄槌のゴードン」は、その異名の通り、巨大な戦鎚ウォーハンマーを軽々と肩に担ぐ、身長2メートルはあろうかという巨漢だった。


その身体は、まさに人間の限界を超えた巨体だった。


胸板は、樽のように厚く、腕は丸太のように太い。


脚は、石柱のように太く、そして安定していた。


全身が、鋼鉄のような筋肉で覆われている。


その筋肉は、長年の戦いで鍛え上げられたもので、まるで鎧のように硬く、盛り上がっていた。


腕には、この街を牛耳る犯罪組織「黒蛇団」の刺青が醜く彫られていた。


それは、黒い蛇が腕に巻き付き、その口から毒を滴らせているデザインだった。


黒蛇団――それは、王都の裏社会を支配する、最も恐れられた犯罪組織の一つだった。


麻薬の密売、人身売買、暗殺、恐喝――あらゆる犯罪に手を染め、数え切れないほどの血を流してきた組織。


その刺青を持つということは、ゴードンが、その組織の一員であり、数多くの殺人を犯してきた証だった。


その顔には、幾多の裏稼業で刻まれたであろう古い傷跡が、残忍な笑みと共に浮かんでいる。


鼻は、何度も折れたのか、完全に歪んでいた。


左目の上には、深い傷跡があり、その傷は額から頬まで続いていた。


おそらく、剣で斬られたのだろう。


あと数センチずれていれば、目を失っていたはずだ。


唇は厚く、そこからは黄ばんだ歯が覗いていた。


何本かの歯は欠けており、その隙間から、腐敗した息が漏れ出ていた。


彼は、闘技場で既に十連勝を飾っている、新人殺しとして悪名高い男だった。


彼と戦った新人のうち、無傷で生き延びた者は一人もいない。


半数は死に、残りの半数は、再起不能の重傷を負った。


それが、鉄槌のゴードンだった。


「へっ、嬢ちゃん」


ゴードンは、下卑た笑みを浮かべながら、戦鎚を肩から下ろした。


「お遊びは終わりだぜ」


その戦鎚は、恐ろしいほど巨大だった。


鎚の頭部は、鉄の塊でできており、その大きさは人間の頭ほどもあった。


表面は、無数の傷と血痕で覆われている。


長年、人間の骨を砕き、肉を潰してきた証だ。


柄は、樫の木でできており、長さは一メートル以上ある。


その表面は、使い込まれて滑らかになっており、ところどころに血が染み込んで、黒く変色していた。


その戦鎚の重さは、優に五十キロは超えているだろう。


普通の人間なら、持ち上げることさえ困難な重量だ。


しかし、ゴードンは、それをまるで玩具のように、片手で軽々と扱っていた。


「今ならまだ間に合う」


ゴードンは、戦鎚を地面に叩きつけた。


ドガァン!


凄まじい音が響き、地面に深い亀裂が走った。


「泣いてママのところに帰りな。そうすれば、命だけは助けてやる」


観客たちが、その言葉を聞いて、大笑いした。


「ぎゃはは!優しいじゃねえか、ゴードン!」


「嬢ちゃん、今のうちに逃げな!」


「逃げたら、賭け金はどうなるんだ!?」


「没収に決まってるだろ!」


しかし、シエルは答えなかった。


彼女は、ただ静かに、その場に立っていた。


仮面の下で、彼女は深く、そしてゆっくりと呼吸を整えていた。


息を吸う。


体内のエーテルが、胸の中心に集まる。


息を吐く。


そのエーテルが、全身に広がる。


道中で蓄えた、生きたエーテルの温かい流れが、全身を駆け巡るのを感じる。


それは、試験塔の無機的なマナとは全く違う、脈打つ力だった。


温かく、柔らかく、そして――従順な力。


彼女の意志に、完全に従う力。


観客たちは、シエルが何も武器を持っていないことに気づいた。


「おい、あの嬢ちゃん、武器を持ってねえぞ!」


「まさか、素手で戦うつもりか!?」


「馬鹿じゃねえのか!」


確かに、シエルの腰には、剣一本差されていなかった。


まるで無手だった。


いや、正確には――彼女には、武器が必要なかったのだ。


彼女にとって、剣術は、あくまで精神とエーテルを制御するための手段であり、実質的に無尽蔵に使えるマナがある今、物理的な武器を振るう意味はなかった。


彼女の武器は、魔法だった。


そして、エーテルを操る、その特異な力だった。


ゴードンは、シエルが武器を持っていないことに気づき、侮蔑の笑みを深めた。


「はっ、舐めやがって。後悔しても知らねえぞ」


彼は、戦鎚を両手で握りしめた。


その筋肉が、膨れ上がる。


血管が、浮き上がる。


殺気が、全身から溢れ出る。


観客たちは、息を呑んで、その瞬間を待った。


闘技場の上方から、錆びついた鐘がけたたましく鳴り響いた。


ガァァァン――ガァァァン――ガァァァン――


それが、試合開始の合図だった。


## 理解不能な舞踏――風のごとく


ゴードンは、その瞬間、まるで象が突進するかのように、大地を揺るがしてシエルに襲いかかった。


ドシン――ドシン――ドシン――


彼の足音が、地面を激しく揺らした。


その振動は、観客席にまで伝わり、人々のグラスの中の酒が、波打った。


距離が、瞬時に縮まる。


十メートル。


五メートル。


三メートル。


そして――


ゴードンは、戦鎚を大きく横に振りかぶった。


その動きは、遅いように見えた。


しかし、それは錯覚だった。


その巨大な鎚は、信じられないほどの速度で、横薙ぎに振るわれた。


ゴォォォッ!


風を唸らせながら、鉄の塊が、シエルの胴体めがけて迫ってくる。


まともに受ければ、シエルの華奢な体など、一撃で砕け散るだろう。


肋骨が全て折れ、内臓が破裂し、身体が真っ二つに引き裂かれる。


即死だった。


観客席から、期待に満ちた歓声が上がった。


「やれぇぇぇ!」


「潰しちまえ!」


「血だ!血を見せろ!」


しかし――


その歓声は、すぐに驚愕のどよめきに変わった。


シエルは、その圧倒的な攻撃を、まるで柳が風を受け流すかのように、最小限の動きでひらりとかわしたのだ。


彼女の動きは、まるでスローモーションのように、滑らかで、優雅だった。


いや、それは観客たちの目には、そう映っただけだった。


実際には、彼女の動きは、驚異的に速かった。


しかし、その速さは、力任せの速さではなく、無駄を完全に排除した、効率的な速さだった。


彼女は、戦鎚の軌道を、完璧に予測していた。


ゴードンの筋肉の動き、視線の向き、重心の移動――それらすべてから、攻撃の軌道を読み取っていた。


だから、彼女は、最小限の動きで、確実に避けることができた。


戦鎚は、シエルがいた場所の空気を切り裂き、そして――


地面に叩きつけられた。


ドガァァァァンッ!


凄まじい衝撃音が、闘技場全体に響き渡った。


地面に、深い亀裂が走った。


土と砂が、爆発したように舞い上がった。


もし、あれが直撃していたら――


シエルは、確実に死んでいた。


観客たちは、一瞬、沈黙した。


そして――


どよめきが起こった。


「か、かわした!?」


「どうやって!?」


「見えなかった!」


「あの速さ、何だ!?」


彼女の動きは、訓練された戦士のそれというより、森を駆け抜ける小動物のように、予測不可能で、そして自然だった。


エルダンから教わった体捌きは、生き残るためだけに特化した、無駄のない動きの結晶だった。


剣術の訓練の中で、エルダンは何度も繰り返し言っていた。


「力で勝てん相手には、速さで勝て」


「速さで勝てん相手には、技で勝て」


「技で勝てん相手には、知恵で勝て」


「そして、全てに勝てん相手からは、逃げろ」


シエルは、その教えを、完璧に実行していた。


ゴードンは、力で圧倒的に勝っている。


しかし、シエルは、速さと技で、それを無効化していた。


「な、なんだぁ……!?」


ゴードンもまた、己の一撃が空を切ったことに戸惑っていた。


彼は、これまで何百回も、この戦鎚を振るってきた。


そして、その攻撃を避けられたことは、ほとんどなかった。


なぜなら、この攻撃は、速すぎて避けられないからだ。


しかし、目の前の小さな少女は、それを避けた。


まるで、最初から攻撃の軌道を知っていたかのように。


そして、ゴードンは、奇妙な感覚に襲われた。


ほんの一瞬、シエルが身をかわした瞬間、全身から力が抜けるような、微かな倦怠感を感じたのだ。


(……なんだ、この感じは)


ゴードンは、首を振った。


(少し、息が上がる……?)


(いや、まだ試合は始まったばかりだ)


(気のせいだろう)


しかし、それは気のせいではなかった。


## 見えない略奪――生命力を喰らう者


シエルは、かわす瞬間に、ゴードンの肉体から放たれる闘争のエーテルを、ごく微量だが吸収していた。


それは、彼女が森で獣と対峙する際に編み出した、生存のための技術だった。


敵の生命力を少しずつ奪い、自らの力へと変える。


戦鎚が振り下ろされる瞬間、ゴードンの全身の筋肉が、最大限に活性化する。


その時、彼の身体からは、通常よりも遥かに多量のエーテルが放出される。


それは、激しい運動によって生じる、生命エネルギーの副産物だった。


通常、そのエーテルは、空気中に拡散し、消えていく。


しかし、シエルは、それを逃さなかった。


彼女は、ゴードンがすぐ近くを通り過ぎる瞬間、その放出されたエーテルを、まるで呼吸するかのように、自然に吸収していた。


それは、意識的な行為ではなかった。


彼女の身体が、本能的に、周囲のエーテルを求めていたのだ。


そして、その吸収は、あまりにも微量で、あまりにも自然だったため、ゴードン自身も、自分のエネルギーが奪われていることに、全く気づいていなかった。


彼が感じたのは、ただ、わずかな倦怠感だけだった。


しかし、その「わずかな」倦怠感が、積み重なれば――


やがて、致命的な弱体化となる。


「ちょこまかと逃げ回りやがって!」


ゴードンは苛立ち、再び戦鎚を振り上げた。


今度は、縦に振り下ろす。


シエルの頭上から、鉄の塊が、まるで隕石のように落ちてくる。


しかし、シエルは、それも避けた。


今度は、横に跳ぶのではなく、前に踏み込んだ。


戦鎚が振り下ろされる軌道の、内側に入り込んだのだ。


ゴードンの懐に、一気に接近する。


そして――


シエルは、ゴードンの胸に、軽く手のひらを触れさせた。


それは、一瞬のことだった。


ゴードンは、その接触に、ほとんど気づかなかった。


しかし、その一瞬で――


シエルは、ゴードンの身体から、さらに多量のエーテルを吸収していた。


直接接触することで、吸収効率が飛躍的に上昇したのだ。


ゴードンの身体から、温かい生命エネルギーが、まるで川の流れのように、シエルの身体へと流れ込んでくる。


それは、心地よい感覚だった。


温かく、満ち足りた感覚。


まるで、長い飢えの後に、ようやく食事にありつけたような。


シエルは、その感覚に、一瞬だけ酔いしれた。


しかし、すぐに我に返り、ゴードンから距離を取った。


吸いすぎてはいけない。


彼を殺してしまっては、意味がない。


ただ、弱体化させるだけでいい。


ゴードンは、シエルが離れた後、さらに強い倦怠感を感じた。


「くっ……なんだ……」


彼は、自分の胸に手を当てた。


心臓が、激しく鼓動している。


しかし、その鼓動は、力強さを失っているように感じられた。


まるで、何か大切なものが、身体の中から抜け出ていくような。


「ちくしょう……!」


ゴードンは、再び戦鎚を振るった。


しかし、結果は同じだった。


シエルは、彼の攻撃範囲の、ほんの僅か外側を、まるで舞うように動き続けた。


そして、その度に、ゴードンの体からは、微量の生命エネルギーが奪われていった。


一回の吸収は、ごく微量だった。


しかし、それが十回、二十回、三十回と積み重なれば――


ゴードンの身体は、徐々に、しかし確実に、弱体化していった。


## 観客の困惑――玄人たちの気づき


観客たちは、最初はシエルがただ幸運に恵まれているだけだと思った。


ゴードンの攻撃を、たまたま避けられているだけだと。


しかし、試合が二分、三分と続くうちに、玄人筋の観客たちは異常に気づき始めた。


貴賓席――それは、闘技場の最も高い位置にある、特別な観客席だった。


そこには、王都の裏社会を支配する、大物たちが座っていた。


彼らは、高価な椅子に座り、銀の杯で葡萄酒を飲み、闘技場を見下ろしていた。


その中の一人、**闇金業者の元締め「金狐」**と異名をとる男が、細い目でリングを見つめていた。


金狐――本名は不明。


年齢は五十代と思われるが、正確な年齢を知る者はいない。


痩せた身体に、高価な絹の服を着ている。


顔は狐のように細長く、目は常に半分閉じられている。


しかし、その目は、鋭く、全てを見通すような光を放っていた。


彼は、王都で最大の闇金業を営んでおり、その顧客には、貴族から平民まで、あらゆる階層の人々が含まれていた。


彼が貸した金を返せなかった者は、この地下闘技場に売り飛ばされるか、あるいは――行方不明になった。


金狐は、ワイングラスを傾けながら、じっとゴードンを見つめていた。


そして、その細い目が、わずかに見開かれた。


「……おかしい」


彼は、小さく呟いた。


「ゴードンの奴、どうしたんだ?」


彼の隣に座る、**暗殺者ギルドの女頭領「夜百合」**が、扇子で口元を隠しながら囁いた。


夜百合――本名は、エリシア・リリエンタール。


年齢は三十代前半。


美しい顔立ちに、艶やかな黒髪を結い上げている。


着物風の黒いドレスを着て、その胸元には、百合の花の刺繍が施されている。


しかし、その美しさの裏には、冷酷な殺人者の本性が隠されていた。


彼女が率いる暗殺者ギルドは、王都で最も恐れられた組織の一つだった。


金さえ払えば、誰でも殺す。


貴族も、騎士も、魔導師も。


そして、これまで失敗したことは、一度もなかった。


夜百合は、扇子の隙間から、闘技場を見つめていた。


その目は、冷たく、そして――興味深そうだった。


「息が上がっているわ……」


夜百合の声は、低く、そして妖艶だった。


「まだ五分も経っていないのに」


「それに」


夜百合は、扇子を閉じ、ゴードンを指差した。


「戦鎚の振りが、先程より明らかに鈍くなっている……」


金狐は、目を細めた。


「……確かに」


彼は、ゴードンの動きを、注意深く観察した。


最初の攻撃は、速く、力強かった。


しかし、今の攻撃は――


明らかに、遅い。


そして、力も弱まっている。


「おかしいな……」


金狐は、顎に手を当てた。


「ゴードンは、まだ全力を出し切っていないはずだ」


「なのに、もう疲れているように見える」


「まるで――」


夜百合が、金狐の言葉を継いだ。


「まるで、何かに生命力を吸い取られているかのように……」


その言葉に、金狐は、はっと息を呑んだ。


「まさか……」


「ええ」


夜百合は、シエルを見つめた。


「あの少女、何か特殊な能力を持っているのかもしれないわ」


リングでは、ゴードンの動きが、さらに鈍くなっていった。


彼の額には、滝のような汗が流れていた。


その呼吸は、荒く、苦しげになっていた。


彼は、まるで目に見えない重りを身体中に巻き付けられているかのように、動きが鈍重になっていた。


「くそっ……!」


ゴードンは、自分の異変に気づいていた。


「なんでだ……!」


彼は、戦鎚を振り上げようとしたが、腕が重い。


まるで、鉛でできた鎚を持っているかのように。


「体が……体が、重い……!」


彼は、自分が徐々に弱体化している原因を、全く理解できなかった。


疲れているのか?


いや、まだ試合は始まって五分程度だ。


普段なら、三十分は余裕で戦える。


病気か?


いや、今朝は体調は完璧だった。


では、なぜ?


なぜ、こんなにも身体が重いのか?


ゴードンは、混乱と恐怖に支配されていた。


観客席からも、ざわめきが広がっていた。


「おい、どうしたんだ、ゴードン!」


「いつもの力はどこ行った!」


「ちゃんと戦え!俺の賭け金が無駄になるだろ!」


彼らは、ゴードンの異変に気づいていた。


しかし、その原因は、誰にも分からなかった。


ただ、絶対王者であったゴードンが、明らかに劣勢に立たされている――


その事実だけが、観客たちの目に映っていた。


## 無尽蔵のマナの奔流――魔女の覚醒


そして、シエルは反撃に転じた。


(……今だ)


彼女は、吸収したエーテルを体内で瞬時にマナへと変換していた。


その過程は、無意識のうちに行われていた。


彼女の身体は、まるで精密な機械のように、エーテルをマナへと変換し、それを体内に蓄積していた。


そして今、彼女の体内には、膨大な量のマナが満ちていた。


それは、通常の魔導師が一日かけて蓄積するマナの、何倍もの量だった。


いや、何十倍、何百倍かもしれない。


彼女自身も、その正確な量は分からなかった。


ただ、一つだけ分かることがあった。


今の彼女は――無敵だった。


シエルは、エルダンから教わった基礎的な攻撃魔法を放つことにした。


彼女にとって剣術は、あくまで精神とエーテルを制御するための手段であり、実質的に無尽蔵に使えるマナがある今、物理的な武器を振るう意味はなかった。


彼女は、右手を前に突き出した。


そして、小さく、しかしはっきりと詠唱した。


「ライト・アロー!」


その瞬間――


シエルの指先から、眩い光が放たれた。


それは、光の矢だった。


しかし、その矢は、通常のライト・アローとは、全く異なっていた。


彼女が放つ魔法の威力は、「基礎的」という言葉からは、およそかけ離れていた。


通常、ライト・アローは、初心者が最初に習う、最も基礎的な攻撃魔法だった。


その威力は、せいぜい相手を怯ませる程度。


致命傷を与えることは、ほとんどない。


しかし――


シエルが放ったライト・アローは、まるで小さな太陽のように輝いていた。


その光は、闘技場全体を照らし、観客たちの目を眩ませた。


「うわっ!眩しい!」


「何だ、あの光は!」


光の矢は、凄まじい速度で、ゴードンに向かって飛んでいった。


ゴードンは、その光を見て、本能的に危険を感じた。


彼は、咄嗟に戦鎚を盾のように構えた。


光の矢が、戦鎚に直撃した。


ガァァァン!


凄まじい衝撃音が響いた。


ゴードンの身体が、後ろにずれた。


そして――


戦鎚の表面が、焼け焦げていた。


「な……なんだ、この威力……!」


ゴードンは、信じられない、という表情で戦鎚を見た。


この戦鎚は、特殊な合金でできており、通常の魔法では傷一つつかない。


しかし、今の一撃で、表面が焼けた。


まるで、アーコン・ティアの魔導師が放つ、高位の攻撃魔法を受けたかのように。


「ぐわっ!目が……!」


ゴードンは、光の残像で、視界が白く染まっていた。


目が、焼けるように痛い。


涙が、止まらない。


そして――


シエルは、立て続けに魔法を詠唱した。


「ウィンド・カッター!」


シエルの両手を、横に薙いだ。


その動きに合わせて、目に見えない風の刃が、ゴードンに向かって飛んでいった。


風の刃は、空気を切り裂き、鋭い音を立てながら進んだ。


ゴードンは、その音を聞いて、咄嗟に横に跳んだ。


しかし――


風の刃は、彼の肩をかすめた。


ビリッ!


彼の服が裂け、肩に深い傷がついた。


血が、傷口から溢れ出る。


「ぐあっ!」


ゴードンは、肩を押さえた。


痛い。


激しく痛い。


しかし、それ以上に――恐ろしかった。


あの小さな少女が、こんな強力な魔法を放てるなんて。


そして――


シエルは、さらに魔法を放った。


「ファイア・ボール!」


シエルの手のひらに、炎の球が現れた。


それは、最初は小さかった。


しかし、瞬く間に大きくなり、やがて人間の頭ほどの大きさになった。


そして――


シエルは、その炎の球を、ゴードンに向かって投げた。


炎の球は、轟音を立てながら、ゴードンに向かって飛んでいった。


ゴードンは、それを避けようとした。


しかし、彼の身体は、既に限界だった。


足が、思うように動かない。


炎の球が、彼の胸に直撃した。


ドガァァァン!


爆発が起こった。


炎が、ゴードンの全身を包み込んだ。


彼の服が、燃え上がった。


髪が、焦げた。


肌が、焼けた。


「ぎゃあああああああ!」


ゴードンの悲鳴が、闘技場に響き渡った。


観客たちは、その光景を見て、息を呑んだ。


本来、レメディアル・ティアの生徒では考えられない、連続での魔法行使。


そして、そのどれもが、ファウンデーション・ティアの上位者に匹敵するほどの高出力。


いや、それ以上かもしれない。


貴賓席で見ていた、**没落貴族のバルトール侯爵**が、驚愕の声を上げた。


バルトール侯爵――本名は、アルバート・バルトール。


年齢は六十代。


かつては、王国でも有数の名門貴族だったが、先代の放蕩と、自身の投資の失敗により、財産のほとんどを失った。


今では、この地下闘技場で賭けをすることで、わずかな収入を得ている。


しかし、その目は、まだ貴族としての誇りを失っていなかった。


そして、魔法に関する知識も、豊富だった。


「な……なんだあの魔力量は……!?」


侯爵の声は、震えていた。


「あれはエリート・ティアでも稀に見るレベルだぞ!」


「いや」


夜百合が、侯爵の言葉を訂正した。


「あれは、エリート・ティアのレベルではないわ」


「あれは――アーコン・ティアに匹敵するかもしれない」


その言葉に、周囲の観客たちが、どよめいた。


アーコン・ティア――それは、学園の頂点に立つ、選ばれし者たちだった。


そのレベルの魔導師が、この地下闘技場にいるというのか?


しかも、あんな小さな少女が?


信じられない。


しかし、目の前の光景は、現実だった。


彼女は、ゴードンから吸収したエーテルを燃料とすることで、実質的に無尽蔵のマナを手に入れていたのだ。


通常の魔導師は、体内のマナが尽きれば、魔法を使えなくなる。


しかし、シエルは違った。


彼女は、戦えば戦うほど、相手からエーテルを吸収し、それをマナに変換できる。


つまり、彼女のマナは、決して尽きることがない。


それは、まさに――反則だった。


## 圧倒的勝利――巨人の敗北


魔法の連撃に怯んだゴードンが、体勢を崩した。


彼は、膝をつきそうになった。


しかし、必死に踏みとどまった。


まだだ。


まだ、負けるわけにはいかない。


しかし、彼の身体は、もう限界だった。


全身が、焼けただれている。


服は、ほとんど燃え尽きている。


髪は、焦げて縮れている。


そして、何よりも――


体力が、ほとんど残っていなかった。


息は、完全に上がっている。


心臓が、激しく鼓動している。


視界が、ぼやけている。


足が、震えている。


(くそ……なんでだ……)


(俺は……こんなに弱かったのか……?)


その隙を見逃さず、シエルは一気に距離を詰めた。


彼女の動きは、まるで瞬間移動のように速かった。


ゴードンは、その動きに、反応できなかった。


シエルは、ゴードンの懐に入り込んだ。


そして――


彼女の手のひらに、マナが凝縮されていった。


それは、青白く輝く、小さな光の球だった。


しかし、その小さな球には、凄まじいエネルギーが込められていた。


「インパクト!」


シエルは、その衝撃波を、至近距離から、ゴードンの胸に向けて放った。


ドガァァァン!


衝撃波が、ゴードンの胸を直撃した。


それは、目に見えない巨大な拳で、殴られたかのような衝撃だった。


ゴードンの身体が、宙に浮いた。


そして――


彼の巨体は、まるで投石機で投げられた石のように、闘技場の端まで吹き飛ばされた。


ドガァァァン!


ゴードンの身体が、闘技場の壁に激突した。


壁に、深い亀裂が走った。


土煙が舞い上がった。


そして――


ゴードンは、そのまま地面に崩れ落ちた。


動かない。


ピクリとも動かない。


観客たちは、その光景を見て、沈黙した。


静寂が、闘技場を支配した。


## 静かなる勝利――そしてアンダーグラウンドの評価


試合開始から、十分が経過していた。


ゴードンは、既に満身創痍だった。


息は完全に上がり、その巨体は小刻みに震えている。


全身は、火傷と傷で覆われている。


血が、全身から流れ出ている。


対照的に、シエルは試合開始時と全く変わらない、静かな佇まいを保っていた。


仮面の下で、彼女の呼吸は穏やかだった。


身体に、傷一つない。


服も、汚れていない。


まるで、戦っていないかのように。


ゴードンは、やっとのことで立ち上がった。


しかし、その足は、もうほとんど力が入っていなかった。


彼は、戦鎚を拾おうとした。


しかし、手が震えて、握れなかった。


「お、お前……一体、何者なんだ……」


ゴードンが、恐怖と困惑に満ちた声で呟いた。


その声は、かすれ、弱々しかった。


シエルは、答えなかった。


ただ、ゴードンの前に、ゆっくりと歩み寄った。


その足音が、静まり返った闘技場に、静かに響いた。


一歩。


また一歩。


ゴードンは、その小さな少女が、まるで死神のように見えた。


シエルは、ゴードンの目の前に立った。


そして、その額に、指先を向けた。


指先に、わずかにマナが集まっているのが見えた。


もし、それを放てば――


ゴードンは、確実に死ぬだろう。


「……私の、勝ちですね」


仮面の下から漏れた、少女のものとは思えぬ、冷たく、そして静かな声。


それが、ゴードンが聞いた、最後の言葉だった。


彼は、もう抵抗する気力もなかった。


戦意を完全に喪失していた。


彼は、自らハンマーを手放し、ゆっくりと膝をついた。


「……参った」


その言葉と共に、ゴードンは、完全に崩れ落ちた。


観客席は、水を打ったように静まり返っていた。


誰もが、目の前の光景を、信じられない、という表情で見つめていた。


あの、鉄槌のゴードンが。


十連勝を誇る、新人殺しのゴードンが。


小さな少女に、完敗した。


しかも、その少女は、武器さえ持っていなかった。


ただ、魔法だけで、ゴードンを圧倒した。


そして――


審判が、震える声で勝敗を告げた。


「しょ、勝者……シエル!」


その瞬間――


闘技場が、爆発した。


爆発的な歓声が、沸い起こった。


「うおおおおおおお!」


「すげええええええええ!」


「あのゴードンが、新人の、しかも武器も持たない嬢ちゃんに負けやがった!」


「信じられねえ!」


「あいつは一体何者なんだ!?」


「魔女だ!魔女に違いない!」


歓声と、どよめきと、困惑が、渦巻いていた。


賭けに勝った者たちは、狂喜して金を数えていた。


賭けに負けた者たちは、呆然と、あるいは怒りに震えていた。


しかし、全員が、一つの事実を認めざるを得なかった。


今夜、この闘技場に、新しい星が誕生した、と。


シエルは、観客たちの歓声を無視し、静かに闘技場を去ろうとした。


その時――


貴賓席から、金狐が立ち上がった。


「待て」


金狐の声は、低く、そして威圧的だった。


その声に、観客たちが静まった。


金狐は、シエルを見下ろしながら、ゆっくりと言った。


「見事だった、少女よ」


「お前の力は、本物だ」


「名前は?」


シエルは、しばらく沈黙した後、小さく答えた。


「……シエル」


「シエル、か」


金狐は、その名前を繰り返した。


「覚えておこう」


「お前は、これから、この闘技場の顔になる」


「期待しているぞ」


シエルは、何も答えず、ただ頭を下げた。


そして、控室へと戻っていった。


## 敗者の錯覚――誰も気づかない真実


試合後、敗れたゴードンは、医務室で治療を受けていた。


火傷は、魔法の軟膏である程度治療できた。


しかし、彼の心の傷は、治ることはなかった。


彼は、呆然と天井を見つめながら、呟いていた。


「……おかしい」


「今日は、どうも調子が悪かった」


「全く、実力を出しきれなかった……」


控室には、他の戦士たちも集まっていた。


彼らも、ゴードンの言葉に頷いた。


「ああ、見てて分かったぜ」


斧使いの男が言った。


「いつものお前さんじゃなかった」


「動きが鈍かったし、息も上がってた」


「おかしかったよな」


別の男も同意した。


「あの嬢ちゃんが強かったんじゃねえ」


「お前さんが、ただ弱かっただけだ」


「次は、本調子で戦えば、絶対勝てるさ」


彼らの誰一人として、シエルがゴードンの力を「吸い取った」などとは、夢にも思わなかった。


それは、あまりにも常識外れの能力だったからだ。


そんな力が存在するなんて、誰も信じなかった。


ただ、絶対王者であったゴードンの、信じがたいほどの不調としか、理解できなかったのだ。


そして、その認識は、今後も変わることはなかった。


シエルと戦った全ての戦士が、同じように考えるだろう。


「今日は調子が悪かった」


「実力を出せなかった」


「次は勝てる」


しかし、次もその次も、結果は同じだった。


なぜなら、シエルの力は、相手の調子を悪くする力だったからだ。


相手の実力を、引き出させない力だったからだ。


それは、見えない力だった。


理解されない力だった。


そして――恐ろしい力だった。


## 賞金と帰路――闇の中の少女


アシェルは、受付で賞金を受け取った。


銀貨三十枚。


それは、革の袋に入れられ、ずっしりと重かった。


受付の男は、アシェルを見て、ニヤリと笑った。


「やるじゃないか、嬢ちゃん」


「いや、『シエル』だったか」


「次も、期待してるぜ」


アシェルは、何も答えず、ただ頭を下げた。


そして、袋を受け取ると、すぐにその場を去った。


控室で、仮面を外そうとしたが、思い直してそのままにした。


ここでは、顔を見せてはいけない。


誰にも、自分の正体を知られてはいけない。


アシェルは、マントのフードを深くかぶり、地下闘技場を後にした。


長い階段を上り、地上へと戻った。


外は、既に深夜だった。


月が、静かに空に浮かんでいた。


冷たい夜風が、彼女の頬を撫でた。


アシェルは、深呼吸をした。


地下の、あの血と汗と酒の匂いから解放された。


彼女は、革袋を握りしめた。


この中に、リアンを救う希望が詰まっている。


銀貨三十枚。


これで、リアンの薬を、一週間分買える。


まだ、足りない。


もっと、稼がなければならない。


でも、今夜は、十分だった。


アシェルは、学園へと向かって歩き始めた。


人通りのない裏路地を、静かに進んでいく。


その背中には、静かだが確固たる決意が宿っていた。


(私は、戦い続ける)


(リアンのために)


(仲間のために)


(そして――自分自身のために)


月が、その小さな戦士を、静かに照らしていた。


## 暗闇の情報網――評判の拡散


しかし、彼女の存在は、アンダーグラウンドの住人たちの心に、強烈な印象を焼き付けていた。


**「金狐」**の経営する闇賭博場では、早くも次の試合の賭けが始まっていた。


金狐は、自分の事務所で、部下たちと話し合っていた。


「次のあの仮面の小娘の試合、どう張る?」


金狐が、細い目で部下を見た。


「は、はい」


部下の一人が、帳簿を開いた。


「相手次第ですが……今のところ、オッズは3倍程度を考えております」


「3倍か」


金狐は、顎に手を当てた。


「低すぎるな」


「しかし、あの力を見た者は、皆、彼女に賭けるでしょう」


「そうだな」


金狐は、窓の外を見た。


「相手の力を吸うなんて噂もある」


「相手次第だが……面白い賭けになるかもしれん」


「あの娘の情報を、もっと集めろ」


「身元、能力、弱点……全てだ」


「はっ」


部下たちは、一斉に頭を下げた。


**「夜百合」**が支配する情報屋の間では、彼女の正体を探る動きが活発化していた。


夜百合は、自分の隠れ家で、部下からの報告を聞いていた。


「あの子、一体どこから来たのかしらね」


夜百合は、扇子を開きながら言った。


「学園の生徒らしいけど、レメディアル・ティアという話は本当なの?」


「はい」


部下の一人、痩せた男が答えた。


「確認しました。彼女は、確かにグランベルク王立学園の生徒です」


「そして、レメディアル・ティアに所属しています」


「レメディアル……」


夜百合は、興味深そうに呟いた。


「最下層のティアね」


「なのに、あれだけの力を持っている」


「面白いわ」


「もっと詳しく調べなさい」


「彼女の名前、出身、能力……全てよ」


「かしこまりました」


部下たちは、影のように消えていった。


そして、バルトール侯爵のサロンでは、彼女の力が新たな金儲けの種として議論されていた。


侯爵は、自分の屋敷の応接室で、側近たちと話し合っていた。


「あの娘の力は本物だ」


侯爵は、葡萄酒を飲みながら言った。


「うまく使えば、我が派閥の大きな武器になる」


「しかし、侯爵」


側近の一人、眼鏡をかけた男が言った。


「彼女は、どこの誰とも分からない少女です」


「信用できるのでしょうか」


「信用など、必要ない」


侯爵は、冷たく言った。


「金で縛ればいい」


「あるいは、弱みを握ればいい」


「方法はいくらでもある」


侯爵は、執事に命じた。


「あの娘の身元を徹底的に洗い出せ」


「そして、我が陣営に引き入れるのだ」


「金はいくらかかっても構わん」


「はい、侯爵」


執事は、深く頭を下げた。


こうして、アシェル――いや、シエルの噂は、王都の裏社会に、急速に広まっていった。


## 「エーテル・ドレインの魔女」と記録された異常


その日から、「シエル」は連戦連勝を続けた。


週に二回、地下闘技場に現れ、そのたびに相手を圧倒した。


その戦闘スタイルは、常に同じだった。


最初は、相手の攻撃をひたすらかわし続ける。


相手が不可解な消耗を見せ始めたところで、無尽蔵のマナによる魔法と、鋭い体術で一気に勝負を決める。


そして、勝利した後は、何も語らず、賞金だけを受け取って去っていく。


観客たちは、彼女を恐れ、そして崇拝し始めた。


「シエル」という名前は、やがて伝説となった。


闘技場の運営本部の、薄暗い一室。


そこには、壁に設置された録音用の魔導クリスタルと、最新式のマナ波形記録計が置かれていた。


これらの機器は、この地下で行われる全ての試合を記録していた。


戦士たちの動き、魔法の威力、マナの流れ――全てが、詳細に記録されていた。


それは、賭けの公正性を保つため、そして万が一の事故に備えるためのものだった。


運営責任者である、顔に大きな傷跡を持つ男――通称「傷顔」――が、技術スタッフを怒鳴りつけていた。


「どういうことだ!」


傷顔の声は、怒りに震えていた。


「また記録計が異常を示しているぞ!」


技術スタッフ――痩せた、眼鏡をかけた若い男――が、おどおどしながら答えた。


「は、はあ……」


彼は、手元の記録紙を見ながら説明した。


「『シエル』の試合になると、必ず、対戦相手のマナ波形が、試合中に急激に低下していくんです」


「低下?」


「はい」


技術スタッフは、記録紙を傷顔に見せた。


「ご覧ください。これが、通常の試合のマナ波形です」


記録紙には、緩やかに下降していく曲線が描かれていた。


「戦闘中、マナは徐々に消費されていきます。これは正常です」


「しかし――」


技術スタッフは、別の記録紙を取り出した。


「こちらが、シエルの試合の記録です」


その記録紙には、急激に下降していく曲線が描かれていた。


まるで、崖から落ちるかのように。


「試合開始から五分で、相手のマナが、ほぼゼロになっています」


「これは、通常ではあり得ません」


「そして――」


技術スタッフは、さらに別の記録紙を見せた。


「それと同時に、シエルの周囲から、これまで観測されたことのない、特異な波形が記録されまして……」


その記録紙には、複雑で、不規則な波形が描かれていた。


それは、通常のマナの波形とは、全く異なるものだった。


「これは……何だ?」


傷顔が、眉をひそめた。


「分かりません」


技術スタッフは、首を振った。


「しかし、この波形が現れるたびに、相手のマナが減少しています」


「まるで――」


技術スタッフは、恐る恐る言った。


「まるで、『吸収』されているかのように……」


その言葉に、傷顔は沈黙した。


吸収。


他者のマナを吸収する能力。


そんなものが、本当に存在するのか?


しかし、記録は嘘をつかない。


この、通常の魔術理論では説明のつかない「異常」なログ。


それが、やがて彼女の異名の由来となる。


アンダーグラウンドの住人たちは、敬意と恐怖、そして何よりも大きな興味を込めて、仮面の少女をこう呼び始めた。


「エーテル・ドレインの魔女」、と。


その噂は、地下の闇を通じて、急速に広まっていった。


金を動かす者、情報を操る者、力を求める者。


アンダーグラウンドに巣食う全ての者たちが、この謎めいた新星の動向に、固唾を飲んで注目し始めたのだ。


酒場では、彼女の噂で持ちきりだった。


「エーテル・ドレインの魔女、見たか?」


「ああ、見たぜ。あの小さな身体のどこに、あんな力が隠されているんだ」


「相手の力を吸い取るって本当か?」


「分からねえ。でも、あいつと戦った奴は、皆、おかしくなるんだ」


「おかしくなる?」


「ああ。調子が悪くなるって言うんだ。でも、何が原因か分からない」


「恐ろしい能力だな……」


裏社会の大物たちも、彼女に注目していた。


金狐は、部下に命じて、彼女の情報を集めさせていた。


夜百合は、暗殺者ギルドの精鋭を使って、彼女を尾行させていた。


バルトール侯爵は、学園に潜入させたスパイを使って、彼女の身元を探らせていた。


そして、彼ら全員が、同じ結論に達した。


「あの少女は、危険だ」


「しかし、うまく使えば、大きな利益を生む」


「どうにかして、我々の陣営に引き入れなければならない」


こうして、アシェル――シエル――を巡る、暗闘が始まろうとしていた。


彼女自身は、そのことを全く知らなかった。


彼女は、ただ、リアンを救うために、戦い続けるだけだった。


しかし、彼女の存在は、既に、王都の裏社会を揺るがし始めていた。


そして、その波紋は、やがて、表の世界――学園にも、届くことになる。


月明かりの下、小さな仮面の少女は、一人、暗闇の中を歩いていた。


その手には、今夜稼いだ銀貨が、ずっしりと重かった。


そして、その心には、揺るぎない決意が宿っていた。


(私は、戦い続ける)


(誰が何と言おうと)


(どんな危険が待っていようと)


(私には、守るべき人がいる)


(だから、私は――止まらない)


仮面の下で、彼女の灰色の瞳が、静かに、しかし鋭く輝いていた。


エーテル・ドレインの魔女。


その異名は、やがて、王都全体に知れ渡ることになる。


しかし、その真実を知る者は、まだ誰もいなかった。

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